記事のアーカイブ

主が立ち上がられる?

2016年04月26日 20:38
【出エジプト40:36-38】 40:36 雲が幕屋の上からのぼる時、イスラエルの人々は道に進んだ。彼らはその旅路において常にそうした。 40:37 しかし、雲がのぼらない時は、そののぼる日まで道に進まなかった。 40:38...

神の知恵を得よ

2016年04月24日 20:19
聖書箇所: ヨハネ5:39ー44 もしも私達が主の御言葉である聖書をそのまま私達の常識や理解の範囲だけでつまり私達の知性によって知ろうとし、あるいはそのような方法で御言葉を知っているというのであれば、それは神の御言葉を表層で撫でているようにしか理解しないで満足していることと同じでしょう。 しかし、主は主ご自身を愛し、主を知ることに渇き求める者にご自身を現したいと、私達にさらに親しく臨み、また私達にさらに主に近づくよう望まれます。 かつてイスラエルの教師であったニコデモに、「これぐらいのことがわからないのか。【ヨハネ3:10】」と語られ、人の知性による理解が神の与えようと望まれておられるこ

渇き潤す命の川

2016年04月17日 20:17
聖書箇所: エゼキエル47:3-10 神は天地創造の始めから、人につまり私達に万物を与えてくださいました。 それは神の愛と豊かさを存分に謳歌し、またその喜びを愛を神への賛美にささげ、神と共に全地を統べ治めるために与えられたものでした。 しかし、そこで人は神を退け、自らの目的、自らの満足のために、その欲望に全てのものを自らのものとしようとしてきました。 人はこの地の豊さ、つまり世が与える豊さのみを求め、神の無限の豊かさを退け神の愛を退けたのです。 同時にそのことは、神が私達と永遠に共に住まい、神の永遠の愛の中に一つとされて、幸いに住まうために主がくださった永遠の命を退けたこととなったのです

今日主を選べ

2016年04月10日 20:15
聖書箇所: ヨシュア24:14-18 主は今日私達に語りかけ、主を選ぶのかそれとも他の神々を選ぶのか、今日選べと迫られています。 他の神々とは、「貪欲は偶像礼拝【コロサイ3:5】」であるとある通り、私達が神を退けても、自らの満足、目的のために求めるものであり、それを携えたままでこの後の歩みを進み行くことはできないと言われるのです。 それは「肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない【1コリント15:50】」からに他なりません。 せっかく主により救われた者が、神よりも、世を愛し、世を頼りとして生きて、神の国に入ることがなければ、何の意味があるというので

よみがえりの信仰

2016年04月03日 20:13
聖書箇所: 1コリント15:12-19 私達は毎年復活祭において主の死とよみがえりを今一度見つめ、わが信仰として、心に思い直す時を持ちますが、しかしそれがただ形式だけ知識だけのものであるのであれば、それは何の意味もありません。 つまり、神に心向けることよりも世に心奪われ、人の常識の中に入れられる知識の積み重ねの上に、よみがえりを見るのであれば、それは決して人の教える(考え得る)復活を越えることはできないのです。 しかし、聖書はそれを「この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけ」の「すべての人の中で最もあわれむべき存在(1コリント15:19)」であると明確に語っています。

よみがえりの王

2016年03月27日 20:11
聖書箇所:コロサイ1:15-22 主はすべてのものを私達に与え、すべてのものを主と共に喜び、また主と共に統べ治めるという特別な特権を与えてくださいました。 それは最初に人がこの地に造られた時からの約束です。 でも私達にそれらのものが与えられていても、主を知らなければそれは何の意味もなしません。 天地万物を創造され、この方によって万物は保たれている、この方にために、この方によって、この方にあって造られ保たれているものを、つまりは全地の主権者であり、統べ治める真の王である方を知らなくては、これらのものがどれほど素晴らしくても何の意味もないのです。 【コロサイ1:15-22】 そして、この方と

永遠の罪のとりなし手

2016年03月20日 20:07
聖書箇所: ゼカリヤ12:10-14 主から離れ、主に逆らい、自らのために、自己目的のうちに、自己中心に生きる、私達の罪の性質は、その罪により人生の歩みを掛け違え、その積み重なる罪は、死へと滅びへと私達を導く。 積み重なる罪はもはや個人だけの問題ではなく、この地はこの国は神を退け、溢れる罪は問題を山積みに、さらに取り返しのつかない大きな罪を犯そうと、時代は進んでいます。 まさにこの国は滅びに向かう、その危険な選択を取り続ける時代の流れの中に私達は生きている。 主イエスはここに、ご自身をその命をささげてとりなす者として、十字架につけられました。 そのとりなしにより、私達は救いを得、今平安を

御国に築き上げられるまで

2016年03月13日 20:07
聖書箇所: 黙示録21:9-21 主は私達に目が開くよう、目を覚ますよう、目が見える、目が明るいようにと幾度も語られています。 ここで語られる目を開くとは、霊の目が開かれること、信仰によってのみ見ることのできる目が開くことです。 そしてそれはこの地上のことを見る目ではなく、神を見る目であり、天の御国を見る目を言います。 主は私達に想像を超える程の多くの恵みを与えてくださっていますが、この目が閉じているのであれば、私達はそれらを見ることもなく、何も知らずにこの人生を歩みやがて終えてしまうことでしょう。 多くの人々は地上の生活に心奪われ、この地の豊かさを願い、富の奴隷とされてしまいますが、神

復活の朝のために

2016年03月06日 20:10
聖書箇所: 歴代志14,15章 変わることの神の計画は、聖書の結論として語られている通り、結婚の奥義が成就すること。 花婿キリストと本来花嫁として造られた私達人間(教会)が、その愛によって一つとされることです。 ところが私達は主から離れ罪汚れの中に生きていたところから、どれほど大きな愛によって救われたのでしょう、しかし神から離れてまた世に戻り罪に戻り汚れに自らを染めようとする。 私達が主と一つとなるためには、主が聖であられるから、当然私達も聖でなければならないのに。 だからこそ、主は深い愛を以て私達を聖なるものとしようと、そのようなものとして生きるようにと今もなお惜しみなくその愛を私達に

天と地に立つ者のつとめ

2016年02月28日 20:21
聖書箇所: 黙示録10章 主は天と地の間に立たれます。 聖なる聖なる聖なる方をお入れする天と、罪汚れに満ち滅びと死が口を広げている地、この間に立たれます。 本来滅ぶべき地を、主はこの間に立ってとりなし、天から地にかけられた梯子となって十字架にかけられ、私達を救ってくださいました。 そのことによって、私達も主と同様に天に住まう者とされ、同時にそこから地に遣わされた者となりました。 つまり私達もこの天と地の間に立つ者とされたのです。 主がこの間に立ってとりなされたように、私達も主ご自身の御足の跡を辿りこの地をとりなす者とされました。 ですから、この地上の戦いに敗北者のように絶望することなく、
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