主の愛を見失うとき

2015年08月29日 18:54

【マタイ26:69ー75】
26:69 ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。
26:70 するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。
26:71 そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。
26:72 そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。
26:73 しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。
26:74 彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。
26:75 ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。

この箇所を読むたび、知らないと言ったのが三度で済むのならいいなと思います。
人は信仰を持っていても自分のキャパ(容量)が小さいがゆえに、その歩みの中で容易に主を否みます。
神のあわれみはそして注がれる力と愛はあまりに絶大で、その思いははるかに高きところからの眼差しであるからこそ、人には理解しがたく、そして自分の置かれた現実に、また自分ではどうしようもないという自らの小ささに絶望し、神の御手はあわれみ深くいつも自分に伸べられているのに、その手を払い退けるかのように、神を否みます。
神を否むことは私達自身にとって、命そのものである方を否むわけですから、私達には死を意味するわけです。
ここで自らの命を惜しんで、命の君である方を否むという矛盾を人は犯すわけですが、人には到底そのことは理解できません。
自らの力で自らの命を何とかしようという肉の性質、神から離れて自力で生きようとする人の罪の根源的な罪そのものが、私達を死に導いているわけですが、自分の死に瀕する現実に必死である以上、そのようなことは見えません。
そして、自らの命のために神をも否むのです。

私達はどの段階でその罪に気づくのでしょうか。

「激しく誓い(74節)」とはのろって言ったという意味です。
神を完全否定し、のろいまでし、信仰を捨てようとした姿がまさにこの時のペテロの姿です。
そして、そこで彼は初めて主を愛し、主と共にすぐ御側で過ごした幸せな日々の中、あわれみの内に語られた彼への預言を思い出すのです。

【ルカ22:31-34】
22:31 シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。
22:32 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
22:33 シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。
22:34 するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。

そのような時、私達は自分の犯した罪に、立ち直ることができないほどに打ちのめされ、主の元に帰る道すら見失っているかも知れません。
しかし主はそんな私達をあわれみ深く変わらぬ愛の溢れる眼差しで私達を見つめておられます。「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。(ルカ22:32)」

【ルカ22:61】
22:61 主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。

この眼差しがあるから、この方のとりなしてくださる祈りがあるから、そしてこのような罪人を赦してくださる主の贖いの十字架があるから、私達はこの愛の前に、この十字架の前に悔い改めて、主に立ち返ることができるのです。

私達はその生涯の中で何度主を否むのでしょう。そう思うと自らの弱さと不信仰に悲しくなります。
しかし、主の御手はいつもこうして決して主から離れないよう、私達がそうして滅びないよう伸べられ、やさしく私達をご自身の命のもとに導かれるのです。

今あなたにはこの主の優しい御手が見えているでしょうか。
神すらも否むほどに必死で生き、本当に大切なものすら見えていないのではないでしょうか。
あるいは主を否んだ故に主を退けた故に帰る道を見失ってはいませんか。
しかし主は今あなたのこの罪のために十字架にかかる、その道のりであなたの十字架を負ってご自身に立ち返るよう御手を伸べられています。
この十字架こそ私達の帰るべき道です。
主のあわれみにすがり、まっすぐに自らの罪を神に告白し悔い改めるために、十字架の前に進みましょう。