「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。黙22:20

わたしはまた、大群衆の声、多くの水の音、また激しい雷鳴のようなものを聞いた。それはこう言った、「ハレルヤ、全能者にして主なるわれらの神は、王なる支配者であられる。
わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。
彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。
(新約聖書 ヨハネの黙示録19:6~8)

全てのキリスト教会は愛する主イエスキリストが再び来られる日を待ち望む花嫁達の集まり(教会)です。
そうです。私達は "Bride of Christ" キリストの花嫁の教会です。
 

ブログ

低き麗しき道

2016年05月28日 14:58
山から谷へと川が流れ 水が高きから低きへと流れるように 主の恵みも低き所にこそ流れる 自然の法則に定められた 主の溢るる麗しき愛は 私達を恵みへと導き 低き低き場所へ キリストの御側へと私達を招く

香りという感覚

2016年05月12日 15:41
嗅覚には意外と大きく人のイメージを左右するものがあるようで、その人の印象や、思い出などの記憶も、この嗅覚で感じたものが大きく影響を及ぼすのだそうです。 なるほど聖書にはこの香りがかなり重要なところで

主が立ち上がられる?

2016年04月26日 20:38
【出エジプト40:36-38】 40:36 雲が幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。彼らはその旅路において常にそうした。 40:37...

永遠に変わらない信仰

2015年12月05日 07:40
【黙示録2:18-29】 2:18 テアテラにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が、次のように言われる。 2:19...

主の愛を見失うとき

2015年08月29日 18:54
【マタイ26:69ー75】 26:69 ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。 26:70...

平和をつくり出す者

2015年08月18日 12:13
【マタイ5:9】 5:9...

平和を祈る

2015年08月15日 10:36
フランシスコの平和の祈り 主よ、わたしを平和の器とならせてください。 憎しみがあるところに愛を、 争いがあるところに赦しを、 分裂があるところに一致を、 疑いのあるところに信仰を、 誤りがあると

滅び行く国のために

2015年07月30日 20:54
【ヨナ4:1-11】 4:1 ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、 4:2...

信仰の覚悟

2015年07月17日 19:02
【ダニエル3:14-27】 3:14...

栄光の王が来られる

2015年07月10日 21:06
【詩篇24:7-10】 24:7 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。 24:8 栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。 24:9...
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礼拝メッセージ

目を開いて見るべきもの

2015年03月08日 19:45
聖書箇所: 創世記13:14-17 肉の目をもって地上の豊かさを追いソドムとゴモラの地を受けたロトと、信仰の目、霊の目を開き、神の祝福の地を受け取ったアブラハム。 主は私達にこの霊の目を開き、主の約束の地を見るように、受け取るように語られています。 世の常識、人の目にはこの地はいくら豊かに見えても、そこにあるのは地上を支配しようとする空中の権を持つ者、闇の支配者サタンの支配の地。 しかし、主はそれを霊の目を開くのであれば、主イエスが王として統べ治める神の国をこの地に顕現することが見えると語られています。 そして私達教会こそ、主イエスを王とし、主権者として、この地の統治者として迎えるために

花嫁よ目を覚ませ

2015年03月01日 18:03
聖書箇所: マタイ25:1-13 主イエスはご自身を待つ花嫁なるおとめ達に「目をさましていなさい。」と語られます。 この言葉は主イエスご自身が幾度も語られていますが、その言葉には終わりの時(あるいは主の時)ということが関連します。 確かに花婿を待つ十人のおとめ達は皆花婿を待てず眠ってしまうのですが、花婿が来られ迎える時には一様に目を覚ますのです。 そして、残念ながらこの国の罪を重ね、誤った選択をいくつも重ねようとしている姿には終わりの時の様相と非常に重なるところがあり、さらにはそれに関連して世界に目を向けても、同様に終末へと時代が向かっている傾向を見るのです。 聖書は目を覚ますと言うこと

唯一の愛に答える

2015年02月15日 19:17
聖書箇所: 詩篇27:4 主の愛はある意味非常に独占的な愛です。 確かに主に愛されている者はたくさん居ますが、信仰において、主は一人一人と向き合われる。 私に対して主は一対一でその愛を注がれ、また私が主を一心に愛することを、主は求められます。 その愛はご自身の命をささげ、全てを私に与えてくださるほど強く、だからこそこの天地万物全てのものをもってさえ、私が主の愛を知らず、また私が主を愛さないのであれば、何も意味がないかのように、主は永遠の愛をもって私を愛し続け、誠実を尽くし続けてくださったのです。 この愛を私達は本当に知り、またそれに答えるような生き方をしているでしょうか? 信仰はこの愛を

悔い改めの波

2015年02月08日 19:28
聖書箇所: 歴代志下35:18 主は私達のために十字架にかかってくださいました。 ここに最も尊き最も大きな愛があります。 雅歌8:6,7にあるように、この愛こそ死を超えた強い愛であり、この愛をこの世の何かに換えるのであれば、それは最も愚かなことであり、いたくいやしめられるべきことでしょう。 私達が救われたのも、新しい命を与えられたのも、この地で生きる全ての必要が満たされ恵みに満ちて生きるけとができるのも、すべてこの愛を動機としているのです。 主がこれほどに私達を愛し、また私達がこの方を愛することをゆるされているということは、それだけで私達はすでに全てを受け取っており、最初からこの最も大き

リバイバルの望み

2015年02月01日 19:32
聖書箇所: ヤコブ5:7-11 リバイバルの起こるその日どのようなことが起こるのか。その構造などはこれまでもお話してきました。 そこでは主に従う者と主に逆らう者の姿が、クリスチャンでさえも明確になってしまう。 その接点は霊的戦いの最前線となる。 確かにこの戦いは主に従う者達にとっても、ある種試練となることでしょう。 詩篇18篇は敵に命を狙われる日々において、主をわが岩、わが城、私を救う者・・・と主に寄り頼む者に、主ご自身が立ち上がり、敵と戦われる様を、そして主を求めた者にはその反対に主ご自身の元に引き寄せられ、その御腕の中に、その絶対的安全な場所に私達を入れてくださる。 苦しみのとき、試

救霊(魂)への思い

2015年01月25日 19:24
聖書箇所: ルカ24:46-49 今年私達は主から宣教の思いを受け取りました。 主がこの国を勝ち取るということ、その直接的な答えは宣教です。 そしてこの宣教は人の思いでは決して行い続けることはできないものです。 その全てを主の熱情から受け取るのでなければ、その思いを継続することすらできないでしょう。 また主の霊によらないでは誰一人救われる者はなく、何一つできることはないでしょう。 何より、宣教の働きは最も霊的戦いが激しい箇所であり、それは血肉による戦いではない以上、祈りなくして進めることは何一つありません。 つまり、今私達が主から与えられた宣教の思いに答えるには、初代教会の時代、その世界

世を分ける者

2015年01月18日 19:44
聖書箇所: マタイ25:31-46 私達は、その存在そのものが世を分ける者です。 それは主イエスの十字架が、共にその右と左にかかる罪人とでは救い主を受け入れるか、それとも退けるかという意味ではっきりと分かれたのと同様の構図です。 つまり、私達の存在は十字架のごとく、主に従うかそれとも逆らうかを、その関わる全ての人に自動的に迫るということです。 だからこそ、私達は救いと裁きの事実を、福音を宣べ伝えるという意味で、はっきり告げ知らせる必要があります。 私達はそのように始めから造られ、主により救われ新しく生まれ、この世(地) に遣わされたのです。 今回は私達の存在自体、そのアイデンティティーと

主の日に備える

2015年01月11日 19:11
聖書箇所: イザヤ52:7 主が来られるということは二つの意味を持ちます。 主の救いと主の裁き。 このことが主が来られるということにより、同時にそしてはっきりと明らかにされます。 そこに中庸は存在しません。主に従うか、主を退けるか。 なぜなら、主はこの地にご自身の王座を置かれるため、つまりご自身の正と義によりこの地を統べ治めるためにこの地に来られるからです。 多くの人はリバイバルということを自らに都合の良い側面だけで捉えがちであり、ただ教会に人が増えていくということだけを思いがちです。 しかし、そこには主の明確なご計画が存在し、また私達が軽薄に踏み込むことのできない、主の厳粛な深い御思い

リバイバルの来る日

2015年01月04日 19:49
聖書箇所: ヨエル2:28-32 預言書には、多くの主が来られる日について語られているところがあり、それは主の再臨の日に関しての預言として捉えることもできますが、一定の地域、時代、国にもたらされる神の関与、信仰復興を基軸とした、神の大きな変革が、神が臨まれるということから、神の絶大な力を以て成し遂げられる様、リバイバルの様相が語られる箇所として見ることもできます。 殊にヨエル書は、このリバイバルということに関与して、主の霊が注がれるということについて語られている預言です。 そして、その預言の一端はすでに初代教会が誕生した時、聖霊が傾注し、主イエスが天に昇られるその時に語られた言葉の成就と

永遠に主の宮として

2014年12月28日 19:35
聖書箇所: 列王記上9:1-9 この国は長い平和の時を与えられ、また豊かになりました。至る所焼け野原で、皆貧しかった国に主の福音は語られ、多くの人々が救われましたが、その豊かさは神を必要としなくても豊かに幸せに生きる生活をもたらし、多くの人々が神から離れていきました。 またクリスチャンに対しても、主は同様に語られ、自らの豊かで平和な生活に心を向け、そのような時だからこそ、主の福音を迫害の中ではなく、平和の内に語り広めることが可能であったのに、滅び行く多くの人々のために身を尽くすことをしなかったことを士師記2章をもって強く指摘されています。 今主はこの恵みの時が、もはや滅びへと日一日近づい
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