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主が立ち上がられる

2014年10月10日 02:42

【ゼカリヤ2:13】
2:13 すべて肉なる者よ、主の前に静まれ。主はその聖なるすみかから立ちあがられたからである。

これまで多くの兄弟姉妹がリバイバルのために祈り、あるいは疲れ、あるいは傷つき、失望し、あきらめかけている方も多くあるのではないでしょうか。
主を待ち望むことがあまりに長く、人の思いが、力が、尽き果てるほどの忍耐を必要としたことでしょう。
しかし、人の力が尽きるときこそ、神の現れるときです。
なぜなら、人の力が尽きたからこそ、全てが神の力のみによって現された、神のみの栄光であることがわかるからです。神は人に栄光を渡されることがないのです。
今日、ゼカリヤの語ったこの預言も、バビロン捕囚から七十年経過した後(ゼカリヤ1:12)に語られたものであり、まさしく人の力が尽きるに充分な時間の経過した後でした。
七十年と言えば聖書が語る人の一生が終わる時間(詩篇90:10)であり、一世代がまるまる入れ替わる時間ということができます。
しかし、バビロンからの帰還が預言されていたのは、バビロンに捕囚をされるはるか以前(レビ記26章)のことであったのです。
つまりはバビロンに捕囚されていたイスラエルの民は、バビロンでの奴隷生活から解放され、エルサレムに帰還することをどれほど神に叫び、悔い改め、とりなし、祈りを重ねてきたことでしょう。
その一世代が尽きる時までの、それほどの時間を要して始めて、一つの国が神に立ち返るという神の預言が成就したのです。
この国も、先の大戦の敗戦の苦しみの中、神の福音は語られ続け、多くの宣教者達が、兄弟姉妹達が、この国のために祈ったことでしょう。
そして、今この国はそれから七十年の時を経ようとしています。
主がこの国を訪れてくださること。この国にリバイバルが来ること。この国が神に立ち返ること。
人の力が尽き、あきらめ始めた時こそ、神御自身が現れるときなのです。
それが今からであると主は語られています。

あなたはそのことを信じるでしょうか。

【ヨハネ20:29】
20:29 「あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである」。

神はあなたの祈りを一つも聞き漏らすことはありません。あなたが言葉にできないほどの思いすらご存知で、そのすべてを覚えておられ、無にされることはないのです。

【詩篇139:1-4】
139:1 主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。
139:2 あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。
139:3 あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。
139:4 わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。

あなたの重ねられてきた祈りは全て神の御手のうちにあり、今主はその祈りをもって、この国に望まれようと立ち上がられている。
このことを信じることができるのは、そしてそれを目の当たりにして心の底から主を喜ぶことができるのは、人知れず主にとりなし祈り続けたあなたなのです。
信仰の目を開け、主を見上げ、さあ、主がこの国に望まれるその日に向かって、備えて参りましょう。
主はあなたと共に働いてこの国を立ち返らせてくださるでしょう。
あなたの愛する人が滅びから永遠の命に移されるために。

※聖書の引用箇所になります。どうぞ、ご参照ください。

【詩篇90:10】
90:10 われらのよわいは七十年にすぎません。あるいは健やかであっても八十年でしょう。しかしその一生はただ、ほねおりと悩みであって、その過ぎゆくことは速く、われらは飛び去るのです。

【ゼカリヤ1:12】
1:12 すると主の使は言った、『万軍の主よ、あなたは、いつまでエルサレムとユダの町々とを、あわれんで下さらないのですか。あなたはお怒りになって、すでに七十年になりました』。

【レビ26:40-45】
26:40 しかし、彼らがもし、自分の罪と、先祖たちの罪、すなわち、わたしに反逆し、またわたしに逆らって歩んだことを告白するならば、
26:41 たといわたしが彼らに逆らって歩み、彼らを敵の国に引いて行っても、もし彼らの無割礼の心が砕かれ、あまんじて罪の罰を受けるならば、
26:42 そのときわたしはヤコブと結んだ契約を思い起し、またイサクと結んだ契約およびアブラハムと結んだ契約を思い起し、またその地を思い起すであろう。
26:43 しかし、彼らが地を離れて地が荒れ果てている間、地はその安息を楽しむであろう。彼らはまた、あまんじて罪の罰を受けるであろう。彼らがわたしのおきてを軽んじ、心にわたしの定めを忌みきらったからである。
26:44 それにもかかわらず、なおわたしは彼らが敵の国におるとき、彼らを捨てず、また忌みきらわず、彼らを滅ぼし尽さず、彼らと結んだわたしの契約を破ることをしないであろう。わたしは彼らの神、主だからである。
26:45 わたしは彼らの先祖たちと結んだ契約を彼らのために思い起すであろう。彼らはわたしがその神となるために国々の人の目の前で、エジプトの地から導き出した者である。わたしは主である』」。

永遠の主権者

2014年10月09日 14:29

【イザヤ14:27】
14:27 万軍の主が定められるとき、だれがそれを取り消すことができるのか。その手を伸ばされるとき、だれがそれを引きもどすことができるのか。

主が立てられた計画を取り消し、引き戻すことができる者は存在しません。
それは誰にでも理解できることでしょう。
この方の計画に逆らい、また妨げ、対抗するのであれば、その者の方がむしろ神の前に打ち砕かれる。そのことを想像すると恐ろしくなります。
聖書にはそのようにして、神に敵対して粉々に打ち砕かれる者はたくさんおり、その末路は悲惨です。
ですから、サタンが裁かれるように、神に敵対しようとわざわざするような、そんな恐れを知らぬクリスチャンはそうはいないでしょう。
しかしこれがこと自分のこととなると以外と気づかないものです。

まさか自分の人生が主の計画に関連しているとは思わないという人も多くあるのではないでしょうか。
私達は各々が自分の人生を生きているという感覚の中から抜け出ることができないため気づいていませんが、実は私達の全時間、全人生、その全てが主のご計画と関連して進んでいるのです。
ですから、自分の人生は自分の思う通りに生きる、あるいは自分の人生、自分の時間は自分のもの、そこに幸せがあると思っているのであれば、私達は知らないうちに自分自身が神の計画を妨げていることになる、これは非常に恐ろしい現実です。

【ローマ8:7,8】
8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
8:8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。

自然に神に逆らう人の性質は、大それた事に神の計画を妨げ、あるいは自分の生活や人生の思いを主張して、知らぬ間に神に敵対している。
というのが、主に救われた者であっても、そのまま自分のために生きる者達の姿です。

【2コリント5:14,15】
5:14 ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

しかし、私達が主にあってこれまでの古い生き方を一新し、全く新しい者として新しく生まれのは、まさに自分のために生きるためではなく、主のために生きるために他なりません。
自分のために生きるという古い生き方はすでに死んだものであり、新しい命自体がキリストに生きるためのものなのです。
それは神の壮大な計画のうちに、神に逆らう者でなしに、その計画を成就するために新しく生まれたからです。

【コロサイ1:15-18】
1:15 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。
1:16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
1:17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。
1:18 そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。

聖書を一貫するのは、すべての主権は主のものであり、その主権は永遠の主権。あらゆる国も、その君主も、全ての支配も、権威も、主にひれ伏すのです。

【ダニエル7:13,14】
7:13 わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。
7:14 彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。

【1コリント15:20-28】
15:20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
15:21 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。
15:22 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。
15:23 ただ、各自はそれぞれの順序に従わねばならない。最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち、
15:24 それから終末となって、その時に、キリストはすべての君たち、すべての権威と権力とを打ち滅ぼして、国を父なる神に渡されるのである。
15:25 なぜなら、キリストはあらゆる敵をその足もとに置く時までは、支配を続けることになっているからである。
15:26 最後の敵として滅ぼされるのが、死である。
15:27 「神は万物を彼の足もとに従わせた」からである。ところが、万物を従わせたと言われる時、万物を従わせたかたがそれに含まれていないことは、明らかである。
15:28 そして、万物が神に従う時には、御子自身もまた、万物を従わせたそのかたに従うであろう。それは、神がすべての者にあって、すべてとなられるためである。

つまり、全時代、全歴史は主のものであり、この方の主権の下、全ては進んで行くのです。神のご計画の下に。
しかし、人は自分の思いを主張します。
それは自らの主権を主張することであり、自らを王することであり、それは支配を、権威を、得ようとする、神に敵対する者の生き方です。
つまりは自らが少しでも良い生活をしようと、支配する者となろうとして、神に敵対するサタンに支配(隷属)させられる生き方であり、この構造こそがこの世の構造です。

【ルカ4:5-8】
4:5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて
4:6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。
4:7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。
4:8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

残念な話ですが、多くのクリスチャンがこの構造を抜け出すことができず、この世の構造に巻き込まれ、再びやみの支配、サタンの支配に巻き込まれ、主の主権の下に、主と共にこの世を統べ治める者として、この世に勝利した勝利者として歩むことを見失っています。
ですが、私達はその様な者として、世に、サタンに、敗北者のように隷属させられるための新しく生まれたのではないのです。

【コロサイ2:9-15】
2:9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、
2:11 あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。
2:12 あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。
2:13 あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。
2:14 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。
2:15 そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

神の計画を妨げるサタンに支配される者として、神の前に立ちはだかる生き方は、永遠の主権は主にあるということを認めないところから始まっています。
つまり、自分の人生は自分のものであり、自分のために生きるのが何が悪いと、自分のために神がいるかのように生きる、誤ったクリスチャンとしての立ち位置から始まっているのです。
もう一度言いますが、神の主権に対抗する者は滅びます。神の計画に逆らう者は打ち砕かれるのです。それはクリスチャンであっても同様です。

【ダニエル4:34,35】
4:34 その主権は永遠の主権、その国は世々かぎりなく、
4:35 地に住む民はすべて無き者のように思われ、天の衆群にも、地に住む民にも、彼はその意のままに事を行われる。だれも彼の手をおさえて「あなたは何をするのか」と言いうる者はない。

誰が主権者であるのか。全時代の全歴史は誰の計画によって、誰のためにあるのか。それを知ることがまずクリスチャンとしての歩みの始めに必要です。

【箴言】
9:10 主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。
9:11 わたしによって、あなたの日は多くなり、あなたの命の年は増す。

あなたの人生はあなたのためにあるのではなく、主のためにある。
当たり前ですが、もう一度そこから自分の歩みを見つめてみましょう。

今日も主に喜ばれる一日を歩まれますように。

主のみからだの如く

2014年10月01日 12:56

【1コリント12:26,27】
12:26 もし一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。
12:27 あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。

教会は有機体的な存在です。
決して無機質なものを教会というわけではありません。
つまり、教会とは教会堂という建物を指す言葉でもなく、また宗教団体的組織をいうものでもありません。
もしもそれだけを教会というのであれば、形だけのものであり、そこには命はありません。
教えと実践だけの集まりであれば、他にある多くの宗教や団体と何も変わりはありません。
しかし、聖書は教会を、キリストのからだであるとし、命のある有機的な存在であり、それがひとつの体のように生きているという姿が、教会の健やかな姿であると、はっきりとわかりやすく語っています。

【エペソ1:20-23】
1:20 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
1:21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。
1:22 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。
1:23 この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

ですから、ここには人の体と同様にこの共同体自体に命があり、心(思い)があり、体としての構造が存在しています。
つまりはキリストがかしらであるからこそ、キリストの心を心とし、キリストが命として満ちみちているのであり、それは御霊が一人一人の内に住まいながら、その御霊こそが一つであるからこそ、一つの体となるのです。

【エペソ4;4-7】
4:4 からだは一つ、御霊も一つである。あなたがたが召されたのは、一つの望みを目ざして召されたのと同様である。
4:5 主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。
4:6 すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのものの内にいます、すべてのものの父なる神は一つである。
4:7 しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。

そして私達、この教会の一人一人も教会と呼ばれる者ですが、同時に一人一人がそのからだの器官(肢体)であると語られています。

【ローマ12:4,5】
12:4 なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、
12:5 わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。

【1コリント12:12-14】
12:12 からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。
12:13 なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。
12:14 実際、からだは一つの肢体だけではなく、多くのものからできている。

この一つ一つの器官としての現れは、御霊の現れである賜物の違いという形で現れますが、その賜物をもって互いに仕え合うという形で、一つの体として機能するように造られているのです。

【1ペテロ】
4:10 あなたがたは、それぞれ賜物をいただいているのだから、神のさまざまな恵みの良き管理人として、それをお互のために役立てるべきである。

いかがでしょうか。
こうして見ると、本当に人の体と同様に教会はキリストのみからだであることがわかったことでしょう。
そして同時に健やかな教会の姿というものが、このみからだとして、命を持って、一人が全体につながり、支え、仕え、また全体が一人を生かす姿であり、互いが互いを思い、互いを尊び、互いに愛するところに、全体の体の思いが現れ、それはキリストの思いの現れと異なることはありません。
だからこそ、今日の聖句が意味を持つのです。
「一つの肢体が悩めば、ほかの肢体もみな共に悩み、一つの肢体が尊ばれると、ほかの肢体もみな共に喜ぶ。(1コリント12:26)」
あなたが痛めば、キリストが痛み、教会全体が痛むのです。
あなたの喜びを、キリストは喜ばれ、からだ全体が喜ぶのです。

【1コリント12:22-25】
12:22 そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、
12:23 からだのうちで、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、
12:24 麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互にいたわり合うためなのである。

こうしていたわり合い、尊び合い、互いが一つの器官として互いに尊ばれ神のいつくしみとあわれみが注がれ、栄光が現され輝く時、神の喜びがからだ全体に満ちる。
こうして、一人一人が主の思いの内に、みからだとして健やかに繋がるのであれば、教会は主の目的を果たして、主の計画を成就する者として、主の御心のままに、主が自由に働かれる、本来の教会の姿を現すことになります。

【マタイ16:18,19】
16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
16:19 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

【マタイ18:18-20】
18:18 よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。
18:19 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。
18:20 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

【ヨハネ14:12-14】
14:12 よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。
14:13 わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。
14:14 何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。

それは私達が想像する以上の教会の健やかな姿。
まるで初代教会の時代に現れた、使徒行伝に語られているような、生き生きとキリストの命が息吹き、この世を神の国が飲み込んでしまうかのような、絶大な力を持つ教会の姿。
しかし、私達はまだその姿を見ていません。
むしろ、多くの兄弟姉妹が教会から離れ、一人信仰を何とか保とうとする生活を送られているということを知り、心が痛みます。
それは主のみからだとしての本来の姿を持つ健やかな教会が少ないからとも言えるでしょう。
しかし、逆にみからだとして繋がることを抜きに、自らがただ一人健やかにキリストに繋がることは難しく、サタンは教会から兄弟姉妹を引き離して、みからだの器官としての力を失わせ、結果無力で無防備となった者をサタンの罠の内に引き込もうとする。
あるいはその信仰さえも覆い隠し奪おうとする、非常に危険な中に身を置いていることでもあるのです。
世は私達を憎み、主ご自身は私達をこの世に遣わすことを非常に危険なこととして気にかけています。

【ルカ10:3】
10:3 さあ、行きなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは、小羊をおおかみの中に送るようなものである。

【ヨハネ15:18,19】
15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。

私達一人一人が教会です。
そして、つらなるキリストのみからだが教会です。
ここにキリストの絶大な力が満ち、ここに命が溢れ、ここに神の計画が成就し、ここに神の栄光が溢れ、そして私達はとどまることなくこの主の栄光をたたえ続けるのです。
それが教会です。

【ヘブル10:23-25】
10:23 また、約束をして下さったのは忠実なかたであるから、わたしたちの告白する望みを、動くことなくしっかりと持ち続け、
10:24 愛と善行とを励むように互に努め、
10:25 ある人たちがいつもしているように、集会をやめることはしないで互に励まし、かの日が近づいているのを見て、ますます、そうしようではないか。

あなたが健やかに、主が望まれる場所に、みからだとしてつなげられることを心から祈ります。
また、幸いにも今教会につらなることが与えられている兄弟姉妹においては、さらに健やかに主のみからだとしての命の交わりが、豊かに溢れるよう祈ります。

【2コリント13:13】
13:13 主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。

ゆるしという愛

2014年09月30日 12:45

【マタイ18:23-35】
18:23 それだから、天国は王が僕たちと決算をするようなものだ。
18:24 決算が始まると、一万タラントの負債のある者が、王のところに連れられてきた。
18:25 しかし、返せなかったので、主人は、その人自身とその妻子と持ち物全部とを売って返すように命じた。
18:26 そこで、この僕はひれ伏して哀願した、『どうぞお待ちください。全部お返しいたしますから』。
18:27 僕の主人はあわれに思って、彼をゆるし、その負債を免じてやった。
18:28 その僕が出て行くと、百デナリを貸しているひとりの仲間に出会い、彼をつかまえ、首をしめて『借金を返せ』と言った。
18:29 そこでこの仲間はひれ伏し、『どうか待ってくれ。返すから』と言って頼んだ。
18:30 しかし承知せずに、その人をひっぱって行って、借金を返すまで獄に入れた。
18:31 その人の仲間たちは、この様子を見て、非常に心をいため、行ってそのことをのこらず主人に話した。
18:32 そこでこの主人は彼を呼びつけて言った、『悪い僕、わたしに願ったからこそ、あの負債を全部ゆるしてやったのだ。
18:33 わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか』。
18:34 そして主人は立腹して、負債全部を返してしまうまで、彼を獄吏に引きわたした。
18:35 あなたがためいめいも、もし心から兄弟をゆるさないならば、わたしの天の父もまたあなたがたに対して、そのようになさるであろう」。

神が私達に与えてくださった愛は、ゆるしという形の愛でした。
人は善悪の知恵の木から実を食べたそのときから、神の性質の一つが善であり、また神そのものが善であり、それ以外に善という性質は存在しないのに、善と悪を知り、自らは神ではない、一被造物でしかないのに、善と悪とを自らが測ろうとする存在になりました。(創世記3章より)
自らの存在を善とする。自らを正義とする。
それこそが、自らが「私はある」という存在となろうとして神に敵対する者となった、サタンそのものの性質でしかない、それこそが「悪」でしかないのに、人は自らに正義の基準を置く者となったのです。
つまり、人は自らを正しいとし、自ら以外の他者を自らの善悪の判断で、測る者となった。
少し難しい言い方をしましたが、人は自分を正しいとするから、他人を受け入れられない者となったのです。
それが「ゆるせない」という感情です。
主イエスはこの他人をゆるせず、自らを正当化する、その人間達の裁きの中で、十字架にかけられました。
自らの正しさで裁き、最も正しき神の御子という存在を十字架にかけるという、大きな過ちを犯したのです。
しかし、この取り返しのつかない罪を犯した者のため、主イエスは父なる神に祈られました。
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです(ルカ23:34)」と。
この言葉により、私達はゆるされました。
自らを正しいと主張し、神の命をも除こうとする大罪人の私を、ただこの方のゆるしによって、本来裁かれて永遠に滅ぶべきであるのに、救われたのです。
それが私達の姿です。
であるのに、私達はなおも自らの正しさを主張し、他人を測り(マタイ7:1-5)、ゆるすことを退け永遠の裁きにつけて滅ぼそう(マタイ18:28-30)とするのでしょうか。
そのようなことをするのであれば、ゆるさない者も神の裁きを受け(マタイ18:31-35)、ゆるされない者も裁きの苦しみの中に閉じこめられる(マタイ5:25,26)のです。
このゆるせないという互いの感情にはサタンののろいと言うべき、自らの罪を棚に上げて、他者の罪を糾弾し、自らと共に永遠の裁きの獄に閉じ込めるという、糾弾者サタンそのものの性質(ヨブ1:9-11,2:4,5)が隠されているのです。
だからこそ、主が私達に最初に現してくださったのが、十字架のゆるしであり、またそのゆるすという愛を私達自身の内に満ちあふれさせることを望まれるのです。

【エペソ4:32】
4:32 互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互にゆるし合いなさい。

そこに天国の鍵があります。
教会に与えられている天国の鍵(マタイ16:18,19)は、主イエスの十字架のゆるしのゆえに与えられたものであり、神の裁きの一端が私達にあずけられているという途方もない権限なのです。
それはこの世をも、サタンをも、裁く権限(1コリント6:2,3)を意味するものです。
むしろ、この絶大な事実を知るのであれば、もっと主を恐れ、また罪深き私自身にこのような権限を与えられている事実に恐れるはずです。
そして、その権限をいかに使うことを主が望まれるのかを知り、まず互いにゆるし、互いに受け入れ、互いに愛することがいかに重要であると主が語られているのかに目覚めるはずなのです。

【マタイ18:15-22】
18:15 もしあなたの兄弟が罪を犯すなら、行って、彼とふたりだけの所で忠告しなさい。もし聞いてくれたら、あなたの兄弟を得たことになる。
18:16 もし聞いてくれないなら、ほかにひとりふたりを、一緒に連れて行きなさい。それは、ふたりまたは三人の証人の口によって、すべてのことがらが確かめられるためである。
18:17 もし彼らの言うことを聞かないなら、教会に申し出なさい。もし教会の言うことも聞かないなら、その人を異邦人または取税人同様に扱いなさい。
18:18 よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。
18:19 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。
18:20 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。
18:21 そのとき、ペテロがイエスのもとにきて言った、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯した場合、幾たびゆるさねばなりませんか。七たびまでですか」。
18:22 イエスは彼に言われた、「わたしは七たびまでとは言わない。七たびを七十倍するまでにしなさい。

私達が真に主イエスのゆるしという愛を知り、そのように他者を愛するのでなければ、どうして主は私達にこの地の全てを任せてくださることがありましょうか。
それは子供に刃物を持たせるようなものです。
未だに愛すべき兄弟姉妹を憎むのであれば、それは神にないのです。

【1ヨハネ3:10-16】
3:10 神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。兄弟を愛さない者も、同様である。
3:11 わたしたちは互に愛し合うべきである。これが、あなたがたの初めから聞いていたおとずれである。
3:12 カインのようになってはいけない。彼は悪しき者から出て、その兄弟を殺したのである。なぜ兄弟を殺したのか。彼のわざが悪く、その兄弟のわざは正しかったからである。
3:13 兄弟たちよ。世があなたがたを憎んでも、驚くには及ばない。
3:14 わたしたちは、兄弟を愛しているので、死からいのちへ移ってきたことを、知っている。愛さない者は、死のうちにとどまっている。
3:15 あなたがたが知っているとおり、すべて兄弟を憎む者は人殺しであり、人殺しはすべて、そのうちに永遠のいのちをとどめてはいない。
3:16 主は、わたしたちのためにいのちを捨てて下さった。それによって、わたしたちは愛ということを知った。それゆえに、わたしたちもまた、兄弟のためにいのちを捨てるべきである。

私達は主イエスに愛され、その愛を知る者とされました。そして、その愛をもって、神を愛し、また隣人を愛する者となりました。
しかし、まだ私達の愛は成熟していません。
その愛が成熟するとき私達は神にお会いする備えができ、全うされた愛の内に私達は主と一つとされ、また同時に主にあって互いに一つとされるのです。

【エペソ1:7-10】
1:7 わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。
1:8 神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、
1:9 御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。
1:10 それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。

これは主の奥義であり、私達教会の歩みにおいて、とても重要なことです。
だから、今この時、その愛を成熟させるべく、愛を働かせて(ガラテヤ5:6,1コリント13:1-3)、歩んでいきましょう。

愛なき私達に主イエスの愛が満ちあふれ、全き愛(1ヨハネ4:12)に導かれる教会と私達がなりますように。

※聖書の引用箇所になります。ご参照ください。

【創世記3:1-11,22-24】
3:1 さて主なる神が造られた野の生き物のうちで、へびが最も狡猾であった。へびは女に言った、「園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか」。
3:2 女はへびに言った、「わたしたちは園の木の実を食べることは許されていますが、
3:3 ただ園の中央にある木の実については、これを取って食べるな、これに触れるな、死んではいけないからと、神は言われました」。
3:4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
3:5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
3:7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
3:9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
3:10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
3:11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。
 [中略]
3:22 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。
3:23 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。
3:24 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

【マタイ7:1-5】
7:1 人をさばくな。自分がさばかれないためである。
7:2 あなたがたがさばくそのさばきで、自分もさばかれ、あなたがたの量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう。
7:3 なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁を認めないのか。
7:4 自分の目には梁があるのに、どうして兄弟にむかって、あなたの目からちりを取らせてください、と言えようか。
7:5 偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけるがよい。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からちりを取りのけることができるだろう。

【マタイ5:23-26】
5:23 だから、祭壇に供え物をささげようとする場合、兄弟が自分に対して何かうらみをいだいていることを、そこで思い出したなら、
5:24 その供え物を祭壇の前に残しておき、まず行ってその兄弟と和解し、それから帰ってきて、供え物をささげることにしなさい。
5:25 あなたを訴える者と一緒に道を行く時には、その途中で早く仲直りをしなさい。そうしないと、その訴える者はあなたを裁判官にわたし、裁判官は下役にわたし、そして、あなたは獄に入れられるであろう。
5:26 よくあなたに言っておく。最後の一コドラントを支払ってしまうまでは、決してそこから出てくることはできない。

【ヨブ1:6-11,2:1-5】
1:6 ある日、神の子たちが来て、主の前に立った。サタンも来てその中にいた。
1:7 主は言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。
1:8 主はサタンに言われた、「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか」。
1:9 サタンは主に答えて言った、「ヨブはいたずらに神を恐れましょうか。
1:10 あなたは彼とその家およびすべての所有物のまわりにくまなく、まがきを設けられたではありませんか。あなたは彼の勤労を祝福されたので、その家畜は地にふえたのです。
1:11 しかし今あなたの手を伸べて、彼のすべての所有物を撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。
 [中略]
2:1 ある日、また神の子たちが来て、主の前に立った。サタンもまたその中に来て、主の前に立った。
2:2 主はサタンに言われた、「あなたはどこから来たか」。サタンは主に答えて言った、「地を行きめぐり、あちらこちら歩いてきました」。
2:3 主はサタンに言われた、「あなたは、わたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか。あなたは、わたしを勧めて、ゆえなく彼を滅ぼそうとしたが、彼はなお堅く保って、おのれを全うした」。
2:4 サタンは主に答えて言った、「皮には皮をもってします。人は自分の命のために、その持っているすべての物をも与えます。
2:5 しかしいま、あなたの手を伸べて、彼の骨と肉とを撃ってごらんなさい。彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたをのろうでしょう」。

【マタイ16:18,19】
16:18 そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
16:19 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

【1コリント6:2,3】
6:2 それとも、聖徒は世をさばくものであることを、あなたがたは知らないのか。そして、世があなたがたによってさばかれるべきであるのに、きわめて小さい事件でもさばく力がないのか。
6:3 あなたがたは知らないのか、わたしたちは御使をさえさばく者である。ましてこの世の事件などは、いうまでもないではないか。

【ガラテヤ5:6】
5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。

【1コリント13:1-3】
13:1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
13:2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
13:3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

【1ヨハネ4:7-12】
4:7 愛する者たちよ。わたしたちは互に愛し合おうではないか。愛は、神から出たものなのである。すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。
4:8 愛さない者は、神を知らない。神は愛である。
4:9 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
4:11 愛する者たちよ。神がこのようにわたしたちを愛して下さったのであるから、わたしたちも互に愛し合うべきである。
4:12 神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。

互いに愛し仕える

2014年09月26日 11:55

【ヨハネ13:1-17】
13:1 過越の祭の前に、イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された。
13:2 夕食のとき、悪魔はすでにシモンの子イスカリオテのユダの心に、イエスを裏切ろうとする思いを入れていたが、
13:3 イエスは、父がすべてのものを自分の手にお与えになったこと、また、自分は神から出てきて、神にかえろうとしていることを思い、
13:4 夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、
13:5 それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。
13:6 こうして、シモン・ペテロの番になった。すると彼はイエスに、「主よ、あなたがわたしの足をお洗いになるのですか」と言った。
13:7 イエスは彼に答えて言われた、「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。
13:8 ペテロはイエスに言った、「わたしの足を決して洗わないで下さい」。イエスは彼に答えられた、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。
13:9 シモン・ペテロはイエスに言った、「主よ、では、足だけではなく、どうぞ、手も頭も」。
13:10 イエスは彼に言われた、「すでにからだを洗った者は、足のほかは洗う必要がない。全身がきれいなのだから。あなたがたはきれいなのだ。しかし、みんながそうなのではない」。
13:11 イエスは自分を裏切る者を知っておられた。それで、「みんながきれいなのではない」と言われたのである。
13:12 こうして彼らの足を洗ってから、上着をつけ、ふたたび席にもどって、彼らに言われた、「わたしがあなたがたにしたことがわかるか。
13:13 あなたがたはわたしを教師、また主と呼んでいる。そう言うのは正しい。わたしはそのとおりである。
13:14 しかし、主であり、また教師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。
13:15 わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ。
13:16 よくよくあなたがたに言っておく。僕はその主人にまさるものではなく、つかわされた者はつかわした者にまさるものではない。
13:17 もしこれらのことがわかっていて、それを行うなら、あなたがたはさいわいである。

ここに、教会において兄弟姉妹が互いに愛し合うことの、本質について語られています。
つまり、主が私達をどのように愛し、また私達が互いにどのように愛し合うことを、主が望んでおられるのかについて。
互いに愛し合うことを言葉にしたり、行動にしたりすること、教会において、それは見える形でわかる、クリスチャンらしさであり、信仰者のわかりやすい姿であると言えるでしょう。
また、そのように考えるべきであると、考え、あるいは教え、語り、教会が愛で溢れるように、努力することも、必要なことに思えるかも知れません。
しかし、ここにある主の思いはそのような「せねばならない」「あらねばならない」愛ではありません。
それは、親が子を慈しむような、あるいは本当に親しい友に大切なことを伝えるような、つまりは無理に注ごうとするのではなく、心の底から溢れ出て止まることのない愛であり、この愛を何か評したり、誇ったりするようなことのできない、最も純粋な愛の姿です。
そして、主はご自身が十字架にかかられる前夜、この大切な時を共に持つことを、切に願われていたのです。
それはご自身のこの最も純粋で深い愛について、ご自身の命をも友のためにささげようというほどの愛を、彼らにどうしても伝えたかったのであり、またそのような愛をもって互いに愛し合うことを、主が望んでいることを知って欲しいと願っていたからに違いありません。

【ヨハネ15:12-14】
15:12 わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
15:13 人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。
15:14 あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。

そして、その愛をもって互いに仕え合うのが教会であるということを、身をもって現されました。
当時足を洗うことは奴隷の仕事でした。
ですから、主イエスがしたことは弟子達にとっては考えられないようなことであり、だからこそペテロは、主がそのようにされることを拒もうとしたのです。
しかし、その愛を受け取らなければ、「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる(ヨハネ13:8)」と言われたのです。
それこそが教会における兄弟姉妹の互いに愛し合い仕え合う姿であり、それがなければ、同様に教会は互いに何の関係もなくなってしまうからです。
それも、奴隷に等しき最も低い者として互いに愛することを、主は願われました。
それは、足こそは人の最も汚れるところ、最も汚いところ、傷つき痛むところ、重荷を負い疲れているところであり、兄弟姉妹の最も罪で汚れ、傷つき痛み悲しみ、人生の重荷に押しつぶされているところには、最も低い者としてでなければ、向き合い、触れ、慰め、重荷を共に負うことはできないからです。
そのように互いを受け入れ、愛し合い、仕え合うのが、主が切に望む兄弟姉妹の姿だったのです。
これは非常に私達の愛の動機と純粋性を探る難しいことです。
なぜなら、本当に愛していなければ、そのようなことはできないからです。
そして、私達にそのような愛はないことを自分がよく知っている。
だから、主は私達の足を最も深い愛をもって、洗ってくださった。
この方が最も低い者として、私の汚れ果てた罪を十字架に流された血潮で洗い、その打ち傷をもって私の傷を負い、悲しみの人となって私の全ての悲しみと、押しつぶされる人生の重荷を、十字架の重さと共に負ってくださった。
さらにその愛をもって、日々世に出て汚れる、苦しみ、傷つく、私達の世との接地面である足を、いつもその十字架の血をもって洗ってくださる。
その止めどなく注がれ溢れる続ける主の愛を私達は知っているのです。
だから、この方の愛ゆえに、この方の愛する者をどうして愛さずにいられましょうか。

【ヨハネ5:1-3】
5:1 すべてイエスのキリストであることを信じる者は、神から生れた者である。すべて生んで下さったかたを愛する者は、そのかたから生れた者をも愛するのである。
5:2 神を愛してその戒めを行えば、それによってわたしたちは、神の子たちを愛していることを知るのである。
5:3 神を愛するとは、すなわち、その戒めを守ることである。そして、その戒めはむずかしいものではない。

このとき「もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。(ヨハネ4:12)」の言葉は成就し、神の完全なる愛の現れとしての教会を人は見ることになるのです。

【ヨハネ13:34,35】
13:34 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
13:35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。

これこそが愛による勝利です。
世は互いに党派心を持ち、互いに高い者となり、互いを支配しようとし、争い、憎しみ合います。
そのような者に、高い場所からの支配を与えるのはサタンであり、しかしその支配を受け取ってしまった者の結論は滅びであり、敗北です(詳しくは9/21のメッセージをお聞きください。)。
しかし、主イエスは愛する兄弟姉妹達に、そのようなものではない、主イエスが私達に注いだ愛を基とした、教会によって全うされた愛を世に見せつけ、完全なる愛による勝利を現したいのです。

【1ヨハネ4:18,19】
4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。
4:19 わたしたちが愛し合うのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからである。

私達に、この愛がなくとも、我が内に住まうキリストこそ「神は愛である。(ヨハネ4:8)」と言われる神に他なりません。
この方の愛が内にある限り、私達の愛は真実なものへと成長します。
だからこそ、主の注がれた愛をしっかりと受け止め、主を愛する愛をゆっくりと育み、やがて命をもささげて、なお余りある全うされた愛をもって、互いに愛し合う主イエスの切望される教会へと成長していこうではありませんか。

【雅歌8:4,6,7】
8:4 エルサレムの娘たちよ、わたしはあなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。
 [中略]
8:6 わたしをあなたの心に置いて印のようにし、あなたの腕に置いて印のようにしてください。愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。
8:7 愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。もし人がその家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、いたくいやしめられるでしょう。

主の切なる願いに心合わせ、共に、私達の内に主の愛が溢れ全うするよう祈って参りましょう。

完成された勝利に生きる

2014年09月24日 12:20

【1コリント15:55-57】
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。

主イエスキリストが与えてくださる勝利は私達が自分の手で勝ち取る勝利とは全く別次元のものです。
多くの人々にとっての勝利とは、自らの知恵や力を用いて、あるいは協力するなどして、結果として敗れる可能性のある戦いを戦って得るものです。
人の力には圧倒的な差というのはなかなか発生するものではありません。もちろんときにはそうしたことを味わうこともあるかも知れませんが、常にそのような勝利をするというものではありません。
ですから、敗れる可能性に恐れながらも、勝利のために自らを奮い起こし、あるいは全身全霊をもって、この戦いに望みます。
精神的にも勝利に集中し続け、あるいは何度も勝利をイメージし、心にそれを集中して刻みつけるようにしながら、毎日をそのために過ごしていく。
だからこそ自分に負けないという言葉のもと、自らを鼓舞して戦いに向かっていくしかない。
そこまでの努力や、積み重ねた日々重みが、勝利を得たとき、自らの達成感と共に、自らの栄光として帰ってくる。
これが世にあるところの勝利者でしょう。
この世においては、このように自らを注いで、あらゆる面において勝利を得ていく者を、人生の勝利者と呼び、賞賛の対象とし、理想として崇め、自らがそのようになりたいと思いながらも、現実は勝利でき切れない生活の中に生きていると考えている方も多くあるのではないでしょうか。
これが理想と現実のように。

【詩篇39:4-7】
39:4 「主よ、わが終りと、わが日の数のどれほどであるかをわたしに知らせ、わが命のいかにはかないかを知らせてください。
39:5 見よ、あなたはわたしの日をつかのまとされました。わたしの一生はあなたの前では無にひとしいのです。まことに、すべての人はその盛んな時でも息にすぎません。[セラ
39:6 まことに人は影のように、さまよいます。まことに彼らはむなしい事のために騒ぎまわるのです。彼は積みたくわえるけれども、だれがそれを収めるかを知りません。
39:7 主よ、今わたしは何を待ち望みましょう。わたしの望みはあなたにあります。

しかし、それらは人が力を失えば、また何か一つの歯車が狂ってしまえば失ってしまう勝利。
すぐにそれは幻と消え、過去の栄光と言う名の下に、移ろいゆく影のようにやがて全てが消え去って、その栄光があったことすら人々が覚えていることはありません。
何と儚い勝利を人は、追い求め、賞賛していることでしょうか。
ですから、主イエスキリストはこのようなことを決して勝利とは呼んでいません。
また、主は私達にそれを要求されているわけでもないし、そのような生き方を勝利者の生き方と呼ぶこともありません。
主イエスが与えてくださる勝利は、すでに完成された勝利です。
そしてこの世に対する完全な勝利であり、またこの戦いは私達の何かに任せられているのではなく、主イエスが勝ち取られたただ一度の完全なる勝利によって、全てが勝利の内に飲み込まれ、完成したという勝利です。

【ヨハネ16:33】
16:33 あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

【1ヨハネ5:4,5】
5:4 なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
5:5 世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。

つまり、主イエスキリストはただ一度十字架にかかられ、このことにより、主は世に勝ち(ヨハネ16:33、1ヨハネ5:4,5)、サタンに勝ち(ヘブル2:14,15)、肉に勝ち(ガラテヤ5:24)、罪に勝ち(1コリント15:55)、死に勝たれた(1コリント15:55)のです。
そう、私達の生きる全てを脅かしてきた死にすら完全に打ち勝たれた。
ですから、この世にある、あらゆるものも、私達を恐れさせることはできません。
主イエスキリストは十字架によって、私達を取り巻くありとあらゆる事に勝利をおさめられた(ローマ8:35-39)のです。
これにより、この十字架の下に来る者(私達)に、この圧倒的な勝利を与え、さらにはこの勝利によって、何を勝ち得られ、何を完成されたのかを見せてくださるのです。

【黙示録】
21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
21:5 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。また言われた、「書きしるせ。これらの言葉は、信ずべきであり、まことである」。

主イエスは今、私達を主ご自身の幕屋として、その内に住まわれ、永遠に離れることなく私達と共にいてくださるのです。
もはや涙を流す必要はありません。
死も、悲しみも、嘆きも、痛みも、主が私達の死に打ち勝たれ、全てに打ち勝たれ、よみがえられたのです。
そして、私達をこの地にいながらも、主が私達に与えてくださった新しい命、神の国をつぐことの証印としての聖霊(エペソ1:13,14)によって、この天の御国、完成された新エルサレム、永遠の都に、入らせてくださるのです。
これは絵空事でも幻でもありません。
この事実があなたが救われた時に与えられた絶対的な平安であり、あなたはそのときから、この永遠の都に住まう素晴らしさを霊の内に知り、喜んでいたのです。
さらには、主がおられるのであれば何があろうとも平気である感じられたあの平安は、全てに勝利を、あなた自身がすでに得ていた確証であったのです。
すでに勝負は済んでしまっていたのです。
あなたの戦いは主がすでに戦い、勝利を完成していてくださっていたのです。
あなたはこの勝利に基づき、十字架の下に、このキリストの流された血の契約により、全ての面、全ての事において、勝利を受け取る歩みを進めればよいだけなのです。
なぜ、敗れたかのように悩んでいるのでしょう。
なぜ、失ったかのように悲しんでいるのでしょう。
なぜ、世にあるものに怯えて、恐れの内に閉じこもっているの必要があるのでしょう。
なぜ、人生に絶望することがありますか。
勝利を味わう人生は、すでにあなたの内に来ているのです。
この十字架にある勝利の確信は初めから私達に与えられており、この確信において、全てのものを受け取ればいいのです。
天に於いて完成したものは、必ず地に於いてその完成は現れます。
あなたのすでに天に於いて受け取ったものは、地に於いて必ず現れるでしょう。
恐れる必要はないのです。

さあ、主イエスキリストにあって、勝利者としての歩みを始めましょう。

※メッセージで引用した聖書箇所です。ご参照ください。

【ヘブル2:14,15】
2:14 このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、
2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。

【ガラテヤ5:24】
5:24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。

【ローマ8:35-39】
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。(新改訳では「圧倒的な勝利者となるのです。」とあります。)
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

【エペソ1:13,14】
1:13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

新しい命の感覚

2014年09月23日 09:15

【エペソ4:30】
4:30 神の聖霊を悲しませてはいけない。あなたがたは、あがないの日のために、聖霊の証印を受けたのである。

新しい命として与えられ、私達の内に住まう神。栄光の望みである、私達の内にいますキリスト(コロサイ1:27)。
神の測り知れない力を持つ土の器の中にある宝(2コリント4:7)。
この一方的な恵みである、人知を超えた奇跡、神が私達の内に住まうということが今まさになされている。
私達はこの恵みを本当に知っているでしょうか?
この奇跡を実感しているでしょうか?
今日の聖句において、重要な一つのことが語られています。
聖霊には感情があるのです。だから聖霊は悲しむ。
そして、私達はこの聖霊の思いを知ることがゆるされています。
それはキリストの思いを知ることでもある。

【1コリント2:10-16】
2:10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
2:11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
2:12 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。
2:13 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。
2:14 生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。
2:15 しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。
2:16 「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。

主の思い、聖霊の思いを私達は、私達自身の思い、心とは別に私達の内に感じることができます。この聖霊との交わり(2コリント13:13)。ここに御霊に導かれる歩み(ガラテヤ5:16-18)があります。
主が何を喜ばれ、何に怒り、何を悲しまれるのか。第一に私達はこのような形で主の思いを知り、主に導かれるのです。
もしも、この主の思いを知りながら、自分の思いを優先し、この思いを退け、逆らうならどうなるでしょうか?
聖霊は悲しまれるのです。
このとき私達の心は神に逆らい、神から離れようとしているからです。
ここに罪の感覚が存在します。
この状態を放置し、主の思いを無視し続け、主を悲しませ続けることは、自らの自由(放縦)を求める思いの前には簡単のことです。
しかしこれは非常に危険なことです。
なぜなら、この聖霊の語りかけを無視し続けるなら、私達は無感覚になり、主を悲しませることを何とも思わず、何でもできるようなり、罪を犯し続けてしまうからです。

【エペソ4;17-24】
4:17 そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。
4:18 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、
4:19 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。
4:20 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。
4:21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。
4:22 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、
4:23 心の深みまで新たにされて、
4:24 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

ですから、この聖霊を悲しませるという感覚、聖霊の警告を無視すべきではありません。
その人はせっかく救われたのに、自らの足で永遠の滅びに日々近づこうとしているからです。
そして、その感覚は、逆らえば逆らうほど無感覚になっていくという恐ろしいもの。実はそれ自体がさばきであるのです。

【ルカ12:10】
12:10 また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない。

聖霊は、私達と神との直接の交わりを与えてくださる神の奇跡です。しかし、これに逆らい続け、拒み続けるならば、もう神の元に戻るための道を自らが閉ざすことになるのです。
この聖霊を受け入れたところから、私達の救いが始まったのなら、この聖霊を拒絶することは救いを拒絶し、滅びを日々決定づけるものとなるのです。
これが罪を犯し続けること、聖霊をけがす罪という恐ろしいことの結論です。
私達が聖霊を悲しませることは、とても小さく、簡単にそれを踏み越えることができるでしょう。
主は私達をゆるしてくださると、「これくらいはゆるしてください」と言いながら、簡単に神に罪への妥協を要求します。
しかし、主は私達の罪を悔い改めるなら、つまり神へと方向転換するなら、犯した罪はゆるされるのであり、決して罪を犯し続ける者を無条件にゆるされるわけではありません。
そのままゆるしを得ず、犯し続けた罪の、罪から来る報酬(ローマ6:23)は永遠の滅びであることに何の変わりはないのです。

ですが、このようなことのために私達は新しい命(聖霊)を受けたのではありません。
聖霊はやがて私達の体が全く贖われる日(ローマ8:23)に向かって、私達を証印として導くものです。

【1コリント】
15:50 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。
15:51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
15:52 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
15:53 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
15:54 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。

内なる聖霊のこの感覚は私達に神の国を継がせ(エペソ1:13,14)ます。
私達に朽ちないものを着させるために、キリストの花嫁として神の国に永遠に住まうにふさわしい者とするために、聖霊は私達を導くのです。

【2コリント】
3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

ですから、主を悲しませることを求めるのではなく、主を喜ばせることを望んで歩み続けましょう。
そこには私達の肉の目には見えないけれど、霊の目には後の日の栄光を見続け、その栄光を求め続けて歩む栄光の歩みが広がっているのです。

【2コリント】
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

今この主の思いに無感覚になっている兄弟姉妹がいるならば、主イエスの十字架の前に悔い改めて、主が喜ばれない全てのことを(罪を)、ひとつひとつ退け、取り除き(聖別)、主が喜ばれることをひとつひとつ選択して歩むように日々を変えていきましょう。
罪を求めるのではなく、主の栄光を求める生活を建て上げていきましょう。
主にあわれみを求めて共に祈りましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【コロサイ】
1:27 神は彼らに、異邦人の受くべきこの奥義が、いかに栄光に富んだものであるかを、知らせようとされたのである。この奥義は、あなたがたのうちにいますキリストであり、栄光の望みである。

【2コリント4:7】
4:7 しかしわたしたちは、この宝を土の器の中に持っている。その測り知れない力は神のものであって、わたしたちから出たものでないことが、あらわれるためである。

【2コリント13:13】
13:13 主イエス・キリストの恵みと、神の愛と、聖霊の交わりとが、あなたがた一同と共にあるように。

【ガラテヤ5:16-18】
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
5:18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。

【ローマ6:15-23】
6:15 それでは、どうなのか。律法の下にではなく、恵みの下にあるからといって、わたしたちは罪を犯すべきであろうか。断じてそうではない。
6:16 あなたがたは知らないのか。あなたがた自身が、だれかの僕になって服従するなら、あなたがたは自分の服従するその者の僕であって、死に至る罪の僕ともなり、あるいは、義にいたる従順の僕ともなるのである。
6:17 しかし、神は感謝すべきかな。あなたがたは罪の僕であったが、伝えられた教の基準に心から服従して、
6:18 罪から解放され、義の僕となった。
6:19 わたしは人間的な言い方をするが、それは、あなたがたの肉の弱さのゆえである。あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。
6:20 あなたがたが罪の僕であった時は、義とは縁のない者であった。
6:21 その時あなたがたは、どんな実を結んだのか。それは、今では恥とするようなものであった。それらのものの終極は、死である。
6:22 しかし今や、あなたがたは罪から解放されて神に仕え、きよきに至る実を結んでいる。その終極は永遠のいのちである。
6:23 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

【ローマ8:18-25】
8:18 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
8:22 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
8:23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
8:24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
8:25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

【エペソ1:13,14】
1:13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

心の思いを主にゆだねる

2014年09月19日 08:48

【ピリピ1:6】
1:6 そして、あなたがたのうちに良いわざを始められたかたが、キリスト・イエスの日までにそれを完成して下さるにちがいないと、確信している。

全ての良いわざは主から始まり、主により完成します。
私達の何ものかによることはありません。
私達の思いつきも、主の元に持って行くのでなければ、それが主からのものであるのか、自分の思いからなのかもわかりません。
そのことが主が望まれることなのか、主が喜ばれるのか、それともそうではないのかもわかりません。

【箴言19:21】
19:21 人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ。

そして、全ての動機がどこにあるのか、そのことはとても重要なことです。
それは自分自身の満足のためのものなのか、主の満足のためにそれを願うのか。

【2コリント5:14,15】
5:14 ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

もちろん主の満足のみを求めると言っても、自分に喜びがあってはいけないという意味では全くありません。
主の喜ばれることを私達が願うとき、私達の心の内は主の喜びで満たされ、平安が満ち溢れるからです。
しかし、逆に自分を満足させるために神の名を使い、神のためにそれをするかのように大義名分を作ることを人はよくします。
残念ながら、そのような偽りを主が見逃されることはなく、また喜ばれようはずはありません。

【マタイ7:21-23】
7:21 わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22 その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23 そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。

その動機が神だけの目的のものであれば、それが自らの手から離れても喜ぶし、また多くの人に賞賛されることなく、むしろ神の目だけを喜ばすものであっても、それを望むでしょう。

【マタイ6:1,4】
6:1 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。
 [中略]
6:4 すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

それがたとえ人の目には無駄に見えたとしても、神が喜ばれることのために自らの全てをささげることになっても、そのことを喜んで行うことでしょう。
(マリヤの香油,マタイ26:6-13、2枚のレプタ銅貨の寡婦,マルコ12:41-44、十字架,イザヤ53:2-6)

主は人の心の全ての奥底までをご覧になられ、その計画が主の思いにかなうものなのかを見極められます。
また人の思いを主の思いにかなうものとなることを願い、私達をその心ごと、思いごと導かれます。
だから、主はそのような人の心の全てをご存知で、その計画の全てを主の御手にまずゆだねることを願われるのです。

【箴言16:1-3】
16:1 心にはかることは人に属し、舌の答は主から出る。
16:2 人の道は自分の目にことごとく潔しと見える、しかし主は人の魂をはかられる。
16:3 あなたのなすべき事を主にゆだねよ、そうすれば、あなたの計るところは必ず成る。

ここから神の良いわざが始められます。
この方が始められた以上、その全ては必ず神の手により完成されます。
なぜなら、神は「わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。(黙示録21:6)」と言われる方であり、この方が「事はすでに成った。(黙示録21:6)」と言われ、全てを完成されたからです。
この方を初めとするのであれば、主がその終わりを完成されるのです。
その過程において、人がどのように関与するとか、人の努力をどれほど必要としているとか、現実がどれほどその完成への道のりからかけ離れているように見えるとか。
そのようなことは一切関係がありません。
人はそのような目に見えることに心揺れ動き、その計画の完成への確信を揺らがせることがありますが、
全ては主が完成してくださるのです。
もちろん、この行程において、私達が何かしらの形でこの計画に参画し、その全行程を見ながら主の素晴らしさを仰ぎ見続ける、そのような光栄にあずかることもあるでしょう。
でも、主が私達に見せたいのは主の力、主の愛、絶大なる主の素晴らしさ、麗しさ、その栄光そのものであり、主は、愛する者にはこのようにするのだと、この全地にその絶大なるわざを見せつけられるのです。(エペソ3:8-11,17-21)
だから主は取るに足りない私達のうちに良いわざを始められ、ご自身の手によって、主が再びこの地に来てくださるその日までに、全てを完成してくださるのです。
そしてまさにそのとき、私達はこの地に「キリストと共に栄光のうちに現れ(コロサイ3:4)」、全ては主が完成してくださったわざに他ならないのに、私達の行いをもって、主は私達に報いを与えてくださるのです。

【エペソ6:8】
6:8 あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。

【2コリント5:9,10】
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

だから主は私達にみこころのままに志を立てさせ、全てを完成に導いてくださる(ピリピ2:13)のです。
なんと素晴らしい、主のみわざ。
なんと麗しき主の栄光。
なんと大いなる主の愛。
それは主が私達をご自身の助け手として、キリストの花嫁として召されたからなのです。
主はご自身のみわざを、私達を通して現されることを喜ばれるのです。

さあ、臆することなく主の前に出て、心の内の全てを主にゆだね、主の喜びと栄光を求めて、祈って参りましょう。
ただ、主のみこころのみが全地になりますように。

※メッセージ内の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【マタイ26:6-13】
26:6 さて、イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、
26:7 ひとりの女が、高価な香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、イエスに近寄り、食事の席についておられたイエスの頭に香油を注ぎかけた。
26:8 すると、弟子たちはこれを見て憤って言った、「なんのためにこんなむだ使をするのか。
26:9 それを高く売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。
26:10 イエスはそれを聞いて彼らに言われた、「なぜ、女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
26:11 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。
26:12 この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。
26:13 よく聞きなさい。全世界のどこででも、この福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。

【マルコ12:41-44】
12:41 イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。
12:42 ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。
12:43 そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。
12:44 みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。

【イザヤ53:2-6】
53:2 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。

【エペソ3:17-21】
3:17 また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
3:18 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
3:19 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
3:20 どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、
3:21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

【エペソ3:8-11】
3:8 すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、
3:9 更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。
3:10 それは今、天上にあるもろもろの支配や権威が、教会をとおして、神の多種多様な知恵を知るに至るためであって、
3:11 わたしたちの主キリスト・イエスにあって実現された神の永遠の目的にそうものである。

【コロサイ3:4】
3:4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

【ピリピ2:13(新改訳)】
2:13 神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。

天の賛美に入れられる時

2014年09月18日 08:56

【詩篇48篇】
コラの子の歌、さんび
48:1 主は大いなる神であって、われらの神の都、その聖なる山で、大いにほめたたえらるべき方である。
48:2 シオンの山は北の端が高くて、うるわしく、全地の喜びであり、大いなる王の都である。
48:3 そのもろもろの殿のうちに神はみずからを高きやぐらとして現された。
48:4 見よ、王らは相会して共に進んできたが、
48:5 彼らは都を見るや驚き、あわてふためき、急ぎ逃げ去った。
48:6 おののきは彼らに臨み、その苦しみは産みの苦しみをする女のようであった。
48:7 あなたは東風を起してタルシシの舟を破られた。
48:8 さきにわれらが聞いたように、今われらは万軍の主の都、われらの神の都でこれを見ることができた。神はとこしえにこの都を堅くされる。[セラ
48:9 神よ、われらはあなたの宮のうちであなたのいつくしみを思いました。
48:10 神よ、あなたの誉は、あなたのみ名のように、地のはてにまで及びます。あなたの右の手は勝利で満ちています。
48:11 あなたのさばきのゆえに、シオンの山を喜ばせ、ユダの娘を楽しませてください。
48:12 シオンのまわりを歩き、あまねくめぐって、そのやぐらを数え、
48:13 その城壁に心をとめ、そのもろもろの殿をしらべよ。これはあなたがたが後の代に語り伝えるためである。
48:14 これこそ神であり、世々かぎりなくわれらの神であって、とこしえにわれらを導かれるであろう。

神を喜び、主を賛美する者は、やがてその喜びに満ちた賛美の内に、ある所にたどり着くでしょう。
その賛美の中心地、賛美が永遠にとどまることなく、その中心には主ご自身が居られる場所。
永遠の都、聖なる都、新エルサレム。
そして、この都の内にいる者は地上のエルサレムが山に囲まれた堅固な要塞であるように、主の永遠の統治の内に、主ご自身が「火の城壁(ゼカリヤ2:5)」となり私達を囲み、ご自身の栄光でその内を満たされるでしょう。
主こそ我らのやぐら(詩篇18:2)となり、私達をあらゆる危険から常に守られるのです。
これに挑もうとする如何なる者もこれに太刀打ちできません。
その心は都を見るや主の恐れと、都に現された主の力と栄光を見て恐れ、急ぎ逃げ去るのです。
そして私達はこの絶対的な安全な場所、何ものにも揺るがされることのない主の宮のうちに、主のいつくしみを思い、絶え間なくその唇は賛美が溢れ出る。
この賛美は地の果てにまで溢れ出て多くの聖徒達も同様に祈りの内にこの都で賛美をささげ、それが全地を覆っているのがわかるでしょう。
まさに主の永遠の都は今ここにあり、永遠の神の国においては、やがて来るべき神の都は霊に満ちる祈りの内に現れ、圧倒的勝利の内に完成している(ヨハネ19:30,黙示録21:6)のです。
その勝利はこの地を飲み込むほどのもの。私達を取り囲んでいた困難も悩みも問題も全てはこの中に飲み込まれ主の勝利の内に全てが最善の形で完了してしまう。
私達の賛美とは、祈りとは、礼拝とは、そのようなものです。
つまりは私達は、主にひたすらに心を向け、神を信じ、この方の良くしてくださった事を何一つ忘れず、数え、ほめたたえ、また今私達が直面するあらゆることにおいても、主に願い求めるのなら必ず主が報いてくださる(ヘブル11:6)ことを信じ、主をほめたたえるなら、この宮の内に、都の内に私達の賛美は、祈りは、引き上げられる。
そして、天にある礼拝(黙示録4,5章)の内に自分も入れられていることを知るでしょう。
それは神の子羊の御前、永遠の勝利者であられる方の前に集うものであり、この場所から全地の裁きが下ることを知るでしょう。
ここにすべての勝利の源たる方が居られ、神の義により正しく裁きがなされている。
私達は、この王なる方の花嫁とされているのです。
私達を取り囲むあらゆることを超え、死を超えて、この主の御前に主だけを求めて、主への賛美の内に出るとき、主は金の勺をもって、あなたの願いを、あなたの名を呼び聞き入れてくださるでしょう。
「何を求めるのか。あなたの願いは何か。国の半ばでもあなたに与えよう(エステル5:3)」と。
だから、私達は主をほめたたえ得ないと思われるような状況に於いても、主をほめたたえ、主の御前に出るのです。
この方はあなたを愛し、私達が何ものを頼りとせず、主だけを愛し、この主だけが素晴らしき方と近づくのを、けっして無にされる方ではありません。
あなたを愛して止まないゆえに、勝利と恵みに満たして余りあるものとされるでしょう。
だから私達はなおさらに主をほめたたえ、「主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめる(詩篇27:4)」ことを永遠の望みとするでしょう(詩篇48:12,13)。

だから主を喜ぶことは私達の力なのです(ネヘミヤ8:10)。
「なえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにし(ヘブル12:12)」、しっかり立って、
今日も、主の素晴らしさを仰ぎ、賛美しましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ゼカリヤ2:4,5】
2:4 言った、「走って行って、あの若い人に言いなさい、『エルサレムはその中に、人と家畜が多くなるので、城壁のない村里のように、人の住む所となるでしょう。
2:5 主は仰せられます、わたしはその周囲で火の城壁となり、その中で栄光となる』と」。

【詩篇18:1-3】
18:1 わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。
18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
18:3 わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。

【ヨハネ19:30】
19:30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。

【黙示録21:6,7】
21:6 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

【ヘブル11:6】
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

【詩篇27:4】
27:4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。

【ネヘミヤ8:10】
8:10 憂えてはならない。主を喜ぶことはあなたがたの力です」。

【ヘブル12:11,12】
12:11 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
12:12 それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。

主を喜ぶことは

2014年09月17日 11:20

【詩篇100篇】
感謝の供え物のための歌
100:1 全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。
100:2 喜びをもって主に仕えよ。歌いつつ、そのみ前にきたれ。
100:3 主こそ神であることを知れ。われらを造られたものは主であって、われらは主のものである。われらはその民、その牧の羊である。
100:4 感謝しつつ、その門に入り、ほめたたえつつ、その大庭に入れ。主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。
100:5 主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。

主が私達の神であること、これに勝る喜びはありません。
この方を神とすることは、「わたしは有る(出エジプト3:14)」という方を私の神とするということであり、私の根源(創造主)とするということです。
それは私達を、主に造られた被造物としての本来の位置に、安息させるものです。(全てのものは本来あるべき場所に収まると安心するものだからです。)
常に「有って有られる方(出エジプト3:14)」。永遠に現在に有られる方。この方が万物が有るということの根源であり、この方を神とするということは私自身の存在を、この神の元に永遠に有る者とするということです。
それは私達の存在が永遠に保証されるというものです。これほどに、心に平安を与えることは他にないでしょう。

【ヨハネ14:27】
14:27 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。

誰でも自分の存在できる場所を求めてさまよい、存在できるために努力し、葛藤する。それがこの世の常であるのに、主を神とするということは、それだけで平安が満ち、その渇望を充分に満たしてあまりあるものとなるのです。

またこの方が神(創造主)であるということは、万物が主のものであるように、私達自身も主のものであるということです。
つまり、この方を我が神とするということは、この方の民となるという事であり、もっと驚くべき事に、主イエスの贖いが成し遂げられた現在においては、この方の子、神の子とされるということなのです。

【黙示録21:6,7】
21:6 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

これが私達の喜びの根源です。
この喜びは世が与えるいかなる悦びとは異なります。
この世の悦びは私達の状況が変われば消え失せるものです。
その悦びの根源となっている事自体が、消え失せる朽ちるものの上に成り立っているのですから、それははかなく消え失せ、移ろいゆくものであると言わざるを得ないでしょう。
この悦びを集めて、幸せな人生を築こうとするなら、人は簡単に絶望の中に身を沈めます。これが世の与えるものです。

【伝道者1:2-4,12:13,14】
1:2 伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である。
1:3 日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。
1:4 世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。
 [中略]
12:13 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。
12:14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

しかし、私達が主を神とし、この方自身を私達の喜びの根源とするとき、主に与えられた私達の命は、内側から喜びの声を上げ、その喜びは賛美となって主をほめずにはいられないものとなるでしょう。

【ローマ14:17】
14:17 神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びとである。

そのほめたたえる声はもうとどめることはできません。
やがて、大きな大きな賛美となって、私達は天の主の宮の大庭で、とどまることのない賛美をささげ続けるため、集められる。
地の教会はそのようにとどめることのできない賛美をささげ続けるために集まり、各々に与えられた喜びは溢れ溢れて、大きな喜びとなってその全体を満ち溢れさせるものとなるでしょう。

【詩篇100:4,5】
100:4 主に感謝し、そのみ名をほめまつれ。
100:5 主は恵みふかく、そのいつくしみはかぎりなく、そのまことはよろず代に及ぶからである。

さらにその喜びは主への感謝とそのみ名をほめたたえて、世代を越え、地域、空間を越えて溢れ、多くの造られた者達に主をほめたたえさせるものとなるでしょう。

【詩篇150:6】
150:6 息のあるすべてのものに主をほめたたえさせよ。主をほめたたえよ。

だから、今主の甘き御名を呼び、主を喜び、賛美することを始めましょう。
どんなに小さな声からでも、いいのです。
この喜びはやがてこのようにとどめられることなく、全地を覆う賛美となるのですから。

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