信仰の覚悟

2015年07月17日 19:02

【ダニエル3:14-27】
3:14 ネブカデネザルは彼らに言った、「シャデラク、メシャク、アベデネゴよ、あなたがたがわが神々に仕えず、またわたしの立てた金の像を拝まないとは、ほんとうなのか。
3:15 あなたがたがもし、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞くときにひれ伏して、わたしが立てた像を、ただちに拝むならば、それでよろしい。しかし、拝むことをしないならば、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。いったい、どの神が、わたしの手からあなたがたを救うことができようか」。
3:16 シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。
3:17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。
3:18 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。
3:19 そこでネブカデネザルは怒りに満ち、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴにむかって、顔色を変え、炉を平常よりも七倍熱くせよと命じた。
3:20 またその軍勢の中の力の強い人々を呼んで、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴを縛って、彼らを火の燃える炉の中に投げ込めと命じた。
3:21 そこでこの人々は、外套、下着、帽子、その他の衣服のまま縛られて、火の燃える炉の中に投げ込まれた。
3:22 王の命令はきびしく、かつ炉は、はなはだしく熱していたので、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴを引きつれていった人々は、その火炎に焼き殺された。
3:23 シャデラク、メシャク、アベデネゴの三人は縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ。
3:24 その時、ネブカデネザル王は驚いて急ぎ立ちあがり、大臣たちに言った、「われわれはあの三人を縛って、火の中に投げ入れたではないか」。彼らは王に答えて言った、「王よ、そのとおりです」。
3:25 王は答えて言った、「しかし、わたしの見るのに四人の者がなわめなしに、火の中を歩いているが、なんの害をも受けていない。その第四の者の様子は神の子のようだ」。
3:26 そこでネブカデネザルは、その火の燃える炉の入口に近寄って、「いと高き神のしもべシャデラク、メシャク、アベデネゴよ、出てきなさい」と言ったので、シャデラク、メシャク、アベデネゴはその火の中から出てきた。
3:27 総督、長官、知事および王の大臣たちも集まってきて、この人々を見たが、火は彼らの身にはなんの力もなく、その頭の毛は焼けず、その外套はそこなわれず、火のにおいもこれに付かなかった。

信仰というものは、自分を取り巻く環境や状況がどのような時であっても変えるようなものではありません。
信仰は永遠の神に対するものであり、誰にどのように思われるか、誰がどのように見ているかなどということには一切関わりません。
なぜなら、私達の恐れるべきはこの永遠の神であり、いかなる人もいかなる被造物もこの神に対して敵対し滅びずにいられるものは存在しないからです。
そして、この神が全てのことを見ておられ、私達の心の内さえもその全てを知り、私達が何を語り、何をしたかを、全て見ておられ、それをもって神は私達を裁かれるからです。
私達はこの裁きにおいて、神の御子の命の代価をもって贖われ、永遠の滅びから永遠の命へと移されました。
ですからこの信仰なしに私達が永遠の命を得ることはないし、だからこそ私達は信仰を否定することができないのです。
この神の御子主イエスキリストを救い主として受け入れた者であり、その愛を受け取り、その永遠の命によって今生きている私達が、どうして他者の目を気にし、社会や常識に捕らわれて、神でないもの、ひざをかがめるべきではないものを拝み崇めるようなことができるでしょうか。どうしてそのようなことがあってよいでしょうか。
シャデラク、メシャク、アベデネゴが経験したことは、決して他人事ではありません。
彼らはその国の王が出した命令により、窮地に陥りました。
このネブカデネザル王はダニエル書のこの前の章(2章)で、ダニエルから自分の見た夢の解き明かしと言う形で神からの預言を受けました。
それは全世界の長い歴史に関するもので、終わりの時代に至るまでの壮大な神の計画の全てです。
そしてその趣旨は「それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです。(ダニエル2:44)」とあるように、全ての歴史を貫いて全世界、全地の主権者は主であり、この方が全世界を統べ治める。その統治は終わりの時に完成するというものです。
この世界の歴史の中に登場する大国(バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、現代)の姿を表した金、銀、青銅、鉄、粘土でできた一つの大きな像の夢とその解き明かしを、ダニエルから神の預言として聞いて、なおネブカデネザル王は主権者である神に逆らい、自らが全歴史において世界全土の支配者になろうと、金の頭に象徴されたバビロンの統治が全身(全歴史)に及ぶようにと全身が金でできた像を作らせ、それを全国民に拝ませました。
これが全ての発端です。
そしてその命令通りに全土の人々がこの像を拝みましたが、永遠の主権者である永遠の神を信じるシャデラク、メシャク、アベデネゴはこの金の像を拝まず、神だけを信じ神だけを崇めました。
それは神がこの窮地から救い出してくれることを確信していましたが、
「たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません(ダニエル3:18)」というものでした。
命を失うことになろうと、神への信仰を曲げることはないという告白です。
このことによって彼らは燃えさかる炉の中の火(ハデスの火を象徴する炎)の中に、さらにその火を七倍にした火(ゲヘナの火を象徴する炎)の中に投げ入れられたのです。
しかし、そこに待っていたのは後の日にこの地に来られる主イエス(「その第四の者の様子は神の子のようだ」ダニエル3:25)であり、この火の中から救い出されてなお無傷であるという驚くべき奇跡なのです。

【1コリント3:10-15】
3:10 神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。
3:11 なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。
3:12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、
3:13 それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。
3:14 もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、
3:15 その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。

それは主が再臨される時かの日は火の中に現れ、この火の精錬の中で主から報いを受けるように、彼らはその報いを先行して(先駆けて)このような形で受け取る者となりました。
主をそこまで喜ばせ満足させたのは、「たといそうでなくても(ダニエル3:18)」と主に命をささげた彼らの信仰でした。

私達が信仰者である以上、私達が社会(この世)に一歩出れば、私達の信じる神を憎み敵対する者達(ヨハネ15:18,19、マタイ10:34-40)の私達への試練は免れません。
私達の信仰を守るために全てを失う覚悟、命すらささげる覚悟が必要となる時もあるかも知れません。
また先の時代には戦時下において、唯一この聖書の神、主イエスキリストのみを神として信じる信仰を守るため、命を失った人達はたくさん居ました。
さらに遡れば長い歴史において、この国は多くの信仰者の命の犠牲を、その信仰を貫くために必要とした国です。
時代が変わろうとも、自分を取り巻く環境や状況が変わろうとも、主は私達をその逆境から救い出して下さる神です。しかしたといそうでなくても、私達は命を捨てても、信仰を捨ててはならないのです。一度与えられた永遠の命を捨ててはならないのです。

【ルカ9:23-27】
9:23 「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
9:24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。
9:25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。
9:26 わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。
9:27 よく聞いておくがよい、神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。

私達は今の恵みの時に、信仰を持ち続けるのに、さして意識をしていなかったかもしれません。それはたとえ、この世と妥協する生き方であったとしても、それを問われ考える必要がないほど平和であったかも知れません。
しかし、聖書は終わりの近づく時こそ、殉教か棄教(背教)かを迫られることを明確に語って(マタイ24:4-14)います。
私達の信仰が試される(マタイ13:18,20,21、1ペテロ1:3-7)時が日一日と確実に近づいています。
今一度信仰について真剣に見つめ覚悟を新たにするために、共に自らを省みまた共に祈ろうではありませんか。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヨハネ15:18,19】
15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。

【マタイ10:32-40】
10:32 だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。
10:33 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。
10:34 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
10:35 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
10:36 そして家の者が、その人の敵となるであろう。
10:37 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
10:38 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。
10:39 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
10:40 あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。

【マタイ24:4-14】
24:4 そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。
24:6 また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
24:7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。
24:8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
24:9 そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。
24:10 そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。
24:11 また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。
24:12 また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
24:14 そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。

【マタイ13:18,20,21】
13:18 そこで、種まきの譬を聞きなさい。
 [中略]
13:20 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。
13:21 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。

【1ペテロ1:3-7】
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、
1:4 あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。
1:5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。
1:6 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。
1:7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。