栄光の王が来られる

2015年07月10日 21:06

【詩篇24:7-10】
24:7 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
24:8 栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。
24:9 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
24:10 この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。[セラ

まさにこの御言葉は主イエスが再びこの地に来られる再臨の時に成就します。
主は「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう(使徒1:11)」と告げられているように再びこの地に来られます。
またいにしえより預言されているように「その日には彼の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ(ゼカリヤ14:4)」のです。
その時栄光に輝く王は私達全ての聖徒達(口語訳では聖者)と共に(ゼカリヤ14:4)天から地に来られます。
そして主は、この詩篇にあるように、栄光の王としてエルサレムにお入りになられます。
それは「主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる。(ゼカリヤ14:9)」とあるように、全地の王となり全世界を統べ治められるために来られるのです。
初臨(最初に主イエスが十字架にご自身をささげるためこの地上に来られた時)のキリストが、エルサレムに救い主として入城された時でさえ、人々は人の子として来られた方を喜びと賛美と叫びをもって迎えました。(ルカ12:12ー19)
ならば、この地を平安の内に治める王として栄光の内に天から来られる方は、どのような栄光の輝きをもって、エルサレムに入られることでしょう。
ああ、何と言う栄光でしょうか。

またそのとき主の聖徒達も、「また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。[中略]彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。(黙示録20:4)」とあるように、つまり私達クリスチャンもよみがえりの栄光の体を持って、さばきの権が与えられ、その座に着き、主と共に全地を統べ治めます。
その時私達も主の栄光を受けて、栄光に輝いて、(1コリント15:40,41,49)主と共に座に着くのです。
ああ、何という驚くべき光栄でしょうか。

この時、神が私達人に定められた、「神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。(創世記1:28)」の言葉がここに完全に成就するのです。

まさにこのことのために、主イエスは王として再臨されるのです。
このことを思うとき、誰でも主を愛する者はその麗しき姿と完全なる統治をみたいと、心震えるのではないでしょうか。
一日も一刻も早くこの栄光の王にお会いしたいと、日々切に願い、それを思うのであればこの地の如何なることも、その日を来たらしめんためと、うめきながらも喜びのうちに、主にまた仕えて行くことでしょう。
実に被造物もこの日を切に望んでいます。

【ローマ8:18-25】
8:18 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
8:22 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
8:23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
8:24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
8:25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

どうして、これを興奮せずに思い描くことができましょうか。
全地のすべてのものはこの日を待ち望んでいるのです。
主により特別に選ばれた私達が、どうして冷めたままでいられましょうか。

この思いは人の心から出て来るものでは決してありません。
知性で理解しようとするのであれば、むしろ難解な奥義であり、神の霊によらなければ決して知ることのできない、(ヨハネ16:12-14)深遠な神の思い、しかしこれを霊において素直に受け取る者にはその喜びが内側から溢れ、主を待ち望みこい焦がれて身を焼き尽くすかのような熱情が燃え上がるようなものなのです。
そう、この聖霊こそ私達の内に先駆けて来られた栄光の王(詩篇24:7)、そしてそれは私達が救われた時から私達の内にこうして来られたのです。
いや、主が再びこの地に来られる日まで、私達が主を待ち望み続ける限り、主は私達の内に栄光の王として来られ続けるのです。
世においては私達の歩む道には悩みがあり(ヨハネ16:12-14)、ともすれば恐れに心覆われそうになり、また絶望という偽りに敗北者のように沈んでしまっても、主を呼び主を待ち望む時、すでに勝利を十字架の死とよみがえりにより完成された栄光の王は、私達の中に来られ続け、今日もあなたの内に勝利の凱旋をされるのです。
だから、何もできない自分から目を離し、ひれ伏して、この栄光の王を呼び求めましょう。
この日々の待ち望みこそ、主を待ち望む祈り、主が来られる日を一日も早く来たらしめるために、全ての聖徒達に与えられた、信仰の基礎となる祈りなのです。
再臨の主を待ち望むこと、それは私達教会に与えられた基本となる信仰の一つなのです。
さあ、だからいつ如何なる時も主を呼び求めましょう。

【黙示録22:17,20】
22:17 御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。
 [中略]
22:20 これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ゼカリヤ14:3ー11】
14:3 その時、主は出てきて、いくさの日にみずから戦われる時のように、それらの国びとと戦われる。
14:4 その日には彼の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ。そしてオリブ山は、非常に広い一つの谷によって、東から西に二つに裂け、その山の半ばは北に、半ばは南に移り、
14:5 わが山の谷はふさがれる。裂けた山の谷が、そのかたわらに接触するからである。そして、あなたがたはユダの王ウジヤの世に、地震を避けて逃げたように逃げる。こうして、あなたがたの神、主はこられる、もろもろの聖者と共にこられる。
14:6 その日には、寒さも霜もない。
14:7 そこには長い連続した日がある(主はこれを知られる)。これには昼もなく、夜もない。夕暮になっても、光があるからである。
14:8 その日には、生ける水がエルサレムから流れ出て、その半ばは東の海に、その半ばは西の海に流れ、夏も冬もやむことがない。
14:9 主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる。
14:10 全地はゲバからエルサレムの南リンモンまで、平地のように変る。しかしエルサレムは高くなって、そのもとの所にとどまり、ベニヤミンの門から、先にあった門の所に及び、隅の門に至り、ハナネルのやぐらから、王の酒ぶねにまで及ぶ。
14:11 その中には人が住み、もはやのろいはなく、エルサレムは安らかに立つ。

【ルカ12:12ー19】
12:12 その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、
12:13 しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」。
12:14 イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは
12:15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる」と書いてあるとおりであった。
12:16 弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起した。
12:17 また、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたとき、イエスと一緒にいた群衆が、そのあかしをした。
12:18 群衆がイエスを迎えに出たのは、イエスがこのようなしるしを行われたことを、聞いていたからである。
12:19 そこで、パリサイ人たちは互に言った、「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」。

【1コリント15:35-49】
15:35 しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。
15:36 おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。
15:37 また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。
15:38 ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。
15:39 すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。
15:40 天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。
15:41 日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。
15:42 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、
15:43 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、
15:44 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。
15:45 聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。
15:46 最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。
15:47 第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。
15:48 この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。
15:49 すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。

【ヨハネ16:12-14】
16:12 わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
16:13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
16:14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。

【ヨハネ16:33】
16:33 あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。