永遠の礼拝に生きる

2016年02月07日 20:02

聖書箇所: 黙示録21:22-27

私達が主の御前に立ってるのは奇跡です。なぜなら聖なる聖なる方の御前に私達が本当に立つということは、その身の汚れに、その罪深さに、裁かれ滅びる、死ぬとしか思えない、そのような方の前に立つと言うことだからです。
しかし、事実私達は今主と共に住まい、主の御前に立ち、礼拝をささげることのできる恵みの中にいます。
それは主ご自身がご自身の身を裂き、命をささげて、私達を贖ってくださったために他なりません。
だからこそ、私達が主の御前に立つということをゆるされるということは、奇跡であり、その事実を知る者は、その贖いの故に、十字架の深い愛の故に、それほどに主に愛された愛の故に、主を愛さざるを得ない、主を讃えざるを得ない、主のために生きざるを得ない者となるのです。
つまり、24時間365日主に自らをささげるという、礼拝者としての生き方をする。それこそが主に贖われた者、クリスチャンの本来の生き方です。
天に於いては、この礼拝は永遠にささげ続けられ、決して途絶えることはありません。そして誰一人自らを讃えたり、自らの満足のために生きる者はなく、礼拝の中心は、その栄光と賛美を受けるのは唯一主のみであるのです。
そして、私達はその永遠の礼拝に、すでに永遠の命を与えられた者だからこそ、今入り、永遠の礼拝者として今毎日をまた生涯を生きるということが、もっとも幸いで自然な生き方となるのです。
私達の目は主を見るためにあり、私達の口は主を讃えるためにあるのです。
しかし、ひとたび私達の目が地上に釘付けとなり、自らを見、世を見て、そこから心離れなくなるのであれば、その口は自らを正しく大きく見せるのために偽りを語り、人々を傷つけ、神を侮る口となるのです。
しかし、その目と口は「見よ、この小さい角には、人の目のような目があり、また大きな事を語る口があった。【ダニエル7:8】」とある反キリストの持つ目と口と何ら変わりありません。
つまり、それは反キリストを呼ぶ口であり、サタンと心つながる者となる、自らの栄光を見る目となるのです。
そして、それは私達に与えられている麗しい約束である主のご計画を、悪いもののように見せ、人々の心を神から離すために、その目をエジプト(世)に向けさせる口となるのです。
しかしそのような中においても、その目が地上になく、天に向かって、主を一心に見つめ、主の約束を見つめる目、つまり信仰の目を持つ者は、主の約束を、命をささげても証しする者、宣言する者となりこの地上に於いても、主の約束の地を獲得する者となるのです。
さて、あなたの心は自らを求めて、この地(世)を求め、サタンと心結んで反キリストを呼ぶのでしょうか?それとも、主の愛を知って、主のみを求め、天を求めて、主と心一つとなり、主イエスキリスト、再臨のキリストを呼ぶのでしょうか?
今私達の日々の姿を省み、自らが永遠の礼拝者クリスチャンとしての本当の歩みをしているかを見つめましょう。主はまさに私達教会のただ中に立っておられます。
今回は、永遠の礼拝者としての私達の人生のまた毎日の歩みについて、御言葉に耳を傾けもう一度深く考える時を持ちたいと思います。


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