記事のアーカイブ

主の愛が満ちるために

2016年02月21日 20:05
聖書箇所: 使徒21:7-14 神はまさに私達の内に勝利の主として立ち、私達が如何なる時にも、如何なる状況にも、どこにいても、何をしていても、勝利の主として、主にあって圧倒的な勝利者としての歩みを私達に与えてくださいます。 まさに主のものとしてこのことを受け入れ、主と共に歩む者に、そしてこの主の勝利のご計画の内に主と共に進もうと、勝ち取ろうと願う者に、主はご自身の勝利を現してくださいます。 今がその歩みの最中であり、主はそのために私達クリスチャンを聖別という形で分けられた。 ご自身にある者と、ご自身に逆らう者とに分けられ、天地創造の時と同様に、ここから主の御業を成そうと、新しい創造の御業

変わらぬ御言葉に立つ

2016年02月14日 20:04
聖書箇所: マルコ4章 主の御言葉はあまりにも私達に近く親しく語りかけられるからと言って、それを好き勝手に扱うことも、受け止めることも、取捨選択することも、聞き流すことも、つまりは私達が主の御言葉を侮って生活することは私達にとって決して得策ではありません。 むしろそれは大いなる損失であると同時に、神の御言葉を侮るという非常に危険な(愚か者の)生き方を選択することとなります。 主は私達にこれほど容易に聖書を手にすることができる環境を与えてくれました。 また私達の内側には生きる神の御言葉であられる方、主イエスが生きて居られ、私達に聖書が如何なる事を語っているのか、つまりは主ご自身が直接親しく

永遠の礼拝に生きる

2016年02月07日 20:02
聖書箇所: 黙示録21:22-27 私達が主の御前に立ってるのは奇跡です。なぜなら聖なる聖なる方の御前に私達が本当に立つということは、その身の汚れに、その罪深さに、裁かれ滅びる、死ぬとしか思えない、そのような方の前に立つと言うことだからです。 しかし、事実私達は今主と共に住まい、主の御前に立ち、礼拝をささげることのできる恵みの中にいます。 それは主ご自身がご自身の身を裂き、命をささげて、私達を贖ってくださったために他なりません。 だからこそ、私達が主の御前に立つということをゆるされるということは、奇跡であり、その事実を知る者は、その贖いの故に、十字架の深い愛の故に、それほどに主に愛された

主の約束から揺るがない

2016年01月31日 20:00
聖書箇所: ヨエル2:12-29 主が私達に約束してくださったリバイバルのビジョンは決して軽いものではありません。 それは再臨の主をこの地に迎え、主と共にこの地を千年王国という形で共に治めるという、後の日に与えられている大いなる主の計画を、今のこの時代に、この国に、(部分的ながら)顕現するという大きな計画であり、信仰の復興から国の救いに至るまでの、主の熱心によってのみ成し遂げ得る、壮大な計画を主は語られています。 しかし、誰もがそれを目にするまで信じないというのであれば、主の計画を共にこの地で担う者はいないということになりますが、その主の御心を信じ、それを真剣に求め、そのために人生をささ

御手の内に安らう

2016年01月24日 19:58
聖書箇所: 詩篇23篇 主がご自身の命を十字架にささげても、私達に与えたいと願ったのはまさに天の御国における交わりでした。 しかしその交わりはすでに私達の生活の中で始まっているのです。 毎日の生活において私達は礼拝者であり、決して日曜日だけ特別にそうなるわけではなく、24時間365日私達はこの神との永遠の交わりの中に生きている礼拝者なのです。 それは主が命をささげ、すべてを惜しまずに与えてくださるほどに愛し、いや今もその愛は変わりなく私達に注がれ続けているからこそ、私達自身も主のために生きざるを得ないという、神との愛の関係における、愛によって働く信仰に基づく生き方であり、私達自身の人生を

主の十字架は勝利に立つ

2016年01月17日 19:55
聖書箇所: 1ヨハネ4:7-12 主は十字架の上で勝利を得ました。 私達を十字架に共につけた、その事実は、私達の内に、主が完全なる勝利を得られたということなのです。 これはあらゆる面において、私達自身にも、そして全世界に対しても、主は私達の内に勝利を得てくださったのです。 そこにあるのは私達の自分の義ではなく、神の義であり、自らの義により私達を裁く神の姿ではなく、ご自身の命を差し出し、ご自身が贖いの供え物となって、つまりは主の限りない愛によって、得られた勝利です。 だからこそ、私達のこの世での生活における全ての戦いは、この絶対的な愛の中に、あらゆる面に於いて完全なる主の勝利が現わされると

神の国を来たらしめる者

2016年01月10日 19:49
聖書箇所: エペソ2:1-7 私達は十字架の贖いにより、神から「めぐみみにめぐみを加えられた(ヨハネ1:16)」と言われるほどに大きな恵みを与えられています。 それはこの地に今生きていたとしても、天の御国に行き、この天の御国を味わう。その天の祝福を与えられているからこそ、地にある祝福を添えて与えられている。それほどの驚くべき恵みを受けているのです。 主が十字架の上で、あれほどに苦しまれたのは、罪の中から救い出し、さらにこの天の御国に生かし、その恵みに預からせるために他なりません。 しかし私達はまだそれを本当には味わい知ってもいないし、私達に与えられている根本的な祝福であり信仰の基盤となる

勝利の力

2016年01月03日 19:47
聖書箇所: 2コリント10:4 主はこの新しい年を迎えるに当たり、まず新年とは如何なる時であるのかということを、過越しの祭りになぞらえ語られてます。 それは世の新しい年の迎え方とは全く異なるもの。私達の原点たる十字架から歩み始めるということです。 これは神がイスラエルに、主に贖い出され、エジプトを脱出した、その時を忘れないために定めた過越しの祭りの時期を正月と定めたことから、わかるものです。 私達は私達自身を捕らえてきた罪から、世から、サタンから、自分中心の生き方(肉)から、十字架の死と復活により、訣別し新しく生まれて歩き出した者であり、その原点を忘れることなく、またそこに決して戻ること

主を生きて証しする歩み

2015年12月27日 19:41
聖書箇所: 詩篇103篇 今年一年はみなさんにとってどのような年だったでしょうか。 どんなことがあり、どんなことをした年だったでしょうか。 私達の歩みはすべて主の御手の中にあります。 私達がどうだったかではなく、主が何をしてくださったのか、そこには主の深い愛があり、恵み深く、しかし私達はその感謝を忘れてしまうことが多くはないでしょうか。 「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。【詩篇103:2】」 そのことを覚えるとき、私達はこの唇から賛美がわき上がり、またその言葉は力強い証しとなります。 主が私達を救ってくださった、その十字架を喜びと感謝を胸に、主と過ごして来た毎日は、また過ごし

この救いの知らせを全地に

2015年12月20日 19:33
聖書箇所: エレミヤ29:1-14 主は今私達のこの国にリバイバルが来ると言うことを丁寧に幾度も語りかけてくださいます。 それは戦後70年という節目の年に重ね、エレミヤに語られたバビロンからの帰還の預言と重ね、それは主の用意された平安を与え、将来に希望を与える計画の時であるということを、 また、その時にはペルシャの時代に、滅亡の危機に瀕していたイスラエルを主が助け出されたエステル記の出来事のように、滅びに直面しているこの国に、主の溢るる愛と絶対的な権威とによって、主の圧倒的な勝利を得させると言うことを語り、リバイバルの時は近く、また具体的なリバイバルへの備えについても言及するものです。
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