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低き麗しき道

2016年05月28日 14:58

山から谷へと川が流れ
水が高きから低きへと流れるように
主の恵みも低き所にこそ流れる
自然の法則に定められた
主の溢るる麗しき愛は
私達を恵みへと導き
低き低き場所へ
キリストの御側へと私達を招く
キリストが生まれし
最も低き家畜小屋
キリストが歩まれし
貧しく弱く小さく罪深き者達の間
蔑まれ卑しめられた十字架の道
気づけば主の御足の跡こそ
愛と恵みの最も溢るる道
その愛の深みへと主は私を招かれる
「愛する者よ
あなたは私と
永遠(とこしえ)に共に歩む
麗しき花嫁である」と

香りという感覚

2016年05月12日 15:41

嗅覚には意外と大きく人のイメージを左右するものがあるようで、その人の印象や、思い出などの記憶も、この嗅覚で感じたものが大きく影響を及ぼすのだそうです。
なるほど聖書にはこの香りがかなり重要なところで出てくるもので、祭司の幕屋での働きには欠くことはできないもの、またソロモンの時代にはこの多くの香木、香料がイスラエルに運ばれ、やはり神殿や賛美に必要な楽器の材料になったりしています。
その中で最も重要で最も印象深い場面として、マルタの妹のマリアが主イエスに注いだ香油を思わされます。
彼女の愛と感謝はこの香油で表されてきました。
そして、主イエスの葬りのために注がれた香油は彼女の持ち得る最高のささげ物であったろうことを300デナリ(労働者の平均的日給×300と言えば300万円くらいのものでしょうか)ほどにもなるであろう香油という言葉で知ることができるでしょう。
しかし、それは値段の問題をいうのではなく、これから死に向かう愛する主イエスにどうしたら、最上の愛をささげることができようかというもの。
その愛に主イエスはどれほど慰められ喜ばれたことでしょう。
なぜなら、彼の向かう道は血と死とが拭うことのできない臭気を放って待ち受けていたのですから。
彼女の注いだ香油はそれを覆うために存分に注がれたものであるということ、それが人目に一瞬奇異にも見えた行動の本質だったのです。
私は聖書の中でこの香りをどうしても忘れることができないのです。

「私は主を喜ばせる香りを放つことができるでしょうか?」

【雅歌4:9-16】
4:9 わが妹、わが花嫁よ、あなたはわたしの心を奪った。あなたはただひと目で、あなたの首飾のひと玉で、わたしの心を奪った。
4:10 わが妹、わが花嫁よ、あなたの愛は、なんと麗しいことであろう。あなたの愛はぶどう酒よりも、あなたの香油のかおりはすべての香料よりも、いかにすぐれていることであろう。
4:11 わが花嫁よ、あなたのくちびるは甘露をしたたらせ、あなたの舌の下には、蜜と乳とがある。あなたの衣のかおりはレバノンのかおりのようだ。
4:12 わが妹、わが花嫁は閉じた園、閉じた園、封じた泉のようだ。
4:13 あなたの産み出す物は、もろもろの良き実をもつざくろの園、ヘンナおよびナルド、
4:14 ナルド、さふらん、しょうぶ、肉桂、さまざまの乳香の木、没薬、ろかい、およびすべての尊い香料である。
4:15 あなたは園の泉、生ける水の井、またレバノンから流れ出る川である。
4:16 北風よ、起れ、南風よ、きたれ。わが園を吹いて、そのかおりを広く散らせ。わが愛する者がその園にはいってきて、その良い実を食べるように。

主が立ち上がられる?

2016年04月26日 20:38

【出エジプト40:36-38】
40:36 雲が幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。彼らはその旅路において常にそうした。
40:37 しかし、雲がのぼらない時は、そののぼる日まで道に進まなかった。
40:38 すなわちイスラエルの家のすべての者の前に、昼は幕屋の上に主の雲があり、夜は雲の中に火があった。彼らの旅路において常にそうであった。

主のご計画はあまりに大きく私達はその御心に従う他はありませんが、そろそろ主のおゆるしを受け、ブログの更新ができそうなので、記事をアップしてみました。
併せてこれまで、更新が行き届いていなかった部分を一気に更新しましたので、そちらもご覧いただければと思います。
また、新たに書き綴ることを、語ることをゆるされたこともあるようですので、そちらの方も様子を見ながらアップしていくつもりです。
どうぞ温かく応援いただければ幸いです。

永遠に変わらない信仰

2015年12月05日 07:40

【黙示録2:18-29】
2:18 テアテラにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『燃える炎のような目と光り輝くしんちゅうのような足とを持った神の子が、次のように言われる。
2:19 わたしは、あなたのわざと、あなたの愛と信仰と奉仕と忍耐とを知っている。また、あなたの後のわざが、初めのよりもまさっていることを知っている。
2:20 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。
2:21 わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。
2:22 見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。
2:23 また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。
2:24 また、テアテラにいるほかの人たちで、まだあの女の教を受けておらず、サタンの、いわゆる「深み」を知らないあなたがたに言う。わたしは別にほかの重荷を、あなたがたに負わせることはしない。
2:25 ただ、わたしが来る時まで、自分の持っているものを堅く保っていなさい。
2:26 勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。
2:27 彼は鉄のつえをもって、ちょうど土の器を砕くように、彼らを治めるであろう。それは、わたし自身が父から権威を受けて治めるのと同様である。
2:28 わたしはまた、彼に明けの明星を与える。
2:29 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』。

私達の「愛と信仰と奉仕と忍耐(19節)」、つまり私達の信仰生活をだめにするものの大きなものは偽りの信仰です。
それは何も特別なものではありません。ごく当たり前に歩んでいるはずの日々の生活の中に影を潜めているものです。
最初にアダムとエバに罪を犯させた時、サタンが人に自らの姿に目を向けさせたように、自らの方に目を向けて豊かであろう、華やかで、煌びやかであろうという生活、いわゆる人の目を惹くような姿になろうと望む生き方、そこに姦淫が潜みます。
姦淫とは心が神以外のもので占められているということ。
すでに自らを目的とし、自分から目を離せなくなったとき、私達の心はすでに神から離れ去ってしまっているのです。
私達は神ご自身に命を与えるほどに愛されたのですから、私達は自然と主を愛し、その心は主だけのものとなって行くはずなのです。
それが健やかな信仰の成長であり、愛の成熟なのです。
しかし、その目を惹いてその煌びやかさに誘惑し自らもその姿になりたいというような願望を起こさせ神から人々の心を引き離そうとするものは教会の中にも充分存在していることを今日「耳のある者は~聞くがよい(29節)」と主イエスご自身が警告しているのです。
他の人がやっているから自分も大丈夫なような錯覚に陥る、そうして神から心離し姦淫を放置すると教会自体にイゼベルの存在自体をゆるし、その姦淫を深めて行くなら、その人は「サタンの~深みを知(24節)」ることとなる。やがてキリストの花嫁のはずであった教会は黙示録のさらに先で語られているように、大淫婦へと姿を変えて行くのです。
そうなってしまったら、すでに時は遅し、心は姦淫で汚れ、神を愛して生きる、神に人生をささげ、神に仕えて生きるなどということは消え去り、心はサタンのものとなってしまうのです。
神に立ち返ろうという心すら退けるようになり、しかし自らはクリスチャンと自称しながら、自らがイゼベルそのものとなってしまうのです。
しかし、主はそのような者を裁くということをはっきりと語り、隠すようなことはしていません。

あなたの心は主から離れていませんか?
あなたの目は、心は何に奪われていますか?

始めから私達に与えられている主の愛(十字架の愛)に留まり、あるいは少しでも離れ背く心を自らに見るなら直ちにその愛に立ち戻るなら、
つまり主「が来る時まで、自分の持っているものを堅く保ってい(25節)」るのであれば、主は「勝利を得る者、わたしのわざを最後まで持ち続ける者には、諸国民を支配する権威を授ける。(26節)」と語り、
主の永遠のご計画の中でキリストの花嫁として、主がこの地を治める時に私達もこの地を治める者としてくださることを、改めて私達に約束してくださっているのです。
その余りにも大きな思いこそ主の本当の思い、愛であり、私達はそのように愛され、また主を愛するものとされたキリストの花嫁なのです。

さあ、もう一度怠ることなく私達がどのように歩んできたのかを省みましょう。
そう、主の愛を退けてしまわないうちに。

主の愛を見失うとき

2015年08月29日 18:54

【マタイ26:69ー75】
26:69 ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。
26:70 するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。
26:71 そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。
26:72 そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。
26:73 しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。
26:74 彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。
26:75 ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。

この箇所を読むたび、知らないと言ったのが三度で済むのならいいなと思います。
人は信仰を持っていても自分のキャパ(容量)が小さいがゆえに、その歩みの中で容易に主を否みます。
神のあわれみはそして注がれる力と愛はあまりに絶大で、その思いははるかに高きところからの眼差しであるからこそ、人には理解しがたく、そして自分の置かれた現実に、また自分ではどうしようもないという自らの小ささに絶望し、神の御手はあわれみ深くいつも自分に伸べられているのに、その手を払い退けるかのように、神を否みます。
神を否むことは私達自身にとって、命そのものである方を否むわけですから、私達には死を意味するわけです。
ここで自らの命を惜しんで、命の君である方を否むという矛盾を人は犯すわけですが、人には到底そのことは理解できません。
自らの力で自らの命を何とかしようという肉の性質、神から離れて自力で生きようとする人の罪の根源的な罪そのものが、私達を死に導いているわけですが、自分の死に瀕する現実に必死である以上、そのようなことは見えません。
そして、自らの命のために神をも否むのです。

私達はどの段階でその罪に気づくのでしょうか。

「激しく誓い(74節)」とはのろって言ったという意味です。
神を完全否定し、のろいまでし、信仰を捨てようとした姿がまさにこの時のペテロの姿です。
そして、そこで彼は初めて主を愛し、主と共にすぐ御側で過ごした幸せな日々の中、あわれみの内に語られた彼への預言を思い出すのです。

【ルカ22:31-34】
22:31 シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。
22:32 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
22:33 シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。
22:34 するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。

そのような時、私達は自分の犯した罪に、立ち直ることができないほどに打ちのめされ、主の元に帰る道すら見失っているかも知れません。
しかし主はそんな私達をあわれみ深く変わらぬ愛の溢れる眼差しで私達を見つめておられます。「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。(ルカ22:32)」

【ルカ22:61】
22:61 主は振りむいてペテロを見つめられた。そのときペテロは、「きょう、鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主のお言葉を思い出した。

この眼差しがあるから、この方のとりなしてくださる祈りがあるから、そしてこのような罪人を赦してくださる主の贖いの十字架があるから、私達はこの愛の前に、この十字架の前に悔い改めて、主に立ち返ることができるのです。

私達はその生涯の中で何度主を否むのでしょう。そう思うと自らの弱さと不信仰に悲しくなります。
しかし、主の御手はいつもこうして決して主から離れないよう、私達がそうして滅びないよう伸べられ、やさしく私達をご自身の命のもとに導かれるのです。

今あなたにはこの主の優しい御手が見えているでしょうか。
神すらも否むほどに必死で生き、本当に大切なものすら見えていないのではないでしょうか。
あるいは主を否んだ故に主を退けた故に帰る道を見失ってはいませんか。
しかし主は今あなたのこの罪のために十字架にかかる、その道のりであなたの十字架を負ってご自身に立ち返るよう御手を伸べられています。
この十字架こそ私達の帰るべき道です。
主のあわれみにすがり、まっすぐに自らの罪を神に告白し悔い改めるために、十字架の前に進みましょう。

平和をつくり出す者

2015年08月18日 12:13

【マタイ5:9】
5:9 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

私達クリスチャンにとって平和と言うことを考えるならば、私達の取り得るスタンスはこの聖句にあります。
それは私達のうちに住まわれるキリストご自身が最もそれを望まれる方、ご自身が平和そのものである方だからです。

【イザヤ9:6,7】
9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
9:7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。

ですから、私達はいついかなる状況にあろうと、いかなる理由があろうと、平和を乱し、破壊する者であってはなりません。
そのような言葉、いや考えでさえ持つことを、私達の内に住まう、私達の命であるキリストご自身は、悲しまれるからです。
そして、本来私達はこのキリストにあって、そのような性質を持ち合わせていないのです。

【マタイ26:52】
26:52 あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。

それは武器や戦争による平和は存在しない、むしろそれを選択するもの自身が、自らのとった剣によって滅びるという明確な神の真理に基づくものです。
このことが真実であるという事はこれまで繰り返されてきた歴史を見れば、議論を挟む余地がないのではないでしょうか。

では私達の主はその平和をどのようにつくり出されたのでしょうか?
つまり私達にどのように平和をつくり出す者となることを望まれているのでしょうか?
主はご自身の命を与えるほどに愛するという、十字架の愛により、その贖いにより和解をもたらし、平和をつくられました。

【コロサイ1:20】
1:20 そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。

主はご自身が神であるにも関わらず、むしろその神であることをもって平和のために、ご自身の命を差し出すという驚くべき方法によって、圧倒的な平和をつくり出されたのです。
そして主は私達に、今度は私達が平和をつくり出す者となることを望まれ、その役割を託されました。

【2コリント5:18ー21】
5:18 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。

争うのではなく愛することで、自らの正しさを主張するのでなく傷つけて来る相手をもその存在ごと受け入れ愛することで、ゆるしあえず憎しみ合うのではなく、ゆるすために自らの命をささげることで、人の罪の持つ、相手の命をも奪おうとする戦いの性質に、血を流し血を求める罪の本質に、根本的に打ち勝つことを、神は私達に望まれています。

【マタイ5:38-48】
5:38 『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:39 しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
5:40 あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
5:41 もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
5:42 求める者には与え、借りようとする者を断るな。
5:43 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:44 しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
5:45 こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
5:46 あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
5:47 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
5:48 それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

この言葉を実践することは最も難しいことでしょう。もちろんそれは人の思い、人の力であれば。
しかしこのキリストの命、聖霊が私達の内に生き、この聖霊に満ちて私達が主の御心のままに生きる時、この最も難しく見える御言葉は現実のものとなり、この世にこの地に多大なインパクト与える勝利をもたらすこととなるのです。
使徒行伝における迫害とそれに反して勢いを増して世界宣教へと進んで行く一連の流れはその勝利そのものであり、殊にステパノの殉教の姿とそこで捧げられた祈り、そしてその祈りによりその迫害の只中に居たパウロ(使徒行伝7:54-8:1)が救われていく様は主の十字架の愛に基づく勝利以外の何ものでもありません。

実に私達はそのように、この世の如何なる知恵や論議をも超えて、この地に平和をつくり出す者として、新しく生まれました。
私達の内の新しい命は、争う以外に方法を持たないこの世の法則を根底から覆して、神の性質に基づく神の国の法則(神の愛とゆるし)によって抜本的に平和をつくり出す者へと、私達を導くのです。
私達の平和の祈りと平和をつくる者としての生きる様は、不可能と思える地にも平和をもたらすのです。
だから、平和が消え入ってしまいそうに思え、希望がその光すら見えないように思える時でも、今こそ神の平和のために祈り、神の平和のために生きましょう。
私達の平和をつくり出す真の戦いは、「血肉に対するものではな(エペソ6:12)」いのですから。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【マタイ26:51ー54】
26:51 すると、イエスと一緒にいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、そして大祭司の僕に切りかかって、その片耳を切り落した。
26:52 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。
26:53 それとも、わたしが父に願って、天の使たちを十二軍団以上も、今つかわしていただくことができないと、あなたは思うのか。
26:54 しかし、それでは、こうならねばならないと書いてある聖書の言葉は、どうして成就されようか」。

【コロサイ1:19ー22】
1:19 神は、御旨によって、御子のうちにすべての満ちみちた徳を宿らせ、
1:20 そして、その十字架の血によって平和をつくり、万物、すなわち、地にあるもの、天にあるものを、ことごとく、彼によってご自分と和解させて下さったのである。
1:21 あなたがたも、かつては悪い行いをして神から離れ、心の中で神に敵対していた。
1:22 しかし今では、御子はその肉のからだにより、その死をとおして、あなたがたを神と和解させ、あなたがたを聖なる、傷のない、責められるところのない者として、みまえに立たせて下さったのである。

【2コリント5:18ー21】
5:18 しかし、すべてこれらの事は、神から出ている。神はキリストによって、わたしたちをご自分に和解させ、かつ和解の務をわたしたちに授けて下さった。
5:19 すなわち、神はキリストにおいて世をご自分に和解させ、その罪過の責任をこれに負わせることをしないで、わたしたちに和解の福音をゆだねられたのである。
5:20 神がわたしたちをとおして勧めをなさるのであるから、わたしたちはキリストの使者なのである。そこで、キリストに代って願う、神の和解を受けなさい。
5:21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

【使徒行伝7:54-8:1】
7:54 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。
7:55 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。
7:56 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、
7:58 彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。
7:59 こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。
7:60 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。
8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。

【エペソ6:10-12】
6:10 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
6:11 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
6:12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。

平和を祈る

2015年08月15日 10:36

フランシスコの平和の祈り

主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、
争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りがあるところに真理を、
絶望があるところに希望を、
闇あるところに光を、
悲しみあるところに喜びを。
ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
理解されるよりも理解する者に、
愛されるよりも愛する者に。
それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
許すことによって赦され、
自分のからだをささげて死ぬことによって
とこしえの命を得ることができるからです。

滅び行く国のために

2015年07月30日 20:54

【ヨナ4:1-11】
4:1 ところがヨナはこれを非常に不快として、激しく怒り、
4:2 主に祈って言った、「主よ、わたしがなお国におりました時、この事を申したではありませんか。それでこそわたしは、急いでタルシシにのがれようとしたのです。なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。
4:3 それで主よ、どうぞ今わたしの命をとってください。わたしにとっては、生きるよりも死ぬ方がましだからです」。
4:4 主は言われた、「あなたの怒るのは、よいことであろうか」。
4:5 そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。
4:6 時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
4:7 ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。
4:8 やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。
4:9 しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。
4:10 主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
4:11 ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。

私達のこの国が幾度もの宣教の機会を与えられながら、福音を受け入れなかったことは、主の宣教への思いを少しでも持つ者であれば誰でも深く悲しむべきことでしょう。
確かに長きに渡り語りかけて来た言葉は、今は都合良く文化や思想、宗教というカテゴライズの中ではうまく収まりを得ていますが、主イエスを信じるという面において、拒絶されたまま幾世紀の時間が流れました。
ですから、この福音を拒絶する厚い壁の前に、この国にリバイバルなど起きないとあきらめてしまう兄弟姉妹がいる、その気持ちも人の目においてはわからないではありません。
現にそのようなことは夢物語で、健全な信仰や教会生活を騒がせる無益な言葉のように語られることも決して少ないことではありませんし、この国のリバイバルを確信している人は本当に少なくなっていることでしょう。
やがて教会というコミュニティーが充実することや、自分達の生活の安定、その上での信仰を守って行く生活と言ったことが教会の主な目的となり、健やかな信仰生活ばかりを求めるあまり、神の深い思いがどこにあるのか、教会の真の目的を忘れた姿が現在の標準的な教会なのかも知れません。
そして、遠くから滅び行くこの国を自らの満足を望んで眺めている。
とうごまの日陰の中に座るヨナの姿を今日の日本の教会の姿に重ね、主は私達に今語りかけておられます。

ヨナが遣わされた当時のニネベは、やがてまもなく北イスラエル王国を滅ぼさんとするアッスリアの首都であり、アッスリアは人の罪の残虐性を如実に現した、想像を絶する拷問や虐殺を行う国でした。
ですから、ヨナはニネベに行くことを拒んだのです。
イスラエルの最も脅威であるアッスリアの首都に、なぜ滅びから立ち返り神の前に悔い改めることを語らなければならないのか。
彼はその結果を知っていました。(1-3節)
「なぜなら、わたしはあなたが恵み深い神、あわれみあり、怒ることおそく、いつくしみ豊かで、災を思いかえされることを、知っていたからです。(3節)」
ニネベが神の前に立ち返り悔い改めるなら、いかに罪深きニネベでも主は滅びを止められることを知っていた。
いや主がヨナに語れと言われた時、ニネベが立ち返ること自体が神の計画にあることを、ヨナは知っていたのでしょう。
しかし主の思いはさらに遙かに深いものでした。
「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか(10,11節)」
主のこの思いは滅び行くニネベを惜しみあわれむ神の断腸の思いです。
主が裁きを下される時、神は本来なら愛し愛されるべき人間を、自らの手で断腸の悲しみの中に滅ぼすのです。
だからこそ、主の真の思いはいつも「あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。[中略]あなたはどうして死んでよかろうか。(エゼキエル33:11)」なのです。

【列王記下14:23-27】
14:23 ユダの王ヨアシの子アマジヤの第十五年に、イスラエルの王ヨアシの子ヤラべアムがサマリヤで王となって四十一年の間、世を治めた。
14:24 彼は主の目の前に悪を行い、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤラベアムの罪を離れなかった。
14:25 彼はハマテの入口からアラバの海まで、イスラエルの領域を回復した。イスラエルの神、主がガテヘペルのアミッタイの子である、そのしもべ預言者ヨナによって言われた言葉のとおりである。
14:26 主はイスラエルの悩みの非常に激しいのを見られた。そこにはつながれた者も、自由な者もいなくなり、またイスラエルを助ける者もいなかった。
14:27 しかし主はイスラエルの名を天が下から消し去ろうとは言われなかった。そして彼らをヨアシの子ヤラベアムの手によって救われた。

ヨナの思いを知る神はイスラエルを、悪い王であるヤロブアム(2世)の悪のゆえに滅ぼすのではなく、このヤロブアムをもってさえもアッスリアの支配から多くの地を取り返し(列王記下14:25)、実にここに語られた領土はソロモンの時代の広大な領土に匹敵する大きさにまでイスラエルの地を回復したのです。
そして「イスラエルの神、主がガテヘペルのアミッタイの子である、そのしもべ預言者ヨナによって言われた言葉のとおりである。(列王記下14:25)」と、主がヨナの語った言葉に満足されたことを聖書は静かに語るのです。

この国が如何に罪深く、主を退け、福音を語る者や、社会において自らの信仰を表明する者を如何に迫害してきたとしても、主はこの国が滅びることを今まさに惜しんでおられるのです。
そして私達の思いも、また私達が主の御言葉に従い宣教を続けてきたことも充分承知されています。
リバイバルを祈り続け、疲れ果てて、やがて今のような日本の教会の姿となったことも。
だからこそ、今私達が私達の事情や思いの全てを置いて、再び主の御心に答えることを主は望んでおられるのです。
この国はおよそここ5年程前から全ての現実が激変してきています。
それは私達がそれまで過ごしてきた平和な時代とは異なる、私達(この国)が罪を重ね続けてきた、誤った選択の数々がゆえに滅びを迎える直前にまで来ているということを現す現実です。
また神を退けて掛け違え続け、重ね続けた罪の結果、この国はこれからおよそ5年程以降で次々に解決できない問題が襲い、人の力では何一つ解決する見込みが立たず、滅びを迎えることは夢物語ではなく、人間的に容易に予測できる現実となっているのです。
それでも私達はこの現実に目を背け、神にとりなしを祈ることを忘れ続けるでしょうか。
私達の平和な毎日だけを、神の断腸の思いを退け、求め続けるでしょうか。
私達のために実に十字架にかかり、命を与えるほどに愛した主イエスの愛が、滅び行くこの国の一人一人の魂を求め、「わたしは、かわく(ヨハネ19:28)」と十字架の上で言われたように、今も渇き続けておられることを、なおも私達は無視できるでしょうか。
いいえ、主に救われ主の愛を知った私達が、どうして主を愛さないでいられましょう。
この方が渇くのに私達が渇かないでいられましょう。
この方にしか救いがないのに、どうしてこの滅び行く国のために、主の名を呼ばないでいられましょうか。
主の名を呼ぶなら、主は必ず答えられ、ご自身を求める者に必ず主はご自身を現され、そこに臨まれる(ご臨在される)のです。
ならばこの国に主が臨むようにどうして主の名を呼ばないでいられましょうか。「すべて主の名を呼ぶ者は救われる(ヨエル2:32)」のです。
主が臨まれる時、人々は初めて主の霊により罪が刺され、悔い改め、やがてその悔い改めが波となって地を覆うようになるのです。(ルカ24:47)
そして悔い改めた民を、その地を、主は癒され、祝福を回復して下さるのです。(申命記30:1ー10)
人が重ねた掛け違いを主はこのように、主が臨むことでしかできない方法で回復してくださるのです。
これこそがリバイバルです。
もはや人の力が如何に無力でその知恵が如何に愚かであったかが露わにされた今、主のリバイバルを、主の名を呼ぶことをどうして無意味ということができましょうか。
今こそ主の名を呼び、この国のために救いを求める時ではないでしょうか。
さあ、共にこの国のリバイバルのために心から祈りましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヨエル2:28-32】
2:28 その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。
2:29 その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。
2:30 わたしはまた、天と地とにしるしを示す。すなわち血と、火と、煙の柱とがあるであろう。
2:31 主の大いなる恐るべき日が来る前に、日は暗く、月は血に変る。
2:32 すべて主の名を呼ぶ者は救われる。

【ルカ24:45-49】
24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて
24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。
24:47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。
24:48 あなたがたは、これらの事の証人である。
24:49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。

【申命記30:1ー10】
30:1 わたしがあなたがたの前に述べたこのもろもろの祝福と、のろいの事があなたに臨み、あなたがあなたの神、主に追いやられたもろもろの国民のなかでこの事を心に考えて、
30:2 あなたもあなたの子供も共にあなたの神、主に立ち帰り、わたしが、きょう、命じるすべてのことにおいて、心をつくし、精神をつくして、主の声に聞き従うならば、
30:3 あなたの神、主はあなたを再び栄えさせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主はあなたを散らされた国々から再び集められるであろう。
30:4 たといあなたが天のはてに追いやられても、あなたの神、主はそこからあなたを集め、そこからあなたを連れ帰られるであろう。
30:5 あなたの神、主はあなたの先祖が所有した地にあなたを帰らせ、あなたはそれを所有するに至るであろう。主はまたあなたを栄えさせ、数を増して先祖たちよりも多くされるであろう。
30:6 そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう。
30:7 あなたの神、主はまた、あなたを迫害する敵と、あなたを憎む者とに、このもろもろののろいをこうむらせられるであろう。
30:8 しかし、あなたは再び主の声に聞き従い、わたしが、きょう、あなたに命じるすべての戒めを守るであろう。
30:9 そうすればあなたの神、主はあなたのするすべてのことと、あなたの身から生れる者と、家畜の産むものと、地に産する物を豊かに与えて、あなたを栄えさせられるであろう。すなわち主はあなたの先祖たちを喜ばれたように再びあなたを喜んで、あなたを栄えさせられるであろう。
30:10 これはあなたが、あなたの神、主の声に聞きしたがい、この律法の書にしるされた戒めと定めとを守り、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に帰するからである。

信仰の覚悟

2015年07月17日 19:02

【ダニエル3:14-27】
3:14 ネブカデネザルは彼らに言った、「シャデラク、メシャク、アベデネゴよ、あなたがたがわが神々に仕えず、またわたしの立てた金の像を拝まないとは、ほんとうなのか。
3:15 あなたがたがもし、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞くときにひれ伏して、わたしが立てた像を、ただちに拝むならば、それでよろしい。しかし、拝むことをしないならば、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。いったい、どの神が、わたしの手からあなたがたを救うことができようか」。
3:16 シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。
3:17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。
3:18 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。
3:19 そこでネブカデネザルは怒りに満ち、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴにむかって、顔色を変え、炉を平常よりも七倍熱くせよと命じた。
3:20 またその軍勢の中の力の強い人々を呼んで、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴを縛って、彼らを火の燃える炉の中に投げ込めと命じた。
3:21 そこでこの人々は、外套、下着、帽子、その他の衣服のまま縛られて、火の燃える炉の中に投げ込まれた。
3:22 王の命令はきびしく、かつ炉は、はなはだしく熱していたので、シャデラク、メシャクおよびアベデネゴを引きつれていった人々は、その火炎に焼き殺された。
3:23 シャデラク、メシャク、アベデネゴの三人は縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ。
3:24 その時、ネブカデネザル王は驚いて急ぎ立ちあがり、大臣たちに言った、「われわれはあの三人を縛って、火の中に投げ入れたではないか」。彼らは王に答えて言った、「王よ、そのとおりです」。
3:25 王は答えて言った、「しかし、わたしの見るのに四人の者がなわめなしに、火の中を歩いているが、なんの害をも受けていない。その第四の者の様子は神の子のようだ」。
3:26 そこでネブカデネザルは、その火の燃える炉の入口に近寄って、「いと高き神のしもべシャデラク、メシャク、アベデネゴよ、出てきなさい」と言ったので、シャデラク、メシャク、アベデネゴはその火の中から出てきた。
3:27 総督、長官、知事および王の大臣たちも集まってきて、この人々を見たが、火は彼らの身にはなんの力もなく、その頭の毛は焼けず、その外套はそこなわれず、火のにおいもこれに付かなかった。

信仰というものは、自分を取り巻く環境や状況がどのような時であっても変えるようなものではありません。
信仰は永遠の神に対するものであり、誰にどのように思われるか、誰がどのように見ているかなどということには一切関わりません。
なぜなら、私達の恐れるべきはこの永遠の神であり、いかなる人もいかなる被造物もこの神に対して敵対し滅びずにいられるものは存在しないからです。
そして、この神が全てのことを見ておられ、私達の心の内さえもその全てを知り、私達が何を語り、何をしたかを、全て見ておられ、それをもって神は私達を裁かれるからです。
私達はこの裁きにおいて、神の御子の命の代価をもって贖われ、永遠の滅びから永遠の命へと移されました。
ですからこの信仰なしに私達が永遠の命を得ることはないし、だからこそ私達は信仰を否定することができないのです。
この神の御子主イエスキリストを救い主として受け入れた者であり、その愛を受け取り、その永遠の命によって今生きている私達が、どうして他者の目を気にし、社会や常識に捕らわれて、神でないもの、ひざをかがめるべきではないものを拝み崇めるようなことができるでしょうか。どうしてそのようなことがあってよいでしょうか。
シャデラク、メシャク、アベデネゴが経験したことは、決して他人事ではありません。
彼らはその国の王が出した命令により、窮地に陥りました。
このネブカデネザル王はダニエル書のこの前の章(2章)で、ダニエルから自分の見た夢の解き明かしと言う形で神からの預言を受けました。
それは全世界の長い歴史に関するもので、終わりの時代に至るまでの壮大な神の計画の全てです。
そしてその趣旨は「それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです。(ダニエル2:44)」とあるように、全ての歴史を貫いて全世界、全地の主権者は主であり、この方が全世界を統べ治める。その統治は終わりの時に完成するというものです。
この世界の歴史の中に登場する大国(バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、現代)の姿を表した金、銀、青銅、鉄、粘土でできた一つの大きな像の夢とその解き明かしを、ダニエルから神の預言として聞いて、なおネブカデネザル王は主権者である神に逆らい、自らが全歴史において世界全土の支配者になろうと、金の頭に象徴されたバビロンの統治が全身(全歴史)に及ぶようにと全身が金でできた像を作らせ、それを全国民に拝ませました。
これが全ての発端です。
そしてその命令通りに全土の人々がこの像を拝みましたが、永遠の主権者である永遠の神を信じるシャデラク、メシャク、アベデネゴはこの金の像を拝まず、神だけを信じ神だけを崇めました。
それは神がこの窮地から救い出してくれることを確信していましたが、
「たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません(ダニエル3:18)」というものでした。
命を失うことになろうと、神への信仰を曲げることはないという告白です。
このことによって彼らは燃えさかる炉の中の火(ハデスの火を象徴する炎)の中に、さらにその火を七倍にした火(ゲヘナの火を象徴する炎)の中に投げ入れられたのです。
しかし、そこに待っていたのは後の日にこの地に来られる主イエス(「その第四の者の様子は神の子のようだ」ダニエル3:25)であり、この火の中から救い出されてなお無傷であるという驚くべき奇跡なのです。

【1コリント3:10-15】
3:10 神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。
3:11 なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。
3:12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、
3:13 それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。
3:14 もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、
3:15 その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。

それは主が再臨される時かの日は火の中に現れ、この火の精錬の中で主から報いを受けるように、彼らはその報いを先行して(先駆けて)このような形で受け取る者となりました。
主をそこまで喜ばせ満足させたのは、「たといそうでなくても(ダニエル3:18)」と主に命をささげた彼らの信仰でした。

私達が信仰者である以上、私達が社会(この世)に一歩出れば、私達の信じる神を憎み敵対する者達(ヨハネ15:18,19、マタイ10:34-40)の私達への試練は免れません。
私達の信仰を守るために全てを失う覚悟、命すらささげる覚悟が必要となる時もあるかも知れません。
また先の時代には戦時下において、唯一この聖書の神、主イエスキリストのみを神として信じる信仰を守るため、命を失った人達はたくさん居ました。
さらに遡れば長い歴史において、この国は多くの信仰者の命の犠牲を、その信仰を貫くために必要とした国です。
時代が変わろうとも、自分を取り巻く環境や状況が変わろうとも、主は私達をその逆境から救い出して下さる神です。しかしたといそうでなくても、私達は命を捨てても、信仰を捨ててはならないのです。一度与えられた永遠の命を捨ててはならないのです。

【ルカ9:23-27】
9:23 「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
9:24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。
9:25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。
9:26 わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。
9:27 よく聞いておくがよい、神の国を見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。

私達は今の恵みの時に、信仰を持ち続けるのに、さして意識をしていなかったかもしれません。それはたとえ、この世と妥協する生き方であったとしても、それを問われ考える必要がないほど平和であったかも知れません。
しかし、聖書は終わりの近づく時こそ、殉教か棄教(背教)かを迫られることを明確に語って(マタイ24:4-14)います。
私達の信仰が試される(マタイ13:18,20,21、1ペテロ1:3-7)時が日一日と確実に近づいています。
今一度信仰について真剣に見つめ覚悟を新たにするために、共に自らを省みまた共に祈ろうではありませんか。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヨハネ15:18,19】
15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。

【マタイ10:32-40】
10:32 だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。
10:33 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。
10:34 地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。
10:35 わたしがきたのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をそのしゅうとめと仲たがいさせるためである。
10:36 そして家の者が、その人の敵となるであろう。
10:37 わたしよりも父または母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
10:38 また自分の十字架をとってわたしに従ってこない者はわたしにふさわしくない。
10:39 自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。
10:40 あなたがたを受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。わたしを受けいれる者は、わたしをおつかわしになったかたを受けいれるのである。

【マタイ24:4-14】
24:4 そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。
24:6 また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
24:7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。
24:8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
24:9 そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。
24:10 そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。
24:11 また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。
24:12 また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
24:14 そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。

【マタイ13:18,20,21】
13:18 そこで、種まきの譬を聞きなさい。
 [中略]
13:20 石地にまかれたものというのは、御言を聞くと、すぐに喜んで受ける人のことである。
13:21 その中に根がないので、しばらく続くだけであって、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。

【1ペテロ1:3-7】
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、
1:4 あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。
1:5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。
1:6 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。
1:7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。

栄光の王が来られる

2015年07月10日 21:06

【詩篇24:7-10】
24:7 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
24:8 栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。
24:9 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
24:10 この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。[セラ

まさにこの御言葉は主イエスが再びこの地に来られる再臨の時に成就します。
主は「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう(使徒1:11)」と告げられているように再びこの地に来られます。
またいにしえより預言されているように「その日には彼の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ(ゼカリヤ14:4)」のです。
その時栄光に輝く王は私達全ての聖徒達(口語訳では聖者)と共に(ゼカリヤ14:4)天から地に来られます。
そして主は、この詩篇にあるように、栄光の王としてエルサレムにお入りになられます。
それは「主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる。(ゼカリヤ14:9)」とあるように、全地の王となり全世界を統べ治められるために来られるのです。
初臨(最初に主イエスが十字架にご自身をささげるためこの地上に来られた時)のキリストが、エルサレムに救い主として入城された時でさえ、人々は人の子として来られた方を喜びと賛美と叫びをもって迎えました。(ルカ12:12ー19)
ならば、この地を平安の内に治める王として栄光の内に天から来られる方は、どのような栄光の輝きをもって、エルサレムに入られることでしょう。
ああ、何と言う栄光でしょうか。

またそのとき主の聖徒達も、「また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。[中略]彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。(黙示録20:4)」とあるように、つまり私達クリスチャンもよみがえりの栄光の体を持って、さばきの権が与えられ、その座に着き、主と共に全地を統べ治めます。
その時私達も主の栄光を受けて、栄光に輝いて、(1コリント15:40,41,49)主と共に座に着くのです。
ああ、何という驚くべき光栄でしょうか。

この時、神が私達人に定められた、「神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。(創世記1:28)」の言葉がここに完全に成就するのです。

まさにこのことのために、主イエスは王として再臨されるのです。
このことを思うとき、誰でも主を愛する者はその麗しき姿と完全なる統治をみたいと、心震えるのではないでしょうか。
一日も一刻も早くこの栄光の王にお会いしたいと、日々切に願い、それを思うのであればこの地の如何なることも、その日を来たらしめんためと、うめきながらも喜びのうちに、主にまた仕えて行くことでしょう。
実に被造物もこの日を切に望んでいます。

【ローマ8:18-25】
8:18 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
8:22 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
8:23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
8:24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
8:25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

どうして、これを興奮せずに思い描くことができましょうか。
全地のすべてのものはこの日を待ち望んでいるのです。
主により特別に選ばれた私達が、どうして冷めたままでいられましょうか。

この思いは人の心から出て来るものでは決してありません。
知性で理解しようとするのであれば、むしろ難解な奥義であり、神の霊によらなければ決して知ることのできない、(ヨハネ16:12-14)深遠な神の思い、しかしこれを霊において素直に受け取る者にはその喜びが内側から溢れ、主を待ち望みこい焦がれて身を焼き尽くすかのような熱情が燃え上がるようなものなのです。
そう、この聖霊こそ私達の内に先駆けて来られた栄光の王(詩篇24:7)、そしてそれは私達が救われた時から私達の内にこうして来られたのです。
いや、主が再びこの地に来られる日まで、私達が主を待ち望み続ける限り、主は私達の内に栄光の王として来られ続けるのです。
世においては私達の歩む道には悩みがあり(ヨハネ16:12-14)、ともすれば恐れに心覆われそうになり、また絶望という偽りに敗北者のように沈んでしまっても、主を呼び主を待ち望む時、すでに勝利を十字架の死とよみがえりにより完成された栄光の王は、私達の中に来られ続け、今日もあなたの内に勝利の凱旋をされるのです。
だから、何もできない自分から目を離し、ひれ伏して、この栄光の王を呼び求めましょう。
この日々の待ち望みこそ、主を待ち望む祈り、主が来られる日を一日も早く来たらしめるために、全ての聖徒達に与えられた、信仰の基礎となる祈りなのです。
再臨の主を待ち望むこと、それは私達教会に与えられた基本となる信仰の一つなのです。
さあ、だからいつ如何なる時も主を呼び求めましょう。

【黙示録22:17,20】
22:17 御霊も花嫁も共に言った、「きたりませ」。また、聞く者も「きたりませ」と言いなさい。
 [中略]
22:20 これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ゼカリヤ14:3ー11】
14:3 その時、主は出てきて、いくさの日にみずから戦われる時のように、それらの国びとと戦われる。
14:4 その日には彼の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ。そしてオリブ山は、非常に広い一つの谷によって、東から西に二つに裂け、その山の半ばは北に、半ばは南に移り、
14:5 わが山の谷はふさがれる。裂けた山の谷が、そのかたわらに接触するからである。そして、あなたがたはユダの王ウジヤの世に、地震を避けて逃げたように逃げる。こうして、あなたがたの神、主はこられる、もろもろの聖者と共にこられる。
14:6 その日には、寒さも霜もない。
14:7 そこには長い連続した日がある(主はこれを知られる)。これには昼もなく、夜もない。夕暮になっても、光があるからである。
14:8 その日には、生ける水がエルサレムから流れ出て、その半ばは東の海に、その半ばは西の海に流れ、夏も冬もやむことがない。
14:9 主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる。
14:10 全地はゲバからエルサレムの南リンモンまで、平地のように変る。しかしエルサレムは高くなって、そのもとの所にとどまり、ベニヤミンの門から、先にあった門の所に及び、隅の門に至り、ハナネルのやぐらから、王の酒ぶねにまで及ぶ。
14:11 その中には人が住み、もはやのろいはなく、エルサレムは安らかに立つ。

【ルカ12:12ー19】
12:12 その翌日、祭にきていた大ぜいの群衆は、イエスがエルサレムにこられると聞いて、
12:13 しゅろの枝を手にとり、迎えに出て行った。そして叫んだ、「ホサナ、主の御名によってきたる者に祝福あれ、イスラエルの王に」。
12:14 イエスは、ろばの子を見つけて、その上に乗られた。それは
12:15 「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、あなたの王がろばの子に乗っておいでになる」と書いてあるとおりであった。
12:16 弟子たちは初めにはこのことを悟らなかったが、イエスが栄光を受けられた時に、このことがイエスについて書かれてあり、またそのとおりに、人々がイエスに対してしたのだということを、思い起した。
12:17 また、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたとき、イエスと一緒にいた群衆が、そのあかしをした。
12:18 群衆がイエスを迎えに出たのは、イエスがこのようなしるしを行われたことを、聞いていたからである。
12:19 そこで、パリサイ人たちは互に言った、「何をしてもむだだった。世をあげて彼のあとを追って行ったではないか」。

【1コリント15:35-49】
15:35 しかし、ある人は言うだろう。「どんなふうにして、死人がよみがえるのか。どんなからだをして来るのか」。
15:36 おろかな人である。あなたのまくものは、死ななければ、生かされないではないか。
15:37 また、あなたのまくのは、やがて成るべきからだをまくのではない。麦であっても、ほかの種であっても、ただの種粒にすぎない。
15:38 ところが、神はみこころのままに、これにからだを与え、その一つ一つの種にそれぞれのからだをお与えになる。
15:39 すべての肉が、同じ肉なのではない。人の肉があり、獣の肉があり、鳥の肉があり、魚の肉がある。
15:40 天に属するからだもあれば、地に属するからだもある。天に属するものの栄光は、地に属するものの栄光と違っている。
15:41 日の栄光があり、月の栄光があり、星の栄光がある。また、この星とあの星との間に、栄光の差がある。
15:42 死人の復活も、また同様である。朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえり、
15:43 卑しいものでまかれ、栄光あるものによみがえり、弱いものでまかれ、強いものによみがえり、
15:44 肉のからだでまかれ、霊のからだによみがえるのである。肉のからだがあるのだから、霊のからだもあるわけである。
15:45 聖書に「最初の人アダムは生きたものとなった」と書いてあるとおりである。しかし最後のアダムは命を与える霊となった。
15:46 最初にあったのは、霊のものではなく肉のものであって、その後に霊のものが来るのである。
15:47 第一の人は地から出て土に属し、第二の人は天から来る。
15:48 この土に属する人に、土に属している人々は等しく、この天に属する人に、天に属している人々は等しいのである。
15:49 すなわち、わたしたちは、土に属している形をとっているのと同様に、また天に属している形をとるであろう。

【ヨハネ16:12-14】
16:12 わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。
16:13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
16:14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。

【ヨハネ16:33】
16:33 あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

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