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永遠の救いの喜び

2014年12月31日 10:44

【イザヤ25:6-9】
25:6 万軍の主はこの山で、すべての民のために肥えたものをもって祝宴を設け、久しくたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。すなわち髄の多い肥えたものと、よく澄んだ長くたくわえたぶどう酒をもって祝宴を設けられる。
25:7 また主はこの山で、すべての民のかぶっている顔おおいと、すべての国のおおっているおおい物とを破られる。
25:8 主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。これは主の語られたことである。
25:9 その日、人は言う、「見よ、これはわれわれの神である。わたしたちは彼を待ち望んだ。彼はわたしたちを救われる。これは主である。わたしたちは彼を待ち望んだ。わたしたちはその救を喜び楽しもう」と。

私達に与えられた救いという事実は永遠です。そしてすでに完成されたものです。
確かにまだ体こそ贖なわれず(ローマ8:23、2コリント5:1-9)、この地においてはうめき叫んでいますが、その内には永遠の命があり、霊において私達はすでに永遠の存在とされています。
この地にある全てのものは過ぎゆき消えて行くものですが、私達自身は永遠の存在とされているのです。
だから永遠の神の御国に生きている、天に国籍(ピリピ3:20)を持つ、天から来た存在(エペソ2:4-7)とされているのです。

【イザヤ25:8】
25:8 主はとこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民のはずかしめを全地の上から除かれる。

【黙示録21:3-5】
21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
21:5 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。

まさに死は滅ぼされ、涙はぬぐわれる。それは先のものが過ぎ去り、すべてが新しくなったからです。
私達はここに神が奥義としてこの世の終わり、その後に完成される新しい天と地、永遠の都新しいエルサレム(「この山」イザヤ25:6,7)として、キリストの花嫁として、私達教会が花婿キリストと結婚し一つとなり、永遠に共に住まう、天国が完成する姿の中に表される私達の姿を見ることができるのです。
それは永遠の先にあるものではなく、救われたその日から私達に与えられたもの。
驚くべきことに永遠は私達の中にすでに新しい命と共に入り込み、この命こそ、天から来て天の国籍を私達に与え、永遠の先にある完成されたこの天国の奥義に、今私達を突入させるものなのです。

【2コリント5:17】
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

この絶大なる恵み、完成された救いこそ、人の力では決して与えられないものであるということがわかるでしょう。
だからこそ、この救いは私達「自身から出たものではなく、神の賜物である(エペソ2:8)」としか言えないものなのです。
これがあなたに与えられた救いです。
どうでしょうか?
すでに私達の理解すらはるかに超えるこの恵みは、聖霊によりおおいが取り除かれ(イザヤ25:7、2コリント3:12-18)初めてわかるのですが、つまりは私達が神に祈り、賛美し、礼拝をささげるとき、この礼拝は天での礼拝にまで引き上げられ、一つとされ、全ての時間を超えて永遠の中に私達は入れられ、時間を忘れて主と交わるのです。
いつまでも祈りがとどまらないこともあれば、一瞬の間に時が止まったように永遠の礼拝をささげることもある。
私達は有限の時間の流れの中にいながら永遠に生き、地上に居ながら天の御国に生きている。
このような驚くべきことを日常の中に持つ者が、私達以外に世界中のいったいどこにいるでしょうか。
ここに私達が救いを受けたときに、如何に絶大なものを受け取ったのかということがわかるのです。
そうです。あなたは主に救われたあの日から、一日たりともこの驚くべき恵みから出されたことはないのです。
この中であなたの当たり前に見えていた一日は、あなたを通して地に天が入り込むように生きていたのです。
この中であなたは今年も、主の恵みの内に一年を過ごして来たのです。

救いの喜びを忘れていませんか?

ですから、今静かに目を閉じ、主に自らの全てをささげてみて下さい。
この世の喧噪を離れ、心にある全てのことを横に置いて、この救いを自らの命の代価によって与えて下さった、愛する主イエスにのみ心を向けて。
ただ静かに、主の安息の内に。
そう、そこに永遠の天の御国は溢れているのです。

【ローマ12:1,2】
12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ローマ8:18-25】
8:18 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。
8:19 被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
8:20 なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、
8:21 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。
8:22 実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
8:23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
8:24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
8:25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

【2コリント4:16-5:10】
4:16 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。
5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
5:6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
5:7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
5:8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

【ピリピ3:20,21】
3:20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。
3:21 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。

【エペソ2:4-7】。
2:4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、
2:5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし__あなたがたの救われたのは、恵みによるのである__
2:6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。
2:7 それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。
2:8 あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。

【2コリント3:12-18】
3:12 こうした望みをいだいているので、わたしたちは思いきって大胆に語り、
3:13 そしてモーセが、消え去っていくものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔におおいをかけたようなことはしない。
3:14 実際、彼らの思いは鈍くなっていた。今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、その同じおおいが取り去られないままで残っている。それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。
3:15 今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、おおいが彼らの心にかかっている。
3:16 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。
3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

天地に賛美が響く時

2014年12月25日 12:21

【ルカ2:13,14】
2:13 するとたちまち、おびただしい天の軍勢が現れ、御使と一緒になって神をさんびして言った、
2:14 「いと高きところでは、神に栄光があるように、地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」。

羊飼いに御使が現れ、救い主の誕生が語られたとき、天の御国が力をもって地上に現れました。
地上に天の栄光が押し入って来ています。
まさにこの後に語られる「悔い改めよ、天国は近づいた(ルカ3:2)」という言葉の通りのことがここに始まりました。
このことを「地の上では、み心にかなう人々(ルカ2:14)」を通して、主は成そうとされました。
主の御心に添う、小さな者達を通して。

【ルカ10:21,22】
10:21 そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。
10:22 すべての事は父からわたしに任せられています。そして、子がだれであるかは、父のほか知っている者はありません。また父がだれであるかは、子と、父をあらわそうとして子が選んだ者とのほか、だれも知っている者はいません」。

この御心にかなう者達が幼な子と呼ばれる、知恵のない者や賢くない者達であったことは何と幸いなことでしょう。
「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない(ルカ18:16,17)」とイエスは幼な子らを呼び寄せて言われ、親がいなければ何もできない無力で最も小さな幼な子を、神の国の住人に最もふさわしい者としてご自身の元に招かれました。

また、主ご自身が「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。(ルカ6:20)」と語られ、決してこの世での豊かな者に神の国を与えようと語っていないのもあわれみの深い主の御心です。

【マタイ21:31,32】
21:31 イエスは言われた、「よく聞きなさい。取税人や遊女は、あなたがたより先に神の国にはいる。
21:32 というのは、ヨハネがあなたがたのところにきて、義の道を説いたのに、あなたがたは彼を信じなかった。ところが、取税人や遊女は彼を信じた。あなたがたはそれを見たのに、あとになっても、心をいれ変えて彼を信じようとしなかった。

そして、ここでは罪深く自らの罪をよく知る取税人や遊女が神の国に真っ先に入ることが語られ、「祭司長たちや民の長老たち(マタイ21:23)」よりも先に、それまで神の国に遠いとされ、さげすまれていた者達が「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である。[中略]わたしがきたのは、義人を招くためではなく、罪人を招くためである(マタイ9:12,13)」と語られ、主はご自身からそのような者達に近づかれ親しく交わられ、彼らは神の国に入れられていったのです。

まさに天(の御国)にある神の栄光をもって「地の上」に、「み心にかなう人々(ルカ2:14)」を通して天にある神の平和(シャローム)があるように、神は願われました。
実に神の御業は麗しく、人の知恵によってはこの神の国に至らず、この世が与える豊かさも、人の持つ一切の力も、自らの正しさも、神の国に入る妨げにしかならない。
それらを全く持たないおよそ人の目に神の国にふさわしいと思えぬ者達に神の国は開かれたのです。

【ヨハネ3:16】
3:16 神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。

今私達はこのような恵みの中にいます。
私達はただ主の一方的なあわれみにより、主ご自身が地に降り、ご自身の命を私達の贖いのためにささげて下さった計り知れない愛により、天の御座にまで引き上げられ、今この天の賛美の中に加えられているのです。
それはこの地に、私達のような神の国におよそふさわしくない者達が、ただ神のあわれみのみによって神の国に入れられ、それによって、地に神の平和(シャローム)が現れるためだったのです。

【エペソ2:4-7】
2:4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、
2:5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし__あなたがたの救われたのは、恵みによるのである__
2:6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。
2:7 それは、キリスト・イエスにあってわたしたちに賜わった慈愛による神の恵みの絶大な富を、きたるべき世々に示すためであった。

何という人知を超えた、言葉に尽くせない恵みでしょうか。
これを喜ばずにいられるでしょうか。
これほどの御業を誰が想像し、理解することができるでしょうか。
どのようにこの感謝を神にささげたらいいのでしょうか。

だからこそ、天も地もこの素晴らしき方、神の前に永遠の賛美を捧げざるを得ないのです。
そして今日こそ、その神の御子が私達に与えられたことを感謝し賛美するにふさわしい日、クリスマスです。

だから、この恵みの日を神への感謝と賛美の一日としましょう。
さあ、共に永遠にとどまることのない神への礼拝をささげましょう。

【黙示録4:10-11,5:9-14】
4:10 二十四人の長老は、御座にいますかたのみまえにひれ伏し、世々限りなく生きておられるかたを拝み、彼らの冠を御座のまえに、投げ出して言った、
4:11 「われらの主なる神よ、あなたこそは、栄光とほまれと力とを受けるにふさわしいかた。あなたは万物を造られました。御旨によって、万物は存在し、また造られたのであります」。
 [中略]
5:9 彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
5:10 わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。
5:11 さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、
5:12 大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。
5:13 またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。
5:14 四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。

拒絶された救い主

2014年12月23日 12:43

【ルカ2:6,7】
2:6 ところが、彼らがベツレヘムに滞在している間に、マリヤは月が満ちて、
2:7 初子を産み、布にくるんで、飼葉おけの中に寝かせた。客間には彼らのいる余地がなかったからである。

救い主の存在は人を必ず二つに分けてしまいます。
彼を受け入れる者と、彼を拒絶する者。
彼の存在はその生まれたときから、このことをはっきりとさせていました。
人は彼が生まれてくるのを拒絶したのです。
拒絶された救い主それがイエスキリストです。

【ヨハネ1:9-13】
1:9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
1:10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
1:11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

私達が私達自身の力で、光を持つのであれば、彼の存在は迷惑なものとなるでしょう。
彼自身がまことの光であり、私達が輝く、あるいは作り出す光は、この光の前では何の意味もないもの。まことの光の圧倒的な輝きの前では、私達の光は闇に等しく、そこに命はありません。

【ヨハネ8:12】
8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。

命の光はそれを受け入れた者には命になるけれど、自らの光を保ちたい者には、まことの光は、自らの光がやみと変わりないことを現してしまう。
だから、自らに光を見出そうとする者は、まことの光を拒絶するしかできないのです。

【ヨハネ1:5】
1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。

「輝く自分になる」「光ある未来へ」そんなキャッチコピーが町には溢れ、クリスマスの街角はもう12月の始めから輝きっぱなしですが、この命のない偽りの光こそまことの光を拒絶するものです。それは私達でさえも。
自らの力で作り出した希望。毎日の生活を安定して与える豊かさ。それを支える金銀の輝き。光でつながる情報化社会に知識は溢れ、まるで一人一人が賢者のよう。
この豊かで平和に見える光溢れる生活を乱されたくない、神でさえも。
人の心は光ではなく闇を好んでいるに過ぎません。

【マタイ2:1-3,16】
2:1 イエスがヘロデ王の代に、ユダヤのベツレヘムでお生れになったとき、見よ、東からきた博士たちがエルサレムに着いて言った、
2:2 「ユダヤ人の王としてお生れになったかたは、どこにおられますか。わたしたちは東の方でその星を見たので、そのかたを拝みにきました」。
2:3 ヘロデ王はこのことを聞いて不安を感じた。エルサレムの人々もみな、同様であった。
 [中略]
2:16 さて、ヘロデは博士たちにだまされたと知って、非常に立腹した。そして人々をつかわし、博士たちから確かめた時に基いて、ベツレヘムとその附近の地方とにいる二歳以下の男の子を、ことごとく殺した。

【ヨハネ】
3:19 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。
3:20 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。
3:21 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。

しかし、暗き地を歩む者、神にしか頼るものがない者には、光が照ったのです。
それはまことの光を拒絶せず、いや拒絶しえない者だからこそ、その光を受け入れ、命を受けたのです。

【マタイ4:16】
4:16 暗黒の中に住んでいる民は大いなる光を見、死の地、死の陰に住んでいる人々に、光がのぼった」。

さて、今あなたはどうでしょうか?
これはかつて神を知る民イスラエルに救い主が与えられたのと同様に今クリスチャンである私達に問われています。
救い主イエスキリストを拒絶しないなら幸いです。
この方にのみ希望を持ち、この方にのみ寄りすがり、この方のみを光とし、この方のみを必要としこの方を求める者、この方を受け入れる者は幸いです。
命の光を得るでしょう。
そして、そのような者はいつでも飼い葉桶に眠る救い主に出会えることでしょう。人が拒絶し出会えなかった、羊飼いや博士達のように小さな寄る辺ない者にのみ出会うことのゆるされた小さな救い主に。

あなたへのよきおとずれ

2014年12月19日 12:13

【イザヤ40:9-11】
40:9 よきおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。よきおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、「あなたがたの神を見よ」と。
40:10 見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、そのはたらきの報いは、そのみ前にある。
40:11 主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる。

今この時代に主を知っている者は誰でしょうか?
一体私達の他に誰が主に触れるように、また見たように聞いたように、主と本当に交わったかのように、語ることができる者があるでしょうか?
この方の威光について語ることができる者は誰でしょうか?
神が絶大なる力を持って、この地に来られると力強く語れるのは、この神の国の国籍を持ち、その住人として、永遠の中で神の国の味わいを知っている私達の他ないではありませんか。
この地の人は、この世の君(悪魔)に従い、この地の中で生きるということ以外のことを全く知らないのです。
それはどこを探しても闇しかなく、何をしても罪しか存在しません。
絶望が全地を覆っているのに、探している光は、私達が光の子であるからこそ、私達の内に住まうまことの命の光から、この世を照らそうとしているのです。
どうしてこの光を覆い隠す必要があるでしょうか。
世の人々はどれほど自分で善いと思うことをしても、神が善であられる以上、その全てに善は存在せず、残念ながら神を知らずして最善にたどり着くことなく、全ては掛け違えて、罪にしかなりません。
そんな絶望的な罪の歩みから、救いについて語り、救い主の元に導くことのできるのは私達以外に誰もいません。
どうして、この救い主を、この神を見よと叫ばないでいられるでしょうか。

【ローマ10:8-17】
10:8 では、なんと言っているか。「言葉はあなたの近くにある。あなたの口にあり、心にある」。この言葉とは、わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉である。
10:9 すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。
10:10 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。
10:11 聖書は、「すべて彼を信じる者は、失望に終ることがない」と言っている。
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との差別はない。同一の主が万民の主であって、彼を呼び求めるすべての人を豊かに恵んで下さるからである。
10:13 なぜなら、「主の御名を呼び求める者は、すべて救われる」とあるからである。
10:14 しかし、信じたことのない者を、どうして呼び求めることがあろうか。聞いたことのない者を、どうして信じることがあろうか。宣べ伝える者がいなくては、どうして聞くことがあろうか。
10:15 つかわされなくては、どうして宣べ伝えることがあろうか。「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は」と書いてあるとおりである。
10:16 しかし、すべての人が福音に聞き従ったのではない。イザヤは、「主よ、だれがわたしたちから聞いたことを信じましたか」と言っている。
10:17 したがって、信仰は聞くことによるのであり、聞くことはキリストの言葉から来るのである。

ですから、私達はすべからく主の死と復活の証人なのです。
そして、この福音を止めてはならないと、述べ伝えるように私達に強く願われているのは、私達を愛し尽くして、私達にご自身の命を惜しまずに与えてくださった方、愛する主イエスキリストに他なりません。
どうして、この愛を止めておくことができるでしょうか。
この愛こそ、神であり、命であるからこそ、人を生かすのです。
そして、この命が私達の内に生きている。
この命を止めるのであれば、世界中誰にもこの命は届かず、誰も生かされず、滅びに突き進んでいくのです。
世界があなたの語り出す言葉を待っているのです。ここにしか希望はないのです。

だから、私達は主がこの地に来られることを語って、主のために前備えをする者として、主に遣わされたのです。バプテスマのヨハネが、初臨のキリストの前備えとなったように。
私達の本当の使命を忘れてしまってはいないでしょうか?

【イザヤ40:3-8】
40:3 呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。
40:4 もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、高底のある地は平らになり、険しい所は平地となる。
40:5 こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。これは主の口が語られたのである」。
40:6 声が聞える、「呼ばわれ」。わたしは言った、「なんと呼ばわりましょうか」。「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。
40:7 主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。
40:8 草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。

あなたの大切な人も、本当の希望を知ることがなければ、その人生は闇の中にしかありません。
そして、その闇は永遠の滅びに続く道のりをも隠し、どこに行くのかわからないまま、全ての人に一度定められている死の、その時に向かって歩んでいるのです。
いや、罪が満ち時が熟しているこの国の滅びが近いということが、絵空事ではなく現実となりつつあるということを、この時代に生きるあなた自身が、一番肌で知っているのではないでしょうか?
滅びが近いと知るならば、主が来られる時は近づいているのです。

【イザヤ6:8】
6:8 わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。

これから、世界中が主イエスの降誕を記念し祝うクリスマスの時を迎えます。
世はこのクリスマスの本当の意味を知りません。虚しく悦び、サンタクロースがプレゼントを運んでくる幸せの日としか思いもせず、その人生を全く新たにし、死から永遠の命へと、暗闇から光へと、悪魔の支配から主イエスキリストの支配へと、滅びの子から神の子へと、瞬時に変えてしまうような、神からの絶大な、救いという本当のプレゼントを受け取っていないし、そのことを知りもしないのです。
この時は誰もが知る時だからこそ、一つの大きな宣教の機会となることでしょう。

あなたの愛する人にも救い主は来ているのです。

一人でも多くの人々が救われるように、また私達自身に語るべき言葉が与えられるよう、今共に祈りましょう。

主を喜ばせる忠実な者

2014年12月18日 12:56

【ルカ16:10】
16:10 小事に忠実な人は、大事にも忠実である。そして、小事に不忠実な人は大事にも不忠実である。

神が私達に任せてくださることは、つまり私達が日々の生活の中で、主にあってすべきことは大きく二つあります。
それは大事と小事。
私達は時としてこれを見誤り大きな誤解をしたまま信仰生活を歩み続けることもありますが、大きなかけ違いとならないためにこのことをもう一度見つめていきたいと思います。
つまり、大事とは主ご自身のご計画。
主の計画は壮大で、歴史を貫き、いや歴史自体を造られる(History[歴史]=His[神の]story[話(言葉)])のは主ですから、その世界、時代を超えた主の計画はあまりにも大きなものです。
さらに言うのであれば、主の思いには奥義として、創造の始めから、現在に至るまで大きな一つの計画が存在しています。

【エペソ1:8-12】
1:8 神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、
1:9 御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。
1:10 それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。
1:11 わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。
1:12 それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。

私達はそのような方に触れ、そのような方と共に生き、またこの方の御心のままに人生を歩んで行く者です。
私達はそのためにこの地に造られました。
つまり、この主の御心を全く知らずに信仰者として歩んで行くことはできません。
ですから、私達は聖書を読み、御言葉から主の御心に耳を傾けます。
それがいかに大いなる計画であれ、主が御言葉を解き明かして、私達に直接語りかけられるのであれば、それは、あらゆる目に見える現実を超えて、真実であり、それは必ず成ります。(イザヤ55:8-11)
また、私達はこの方の御心が成るように祈ります。
確かに私達は小さな吹けば飛ぶような存在ですが、この方の最も必要としているときに、この方と共に、この方のために、祈ることができます。(マタイ26:37-44)
そして、祈りにおいては私達には制限がなく、祈りによって私達は世界中に出て行き、またあらゆる時代を超えて祈ることがゆるされています。
こうして、御言葉を読み、受け入れ、また主の御心を祈ることにおいて、私達は主の大事に従うことができます。

しかし同時に私達は行いにおいては全く大きなことはできません。
神の前に私達はとても力が小さく、その能力はあまりにありません。そしてそのことは主ご自身がよくご存知です。
ですから、主が私達に具体的に何かを行いにおいて望まれるとき、そのことは誰にでもできるような、非常に小さいこととなります。
誰もできないような、あるいは成功するか否かあまりに可能性の低いようなことを完全に成し遂げよなどということを私達にお求めになりません。(紅海を前にエジプト兵に挟まれたモーセ、出エジプト14:16。エリコ陥落、ミデアン軍と戦うギデオン、ヨシュア記6:2-5。士師記7:15-18)
聖書において全て大きな業に見える全てのことは神により成されたものであり、人によるものは何一つなく、それは人がほめたたえられることがないためであり、主がそれらの人々にせよと語られた内容自体は人間の生来持ち得る能力的にはきわめて小さな事に過ぎないのです。
つまり、誰にでもできるような小さな事、小事を主は人に命じられる。
しかし、それは人の目で見て、また思う部分であれば、難しく見える、つまりは信仰をもって行わなければできないような、でも簡単な行為をせよと神は語られる。
それは言うなれば、信仰による小さなささげ物(サムエル上15:22,23)としての行いをもって、私達が主に従うことを望まれるということなのです。
そのとき、主はそこに大いなる御業を成され、その圧倒的な御業は神のみにより成されたと、人々は神をほめたたえます。

また私達の信仰は行いを伴います。(ヤコブ2:14-26)
それは主を喜ばせるために私達は生きている(ローマ14:6-8)ためです。
ですから、私達の生活は主を喜ばせるために重ねられた小事により、できている。全ての成すべきことは、主が何を喜ばれるかにより選択され、その一つ一つの小事としての行いが信仰生活となっているはずなのです。
決して自分の思い、自分の満足、喜びのために生きる毎日であってはなりません。
そう言う意味に置いては、先に語った聖書(御言葉)を読み、祈るという行いも、とても小さな行い(小事)でありますが、主はこれらの小事をもって大事をなされ、主の大いなるご計画を成し遂げ、進められるのです。
今日の御言葉にある通り、私達が小事に忠実であれば、大事にも忠実な者となるのです。
主のご計画、語られる思いはあまりに大きく、時に私達に望まれることは人には到底できず、途方に暮れるような壮大なスケールなことに召されることもあるでしょう。
今私たちに主が語られるこの国を勝ち取れと語られることなどはそのようなものでしょうが、しかしこのように全ては私達の小さな行い、小事に忠実であることが重ねられて進んでいくのです。大いなる御業は全て主ご自身が成されるからこそ、全ては主の栄光となる(1コリント1:26-31)のです。
そして主はこの小事に忠実であった者に、後の日に大いなる報いをもって応えられ(ルカ19:15-17)、主がこの地にやがて来られる日には主と共にこの地を治める者となる(ダニエル7:26,27)よう望まれるのです。
今の私達の小さな歩み(小事)は永遠の歩み(大事)へとつながっています。

今日の一日も主にあって大切に歩んで参りましょう。
共に祈りましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【イザヤ55:8-11】
55:8 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。
55:9 天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。
55:10 天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者にかてを与える。
55:11 このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶところのことをなし、わたしが命じ送った事を果す。

【マタイ26:37-44】
26:36 それから、イエスは彼らと一緒に、ゲツセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。
26:37 そしてペテロとゼベダイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。
26:38 そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。
26:39 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
26:40 それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。
26:41 誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体が弱いのである」。
26:42 また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。
26:43 またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。
26:44 それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。

【ヨシュア記6:2-5】
6:2 主はヨシュアに言われた、「見よ、わたしはエリコと、その王および大勇士を、あなたの手にわたしている。
6:3 あなたがた、いくさびとはみな、町を巡って、町の周囲を一度回らなければならない。六日の間そのようにしなければならない。
6:4 七人の祭司たちは、おのおの雄羊の角のラッパを携えて、箱に先立たなければならない。そして七日目には七度町を巡り、祭司たちはラッパを吹き鳴らさなければならない。
6:5 そして祭司たちが雄羊の角を長く吹き鳴らし、そのラッパの音が、あなたがたに聞える時、民はみな大声に呼ばわり、叫ばなければならない。そうすれば、町の周囲の石がきは、くずれ落ち、民はみなただちに進んで、攻め上ることができる」。

【出エジプト14:16】
14:16 あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。

【士師記7:15-18】
7:15 ギデオンは夢の物語とその解き明かしとを聞いたので、礼拝し、イスラエルの陣営に帰り、そして言った、「立てよ、主はミデアンの軍勢をあなたがたの手にわたされる」。
7:16 そして彼は三百人を三組に分け、手に手にラッパと、からつぼとを取らせ、つぼの中にたいまつをともさせ、
7:17 彼らに言った、「わたしを見て、わたしのするようにしなさい。わたしが敵陣のはずれに達したとき、あなたがたもわたしのするようにしなさい。
7:18 わたしと共におる者がみなラッパを吹くと、あなたがたもまたすべての陣営の四方でラッパを吹き、『主のためだ、ギデオンのためだ』と言いなさい」。

【サムエル上15:22,23】
15:22 サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。
15:23 そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。

【ヤコブ2:14-26】
2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
2:15 ある兄弟または姉妹が裸でいて、その日の食物にもこと欠いている場合、
2:16 あなたがたのうち、だれかが、「安らかに行きなさい。暖まって、食べ飽きなさい」と言うだけで、そのからだに必要なものを何ひとつ与えなかったとしたら、なんの役に立つか。
2:17 信仰も、それと同様に、行いを伴わなければ、それだけでは死んだものである。
2:18 しかし、「ある人には信仰があり、またほかの人には行いがある」と言う者があろう。それなら、行いのないあなたの信仰なるものを見せてほしい。そうしたら、わたしの行いによって信仰を見せてあげよう。
2:19 あなたは、神はただひとりであると信じているのか。それは結構である。悪霊どもでさえ、信じておののいている。
2:20 ああ、愚かな人よ。行いを伴わない信仰のむなしいことを知りたいのか。
2:21 わたしたちの父祖アブラハムは、その子イサクを祭壇にささげた時、行いによって義とされたのではなかったか。
2:22 あなたが知っているとおり、彼においては、信仰が行いと共に働き、その行いによって信仰が全うされ、
2:23 こうして、「アブラハムは神を信じた。それによって、彼は義と認められた」という聖書の言葉が成就し、そして、彼は「神の友」と唱えられたのである。
2:24 これでわかるように、人が義とされるのは、行いによるのであって、信仰だけによるのではない。
2:25 同じように、かの遊女ラハブでさえも、使者たちをもてなし、彼らを別な道から送り出した時、行いによって義とされたではないか。
2:26 霊魂のないからだが死んだものであると同様に、行いのない信仰も死んだものなのである。

【ローマ14:6-8】
14:6 日を重んじる者は、主のために重んじる。また食べる者も主のために食べる。神に感謝して食べるからである。食べない者も主のために食べない。そして、神に感謝する。
14:7 すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。
14:8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。

【1コリント1:26-31】
1:26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
1:27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
1:28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
1:29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
1:30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
1:31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。

【ルカ19:12-27】
19:12 それで言われた、「ある身分の高い人が、王位を受けて帰ってくるために遠い所へ旅立つことになった。
19:13 そこで十人の僕を呼び十ミナを渡して言った、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』。
19:14 ところが、本国の住民は彼を憎んでいたので、あとから使者をおくって、『この人が王になるのをわれわれは望んでいない』と言わせた。
19:15 さて、彼が王位を受けて帰ってきたとき、だれがどんなもうけをしたかを知ろうとして、金を渡しておいた僕たちを呼んでこさせた。
19:16 最初の者が進み出て言った、『ご主人様、あなたの一ミナで十ミナをもうけました』。
19:17 主人は言った、『よい僕よ、うまくやった。あなたは小さい事に忠実であったから、十の町を支配させる』。
19:18 次の者がきて言った、『ご主人様、あなたの一ミナで五ミナをつくりました』。
19:19 そこでこの者にも、『では、あなたは五つの町のかしらになれ』と言った。
19:20 それから、もうひとりの者がきて言った、『ご主人様、さあ、ここにあなたの一ミナがあります。わたしはそれをふくさに包んで、しまっておきました。
19:21 あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです』。
19:22 彼に言った、『悪い僕よ、わたしはあなたの言ったその言葉であなたをさばこう。わたしがきびしくて、あずけなかったものを取りたて、まかなかったものを刈る人間だと、知っているのか。
19:23 では、なぜわたしの金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、わたしが帰ってきたとき、その金を利子と一緒に引き出したであろうに』。
19:24 そして、そばに立っていた人々に、『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナを持っている者に与えなさい』と言った。
19:25 彼らは言った、『ご主人様、あの人は既に十ミナを持っています』。
19:26 『あなたがたに言うが、おおよそ持っている人には、なお与えられ、持っていない人からは、持っているものまでも取り上げられるであろう。
19:27 しかしわたしが王になることを好まなかったあの敵どもを、ここにひっぱってきて、わたしの前で打ち殺せ』」。

【ダニエル7:21-27】
7:21 わたしが見ていると、この角は聖徒と戦って、彼らに勝ったが、
7:22 ついに日の老いたる者がきて、いと高き者の聖徒のために審判をおこなった。そしてその時がきて、この聖徒たちは国を受けた。
7:23 彼はこう言った、『第四の獣は地上の第四の国である。これはすべての国と異なって、全世界を併合し、これを踏みつけ、かつ打ち砕く。
7:24 十の角はこの国から起る十人の王である。その後にまたひとりの王が起る。彼は先の者と異なり、かつ、その三人の王を倒す。
7:25 彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かつ、いと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時と律法とを変えようと望む。聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。
7:26 しかし審判が行われ、彼の主権は奪われて、永遠に滅び絶やされ、
7:27 国と主権と全天下の国々の権威とは、いと高き者の聖徒たる民に与えられる。彼らの国は永遠の国であって、諸国の者はみな彼らに仕え、かつ従う』。

主の御言葉から離れることなく

2014年12月16日 12:16

【ヨハネ6:60-69】
6:60 弟子たちのうちの多くの者は、これを聞いて言った、「これは、ひどい言葉だ。だれがそんなことを聞いておられようか」。
6:61 しかしイエスは、弟子たちがそのことでつぶやいているのを見破って、彼らに言われた、「このことがあなたがたのつまずきになるのか。
6:62 それでは、もし人の子が前にいた所に上るのを見たら、どうなるのか。
6:63 人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。
6:64 しかし、あなたがたの中には信じない者がいる」。イエスは、初めから、だれが信じないか、また、だれが彼を裏切るかを知っておられたのである。
6:65 そしてイエスは言われた、「それだから、父が与えて下さった者でなければ、わたしに来ることはできないと、言ったのである」。
6:66 それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。
6:67 そこでイエスは十二弟子に言われた、「あなたがたも去ろうとするのか」。
6:68 シモン・ペテロが答えた、「主よ、わたしたちは、だれのところに行きましょう。永遠の命の言をもっているのはあなたです。
6:69 わたしたちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています」。

主が私達に直接語られる御言葉を知性で受け止めようとするのであれば、理解することは決してできないでしょう。
いや、理解できないどころか、主につまづきさえするでしょう。
多くの主に出会った者の内、頭で神を理解しようとした律法学者達がそうであったように。
しかし問題は「それ以来、多くの弟子たちは去っていって、もはやイエスと行動を共にしなかった。(ヨハネ6:66)」とあるように、主を求め主に付き従い、主の間近で主に触れ続け、また主の言葉を直接に聞き続けたはずの、多くの弟子達でさえそうであったということなのです。
それを分けたのは「人を生かすものは霊であって、肉はなんの役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、また命である。(ヨハネ6:63)」と主が語られているように、主の語られる言葉が霊であるという事実です。
そしてこの霊の言葉は霊によってでしか受け止めることはできません。神によらなければ(マタイ16:17)、人の力では決して理解ができないのです。

【1コリント2:8-16】
2:8 この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。
2:9 しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。
2:10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
2:11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
2:12 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。
2:13 この賜物について語るにも、わたしたちは人間の知恵が教える言葉を用いないで、御霊の教える言葉を用い、霊によって霊のことを解釈するのである。
2:14 生れながらの人は、神の御霊の賜物を受けいれない。それは彼には愚かなものだからである。また、御霊によって判断されるべきであるから、彼はそれを理解することができない。
2:15 しかし、霊の人は、すべてのものを判断するが、自分自身はだれからも判断されることはない。
2:16 「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。

多くの兄弟姉妹がこの神の言葉を人の力で何とか理解しようと努力し、またその人々が理解した神の言葉をもって、信仰を立て上げようとしています。
しかしその言葉には命がない(マタイ6:63)のです。

【マタイ15:7-9】
15:7 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、
15:8 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
15:9 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。

命のない信仰を重ね、常識としてあるいは習慣として語られる、多くの、信仰者としての、義務を果たすように信仰生活を送っても、いつまでも主の本当の心を知ることはなく、自分の心は神から離れるばかりです。
それはどれほど主の近くに居ても、主から離れていった弟子達と何の変わりもありません。
もしも主がご自身の御心の最も深いところ(マタイ6:53-58)を語られ、それが人の常識としての信仰をはるかに超えるようなことであったならば、あなたは本当にそこから離れていかないでしょうか。
自分が常識とする信仰に固執して、神から離れていかないでしょうか。
しかし、主が私達に与えたいと思っておられることは、いずれもそのようなものばかり(1コリント3:1,2、ヘブル5:11-6:3、エペソ1:17-19)なのです。

【ヤコブ1:5-8】
1:5 あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
1:6 ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。疑う人は、風の吹くままに揺れ動く海の波に似ている。
1:7 そういう人は、主から何かをいただけるもののように思うべきではない。
1:8 そんな人間は、二心の者であって、そのすべての行動に安定がない。

ですから、この霊の言葉を知るために
、どうしてまだ自分の知性を、人の力を求める必要があるでしょうか。
まず私達は疑うことなく主を信じ、主からその知恵をいただくために、恥じることなく主の御前に出て、幼子のように主に祈り願おうではありませんか。
そして、静かに共に聖書を開き、主の語られる御言葉に耳を傾けるように、聖書を読んでまいりましょう。
それこそが、どれほど優れた信仰書や解釈書よりも勝って、はるかにあなたに必要な真理を主ご自身が直接解き明かし語ってくださることとなるでしょう。
主はそのような祈りに、願いに必ず答えてくださいます。

【マタイ7:7-11】
7:7 求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう。門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。
7:8 すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである。
7:9 あなたがたのうちで、自分の子がパンを求めるのに、石を与える者があろうか。
7:10 魚を求めるのに、へびを与える者があろうか。
7:11 このように、あなたがたは悪い者であっても、自分の子供には、良い贈り物をすることを知っているとすれば、天にいますあなたがたの父はなおさら、求めてくる者に良いものを下さらないことがあろうか。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【マタイ16:17】
16:17 あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。

【ヨハネ6:53-59】
6:53 イエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。人の子の肉を食べず、また、その血を飲まなければ、あなたがたの内に命はない。
6:54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者には、永遠の命があり、わたしはその人を終りの日によみがえらせるであろう。
6:55 わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物である。
6:56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者はわたしにおり、わたしもまたその人におる。
6:57 生ける父がわたしをつかわされ、また、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きるであろう。
6:58 天から下ってきたパンは、先祖たちが食べたが死んでしまったようなものではない。このパンを食べる者は、いつまでも生きるであろう」。
6:59 これらのことは、イエスがカペナウムの会堂で教えておられたときに言われたものである。

【1コリント3:1,2】
3:1 兄弟たちよ。わたしはあなたがたには、霊の人に対するように話すことができず、むしろ、肉に属する者、すなわち、キリストにある幼な子に話すように話した。
3:2 あなたがたに乳を飲ませて、堅い食物は与えなかった。食べる力が、まだあなたがたになかったからである。今になってもその力がない。

【ヘブル5:11-6:3】
5:11 このことについては、言いたいことがたくさんあるが、あなたがたの耳が鈍くなっているので、それを説き明かすことはむずかしい。
5:12 あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。
5:13 すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。
5:14 しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。
6:1 そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、
6:2 洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。
6:3 神の許しを得て、そうすることにしよう。

【エペソ1:17-19】
1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、
1:18 あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
1:19 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

リバイバルに命をささげる者

2014年12月12日 12:07

【マラキ3:1-5】
3:1 「見よ、わたしはわが使者をつかわす。彼はわたしの前に道を備える。またあなたがたが求める所の主は、たちまちその宮に来る。見よ、あなたがたの喜ぶ契約の使者が来ると、万軍の主が言われる。
3:2 その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。彼は金をふきわける者の火のようであり、布さらしの灰汁のようである。
3:3 彼は銀をふきわけて清める者のように座して、レビの子孫を清め、金銀のように彼らを清める。そして彼らは義をもって、ささげ物を主にささげる。
3:4 その時ユダとエルサレムとのささげ物は、昔の日のように、また先の年のように主に喜ばれる。
3:5 そしてわたしはあなたがたに近づいて、さばきをなし、占い者、姦淫を行う者、偽りの誓いをなす者にむかい、雇人の賃銀をかすめ、やもめと、みなしごとをしえたげ、寄留の他国人を押しのけ、わたしを恐れない者どもにむかって、すみやかにあかしを立てると、万軍の主は言われる。

主がこの地に来られるとき、主はその前備えとしての人々を立てられます。
それは主が実際に来られたなら、裁きと恵みがはっきりとこの地に現されてしまうからです。
裁きは救いと一体となり、主に近づく者は恵みを受け、主を退け逆らう者、主以外に頼りとするもの(偶像)を持ち続ける者は必ず主と敵対する、そのような者を主はその御手を持って裁かれるのです。
そこで主はご自身が近づかれまさにこの地に来ようとしておられる時に、民々の心が主に向けられるよう、悔い改めて、心から主のものとなり、主に従い、主に仕えて生きる者となるよう、前備えとなる者をこの地に立てられるのです。
今私達は主の降誕を待ち望むアドベントの時期を迎えていますが、最初に主がこの地に来られ、主が公にご自身を現されて宣教を始められる、その時には前備えとして、エリアの霊と力により(ルカ1:13-17)バプテスマのヨハネが、イザヤの預言をもって立てられました。

【マタイ3:1-3】
3:1 そのころ、バプテスマのヨハネが現れ、ユダヤの荒野で教を宣べて言った、
3:2 「悔い改めよ、天国は近づいた」。
3:3 預言者イザヤによって、「荒野で呼ばわる者の声がする、『主の道を備えよ、その道筋をまっすぐにせよ』」と言われたのは、この人のことである。

そして、そこで主の民を聖別し、心が主から離れた民を主の元に、悔い改めの水のバプテスマをもって導いたのです。
同時に、後に来る方こそ聖霊と火によってバプテスマを授ける救い主であることを語り、自分が主の来られるまでの前備えに過ぎないことを語った(マタイ3:7-12)のです。

そして主は再臨という形でこの地に再び来られますが、その時には二人の預言者が宣教を行い、バプテスマのヨハネのように再臨の主が来られる前備えを行います。(黙示録11:3-13)

今幾度も主がこの地に、この国に、来られると私達に語りかけ、リバイバルについて主は語られています。
しかし、それは前備えとなる者達を主が求めておられるということなのです。
そして、初臨の時も再臨の時も、その前備えの働きをした者は殉教という結果を迎えていますが、このリバイバルを迎えるために命をかけて主を迎える者は誰かと、主は求めておられるのです。
悔い改めと救いを声高々に語り、兄弟姉妹を主の元に真のクリスチャン(キリストの奴隷)として生きるように導き、主を知らない人々を一人でも主の元に導くために、命をささげる者は誰かと主は渇いてこの地の聖徒達を見つめ、その渇きに答える者を探しておられるのです。
それは牧師、教師である必要はありません。大いなる者である必要はありません。
どれほどに小さい者でも、ただ聖徒一人一人の心を主はご覧になっているのです。

【ヨハネ19:28】
19:28 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。

【サムエル下23:15,16】
23:15 ダビデは、せつに望んで、「だれかベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をわたしに飲ませてくれるとよいのだが」と言った。
23:16 そこでその三人の勇士たちはペリシテびとの陣を突き通って、ベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水を汲み取って、ダビデのもとに携えてきた。

この地にまもなく主が来られ、すべての者をご自身の元に招かれ、主に逆らう者は裁かれる。その裁きは兄弟姉妹から始まり、その恐るべき主の日の様に「その来る日には、だれが耐え得よう。そのあらわれる時には、だれが立ち得よう。(マラキ3:2)」と語られるほどの日であるということを知る者は、主の渇きがなぜそれほどに深いものであるのかということを知るでしょう。

だから、
主のこの渇きに命をもって答える者は誰でしょうか。
主のリバイバルの日のために命をささげる者は誰でしょうか。
共に応答の祈りをささげましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ルカ1:13-17】
1:13 そこで御使が彼に言った、「恐れるな、ザカリヤよ、あなたの祈が聞きいれられたのだ。あなたの妻エリサベツは男の子を産むであろう。その子をヨハネと名づけなさい。
1:14 彼はあなたに喜びと楽しみとをもたらし、多くの人々もその誕生を喜ぶであろう。
1:15 彼は主のみまえに大いなる者となり、ぶどう酒や強い酒をいっさい飲まず、母の胎内にいる時からすでに聖霊に満たされており、
1:16 そして、イスラエルの多くの子らを、主なる彼らの神に立ち帰らせるであろう。
1:17 彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。

【マタイ3:7-12】
3:7 ヨハネは、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けようとしてきたのを見て、彼らに言った、「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、おまえたちはのがれられると、だれが教えたのか。
3:8 だから、悔改めにふさわしい実を結べ。
3:9 自分たちの父にはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起すことができるのだ。
3:10 斧がすでに木の根もとに置かれている。だから、良い実を結ばない木はことごとく切られて、火の中に投げ込まれるのだ。
3:11 わたしは悔改めのために、水でおまえたちにバプテスマを授けている。しかし、わたしのあとから来る人はわたしよりも力のあるかたで、わたしはそのくつをぬがせてあげる値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。
3:12 また、箕を手に持って、打ち場の麦をふるい分け、麦は倉に納め、からは消えない火で焼き捨てるであろう」。

【黙示録11:3-13】
11:3 そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう」。
11:4 彼らは、全地の主のみまえに立っている二本のオリブの木、また、二つの燭台である。
11:5 もし彼らに害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。もし彼らに害を加えようとする者があれば、その者はこのように殺されねばならない。
11:6 預言をしている期間、彼らは、天を閉じて雨を降らせないようにする力を持っている。さらにまた、水を血に変え、何度でも思うままに、あらゆる災害で地を打つ力を持っている。
11:7 そして、彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。
11:8 彼らの死体はソドムや、エジプトにたとえられている大いなる都の大通りにさらされる。彼らの主も、この都で十字架につけられたのである。
11:9 いろいろな民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめるが、その死体を墓に納めることは許さない。
11:10 地に住む人々は、彼らのことで喜び楽しみ、互に贈り物をしあう。このふたりの預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである。
11:11 三日半の後、いのちの息が、神から出て彼らの中にはいり、そして、彼らが立ち上がったので、それを見た人々は非常な恐怖に襲われた。
11:12 その時、天から大きな声がして、「ここに上ってきなさい」と言うのを、彼らは聞いた。そして、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。
11:13 この時、大地震が起って、都の十分の一は倒れ、その地震で七千人が死に、生き残った人々は驚き恐れて、天の神に栄光を帰した。

【サムエル下23:1-17】
23:13 三十人の長たちのうちの三人は下って行って刈入れのころに、アドラムのほら穴にいるダビデのもとにきた。時にペリシテびとの一隊はレパイムの谷に陣を取っていた。
23:14 その時ダビデは要害におり、ペリシテびとの先陣はベツレヘムにあったが、
23:15 ダビデは、せつに望んで、「だれかベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水をわたしに飲ませてくれるとよいのだが」と言った。
23:16 そこでその三人の勇士たちはペリシテびとの陣を突き通って、ベツレヘムの門のかたわらにある井戸の水を汲み取って、ダビデのもとに携えてきた。しかしダビデはそれを飲もうとはせず、主の前にそれを注いで、
23:17 言った、「主よ、わたしは断じて飲むことをいたしません。いのちをかけて行った人々の血を、どうしてわたしは飲むことができましょう」。こうして彼はそれを飲もうとはしなかった。三勇士はこれらのことを行った。

主の火がこの地に降るために

2014年12月11日 12:14

【列王記上18:17-41】
18:17 アハブはエリヤを見たとき、彼に言った、「イスラエルを悩ます者よ、あなたはここにいるのですか」。
18:18 彼は答えた、「わたしがイスラエルを悩ますのではありません。あなたと、あなたの父の家が悩ましたのです。あなたがたが主の命令を捨て、バアルに従ったためです。
18:19 それで今、人をつかわしてイスラエルのすべての人およびバアルの預言者四百五十人、ならびにアシラの預言者四百人、イゼベルの食卓で食事する者たちをカルメル山に集めて、わたしの所にこさせなさい」。
18:20 そこでアハブはイスラエルのすべての人に人をつかわして、預言者たちをカルメル山に集めた。
18:21 そのときエリヤはすべての民に近づいて言った、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい」。民はひと言も彼に答えなかった。
18:22 エリヤは民に言った、「わたしはただひとり残った主の預言者です。しかしバアルの預言者は四百五十人あります。
18:23 われわれに二頭の牛をください。そして一頭の牛を彼らに選ばせ、それを切り裂いて、たきぎの上に載せ、それに火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の牛を整え、それをたきぎの上に載せて火をつけずにおきましょう。
18:24 こうしてあなたがたはあなたがたの神の名を呼びなさい。わたしは主の名を呼びましょう。そして火をもって答える神を神としましょう」。民は皆答えて「それがよかろう」と言った。
18:25 そこでエリヤはバアルの預言者たちに言った、「あなたがたは大ぜいだから初めに一頭の牛を選んで、それを整え、あなたがたの神の名を呼びなさい。ただし火をつけてはなりません」。
18:26 彼らは与えられた牛を取って整え、朝から昼までバアルの名を呼んで「バアルよ、答えてください」と言った。しかしなんの声もなく、また答える者もなかったので、彼らは自分たちの造った祭壇のまわりに踊った。
18:27 昼になってエリヤは彼らをあざけって言った、「彼は神だから、大声をあげて呼びなさい。彼は考えにふけっているのか、よそへ行ったのか、旅に出たのか、または眠っていて起されなければならないのか」。
18:28 そこで彼らは大声に呼ばわり、彼らのならわしに従って、刀とやりで身を傷つけ、血をその身に流すに至った。
18:29 こうして昼が過ぎても彼らはなお叫び続けて、夕の供え物をささげる時にまで及んだ。しかしなんの声もなく、答える者もなく、また顧みる者もなかった。
18:30 その時エリヤはすべての民にむかって「わたしに近寄りなさい」と言ったので、民は皆彼に近寄った。彼はこわれている主の祭壇を繕った。
18:31 そしてエリヤは昔、主の言葉がヤコブに臨んで、「イスラエルをあなたの名とせよ」と言われたヤコブの子らの部族の数にしたがって十二の石を取り、
18:32 その石で主の名によって祭壇を築き、祭壇の周囲に種二セヤをいれるほどの大きさの、みぞを作った。
18:33 また、たきぎを並べ、牛を切り裂いてたきぎの上に載せて言った、「四つのかめに水を満たし、それを燔祭とたきぎの上に注げ」。
18:34 また言った、「それを二度せよ」。二度それをすると、また言った、「三度それをせよ」。三度それをした。
18:35 水は祭壇の周囲に流れた。またみぞにも水を満たした。
18:36 夕の供え物をささげる時になって、預言者エリヤは近寄って言った、「アブラハム、イサク、ヤコブの神、主よ、イスラエルでは、あなたが神であること、わたしがあなたのしもべであって、あなたの言葉に従ってこのすべての事を行ったことを、今日知らせてください。
18:37 主よ、わたしに答えてください、わたしに答えてください。主よ、この民にあなたが神であること、またあなたが彼らの心を翻されたのであることを知らせてください」。
18:38 そのとき主の火が下って燔祭と、たきぎと、石と、ちりとを焼きつくし、またみぞの水をなめつくした。
18:39 民は皆見て、ひれ伏して言った、「主が神である。主が神である」。
18:40 エリヤは彼らに言った、「バアルの預言者を捕えよ。そのひとりも逃がしてはならない」。そこで彼らを捕えたので、エリヤは彼らをキション川に連れくだって、そこで彼らを殺した。
18:41 エリヤはアハブに言った、「大雨の音がするから、上って行って、食い飲みしなさい」。

主の霊が雨のようにこの地に豊かに降り注ぎ、主の臨在の内に多くの人々が主にひざをかがめ、悔い改めて主の救いが波紋を広げるように広がり、信仰復興がなされる。
昭和の初期、また戦後の最も貧しかった時代に日本を覆ったこのリバイバルの御業も、この国がやがて豊かになり、主を頼らずとも生きられるようになると見られることはなくなり、ごく一部分でのそのような証しを除いて、もう何十年という時間が経過しました。
神よりも頼れるものがある。それがこの国が神に対して出した答えでした。それがこの国の現在の姿です。

今日の聖句の箇所はエリヤの時代、イスラエルが他の神々に仕えるようになり、雨が神によりとどめられ、地に降らなくなり(列王記16:29-17:1)、酷い飢饉がイスラエルを襲いました。
その姿の何と今のこの国の状態と酷似していることでしょう。
神よりも頼るものが各々にでき、思い思いに自分の良いと思うことを行うようになり、神の霊が臨むことが久しくとどめられ、神の祝福はとどめられて久しく時間が経過し、現実には問題ばかりが山積し未来が見えない暗闇の時代。

このような状態のイスラエルに神がエリヤを通して語ったのは、「あなたがたはいつまで二つのものの間に迷っているのですか。主が神ならばそれに従いなさい。しかしバアルが神ならば、それに従いなさい(列王記上18:21)」と、神に従うかそれとも神以外の他の神々に従うのかという問いでした。
そして生きて働く神がどちらなのか、「われわれに二頭の牛をください。そして一頭の牛を彼らに選ばせ、それを切り裂いて、たきぎの上に載せ、それに火をつけずにおかせなさい。わたしも一頭の牛を整え、それをたきぎの上に載せて火をつけずにおきましょう。こうしてあなたがたはあなたがたの神の名を呼びなさい。わたしは主の名を呼びましょう。そして火をもって答える神を神としましょう(列王記上18:23,24)」という形ではっきりとさせようとしました。
神の火が祭壇に降るためにエリヤが行ったことは「彼はこわれている主の祭壇を繕った(列王記上18:30)」ということなのです。
今この国の人々に、ここにこそ生ける神が居られると、主の臨在が炎のように燃え上がる祭壇となる、教会はどれほどあるのでしょうか。
いや、主はその火が降るためにまずこの祭壇を建て直すことを望まれています。
そこに主の霊が降るために。
その時、世の人々は何が彼らに未来を与え信ずべきものなのかを知るでしょう。
やがて、頼るべきものは神以外にないとわかり、神以外の頼るものが無意味なものとして、いやむしろ神から人の心を引き離す害を与えるもの(偶像)として取り除かれるとき、主の霊が雨の如くに全地に降り注ぐでしょう。
この国の各地で主の霊が注ぐとき、人々は神に立ち返り、この地からのろいが取り去られ祝福が回復していくことでしょう。

神以外にこの国を救うものはないということをまず教会が信じること。
この神以外に頼りとしていたものを教会が捨て、神のみに従い、神のものとして自らが全きささげ物としてささげられる生き方をする、そのようなクリスチャンが集う教会を建て直すこと。
その祭壇に真の礼拝(ローマ12:1)がささげられるとき、そこにこそ神の霊が火となって降り、神のリバイバルがそこから始められることでしょう。
ですから、まず私達から自らの信仰を見つめ直し、他に頼りとしているものがないか。まず私達が聖別されましょう。
そして、ただ主が来られることを望み、まず私達が主の御名を呼び求めましょう。
そこに主ご自身が臨まれ主の火が降るために。

【黙示録22:20】
22:20 これらのことをあかしするかたが仰せになる、「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【列王記16:29-17:1】
16:29 ユダの王アサの第三十八年にオムリの子アハブがイスラエルの王となった。オムリの子アハブはサマリヤで二十二年イスラエルを治めた。
16:30 オムリの子アハブは彼よりも先にいたすべての者にまさって、主の目の前に悪を行った。
16:31 彼はネバテの子ヤラベアムの罪を行うことを、軽い事とし、シドンびとの王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、これを拝んだ。
16:32 彼はサマリヤに建てたバアルの宮に、バアルのために祭壇を築いた。
16:33 アハブはまたアシラ像を造った。アハブは彼よりも先にいたイスラエルのすべての王にまさってイスラエルの神、主を怒らせることを行った。
16:34 彼の代にベテルびとヒエルはエリコを建てた。彼はその基をすえる時に長子アビラムを失い、その門を立てる時に末の子セグブを失った。主がヌンの子ヨシュアによって言われた言葉のとおりである。
17:1 ギレアデのテシベに住むテシベびとエリヤはアハブに言った、「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられます。わたしの言葉のないうちは、数年雨も露もないでしょう」。

時代の変革者

2014年12月05日 13:53

【箴言8:12-22】
8:12 知恵であるわたしは悟りをすみかとし、知識と慎みとをもつ。
8:13 主を恐れるとは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、偽りの言葉とを憎む。
8:14 計りごとと、確かな知恵とは、わたしにある、わたしには悟りがあり、わたしには力がある。
8:15 わたしによって、王たる者は世を治め、君たる者は正しい定めを立てる。
8:16 わたしによって、主たる者は支配し、つかさたる者は地を治める。
8:17 わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。
8:18 富と誉とはわたしにあり、すぐれた宝と繁栄もまたそうである。
8:19 わたしの実は金よりも精金よりも良く、わたしの産物は精銀にまさる。
8:20 わたしは正義の道、公正な道筋の中を歩み、
8:21 わたしを愛する者に宝を得させ、またその倉を満ちさせる。
8:22 主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。

多くの知識人や専門家は、私にこそ正しい知恵があり、正しく社会を導けると主張し、互いに批判や討論を繰り返します。
理念を叫んで、良い社会を、良い国をつくることを約束すると、政治家は語り続け、しかし新しい世代に残されるのは夢のある社会ではなく、解決できない山積みにされた問題ばかり。
今さえ良ければのつけは返されぬまま、今日も今だけのために社会は過ぎていきます。
物があることが豊かなことと、経済の豊かさを追い求めた経済社会は企業を中心に人々の生活を支配し、お金が最も信頼できるもののように、お金を信じ、お金のために生きる生活は、人々の愛を冷まし、家庭を崩壊させ、未来の希望である子供達が少ないためにこの国は、放っておいても滅びていく、民族として消滅の危機を迎えています。

何かが違う。何かを掛け違えた。何が足りなかったのか。
その答えをこの御言葉に見るような気がします。

知恵は主イエスキリストそのものです。この方に全ての知恵と知識があり(箴言8:12)ます。
この方こそ全世界を治められる、全地の主権者(ダニエル4:34-37)です。
この方の他にこの地を治めるにふさわしい方はいません。
この方を私の王として、主権者として迎えること、この方の他にこの地を治める方はいないと生きることこそ、主を恐れること(箴言8:13)です。
この方を愛し、この方にない、この方に逆らう者に善はなく、そこに悪が存在します。
この方こそ、光であるから、悪はこの光に来ず、やみに集まるのです。

【ヨハネ3;17-21】
3:17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
3:18 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。
3:19 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。
3:20 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。
3:21 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。

だからこそ、神はこの方にある者に知恵を与え、この地を、国を治めさせる(箴言8:14-16、黙示録5:9,10)のです。
やがてこの方は王としてこの地を治めるために再び来られます(黙示録19:11-16,20:4-6)が、それまで主はこの地を、主にある者に御心のままにゆだね、この地を主にあって治めるよう願っておられるのです。
その統治によって与えられる豊かさは物を多く所有し物が溢れているか、あるいは金銀による豊かさのような一部分的な豊かさではありません。
その豊かさは決して人を満たさず、むしろ渇きが溢れ、尽きることのない渇きがその人を覆うのです。
しかし、主にある豊かさとは天国の豊かさであり、全てに豊かであるみちみちたキリストの豊かさ(ヨハネ1:14-18、エペソ1:23)であり、その豊かさを知った者は、その命の心底に至るまで渇きは潤され(ヨハネ7:37,38、黙示録7:15-17,21:6,7)、豊かにされるのです。
それは命の豊かさ、愛の豊かさ、永遠の価値としての豊かさを知り、この地では味わうことのない豊かさをキリストの内に知り、それ以外の一切のものが塵芥に過ぎないものであることを知ってしまう(ピリピ3:7,8)のです。
これが主イエスキリストが彼を信じる者に与えた絶大なる望みと満ち溢れる豊かさであり、この御国の統治の内に、この豊かさの内にこの地を統べ治めることを主は望まれました。
そのために私達教会(クリスチャン)は主により選ばれ、この地に遣わされている(ヨハネ15:16,17)のです。
ここに本当の未来への望みがあるのです。
死を超えるよみがえりの絶大な力(エペソ1:20-23)により、この地を主と共に治めることが私達がこの地で生きている本当の意味なのです。
あなたはまだこの神にある真の知恵を見ていないと思います。
もしもこの内に生きているのであれば、あなたはこの世のことに煩わされ振り回されて生きるのではなく、この世(この地)があなたを通して神に治められるはずだからです。
それがあなたによってこの地にもたらされるリバイバルです。
この知恵によらなければ、もう希望が何一つ見えず滅びに向かっているこの国(この地)を救うことはできないでしょう。
手をこまねき、ただ何となく主に望みを持つだけのクリスチャン(1コリント15:19,20)なら、あなたの愛する大切な人々が滅びていくのを指をくわえて見ている他ありません。
しかしどうか、神が今まさに私達に与えたいと切に願っている神の真の知恵を受け取ってください。
全ての知恵である主イエスそのものがあなたの内から語りかけ見せてくださる(知恵と啓示の霊,エペソ1:17)のでなければ、この驚くばかりの知恵を得られないでしょう。
しかしそれを求めてください。
主は求める者に必ずそれを与えてくださいます。

【エペソ1:17-19】
1:17 どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、
1:18 あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
1:19 また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

まずあなたから神の変革、リバイバルがこの地に届けられますように。
共に祈りましょう。

※聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ダニエル4:34-37】
4:34 こうしてその期間が満ちた後、われネブカデネザルは、目をあげて天を仰ぎ見ると、わたしの理性が自分に帰ったので、わたしはいと高き者をほめ、その永遠に生ける者をさんびし、かつあがめた。その主権は永遠の主権、その国は世々かぎりなく、
4:35 地に住む民はすべて無き者のように思われ、天の衆群にも、地に住む民にも、彼はその意のままに事を行われる。だれも彼の手をおさえて「あなたは何をするのか」と言いうる者はない。
4:36 この時わたしの理性は自分に帰り、またわが国の光栄のために、わが尊厳と光輝とが、わたしに帰った。わが大臣、わが貴族らもきて、わたしに求め、わたしは国の上に堅く立って、前にもまさって大いなる者となった。
4:37 そこでわれネブカデネザルは今、天の王をほめたたえ、かつあがめたてまつる。そのみわざはことごとく真実で、その道は正しく、高ぶり歩む者を低くされる。

【黙示録5:6-14】
5:6 わたしはまた、御座と四つの生き物との間、長老たちの間に、ほふられたとみえる小羊が立っているのを見た。それに七つの角と七つの目とがあった。これらの目は、全世界につかわされた、神の七つの霊である。
5:7 小羊は進み出て、御座にいますかたの右の手から、巻物を受けとった。
5:8 巻物を受けとった時、四つの生き物と二十四人の長老とは、おのおの、立琴と、香の満ちている金の鉢とを手に持って、小羊の前にひれ伏した。この香は聖徒の祈である。
5:9 彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
5:10 わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。
5:11 さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、
5:12 大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。
5:13 またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。
5:14 四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。

【黙示録19:11-16】
19:11 またわたしが見ていると、天が開かれ、見よ、そこに白い馬がいた。それに乗っているかたは、「忠実で真実な者」と呼ばれ、義によってさばき、また、戦うかたである。
19:12 その目は燃える炎であり、その頭には多くの冠があった。また、彼以外にはだれも知らない名がその身にしるされていた。
19:13 彼は血染めの衣をまとい、その名は「神の言」と呼ばれた。
19:14 そして、天の軍勢が、純白で、汚れのない麻布の衣を着て、白い馬に乗り、彼に従った。
19:15 その口からは、諸国民を打つために、鋭いつるぎが出ていた。彼は、鉄のつえをもって諸国民を治め、また、全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む。
19:16 その着物にも、そのももにも、「王の王、主の主」という名がしるされていた。

【黙示録20:1-6】
20:1 またわたしが見ていると、ひとりの御使が、底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から降りてきた。
20:2 彼は、悪魔でありサタンである龍、すなわち、かの年を経たへびを捕えて千年の間つなぎおき、
20:3 そして、底知れぬ所に投げ込み、入口を閉じてその上に封印し、千年の期間が終るまで、諸国民を惑わすことがないようにしておいた。その後、しばらくの間だけ解放されることになっていた。
20:4 また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。
20:5 (それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。
20:6 この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。

【ヨハネ1:14-18】
1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
1:15 ヨハネは彼についてあかしをし、叫んで言った、「『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである」。
1:16 わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。
1:17 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。
1:18 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。

【エペソ1:20-23】
1:20 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
1:21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。
1:22 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。
1:23 この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

【ヨハネ7:37,38】
7:37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。

【黙示録7:15-17】
7:15 それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。
7:16 彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。
7:17 御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。

【黙示録21:6,7】
21:6 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。

【ピリピ3:7-11】
3:7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
3:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
3:9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
3:10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
3:11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。

【ヨハネ15:16,17】
15:16 あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。
15:17 これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。

【1コリント15:19,20】
15:19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
15:20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。

永遠の知恵

2014年12月04日 13:43

【箴言8:32-36】
8:32 それゆえ、子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの道を守る者はさいわいである。
8:33 教訓を聞いて、知恵を得よ、これを捨ててはならない。
8:34 わたしの言うことを聞き、日々わたしの門のかたわらでうかがい、わたしの戸口の柱のわきで待つ人はさいわいである。
8:35 それは、わたしを得る者は命を得、主から恵みを得るからである。
8:36 わたしを失う者は自分の命をそこなう、すべてわたしを憎む者は死を愛する者である」。

ここで語られる知恵という言葉は少し不思議な語られ方をしています。

【箴言8:1-4】
8:1 知恵は呼ばわらないのか、悟りは声をあげないのか。
8:2 これは道のほとりの高い所の頂、また、ちまたの中に立ち、
8:3 町の入口にあるもろもろの門のかたわら、正門の入口で呼ばわって言う、
8:4 「人々よ、わたしはあなたがたに呼ばわり、声をあげて人の子らを呼ぶ。

まるで知恵が一人の人のように人々に語りかける姿。これは箴言8,9章に共通する表現ですが、このように知恵に人格が存在するかのような表し方がされているのには、ここに知恵の本質が表されていることと関わっています。

【箴言8:12】
8:12 知恵であるわたしは悟りをすみかとし、知識と慎みとをもつ。

この言葉は実は「キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。(コロサイ2:3)」と語られている御言葉と同じことを表しています。
もう少しわかりやすくお話するなら、

【箴言】
8:22 主が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。
8:23 いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた。
8:24 まだ海もなく、また大いなる水の泉もなかった時、わたしはすでに生れ、
8:25 山もまだ定められず、丘もまだなかった時、わたしはすでに生れた。
8:26 すなわち神がまだ地をも野をも、地のちりのもとをも造られなかった時である。
8:27 彼が天を造り、海のおもてに、大空を張られたとき、わたしはそこにあった。
8:28 彼が上に空を堅く立たせ、淵の泉をつよく定め、
8:29 海にその限界をたて、水にその岸を越えないようにし、また地の基を定められたとき、
8:30 わたしは、そのかたわらにあって、名匠となり、日々に喜び、常にその前に楽しみ、
8:31 その地で楽しみ、また世の人を喜んだ。

この言葉は創世記1章の天地創造の場面を表しており、

【ヨハネ】
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は初めに神と共にあった。
1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。

と並べて読んでみると、同じことを表していることがわかると思います。
そうです。ここで知恵として呼びかけているのは驚くべきことに主イエスキリストであるということがわかるのです。
つまりここで私達は、知恵である方、神の言葉である方がこの地にくだられ、今まさに私達に語りかけられているのだということを知ることができるでしょう。

【ヨハネ】
1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

今私達はこの神の言葉を内に生きるキリストご自身の私達への内側から(聖霊から)の直接の語りかけとして、また外からはいつでも読み、聞くことのできる、聖書の御言葉として、受け取ることができるのです。
何と驚くべきことに天地創造をされた神の言葉が生きて働き、内から外から私達に語りかけ、私達の人生を造って下さる、あるいは私達自身そのものを造ってくださるのです。
それは冷たい死んだ言葉ではなく、このように命を持って私達に温かく語りかける、心を持った言葉として、さらにこの語りかける方は神ですから、私達の全てを知って(詩篇139:1-8,13-16、ルカ12:4-7、ローマ8:27)、そのときどきに私達を最善の道へと導くように語りかけて下さるのです。

【申命記】
26:16 きょう、あなたの神、主はこれらの定めと、おきてとを行うことをあなたに命じられる。それゆえ、あなたは心をつくし、精神をつくしてそれを守り行わなければならない。
26:17 きょう、あなたは主をあなたの神とし、かつその道に歩み、定めと、戒めと、おきてとを守り、その声に聞き従うことを明言した。
26:18 そして、主は先に約束されたように、きょう、あなたを自分の宝の民とされること、また、あなたがそのすべての命令を守るべきことを明言された。
26:19 主は誉と良き名と栄えとをあなたに与えて、主の造られたすべての国民にまさるものとされるであろう。あなたは主が言われたように、あなたの神、主の聖なる民となるであろう」。

イスラエルの民に語られた御言葉は「キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった(エペソ2:12)」私達にも、主イエスの十字架の大きな代価により(エペソ2:11-13,19)、このように生きた言葉として私達にも与えられ、その御言葉により私達も神の聖なる民、宝の民とされているのです。
だから今主は私達に「それゆえ、子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの道を守る者はさいわいである。教訓を聞いて、知恵を得よ、これを捨ててはならない。(箴言8:32,33)」と語りかけているのです。
そして同時に、この神の御言葉を軽んじ退ける者に、「わたしを失う者は自分の命をそこなう、すべてわたしを憎む者は死を愛する者である(箴言8:36)」と明確な結果が待ち受けていることを強く警告しています。
主の御言葉を軽んじ、ただ聞き流しているだけなら、この恵み御言葉は私達自身とは何の関係もないものとなり、私達の変わることのないと思われた平安な日々でさえ、ある日あまりに簡単に脆く崩れ去っていくことを主イエスご自身も語られています。

【ルカ6:47-49】
6:47 わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。
6:48 それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。
6:49 しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、その被害は大きいのである」。

あなたは何に寄り頼んでいるでしょうか?
「天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は滅びることがない。(マタイ24:35)」と言われる主の御言葉に寄り頼み、これを基とし、これに従い生きるのであれば、私達の歩みは神にあって永遠に変わることのない、永遠の命の歩みとなることでしょう。

あなたは今神の御言葉にどのように向き合っているでしょうか?

【1テモテ3:16-4:4】
3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。
4:1 神のみまえと、生きている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエスのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。
4:2 御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心でよく教えて、責め、戒め、勧めなさい。
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。

【サムエル上15:22,23】
15:22 サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。
15:23 そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。

もう一度、この御言葉から、私達自身の主への態度を省みつつ、日々の歩みを神の御言葉にある永遠に盤石なものとしていこうではありませんか。
共に祈りましょう。

※聖書の引用箇所です。ご参照でください。

【詩篇139:1-8,13-18】
139:1 主よ、あなたはわたしを探り、わたしを知りつくされました。
139:2 あなたはわがすわるをも、立つをも知り、遠くからわが思いをわきまえられます。
139:3 あなたはわが歩むをも、伏すをも探り出し、わがもろもろの道をことごとく知っておられます。
139:4 わたしの舌に一言もないのに、主よ、あなたはことごとくそれを知られます。
139:5 あなたは後から、前からわたしを囲み、わたしの上にみ手をおかれます。
139:6 このような知識はあまりに不思議で、わたしには思いも及びません。これは高くて達することはできません。
 [中略]
139:13 あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。
139:14 わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。
139:15 わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。
139:16 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。
139:17 神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。
139:18 わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます。

【ルカ12:4-7】
12:4 そこでわたしの友であるあなたがたに言うが、からだを殺しても、そのあとでそれ以上なにもできない者どもを恐れるな。
12:5 恐るべき者がだれであるか、教えてあげよう。殺したあとで、更に地獄に投げ込む権威のあるかたを恐れなさい。そうだ、あなたがたに言っておくが、そのかたを恐れなさい。
12:6 五羽のすずめは二アサリオンで売られているではないか。しかも、その一羽も神のみまえで忘れられてはいない。
12:7 その上、あなたがたの頭の毛までも、みな数えられている。恐れることはない。あなたがたは多くのすずめよりも、まさった者である。

【ローマ8:27】
8:27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。

【エペソ2:11-13,19】
2:11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、
2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。
2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。
 [中略]
2:19 そこであなたがたは、もはや異国人でも宿り人でもなく、聖徒たちと同じ国籍の者であり、神の家族なのである。

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