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主の御言葉に聞き従う

2014年12月02日 12:55

【出エジプト6:1】
6:1 主はモーセに言われた、「今、あなたは、わたしがパロに何をしようとしているかを見るであろう。

主が私達に用意されている計画は私達の思惑をはるかに超えて高いものです。
それは私達が目で見ていることをはるかに超えた、はるか高いところから見ておられるもの。
ただ自分の周辺の、さらに偏った視点でしか見ることのできない、現実と私達自身が思い込んでしまっていることとは全く別の真実。
時間を超え、地域を超え、あらゆる障害物を超え、また人の心の奥底までも、つまりは全てが主には見えているのであり、主の目に隠しおおせるものは存在しません。
その全てを知りうる方が全てを超えて建てられる計画は、ご自身が善であるからこそ、最善であるのです。
もちろん、私達を愛して止まない主の私達への計画はなおさらのことです。
ですが、これは主を信じる信仰によってのみ、信仰の目によってのみ見ることができるもの、人の目には目の前に起こることしか見ることができず、生来の人の性質はその目で見たものだけを信じることを常とするのです。
これが世の常識の世界。
ここで、主の語られることと、人の目で見た現実が正反対のように見えてきます。
さてここで私達は目で見ている現実と、主の御言葉とどちらを信じるべきでしょうか。どちらを基として行動するべきでしょうか。
今日の箇所は、神がモーセによってイスラエルの民をエジプトから助け出すという(出エジプト3:7-10)主の御言葉と、それを元にモーセがパロに語ったことが元でむしろイスラエルの民がさらなる苦しみに会うこととなったという現実(出エジプト5:15-21)とが正反対に現れた瞬間に神がモーセに語られた御言葉です。
このときイスラエルの民は神が語られた御言葉よりも現実を見て、神につぶやきました。
その民のつぶやきを聞いたモーセ達も、主に不信の言葉を吐く(出エジプト5:22,23)のです。
しかし、あわれみ深い神は、神のいかに大いなる方かをまだ知らない者にあわれみ深くあられ、今日の御言葉を語られました。
つまり、私達には神の計画の本当の大きさはわからないのです。それはのちになってわかることであり、今その全貌をわかるはずがないのです。
これが人の限界と無限の神のあわれみとが対面している場所であり、しかし神は人の限界を問うているのではなく、わからなくていいと語っておられるのです。
わからず、ただ主の御言葉を信じ主に従ってくることを望まれているのです。

【ヨハネ1:39】
1:39 イエスは彼らに言われた、「きてごらんなさい。そうしたらわかるだろう」。

いや、その計画の全てを知る必要は人にはないのです。
知らずとも主に従っていくのであればそこに主の計画の全てがあり、その全てが私達の目の前で成就するのを見ることができるのです。
ただそれだけなのです。主イエスの弟子達の全てがそのように主イエスの言葉に従い、主にただ従っていっただけで、救い主がこの地に成される全ての計画を目の当たりにし、またその計画自体に自分も参画するというあり得ない恵みにあずかれたように、私達にもただ主の御言葉に従い、ただ主に従って行くことのみが、主のご計画が成し遂げられることへの近道なのです。
神のご計画は私達の無意味な知恵や力や努力を必要としていません。神の御言葉を信じず対立することや、人の無知無力で神の計画を妨げる必要はないのです。
ただ主の御言葉があれば、それでいいのです。
それを私達が信じ、従えるかどうかだけなのです。

【ヘブル11:3】
11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

誰があなたへのこの後の神の奇跡を知っているでしょうか?
モーセもこの後エジプトに行われる十の神の奇跡をこのときは知る由もなかったのです。
誰があなたへの神の愛がどれほどに大きいかを知っているでしょうか。
イスラエルの民のこの後の歩みがどの国民にも与えられないような神の愛を一身に受け、その御腕に抱かれるように主の約束の地にまで導かれたのを、このときは知る由もなかったのです。
ただこのとき彼らにあったのは、神の御言葉だけだったのです。

ですから、うかがいます。
あなたは主の御言葉と、自分の目の前に広がる現実と、どちらを信じますか?どちらに従いますか?

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照下さい。

【出エジプト3:7-10】
3:7 主はまた言われた、「わたしは、エジプトにいるわたしの民の悩みを、つぶさに見、また追い使う者のゆえに彼らの叫ぶのを聞いた。わたしは彼らの苦しみを知っている。
3:8 わたしは下って、彼らをエジプトびとの手から救い出し、これをかの地から導き上って、良い広い地、乳と蜜の流れる地、すなわちカナンびと、ヘテびと、アモリびと、ペリジびと、ヒビびと、エブスびとのおる所に至らせようとしている。
3:9 いまイスラエルの人々の叫びがわたしに届いた。わたしはまたエジプトびとが彼らをしえたげる、そのしえたげを見た。
3:10 さあ、わたしは、あなたをパロにつかわして、わたしの民、イスラエルの人々をエジプトから導き出させよう」。

【出エジプト5:15-19】
5:15 そこで、イスラエルの人々のかしらたちはパロのところに行き、叫んで言った、「あなたはなぜ、しもべどもにこんなことをなさるのですか。
5:16 しもべどもは、わらを与えられず、しかも彼らはわたしたちに、『れんがは作れ』と言うのです。その上、しもべどもは打たれています。罪はあなたの民にあるのです」。
5:17 パロは言った、「あなたがたは、なまけ者だ、なまけ者だ。それだから、『行って、主に犠牲をささげさせよ』と言うのだ。
5:18 さあ、行って働きなさい。わらは与えないが、なおあなたがたは定めた数のれんがを納めなければならない」。
5:19 イスラエルの人々のかしらたちは、「れんがの日ごとの分を減らしてはならない」と言われたので、悪い事態になったことを知った。
5:20 彼らがパロを離れて出てきた時、彼らに会おうとして立っていたモーセとアロンに会ったので、
5:21 彼らに言った、「主があなたがたをごらんになって、さばかれますように。あなたがたは、わたしたちをパロとその家来たちにきらわせ、つるぎを彼らの手に渡して、殺させようとしておられるのです」。

【出エジプト5:22,23】
5:22 モーセは主のもとに帰って言った、「主よ、あなたは、なぜこの民をひどい目にあわされるのですか。なんのためにわたしをつかわされたのですか。
5:23 わたしがパロのもとに行って、あなたの名によって語ってからこのかた、彼はこの民をひどい目にあわせるばかりです。また、あなたは、すこしもあなたの民を救おうとなさいません」。

【出エジプト6:1-8】
6:1 主はモーセに言われた、「今、あなたは、わたしがパロに何をしようとしているかを見るであろう。すなわちパロは強い手にしいられて、彼らを去らせるであろう。否、彼は強い手にしいられて、彼らを国から追い出すであろう」。
6:2 神はモーセに言われた、「わたしは主である。
6:3 わたしはアブラハム、イサク、ヤコブには全能の神として現れたが、主という名では、自分を彼らに知らせなかった。
6:4 わたしはまたカナンの地、すなわち彼らが寄留したその寄留の地を、彼らに与えるという契約を彼らと立てた。
6:5 わたしはまた、エジプトびとが奴隷としているイスラエルの人々のうめきを聞いて、わたしの契約を思い出した。
6:6 それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、あなたがたをあがなうであろう。
6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう。
6:8 わたしはアブラハム、イサク、ヤコブに与えると手を挙げて誓ったその地にあなたがたをはいらせ、それを所有として、与えるであろう。わたしは主である』と」。

選ばれた勇士達

2014年11月28日 12:30

【士師記】
8:4 ギデオンは自分に従っていた三百人と共にヨルダンに行ってこれを渡り、疲れながらもなお追撃したが、

ギデオンに最初から最後まで付き従ったのはこのたった三百人でした。
どれほど疲れても、どれほど過酷でも、最後まで神のために命懸けで付き従い戦ったのです。
それは神に選ばれ残った者であったからということができます。
もしもギデオンの元に集まった全ての者がこの戦いに参加していたとするなら、本当にその多くの者がこの追撃に命を捧げることができたでしょうか?
ギデオンの元に最初に集まったのは三万二千人(士師記7:3)でした。
そして、神はギデオンに「だれでも恐れおののく者は帰れ(士師記7:3)」と言わせて、実に二万二千人が帰ってしまったのです。
つまり、これだけの人間が始めから戦いの場面で容易に戦意を喪失し、ともすればその恐れから主の戦いを敗北に引きずり込んでしまうあるいは、あるいは戦いを途中で止めてしまう可能性のある者達だったのです。
次に神はギデオンに民を水ぎわに導かせ、その水を飲む様子から、戦いに出る民を選びました。
神は「すべて犬のなめるように舌をもって水をなめる者はそれを別にしておきなさい。またすべてひざを折り、かがんで水を飲む者もそうしなさい」(士師記7:5)とギデオンに語り、「そして手を口にあてて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみなひざを折り、かがんで水を飲んだ。(士師記7:6)」と三百人の勇士を選抜しました。
水を飲むときであっても、ひざをかがめずいつ戦いにあっても大丈夫なように、無防備にならずひざをかがめなかった者、神以外にひざをかがめない者を主は選ばれたと見るならば、まさしく彼らは精鋭部隊でした。
だからこそ、最後まで戦いを止めることなく、神のために気を抜くことなく戦い続けた。

【士師記】
8:10 さてゼバとザルムンナは軍勢おおよそ一万五千人を率いて、カルコルにいた。これは皆、東方の民の全軍のうち生き残ったもので、戦死した者は、つるぎを帯びているものが十二万人あった。
8:11 ギデオンはノバとヨグベハの東の隊商の道を上って、敵軍の油断しているところを撃った。
8:12 ゼバとザルムンナは逃げたが、ギデオンは追撃して、ミデアンのふたりの王ゼバとザルムンナを捕え、その軍勢をことごとく撃ち敗った。

結果ギデオンは人では決して成し得ない、
たった三百人でこれほどの大群に大勝利を得たのです。
この国を勝ち取るのに神は多くの人数を必要としていません。
神「に向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言(士師記7:2)」わせないために、神以外の何者にも恐れず、ひざをかかめず、常に神のために戦いに備える、この国が神に勝ち取られることをひざをかがめ常に祈り願い、戦う。
どれほど疲れても、どれほど過酷でも、最後まで神のために命懸けで付き従い戦い続ける信仰の勇者を主は求めています。
「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか(イザヤ6:8)」という、この国を救おうと主の切なる願いに、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください(イザヤ6:8)」と答える者は誰でしょうか。

さあ今、共に主の切なる想いに答えて、主の前にひざをかがめ祈りましょう。

※引用箇所です。ご参照いただくとメッセージがわかりやすくなります。
なお、さらに前後の章などに関連する重要なことも語られていますので、実際に聖書を開いてメッセージを読むことをお勧めします。

【士師記】
7:1 さてエルバアルと呼ばれるギデオンおよび彼と共にいたすべての民は朝早く起き、ハロデの泉のほとりに陣を取った。ミデアンびとの陣は彼らの北の方にあり、モレの丘に沿って谷の中にあった。
7:2 主はギデオンに言われた、「あなたと共におる民はあまりに多い。ゆえにわたしは彼らの手にミデアンびとをわたさない。おそらくイスラエルはわたしに向かってみずから誇り、『わたしは自身の手で自分を救ったのだ』と言うであろう。
7:3 それゆえ、民の耳に触れ示して、『だれでも恐れおののく者は帰れ』と言いなさい」。こうしてギデオンは彼らを試みたので、民のうち帰った者は二万二千人あり、残った者は一万人であった。
7:4 主はまたギデオンに言われた、「民はまだ多い。彼らを導いて水ぎわに下りなさい。わたしはそこで、あなたのために彼らを試みよう。わたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行くべきだ』と言う者は、あなたと共に行くべきである。またわたしがあなたに告げて『この人はあなたと共に行ってはならない』と言う者は、だれも行ってはならない」。
7:5 そこでギデオンが民を導いて水ぎわに下ると、主は彼に言われた、「すべて犬のなめるように舌をもって水をなめる者はそれを別にしておきなさい。またすべてひざを折り、かがんで水を飲む者もそうしなさい」。
7:6 そして手を口にあてて水をなめた者の数は三百人であった。残りの民はみなひざを折り、かがんで水を飲んだ。
7:7 主はギデオンに言われた、「わたしは水をなめた三百人の者をもって、あなたがたを救い、ミデアンびとをあなたの手にわたそう。残りの民はおのおのその家に帰らせなさい」。
7:8 そこで彼はかの三百人を留めおき、残りのイスラエルびとの手から、つぼとラッパを取り、民をおのおのその天幕に帰らせた。時にミデアンびとの陣は下の谷の中にあった。

【イザヤ】
6:8 わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。

悔い改めの恵み

2014年11月27日 09:29

【詩篇51:1,2】
51:1 神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
51:2 わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。

私達が自らの罪を悔い改めるとき、私達に言い訳や隠し事は一切必要ありません。
万事を見て、全てを知っておられる神の前に、私達はその心の内までも全て知られており、この方の前にそれらのものは無意味だからです。
自分の手で、力で、罪を何とかしようとすることも意味はありません。
人は罪を犯しそれを自分で何とかしようとすると、奉仕をしたり、信仰深いような行動を取ったり、何か良いことをしてその罪の埋め合わせをしようと、罪滅ぼしに何かをしようとしたり、罪を償おうとしますが、それは罪に対して何の意味もないのはいうまでもありません。
私達がこの罪を自分で何とかできたのであれば、主イエスの十字架は必要なかったわけです。
つまり、この罪の問題は、神のあわれみによってのみ、ゆるされ、きよめられるものなのです。
ですから、御言葉のように主のあわれみを、主に素直に願うしか私達にはどうしようもありません。

【詩篇51:3,4】
51:3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。

そして、そのためには私自身がどのような罪を犯したのかを知らなければなりません。
つまり罪の自覚のないところに罪の悔い改めは存在しないからです。
自分がどのような罪を犯したのかわかりやすい部分はそれを自覚することは容易いでしょう。

【詩篇51:5,6】
51:5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
51:6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。

しかし、その罪には表面に見える部分だけではなく、私達が生まれついて罪の性質を持つからこそ、その深い部分、自分の自覚していないところに、その罪を犯した原因が存在していたり、根源的な罪を取り除いてもらう必要があるのです。
それは私達自身にはそれを知り得る術がありません。
ただ主により罪を照らし教えていただく他はありません。

【詩篇51:7-10】
51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。
51:8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
51:9 み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
51:10 神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。

罪は私達の何らかの方法、ノウハウで、きよめられるものではありません。
主イエスの十字架の血潮により洗われる他、罪をきよめることはできません。
そして十字架につけられ主と共に死ぬことでしか、私達が新たに造られる方法はないのです。その肉にあって私達はキリストと共に死に、まただからキリスト共によみがえることでしか、私達が新しくなることはないのです。
そこに私達は新しい命(霊)を受けるのです。

つまり、私達は自分の罪を神の前に、四の五の言うのではなく、まず主イエスの十字架の前にひざまづき、主の光に一方的に照らし出されて罪を知り、その罪を心からその十字架のあわれみにあって、ただゆるしをこい願い、十字架の血により一方的にきよめられ、主の死とよみがえりにあって、その内から溢れ出す新たな命により全く新しくしていただく他はないのです。
その全てはこれでわかる通り、私達は十字架の前に出る他なく、全ては主イエスにより一方的に新たにされる他はないのです。
でないならば、私達は根底的に神に背き、神に敵する、生まれ持っての罪の性格から、救われることはなく、そのように根底的に命から新たにされなければ、その命の持つ性質から神を愛し、神に近づき神と一つとなり、神に喜ばれるものとならなければ、何一つ私達は新たにされることはなく、根底的な解決はないのです。

そのことにより私達は初めて、生きる目的、そして生き方から、神に立ち返ることができるのです。
この根底的に神に向いて人生ごと(命ごと、性質ごと)方向転換をすることが悔い改めです。

【詩篇51:11,12】
51:11 わたしをみ前から捨てないでください。あなたの聖なる霊をわたしから取らないでください。
51:12 あなたの救の喜びをわたしに返し、自由の霊をもって、わたしをささえてください。

悪いことをしたら、ごめんなさい。ありがとう。で全部帳消し。あとは何をして生きても、また罪を犯したら、どうせゆるしてもらえる。というものが悔い改めではありません。
もしそうであったら、あなた自身は何も変わる(方向転換する)ことなく罪を犯し続け、その結果罪を犯すことに麻痺して、その行く先は立ち返る方向を失い神から背を向け逆らい、折角の救いを無にするようなことになりかねないのです。
罪のゆるしは真剣に主に向き合い、主に立ち返る以外に道はなく、そうでなければ救いすら無意味なものとなるのです。

【詩篇51:13-15】
51:13 そうすればわたしは、とがを犯した者にあなたの道を教え、罪びとはあなたに帰ってくるでしょう。
51:14 神よ、わが救の神よ、血を流した罪からわたしを助け出してください。わたしの舌は声高らかにあなたの義を歌うでしょう。
51:15 主よ、わたしのくちびるを開いてください。わたしの口はあなたの誉をあらわすでしょう。

私達をこれほど根底的に新たにし、これほど大きな罪からのゆるしであるから、私達の真の悔い改めにおける喜びは大きく、だからこそこの恵みを人々に証しせざるを得ないのです。
その唇は主をほめたたえ、とどまることのない賛美と喜びは人々を神に立ち返らせるに充分な命の力を溢れさせるのです。
まさに真剣な悔い改めは、人々の心を刺し、自らの罪を自覚させて更なる悔い改めを生み、多くの人々が神に立ち返る結果をもたらすのです。

【詩篇51:16-19】
51:16 あなたはいけにえを好まれません。たといわたしが燔祭をささげてもあなたは喜ばれないでしょう。
51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。
51:18 あなたのみこころにしたがってシオンに恵みを施し、エルサレムの城壁を築きなおしてください。
51:19 その時あなたは義のいけにえと燔祭と、全き燔祭とを喜ばれるでしょう。その時あなたの祭壇に雄牛がささげられるでしょう。

私達の真の礼拝は、この十字架の前から始まります。
真に悔い改め、主のものとなり、主に自らをささげるまで、私達の心が砕かれるのでなければ、形式だけの礼拝が繰り返され、やがて人々は飽き飽きしながら義務としての礼拝をささげ、神にその見返りに恵みを求めるような、心のない礼拝をささげることとなるでしょう。
それを主は好まれるはずはありません。
イスラエルはそのような、形だけの礼拝を繰り返し、罪による死から救い、命を与える救いの君を十字架にかけ、自らの救いを遠ざけ、今なお離散しているのです。

今の私達はどうでしょうか?
その心は、その歩みは、そのささげる礼拝は主を喜ばせているでしょうか?
今真剣に主の十字架の前に出ましょう。
クリスチャンでありながら、救いを遠ざけてしまわないために。
主に与えられた新しい命にふさわしく、主を愛し、主を喜び、主を喜ばせて歩んでいくために。

共に祈り、主の十字架の前に出ましょう。

※今日の御言葉は

【詩篇51篇】
聖歌隊の指揮者によってうたわせたダビデの歌、これはダビデがバテセバに通った後預言者ナタンがきたときによんだもの

とあり、ダビデの本来ゆるされざる、姦淫、殺人等、さまざまな罪を犯したときに、真の悔い改めの内にゆるしを得た、私達に与えられた主イエスの十字架の贖いを先駆けて恵みとして受けた、罪の悔い改めの本質が表されている詩篇です。
「主が来られる日は近い。悔い改めよ。」と主から語られている今。この悔い改めの本質にもう一度立ち、私達自身が神に立ち返って、リバイバルの基として、悔い改めの波の中心に立つ必要があるのです。
どうか、今ひとたび真剣に御言葉に耳を傾けていきましょう。

悔い改めの波

2014年11月25日 12:10

【ゼパニヤ1:14-18】
1:14 主の大いなる日は近い、近づいて、すみやかに来る。主の日の声は耳にいたい。そこに、勇士もいたく叫ぶ。
1:15 その日は怒りの日、なやみと苦しみの日、荒れ、また滅びる日、暗く、薄暗い日、雲と黒雲の日、
1:16 ラッパとときの声の日、堅固な町と高いやぐらを攻める日である。
1:17 わたしは人々になやみを下して、盲人のように歩かせる。彼らが主に対して罪を犯したからである。彼らの血はちりのように流され、彼らの肉は糞土のように捨てられる。
1:18 彼らの銀も金も、主の怒りの日には彼らを救うことができない。全地は主のねたみの火にのまれる。主は地に住む人々をたちまち滅ぼし尽される。

主が語られるリバイバルという言葉を私達は誤解してはなりません。
リバイバルは主が来られるということと密接に関係しています。
主ご自身が来られるからこそ、主はご自身の民がご自身から心が離れていることを深く悲しまれます。

【ルカ18:8】
18:8 しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。

同時に主が私達に近づかれるということは罪のある者は、その聖なる方のあまりに聖であるために、生きていることができない。義である方の前に不義である者は裁かれ滅ぶ他はない(イザヤ6:1-5)のです。
だからこそ主は、人々が主に立ち返ることを望まれます。つまり、主が来られるということは、主に悔い改めて立ち返るということがなければ、ただ裁きと滅びの日となるということなのです。
だからこそ、主イエスが初臨のキリストとして来られる前、来たるべきメシヤが来られる前には、バプテスマのヨハネがその道備え(マタイ3:1-6)をするエリヤ(マラキ4:5,6、ルカ1:13-17)として、悔い改めを叫んだのです。
そして、彼が真っ先に叫んだのは神を知らない者達に対してではなく選びの民に対してであり、イスラエルに血筋を持つだけで選びの民となるのではなく、選びの民にふさわしい悔い改めの実を結ぶよう叫んだ(マタイ3:7-12)のです。
でなければ、選びの民であると思い込んで、しかし心は主から離れあるいは主に逆らっている者達を、主はまず全ての裁きに先立って裁かれる(1ペテロ4:17-19)のです。
リバイバル(信仰復興)という言葉に、多くのクリスチャンは、たくさんの人々が救われクリスチャンが増えるというイメージを先行させ、また主ご自身が来られる、その臨在の濃厚なる現れと、そこに注がれる大きな恵みを、求めがちです。
しかし、それはメシヤがイスラエルの国の復興のために来る(使徒行伝1:6)と、都合良く考え、自らと神との関係がどうであるのかということを全く見ていなかったこと、つまりバプテスマのヨハネがイスラエルの民に叫んだときと何ら変わりがないと言えるでしょう。
であるとするのであれば、選民イスラエルでさえ悔い改めの実を求められたのに、主イエスが自分のために十字架にかかられた、十字架の贖いを知る私達が、私達の心が主から離れ、信仰がなくなっていることを、主から問われないはずがないでしょう。

今日の御言葉は主が来られる日について語られています。それはイスラエルの民にも、ただの喜びの日ではなく、主にない者には裁きの日となるバプテスマのヨハネが語ったのと同じことが語られているのです。
だからこそ、そのとき私達に何が必要なのかをも続いて同様に語られている。

【ゼパニヤ2:1-3】
2:1 あなたがた、恥を知らぬ民よ、共につどい、集まれ。
2:2 すなわち、もみがらのように追いやられる前に、主の激しい怒りがまだあなたがたに臨まない前に、主の憤りの日がまだあなたがたに来ない前に。
2:3 すべて主の命令を行うこの地のへりくだる者よ、主を求めよ。正義を求めよ。謙遜を求めよ。そうすればあなたがたは主の怒りの日に、あるいは隠されることがあろう。

主は私達に幾度も語られてきました。
罪が満ちたこの国に神が来られる日は近いと。
そのとき、真っ先に裁かれるのはクリスチャンそして教会です。
主が来られるということは恵みと裁き、救いと滅びが同居しているのです。
それがリバイバルの中で行われていることです。
先行するのは神の家から始まる悔い改めの波なのです。

【ルカ24:46,47】
24:46 キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。
24:47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。

あなたは主の来られる日をどのように迎えられますか?裁きですか?恵みですか?
それは今のあなたの心が主から離れているかどうか、主に背を向けているかどうか、自分のためにのみ生きていないかどうか、主のために生きているかどうか、に関わっています。
あなたの心は主の前にどうですか?

主の前に共に心から悔い改めの時を持ちましょう。
心の表面ではなく、自分の人生をそのまま主にささげるまでの真剣な心の底からの悔い改めこそ、あなたの中から始まる主のリバイバルです。
そしてあなたから始まる真剣な悔い改めの波が人々を神に立ち返らせ、全地を神の元に立ち返らせるのです。

共に主の前にひざをかがめましょう。

※今日の引用箇所です。ご参照下さい。

【イザヤ6:1-5】
6:1 ウジヤ王の死んだ年、わたしは主が高くあげられたみくらに座し、その衣のすそが神殿に満ちているのを見た。
6:2 その上にセラピムが立ち、おのおの六つの翼をもっていた。その二つをもって顔をおおい、二つをもって足をおおい、二つをもって飛びかけり、
6:3 互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。
6:4 その呼ばわっている者の声によって敷居の基が震い動き、神殿の中に煙が満ちた。
6:5 その時わたしは言った、「わざわいなるかな、わたしは滅びるばかりだ。わたしは汚れたくちびるの者で、汚れたくちびるの民の中に住む者であるのに、わたしの目が万軍の主なる王を見たのだから」。

【マタイ3:1-6】
3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った、
3:2 「悔い改めよ、天国は近づいた」。
3:3 預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。
3:4 このヨハネは、らくだの毛ごろもを着物にし、腰に皮の帯をしめ、いなごと野蜜とを食物としていた。
3:5 すると、エルサレムとユダヤ全土とヨルダン附近一帯の人々が、ぞくぞくとヨハネのところに出てきて、
3:6 自分の罪を告白し、ヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けた。
3:7 ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。
3:8 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。
3:9 自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。
3:10 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。
3:11 わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。
3:12 また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。

【マラキ4:5,6】
4:5 見よ、主の大いなる恐るべき日が来る前に、わたしは預言者エリヤをあなたがたにつかわす。
4:6 彼は父の心をその子供たちに向けさせ、子供たちの心をその父に向けさせる。これはわたしが来て、のろいをもってこの国を撃つことのないようにするためである」。

【ルカ1:13-17】
1:13 そこで御使が彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。
1:14 彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。
1:15 彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、
1:16 そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。
1:17 彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。

【1ペテロ4:17-19】
4:17 さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。
4:18 また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。
4:19 だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。

【使徒行伝1:6-8】
1:6 さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。
1:7 彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。
1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

生き残る信仰者

2014年11月20日 12:51

【イザヤ37:32】
37:32 すなわち残る者はエルサレムから出、のがれる物はシオンの山から出る。万軍の主の熱心がこれをなし遂げられる。

最後まで主を信じ、主をよりどころとする者は、主がその者を守り、いかなる状況の中にあったとしても、神の御手、神の御国の内に生きる平安の内に、主が勝利を勝ち取られるのを見る者となります。
この御言葉は、ヒゼキヤの時代に主を最後までよりどころとしたユダに対して語られたものです。(イザヤ36,37章をご参照下さい。よりメッセージを理解しやすくなると思います。)
ユダに降伏を要求したアッスリヤは、生活を保証する代わりに、神を侮り、神への信仰を完全に否定し、アッスリヤの足の下にひれ伏すよう、ユダの全国民に叫んだのです。
この言葉は、ほとんどが異教の人々に囲まれたこの国で、クリスチャンとして信仰生活を送る、多くの兄弟姉妹が聞いたことがあるのではないでしょうか。
仕事場で、学校で、あるいは家族でさえ、
「主は必ずわれわれを救い出される。~と言っても、あなたがたは主を頼みとしてはならない。(イザヤ36:15)」「主がどうして~救い出すことができよう(イザヤ36:20)」と、「わたしと和解して、わたしに降服せよ。そうすれば~あなたがたは生きながらえることができ、死ぬことはない。(列王記下18:31,32)」と言って、神を捨て、信仰を捨てて、世の要求(常識)や自分の言うことを聞けと迫ってくる。
そうすればあなたは生活していけると、クリスチャンであること、信仰を持って生きることが間違いであるかのように、あたかも自分こそ正しいことを語っているかのように惑わしてくる。
残念ながら、それがどれほど身近な人、信頼している人、大切な人であったとしても、神を知らない人は、世の支配の中(エペソ2:1-3)にあり、世を支配するサタンの要求をあなたに迫ってしまうことがあるのです。
しかし、そこで信仰を妥協する前に、するべきことが私達にはあるのです。それはまず黙すること。
サタンに語りかけられたエバは、サタンの言葉に答え、偽りを心に植え付けられました。
ですから、このサタンからの要求と言うべきアッスリヤの要求に、まず「民は黙して、ひと言も彼に答えなかった(イザヤ36:21)」のです。

【イザヤ36:21】
36:21 しかし民は黙ってひと言も答えなかった。王が命じて、「彼に答えてはならない」と言っておいたからである。

そして、主にこのことを訴えた(イザヤ37:3,4,14-20)のです。
この祈りに主は全能の力をもって答えられました。
主はご自身に寄り頼む者を見捨てることは決してありません。

【詩篇18:2,3】
18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
18:3 わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。

私達の助けはいつ如何なる時も、主から来るのです。この方の他に私達を助け出す力のある方は居ません。
だからこそ、私達はその助けを呼ぶとき、主を見上げるのです。

【詩篇121:1-2】
121:1 わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。
121:2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。

主は高き山、天のシオンに居られ、そこから全能の主の助けがやって来る。
主は悩みの内にいる私達をご自身の御許に引き寄せ、その高き天の御国、御座の側(コロサイ3:1)にまで引き上げられるのです。

【詩篇27:5-8】
27:5 それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。
27:6 今わたしのこうべはわたしをめぐる敵の上に高くあげられる。それゆえ、わたしは主の幕屋で喜びの声をあげて、いけにえをささげ、歌って、主をほめたたえるであろう。
27:7 主よ、わたしが声をあげて呼ばわるとき、聞いて、わたしをあわれみ、わたしに答えてください。
27:8 あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。

悩み、苦しみ、逆境のとき、人の言葉に惑わされ、偽りを受け取って、妥協することにより信仰を失うことは簡単なことです。
しかしそこに決して祝福はありません。
信仰は妥協することによって簡単に失われますが、信仰を失うことはクリスチャンとして命を失うことなのです。
ヒゼキヤはこのアッスリヤの降伏勧告を聞くはるか前に、サマリヤの陥落、北イスラエル王国のアッスリヤによる捕囚を、間近に体験していました。
しかし、それは、他の神々(「この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊」エペソ2:2)に従い、神に従わなかったからこそ生じた裁きであり(列王記17:6-23)、ヒゼキヤはそのことを直接目で見ていたのです。
この後北イスラエル王国の民達は捕囚後、世界中へ散らされ、自らの信仰も、神の民としてのアイデンティティーも全て失い、どこに行ってしまったのか現在でもわかっていないのです。
何と悲惨な裁きでしょうか。
主の選びをすべて失ってしまった。救いを失うことと同じことを意味しているのです。

ですから、ヒゼキヤに語られた今日の約束の御言葉は、信仰の戦いを歩む私達への確かな約束でもあるのです。
悩みのとき、主のあわれみによって、主に引き寄せられ、天に引き上げられた者達、主にのがれ、天の御国にのがれた者達は残り、主の栄光を、主ご自身が戦われ勝利をされるのを見ることができるのです。

もう一度、今冷静になって(黙して)主を見上げて下さい。そこからあなたの助けが来るのです。
今主の名を呼び。主に助けを求め、主に引き寄せていただきましょう。
そこにしか私達の祝福はないのですから。

※今回のメッセージの引用箇所です。どうぞ、ご参照下さい。

【イザヤ37:21-38】
37:21 その時アモツの子イザヤは人をつかわしてヒゼキヤに言った、「イスラエルの神、主はこう言われる、あなたはアッスリヤの王セナケリブについてわたしに祈ったゆえ、
37:22 主が彼について語られた言葉はこうである、『処女であるシオンの娘はあなたを侮り、あなたをあざける。エルサレムの娘は、あなたのうしろで頭を振る。
37:23 あなたはだれをそしり、だれをののしったのか。あなたはだれにむかって声をあげ、目を高くあげたのか。イスラエルの聖者にむかってだ。
37:24 あなたは、そのしもべらによって主をそしって言った、「わたしは多くの戦車を率いて山々の頂にのぼり、レバノンの奥へ行き、たけの高い香柏と、最も良いいとすぎを切り倒し、またその果の高地へ行き、その密林にはいった。
37:25 わたしは井戸を掘って水を飲んだ。わたしは足の裏でエジプトのすべての川を踏みからした」。
37:26 あなたは聞かなかったか、昔わたしがそれを定めたことを。堅固な町々を、あなたがこわして荒塚とすることも、いにしえの日から、わたしが計画して今それをきたらせたのだ。
37:27 そのうちに住む民は力弱く、おののき恥をいだいて、野の草のように、青菜のようになり、育たずに枯れる屋根の草のようになった。
37:28 わたしは、あなたの座すること、出入りすること、また、わたしにむかって怒り叫んだことをも知っている。
37:29 あなたが、わたしにむかって怒り叫んだことと、あなたの高慢な言葉とがわたしの耳にはいったゆえ、わたしは、あなたの鼻に輪をつけ、あなたの口にくつわをはめて、あなたを、もと来た道へ引きもどす』。
37:30 あなたに与えるしるしはこれである。すなわち、ことしは落ち穂から生えた物を食べ、二年目には、またその落ち穂から生えた物を食べ、三年目には種をまき、刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。
37:31 ユダの家の、のがれて残る者は再び下に根を張り、上に実を結ぶ。
37:32 すなわち残る者はエルサレムから出、のがれる物はシオンの山から出る。万軍の主の熱心がこれをなし遂げられる。
37:33 それゆえ、主はアッスリヤの王について、こう仰せられる、『彼はこの町にこない。またここに矢を放たない。また盾をもって、その前にこない。また塁を築いて、これを攻めることはない。
37:34 彼は来た道から帰って、この町に、はいることはない、と主は言う。
37:35 わたしは自分のため、また、わたしのしもべダビデのために町を守って、これを救おう』」。
37:36 主の使が出て、アッスリヤびとの陣営で十八万五千人を撃ち殺した。人々が朝早く起きて見ると、彼らは皆死体となっていた。
37:37 アッスリヤの王セナケリブは立ち去り、帰っていってニネベにいたが、
37:38 その神ニスロクの神殿で礼拝していた時、その子らのアデラン・メレクとシャレゼルがつるぎをもって彼を殺し、ともにアララテの地へ逃げていった。それで、その子エサルハドンが代って王となった。

【イザヤ36:13-21】
36:13 そしてラブシャケは立ちあがり、ユダヤの言葉で大声に呼ばわって言った、「大王、アッスリヤの王の言葉を聞け。
36:14 王はこう仰せられる、『あなたがたはヒゼキヤに欺かれてはならない。彼はあなたがたを救い出すことはできない。
36:15 ヒゼキヤが、主は必ずわれわれを救い出される。この町はアッスリヤの王の手に陥ることはない、と言っても、あなたがたは主を頼みとしてはならない』。
36:16 あなたがたはヒゼキヤの言葉を聞いてはならない。アッスリヤの王はこう仰せられる、『あなたがたは、わたしと和ぼくして、わたしに降服せよ。そうすれば、あなたがたはめいめい自分のぶどうの実を食べ、めいめい自分のいちじくの実を食べ、めいめい自分の井戸の水を飲むことができる。
36:17 やがて、わたしが来て、あなたがたを一つの国へ連れて行く。それは、あなたがたの国のように穀物とぶどう酒の多い地、パンとぶどう畑の多い地だ。
36:18 ヒゼキヤが、主はわれわれを救われる、と言って、あなたがたを惑わすことのないように気をつけよ。もろもろの国の神々のうち、どの神がその国をアッスリヤの王の手から救ったか。
36:19 ハマテやアルパデの神々はどこにいるか。セパルワイムの神々はどこにいるか。彼らはサマリヤをわたしの手から救い出したか。
36:20 これらの国々のすべての神々のうちに、だれかその国をわたしの手から救い出した者があるか。主がどうしてエルサレムをわたしの手から救い出すことができよう』」。
36:21 しかし民は黙ってひと言も答えなかった。王が命じて、「彼に答えてはならない」と言っておいたからである。

【列王記下18:31,32】
18:31 あなたがたはヒゼキヤの言葉を聞いてはならない。アッスリヤの王はこう仰せられる、『あなたがたはわたしと和解して、わたしに降服せよ。そうすればあなたがたはおのおの自分のぶどうの実を食べ、おのおの自分のいちじくの実を食べ、おのおの自分の井戸の水を飲むことができるであろう。
18:32 やがてわたしが来て、あなたがたを一つの国へ連れて行く。それはあなたがたの国のように穀物とぶどう酒のある地、パンとぶどう畑のある地、オリブの木と蜜のある地である。あなたがたは生きながらえることができ、死ぬことはない。ヒゼキヤが「主はわれわれを救われる」と言って、あなたがたを惑わしても彼に聞いてはならない。

【エペソ2:1-3】
2:1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、
2:2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
2:3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。

【コロサイ3:1-3】
3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
3:2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3:3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。

【列王記17:6-23】
17:6 ホセアの第九年になって、アッスリヤの王はついにサマリヤを取り、イスラエルの人々をアッスリヤに捕えていって、ハラと、ゴザンの川ハボルのほとりと、メデアの町々においた。
17:7 この事が起ったのは、イスラエルの人々が、自分たちをエジプトの地から導き上って、エジプトの王パロの手をのがれさせられたその神、主にむかって罪を犯し、他の神々を敬い、
17:8 主がイスラエルの人々の前から追い払われた異邦人のならわしに従って歩み、またイスラエルの王たちが定めたならわしに従って歩んだからである。
17:9 イスラエルの人々はその神、主にむかって正しからぬ事をひそかに行い、見張台から堅固な町に至るまで、すべての町々に高き所を建て、
17:10 またすべての高い丘の上、すべての青木の下に石の柱とアシラ像を立て、
17:11 主が彼らの前から捕え移された異邦人がしたように、すべての高き所で香をたき、悪事を行って、主を怒らせた。
17:12 また主が彼らに「あなたがたはこの事をしてはならない」と言われたのに偶像に仕えた。
17:13 主はすべての預言者、すべての先見者によってイスラエルとユダを戒め、「翻って、あなたがたの悪い道を離れ、わたしがあなたがたの先祖たちに命じ、またわたしのしもべである預言者たちによってあなたがたに伝えたすべての律法のとおりに、わたしの戒めと定めとを守れ」と仰せられたが、
17:14 彼らは聞きいれず、彼らの先祖たちがその神、主を信じないで、強情であったように、彼らは強情であった。
17:15 そして彼らは主の定めを捨て、主が彼らの先祖たちと結ばれた契約を破り、また彼らに与えられた警告を軽んじ、かつむなしい偶像に従ってむなしくなり、また周囲の異邦人に従った。これは主が、彼らのようにおこなってはならないと彼らに命じられたものである。
17:16 彼らはその神、主のすべての戒めを捨て、自分のために二つの子牛の像を鋳て造り、またアシラ像を造り、天の万象を拝み、かつバアルに仕え、
17:17 またそのむすこ、娘を火に焼いてささげ物とし、占いおよびまじないをなし、主の目の前に悪をおこなうことに身をゆだねて、主を怒らせた。
17:18 それゆえ、主は大いにイスラエルを怒り、彼らをみ前から除かれたので、ユダの部族のほか残った者はなかった。
17:19 ところがユダもまたその神、主の戒めを守らず、イスラエルが定めたならわしに歩んだので、
17:20 主はイスラエルの子孫をことごとく捨て、彼らを苦しめ、彼らを略奪者の手にわたして、ついに彼らをみ前から打ちすてられた。

主の計画への妨げ

2014年11月19日 12:37

【ネヘミヤ2:20】
2:20 わたしは彼らに答えて言った、「天の神がわれわれを恵まれるので、そのしもべであるわれわれは奮い立って築くのである。しかしあなたがたはエルサレムに何の分もなく、権利もなく、記念もない」。

神の計画を進めようとするとき、必ず妨げは入ります。
その計画が神にあって大きな意味を持つものであればあるほどその攻撃は激しいものとなります。
それは霊的な戦い。サタンから来るものです。
いうまでもなくサタンは神の計画が進むことをとことん嫌い妨げようと、神の栄光をいかようにしても退け、人の栄光にすり替えることや、神を汚すこと、恥とするようなことをこの地上に現さんと、虎視眈々とその時を狙って(1ペテロ5:8,9)います。
ですから、私達が本当に神の御心を知ろうとすることを妨げ、日常の雑事に埋没させ、また霊的な目、信仰の目を閉ざして眠らせよう(ルカ21:34-36,黙示録3:14-22)ともします。
また主の御心が成就することを願い、神に従おうとする人々に、精神的にも物理的にも妨げを仕掛け、あるいは偽りを語って精神的に追いつめたり、絶望させたり、惑わしたりして、主の御心がどこにあるのかすらわからないように仕向けたり、物理的に妨げたり、攻撃を仕掛けたりして、計画を完成させず途中であきらめさせようと、ありとあらあゆる手段で神の計画の成就を妨げてきます。(ネヘミヤ4,6章,13:4-9)
さらに残念なことですが、たとえ兄弟姉妹であったとしても、人の思いが利用されて、神の計画を止めさせようとすることは珍しいことではない(マタイ16:21-23,使徒行伝21:10-14)のです。
ですから、ひとたび主の御心を私達が受け取ったときから、その戦いが始まるのですから、それを主の御手によって成し遂げていただけるよう祈る(詩篇37:5)必要があります。
主の御心であればあるほど、人の力で成就することは、どんなに簡単に見えることでも困難になるからです。
また、そうして祈ることで進めようとしている計画が本当に主からのものであるのかどうか、さらに確かなものとなっていきます。
というのは、もちろん神ご自身から私達の思いや計画を止められているから、計画の遂行が妨げられているということもあり得るからです。
主に祈りを重ねるとき、その答えは確かになっていきます。
その計画を押し進めることに、目の前にある状況がいかなるものであっても、あるいはどれほど敵対するものが多くとも、どれほど計画を頓挫させるような真実めいた言葉を聞いたとしても、そこに主から来る深い平安があり、その計画を進めるよう主からの迫りがあり、また止めることのできない情熱が主の熱心から溢れるのであれば、そしてそれが主のため、主の栄光が現されるためのものであり、そのためにどのような犠牲をも、敵対をも、越えてその思いが消えないのであれば、それは確かに主の思いと言えるでしょう。
そうです。その妨げを、攻撃を、越えてまで、成し遂げるべきことこそ、真の主の計画です。
そういう意味であれば、私達の歩みに攻撃のない状態が続くということは、むしろ、今の歩みが神にあって意味のあることではないのかも知れません。
自らの思いのみで進んでいる道のりであるかも知れないと、もう一度主のために生きようと、主にあって自らの思いと歩みを確認する必要があるでしょう。

以上を顧みて、総じて言えることは、
ですから、主の計画を進めるときには、サタンからの攻撃があるのだということです。
だからこそ、私達はしっかりと立って、主に祈り、サタンと戦う必要がある(エペソ6:10-18)のです。
主の計画には全能の主の力が注がれます。その主の恵みにより、私達は計画を築いていくのです。

この計画を妨げる全ての者にはっきりと宣言しましょう。
神の国に、天のエルサレムに、継ぐべき地を持たない、権利もない、それまで主と共に歩んだ記念もない者よ。退け。手を触れるな。これは主の計画であると。

【ネヘミヤ2:20】
2:20 わたしは彼らに答えて言った、「天の神がわれわれを恵まれるので、そのしもべであるわれわれは奮い立って築くのである。しかしあなたがたはエルサレムに何の分もなく、権利もなく、記念もない」。

※今日の引用箇所です。ご参照下さい。

【ネヘミヤ2:11-20】
2:11 わたしはエルサレムに着いて、そこに三日滞在した後、
2:12 夜中に起き出た。数人の者がわたしに伴ったが、わたしは、神がエルサレムのためになそうとして、わたしの心に入れられたことを、だれにも告げ知らせず、またわたしが乗った獣のほかには、獣をつれて行かなかった。
2:13 わたしは夜中に出て谷の門を通り、龍の井戸および糞の門に行って、エルサレムのくずれた城壁や、火に焼かれた門を調査し、
2:14 また泉の門および王の池に行ったが、わたしの乗っている獣の通るべき所もなかった。
2:15 わたしはまたその夜のうちに谷に沿って上り、城壁を調査したうえ、身をめぐらして、谷の門を通って帰った。
2:16 つかさたちは、わたしがどこへ行ったか、何をしたかを知らなかった。わたしはまたユダヤ人にも、祭司たちにも、尊い人たちにも、つかさたちにも、その他工事をする人々にもまだ知らせなかった。
2:17 しかしわたしはついに彼らに言った、「あなたがたの見るとおり、われわれは難局にある。エルサレムは荒廃し、その門は火に焼かれた。さあ、われわれは再び世のはずかしめをうけることのないように、エルサレムの城壁を築こう」。
2:18 そして、わたしの神がよくわたしを助けられたことを彼らに告げ、また王がわたしに語られた言葉をも告げたので、彼らは「さあ、立ち上がって築こう」と言い、奮い立って、この良きわざに着手しようとした。
2:19 ところがホロニびとサンバラテ、アンモンびと奴隷トビヤおよびアラビヤびとガシムがこれを聞いて、われわれをあざけり、われわれを侮って言った、「あなたがたは何をするのか、王に反逆しようとするのか」。
2:20 わたしは彼らに答えて言った、「天の神がわれわれを恵まれるので、そのしもべであるわれわれは奮い立って築くのである。しかしあなたがたはエルサレムに何の分もなく、権利もなく、記念もない」。

【1ペテロ5:8,9】
5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。
5:9 この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。

【ルカ21:34-36】
21:34 あなたがたが放縦や、泥酔や、世の煩いのために心が鈍っているうちに、思いがけないとき、その日がわなのようにあなたがたを捕えることがないように、よく注意していなさい。
21:35 その日は地の全面に住むすべての人に臨むのであるから。
21:36 これらの起ろうとしているすべての事からのがれて、人の子の前に立つことができるように、絶えず目をさまして祈っていなさい」。

【黙示録3:14-22】
3:14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。
3:15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
3:16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。
3:18 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。
3:19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。
3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
3:21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。
3:22 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。

【マタイ16:21-23】
16:21 この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示しはじめられた。
16:22 すると、ペテロはイエスをわきへ引き寄せて、いさめはじめ、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあるはずはございません」と言った。
16:23 イエスは振り向いて、ペテロに言われた、「サタンよ、引きさがれ。わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。

【使徒行伝21:10-14】
21:10 幾日か滞在している間に、アガボという預言者がユダヤから下ってきた。
21:11 そして、わたしたちのところにきて、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った、「聖霊がこうお告げになっている、『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちがエルサレムでこのように縛って、異邦人の手に渡すであろう』」。
21:12 わたしたちはこれを聞いて、土地の人たちと一緒になって、エルサレムには上って行かないようにと、パウロに願い続けた。
21:13 その時パウロは答えた、「あなたがたは、泣いたり、わたしの心をくじいたりして、いったい、どうしようとするのか。わたしは、主イエスの名のためなら、エルサレムで縛られるだけでなく、死ぬことをも覚悟しているのだ」。
21:14 こうして、パウロが勧告を聞きいれてくれないので、わたしたちは「主のみこころが行われますように」と言っただけで、それ以上、何も言わなかった。

【詩篇37:5(新改訳)】
37:5 あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。

【エペソ6:10-18】
6:10 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
6:11 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
6:12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
6:13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。
6:14 すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、
6:15 平和の福音の備えを足にはき、
6:16 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。
6:17 また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。
6:18 絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。

神の国の望み

2014年11月14日 12:44

【ローマ8:18】
8:18 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。

私達は苦しみのとき、そのあまりの苦しさに神を見上げるとき、今ある全てを超えて苦しみの先にある圧倒的な後の日の栄光を見ることがあります。
それは主からの最高の望み、主と顔と顔を合わせてまみゆる日(1コリント13:12)、やがて私達が御国にある日を、先取ってこの地で味わうのです。

【黙示録7:9-17】
7:9 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、
7:10 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。
7:11 御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、
7:12 「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。
7:13 長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。
7:14 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。
7:15 それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。
7:16 彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。
7:17 御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。

私達は主の栄光を望み、主の御心を行うために生きるなら、確かにこの地上で苦しみ(「大きな患難」黙示録7:14)をとおらなけれならないかも知れません。
それは私達の主ご自身もこの地上で苦しまれたからです。
しかし、この十字架に裂かれた君を見上げるとき、私達のために流された血潮は私達の衣を真っ白(黙示録7:14)にし、白い衣を着た私達は、確かに主を見てその苦しみをはるかに超えた喜びを得ます。(使徒行伝7:55,56)
「いのちの水の泉に導(黙示録7:17)」かれ、私達の内から聖霊が満ち溢れて、主の御許にまで引き上げられて、主は私達の「目から涙をことごとくぬぐいとって下さ(黙示録7:17)」います。
こうしてこの方の御側にいるとき、私達は「もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。」ことを「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安(ピリピ4:7)」のうちに知るのです。
私達はこの地上(世)からすでに隔絶された(ガラテヤ6:14)場所にいることがわかるでしょう。
すでに全てのものが主の勝利に飲み込まれている(1コリント15:55)のです。
何ものもこれにあらがうことはできず、死すらも飲み込まれてしまったのです。
御国は私達が受け継ぐ相続の地(ローマ8:14-17)です。そしてそこには神ご自身が満ち溢れ全てが満ち足り、主が私の全てとなられるのです。
もはや私達は苦しみの中にいるどころか、尽きない喜びの中、主を喜び、主に感謝し(ピリピ4:4-6,1テサロニケ5:16)、主を永遠にほめたたえ、止むことができないものとなるです。

この地上の肉体における苦しみは、私達の肉を殺し(ローマ8:13)、御霊によって死ぬべきからだが生かされ(ローマ8:8)、またその御霊により神の御国の中に私達を導き入らせ(ルカ18:24-27)ます。
神の国の本質は「肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。(1コリント15:50)」ということなのです。
ですから、主は私達をこの地上においても先取りって、神の御国に入らせようと、神の御側にいつもいるように(ヨハネ4:3)と、願っておられるのです。
あなたも「神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか(エペソ1:18)」を知りたいと思いませんか。

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、あなたがたの心の目を明らかにして下さるように(エペソ1:17,18)」

主を心から求める兄弟姉妹のために、心から祈ります。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照下さい。

【1コリント13:12】
13:12 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。

【使徒行伝7:54-60】
7:54 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。
7:55 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。
7:56 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、
7:58 彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。
7:59 こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。
7:60 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。

【ピリピ4:4-7】
4:4 あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
4:5 あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。
4:6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
4:7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

【ガラテヤ6:14】
6:14 しかし、わたし自身には、わたしたちの主イエス・キリストの十字架以外に、誇とするものは、断じてあってはならない。この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

【1コリント15:55】
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。

【ローマ8:9-17】
8:9 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。
8:10 もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。
8:11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。
8:12 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。
8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。
8:14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
8:15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
8:16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。
8:17 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

【1テサロニケ5:16-18】
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

【ルカ18:18-30】
18:18 また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
18:19 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
18:20 いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。
18:21 すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。
18:22 イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
18:23 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。
18:24 イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。
18:25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
18:26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、
18:27 イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。
18:28 ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。
18:29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、
18:30 必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。

【ヨハネ14:1-3】
14:1 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
14:3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。

【エペソ1:17-19】
1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、
1:18 あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
1:19 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

神の御旨の祈り

2014年11月12日 22:23

【1ヨハネ5:14,15】
5:14 わたしたちが神に対していだいている確信は、こうである。すなわち、わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。
5:15 そして、わたしたちが願い求めることは、なんでも聞きいれて下さるとわかれば、神に願い求めたことはすでにかなえられたことを、知るのである。

この御言葉を間違えて受け取らないで下さい。
「わたしたちが何事でも神の御旨に従って願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さるということである。(1ヨハネ5:14)」と語られているのです。
神の御旨にかなわない祈りは神に聞かれないと語られているのではありません。
ですから、主に祈り求めたことが聞かれないのは御旨にかなわないからだと言わないで下さい。
そのようにして祈ることをあきらめないで下さい。
始めから主が聞かれていると信じずに祈ることほど、主を悲しませる祈りはないでしょう。
ここで主が語られていることは、「何事でも~願い求めるなら、神はそれを聞きいれて下さる」ということに重点が置かれているのです。

【ヨハネ14:12,13】
14:12 よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。
14:13 わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。

主は「なんでもかなえてあげよう」と語られているのです。それが主の思いなのです。
無力で自分では何もできない幼い赤ん坊の我が子に、「自分の力で何でもせよ。たまに手伝うから。」などという親はいないでしょう。
主から見る私達はその幼子よりも無力で、自分では何もできない、何も持っていない存在であるということは、火を見るよりも明らかです。
そのような私達に、私達の力で何かできると期待するでしょうか。要求するでしょうか。
いいえ、自分が親であるのであれば、何もできない子供にすべてのものを与えたい。注ぎたい。
自分がいなければ子供は生きていけないということを知っているからこそ、自分がその子の全てとなって、その子の願う全てをかなえてあげようと思うのではないでしょうか。
それが子への愛ですが、御子をも惜しまず私達に与えて下さった父なる神は、だから全てを与えたいと願わないはずがないのです。

【ローマ8:32】
8:32 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。

では主の御旨とは何でしょうか?
例えば、その幼子が、その危険性もわからず刃物や火を使って遊ぶことを求めたら、それを与える親はあるでしょうか?
同様に、私達が自分のためにと、自分を目的として何かを求めることは、神の目には非常に危険なことです。
以前にもお話しましたが、人は善悪を知る木の実を食べたときから、自分が見え、自分の栄光のために生きるようになり、その結果自分の力で生きる道を選択し、神からそして永遠の命から離れて行ったのです。
神こそ命であるのに、この方から離れることは死を意味することであるのに、人は神から離れ、自分を目的とし、自分の栄光のために、自分のために生きるのです。これを肉と言います。
そして、この肉の思いは死であるのです。

【ローマ8:5-8】
8:5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
8:6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
8:8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。

死に向かう私達の願いを主はそのまま受け入れられるでしょうか?
死に向かうからこそ、それを強いて願っても、とどめようとするのではないでしょうか。
それは主が私達を愛すればこそ。

【ヤコブ4:2,3】
4:2 あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。
4:3 求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。

主の御霊は自分を目的として生き死に向かう生き方から私達を解放し、神を目的とし、神のために生きて、神を喜ばせようと私達の内に働きます。

【2コリント5:14,15】
5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

それは主の深い御旨である御言葉と何一つ違わず、主の御旨に私達を導きます。
なぜなら、主の思いを知るのは主の霊しかいないからです。そして私達の思いをよく知るのも、私達の内に住まう御霊なのです。

【1コリント2:10,11】
2:10 御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
2:11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。

【ローマ8:26,27】
8:26 御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
8:27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。

このように主の御旨である御言葉と、主の御旨に私達を導く御霊の働きにより、私達ははじめて、死ではなく命(神)を求めて、主に祈ることができるのです。
主はそれをどれほど喜び、愛を持ってその祈りを受け入れて、主の全てをもってかなえようと望まれることでしょうか。

【ヨハネ14:14-17】
14:14 何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。
14:15 もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。
14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
14:17 それは真理の御霊である。

ですから、私達が主のために生きようと願い祈る全てのことは、主が全て聞いて下さるのです。
それは同時に主が私達を愛して、私達のために、かなえてくださるのであり、実に主の御旨の中に私達への主の溢れるほどの愛が含まれているのです。

【詩篇138:8】
138:8 主はわたしのために、みこころをなしとげられる。主よ、あなたのいつくしみはとこしえに絶えることはありません。

そうなのです。ですから、私達は主の喜びのために、主のために、存分に祈りをささげましょう。
主の御言葉に立ち、主の御霊に満たされて、導かれて祈るなら、私達の祈りはたとえわがままで自分勝手な祈りであっても、そのような祈りに変えられて行きます。
そして、その祈りはやがてだからこそ、すでに主に聞かれていることを確信し、たとえまだその結果を受けていなくても、それをすでに受け取ったかのように、主への感謝と賛美の祈りへと導かれていくでしょう。
ですから、どのような祈りが聞かれるかなどと恐れずに、主の御前に祈り自体を、私達の願い自体を、素直に主の前に注ぎだし、主が御旨にかなう祈りへと導いてくださるよう、自らの全てを主にゆだねましょう。

私達の祈りに与えられている、主の絶大なる恵みと主の愛に、あなたが満たされますように。

天に生きる私達

2014年11月10日 12:10

【ヘブル11:13-16】
11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
11:14 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。
11:15 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。
11:16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

多くの人はこの地上での生活をなるべく不安定でないように、安心して生活を送れるようにと考えます。
今日と同じ明日を迎えられること、将来の考えられる安定した生活。
人はどうしても目に見える安定を欲しがるということでしょうか。
ですから、そのために働き、そのために学び、そのための人生の計画を立てる。
まさにこの地上で安住の地を得ようと考える。
しかし、聖書はクリスチャンの生活を全く異なる視点から捉えています。
「地上では旅人であり寄留者である(ヘブル11:13)」
確かに主は私達をこの世のものではないと語っています。むしろこの世からは憎まれるのだと。

【ヨハネ15:18,19】
15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。

そして、主イエスご自身も捕らえられ十字架にかけられるための裁判を受けるに当たって、ご自身が世のものではなく、だからこそ憎まれているのだということを言い表されています。

【ヨハネ18:36】
18:36 イエスは答えられた、「わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない」。

では主は、そして私達はどこの者なのでしょうか。
それはもちろん、「しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。(ピリピ3:20)」とある通り、天の者、神の国の者であるのです。
つまり、「しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。(ヘブル11:16)」とある天にあるふるさとたる御国(「新しい天と地」黙示録21:1)、天の都エルサレム(「聖なる都新しいエルサレム」(黙示録21:2))こそが、私達の安住の場所であり、この地上では世に憎まれるからこそ、どこにも安住の地はなく、だからこそ、この天の安住の地をこい求めるのであることを、ここではっきりと語っているのです。
何とむなしいことでしょうか。
神ご自身がこのように私達に、この地上、この世では安住の地がないと語っているのに、それをこの地に求める生活は。
それは砂漠の蜃気楼を求めるようなもの、見つけたと思い追い求めてはそれは消える水のよう、決して渇きをいやすものはそこにはないのです。
ですから私達は、この地上で寄留者であるということを、はっきり自覚する必要があります。
でなければ、私達は世に振り回され、世を求め、世に偽られ、世に捕らえられ、世の奴隷となる生活しか存在しないのです。
何とそのように生き、この地上の望みにばかり気を配り、自らの本来の存在すべき場所を失う兄弟姉妹が多いことでしょうか。
あるいはこの世との妥協をも必要であるかのように語り、また世からの恩恵を受けることを恵みのように語る兄弟姉妹の多いことでしょうか。
しかし、聖書はそのようなことは決して語っていないのです。

【ヤコブ4:4,5】
4:4 不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。
4:5 それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、むなしい言葉だと思うのか。

【2ペテロ2:20-22】
2:20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。
2:21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。
2:22 ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。

【1ヨハネ2:15-17】
2:15 世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。
2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。
2:17 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。

【1コリント7:29-31】
7:29 兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように、
7:30 泣く者は泣かないもののように、喜ぶ者は喜ばないもののように、買う者は持たないもののように、
7:31 世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜなら、この世の有様は過ぎ去るからである。

中途半端に世の望みを語り、私達が世に安住を求めるということは、クリスチャンとしての死を意味する程のことであるということをはっきり語り出さないなら、私達の本当の望みにたどり着くことはないでしょう。
なぜ永遠の命を今受けていながら、その喜びを無価値に捨て去るようなことを勧める必要があるでしょうか。
永遠は、神の御国に生きることは、永遠の命を受け取っている今、すでに始まっているのです。
そして、私達は主に救われたそのときに、その十字架により、すでにこの世に対して死んでいるのです。
なぜ、また世の奴隷となる必要があるでしょうか。
なぜ、無意味にも世に対してだけ、よみがえる必要があるでしょうか。

【ガラテヤ6:14】
6:14 この十字架につけられて、この世はわたしに対して死に、わたしもこの世に対して死んでしまったのである。

よみがえる場所はそこではない、見つめるべき場所、生きるべき場所、求めるべき場所は天にあるのです。
そここそ、主が居られ、主と永遠に交わる場所であり、私達の命そのものがある場所であるのです。

【コロサイ3:1-4】
3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
3:2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3:3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
3:4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

そうです。私達が本当に生きるべき場所、主ご自身が居られる場所、天の御国を心から、こい求めるなら、主ご自身に近づくことを真剣に求めるならば、私達の内に住まう天から来た霊は私達を天の御座へと引き上げるでしょう。
その永遠の主との交わりのときこそ、天における礼拝と地における礼拝が一つとなるときなのです。
そのとき私達は時間を超えて、空間を超えて、天において永遠の礼拝を神の前にささげる者となるでしょう。

【黙示録7:9-17】
7:9 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、
7:10 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。
7:11 御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、
7:12 「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。
7:13 長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。
7:14 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。
7:15 それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。
7:16 彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。
7:17 御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。

これが本来ある教会の礼拝なのです。
何と素晴らしく、驚くばかりの主の恵みでしょうか。
共に、主をそして天にあるふるさとを求めて、祈ってまいりましょう。

※聖書の引用箇所です。ご参照下さい。

【黙示録21:1,2】
21:1 わたしはまた、新しい天と新しい地とを見た。先の天と地とは消え去り、海もなくなってしまった。
21:2 また、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意をととのえて、神のもとを出て、天から下って来るのを見た。

共に歩まれる方

2014年11月07日 12:04

【ヘブル2:17,18】
2:17 そこで、イエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。
2:18 主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。

何という慰めでしょうか。
もしも、神がご自身の高き御座に居られたままの方であるならば、神の思いは私達には高過ぎて、その計画は大き過ぎて、神は私達の日々の生活を、そこで出会う試練の数々を、その苦しみを、悲しみを、知らない、わからないと言っていたでしょう。
しかし、主イエス、神の御子である方は、「神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた(ピリピ2:6-8)」のです。
実にご自身が、私達のたどるべき最も低き場所、小さき場所、貧しき場所、を通りこの地上を歩まれた。

【マタイ9:35,36】
9:35 イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
9:36 また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。

【マルコ6:33,34】
6:33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見、それと気づいて、方々の町々からそこへ、一せいに駆けつけ、彼らより先に着いた。
6:34 イエスは舟から上がって大ぜいの群衆をごらんになり、飼う者のない羊のようなその有様を深くあわれんで、いろいろと教えはじめられた。

ご自身がそのような場所に生まれ、育ち、生きられたから、人目に見捨てられたような者でさえ、主の目には忘れられていなかった。
主と出会えた多くの者達が、実に寄る辺なき惨めな者、小さな、弱き者達だった。
いや、主が向き合い、あわれまれて、語りかけ、触れ、癒し、教えられたほとんどの者達がそのような者でした。

【マタイ8:16,17】
8:16 夕暮になると、人々は悪霊につかれた者を大ぜい、みもとに連れてきたので、イエスはみ言葉をもって霊どもを追い出し、病人をことごとくおいやしになった。
8:17 これは、預言者イザヤによって「彼は、わたしたちのわずらいを身に受け、わたしたちの病を負うた」と言われた言葉が成就するためである。

【イザヤ53:2-5】
53:2 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

そして、主の成されたのは私達とは一切関わりなく神の御業を現したというものではなく、ご自身の身に私達の苦しみ悲しみそして罪を負ったもの。
何一つ私達と変わらない人となられたからこそ、私達に寄り添い、私達の思いを最も近く知る方となられたのです。
無限の神であられる方であるのに、その方が人という有限なはかなき小さな存在になられただけでも、考えられない奇跡であるのに、およそ私達の中の最も低い者となって、その全ての苦しみ、悲しみを、その身に負われた。
真のとりなし手、大祭司である主イエスは、このように私達と「あらゆる点において...同じようにならねばならなかった」のです。
そして、実に「神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされ(2コリント5:21)」ました。
神の子であられた方が、弟子達にさえ見捨てられ、ただ一人孤独に全てを負って十字架を担い、辱められ、罵られ、卑しめられ、痛めつけられ、傷つけられ、神にさえ見捨てられ、十字架の刑罰にかけられた。
私達が受けるべき永遠の滅びという神の裁きをご自身に負われたのです。

【マタイ27:38-46】
27:38 同時に、ふたりの強盗がイエスと一緒に、ひとりは右に、ひとりは左に、十字架につけられた。
27:39 そこを通りかかった者たちは、頭を振りながら、イエスをののしって
27:40 言った、「神殿を打ちこわして三日のうちに建てる者よ。もし神の子なら、自分を救え。そして十字架からおりてこい」。
27:41 祭司長たちも同じように、律法学者、長老たちと一緒になって、嘲弄して言った、
27:42 「他人を救ったが、自分自身を救うことができない。あれがイスラエルの王なのだ。いま十字架からおりてみよ。そうしたら信じよう。
27:43 彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。
27:44 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。
27:45 さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。
27:46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

「それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるため(2コリント5:21)」に他なりません。
だから、誰も神は私の気持ちなどわかりはしないと、いつ如何なる時も言うことができないのです。
彼は今のあなたの悩みを、痛みを、嘆きを、苦しみを、悲しみを、この地上であなた自身よりも、もっと知っている方なのです。
たとえ、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである(ヘブル12:5,6)」とあるように、父なる神が「わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、(ヘブル12:10)」私達に試練を与える時があったとしても、「あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせることはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである。(1コリント10:13)」との言葉は、主イエスご自身がまずのがれの道となり、私達を助けて下さるということでもあるのです。
まさに「主ご自身、試錬を受けて苦しまれたからこそ、試錬の中にある者たちを助けることができるのである。(ヘブル2:18)」とある通り、私達がその試練の中でどのような思いで忍耐しているかということを、最もよく知り、私達に寄り添い、迷うことなく永遠の希望(ローマ5:4,5)へと私達を導き、この永遠の中で神をほめたたえる者へと成長させて下さるのです。

【1ペテロ1:6,7】
1:6 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。
1:7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。」

だから、仮に今ある苦しみが、悩みが、私達には意味がわからなくても、自分がどこにおり、どこに向かって歩んでいるのか、いつまでこれが続くのか、何もわからなくても、大丈夫なのです。
この主イエスキリストが常にあなたの傍らに(内に)居てあなたを導き、助け、成長させて下さるのですから、意気消沈したり、絶望したり、また神の思いを誤解することなく、この方に身をゆだねて、今日も信仰の歩みを永遠の深みへと一歩踏み出していこうではありませんか。
共に主のなぐさめとあわれみに感謝し祈ってまいりましょう。

【2コリント3:18】
3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

※今日の引用箇所です。

【ローマ5:2-5】
5:2 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
5:3 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
5:4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

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