永遠に変わらない信仰

2015年12月05日 07:40

【黙示録2:18-29】
2:18 テアテラにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が、次のように言われる。
2:19 わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。
2:20 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。
2:21 わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。
2:22 見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。
2:23 また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。
2:24 また、テアテラにいるほかの人たちで、まだあの女の教を受けておらず、サタンの、いわゆる「深み」を知らないあなたがたに言う。わたしは別にほかの重荷を、あなたがたに負わせることはしない。
2:25 ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。
2:26 勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。
2:27 彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。
2:28 わたしはまた、彼に明けの明星を与える。
2:29 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。

私達の「愛と信仰と奉仕と忍耐(19節)」、つまり私達の信仰生活をだめにするものの大きなものは偽りの信仰です。
それは何も特別なものではありません。ごく当たり前に歩んでいるはずの日々の生活の中に影を潜めているものです。
最初にアダムとエバに罪を犯させた時、サタンが人に自らの姿に目を向けさせたように、自らの方に目を向けて豊かであろう、華やかで、煌びやかであろうという生活、いわゆる人の目を惹くような姿になろうと望む生き方、そこに姦淫が潜みます。
姦淫とは心が神以外のもので占められているということ。
すでに自らを目的とし、自分から目を離せなくなったとき、私達の心はすでに神から離れ去ってしまっているのです。
私達は神ご自身に命を与えるほどに愛されたのですから、私達は自然と主を愛し、その心は主だけのものとなって行くはずなのです。
それが健やかな信仰の成長であり、愛の成熟なのです。
しかし、その目を惹いてその煌びやかさに誘惑し自らもその姿になりたいというような願望を起こさせ神から人々の心を引き離そうとするものは教会の中にも充分存在していることを今日「耳のある者は~聞くがよい(29節)」と主イエスご自身が警告しているのです。
他の人がやっているから自分も大丈夫なような錯覚に陥る、そうして神から心離し姦淫を放置すると教会自体にイゼベルの存在自体をゆるし、その姦淫を深めて行くなら、その人は「サタンの~深みを知(24節)」ることとなる。やがてキリストの花嫁のはずであった教会は黙示録のさらに先で語られているように、大淫婦へと姿を変えて行くのです。
そうなってしまったら、すでに時は遅し、心は姦淫で汚れ、神を愛して生きる、神に人生をささげ、神に仕えて生きるなどということは消え去り、心はサタンのものとなってしまうのです。
神に立ち返ろうという心すら退けるようになり、しかし自らはクリスチャンと自称しながら、自らがイゼベルそのものとなってしまうのです。
しかし、主はそのような者を裁くということをはっきりと語り、隠すようなことはしていません。

あなたの心は主から離れていませんか?
あなたの目は、心は何に奪われていますか?

始めから私達に与えられている主の愛(十字架の愛)に留まり、あるいは少しでも離れ背く心を自らに見るなら直ちにその愛に立ち戻るなら、
つまり主「が来る時まで、自分の持っているものを堅く保ってい(25節)」るのであれば、主は「勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。(26節)」と語り、
主の永遠のご計画の中でキリストの花嫁として、主がこの地を治める時に私達もこの地を治める者としてくださることを、改めて私達に約束してくださっているのです。
その余りにも大きな思いこそ主の本当の思い、愛であり、私達はそのように愛され、また主を愛するものとされたキリストの花嫁なのです。

さあ、もう一度怠ることなく私達がどのように歩んできたのかを省みましょう。
そう、主の愛を退けてしまわないうちに。