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受け継がれる信仰

2015年02月06日 11:23

【申命記4:7-9】
4:7 われわれの神、主は、われわれが呼び求める時、つねにわれわれに近くおられる。いずれの大いなる国民に、このように近くおる神があるであろうか。
4:8 また、いずれの大いなる国民に、きょう、わたしがあなたがたの前に立てるこのすべての律法のような正しい定めと、おきてとがあるであろうか。
4:9 ただあなたはみずから慎み、またあなた自身をよく守りなさい。そして目に見たことを忘れず、生きながらえている間、それらの事をあなたの心から離してはならない。またそれらのことを、あなたの子孫に知らせなければならない。

私達は主が成された全ての大いなる御業を何ひとつ忘れてはなりません。
私達が問題を抱えたとき、不安に襲われたとき、苦しかったとき、悲しみにくれたとき、傷ついたとき、貧しかったとき、暗闇の中にいたとき、孤独のとき、疲れ果てたとき、私達にはどうしようもないあらゆるとき、主を呼び求めれば主は必ずすぐ近くにいてくださいました。
私達には見えずとも主は私達の思いの全てを知り、最善の道を用意してくださいました。
全てに満ちたらせ、全てに勝利し、光の内を歩ませ、愛に命に溢れ、喜びに満たしてくださいました。
主は義をもって、正しくさばき、私達に平安を与えてくださいました。
いつ如何なるときも、私達が主をわからず、離れたり、背いたり、退けたりしたとしても、主はいつも私達の近くにおられ、ご自身の元に招いておられ、私のために十字架にかかられたその釘跡が残る愛の御手を私に伸べられました。
そのように私達を最も幸いである主の御許に戻そうとしてくださり、そして主に立ち返り悔い改めるとき、主はご自身の血潮に私達を洗い、主のものとして真っ白い衣を着せ、主の近く安息の内に入れてくださったのです。
その一つ一つの経験は皆異なりますが、各々が毎日毎日主の恵みの中に満ち足らせてくださったからこそ、私達は今こうして生きているのです。
主が一日も、一時も、一刻一秒もたゆまず私達を見て、私達を守り、満たしてくださったから、そのように愛し尽くしてくださったから、私達は今生きているのです。

【エレミヤ31:3(新改訳)】
31:3 永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに、誠実を尽くし続けた。

どこに、それほどにまでに、天地万物を造られた神に愛される存在が居るでしょうか?
まして、それは私達が何か優れた者であったり、正しい者であったからではなく、むしろ私達には何の理由もなく、主が私達を一方的に愛して下さったから、私達は主の選びに入れられ、救われたのです。
そんな神の選びの民がこの地上の一体どこにいるでしょうか。

この救われたその日から、一日も変わることなく絶えず注がれ続ける愛を私達は何一つ忘れてはならないのです。
それを決して風化させてはならないのです。
それは私達の世代において消えるものではなく、信仰の継承と共に次の世代にも伝えられ、彼ら自身が神を信じ、自分自身の信仰によって神と直接交わり、神を知り、その大いなる御業を見て生きるようになるまで、受け継がれるべきものなのです。
それは、私達に主の御旨と一つとして逸れることなく歩むという幸いの生き方を伝えるため。

【ピリピ2:5(文語訳)】
2:5 汝(なんぢ)らキリスト・イエスの心(こころ)を心(こころ)とせよ。

主は私達に神の言葉という大それたものを与え、さらにはご自身が我が内に住まわって、直接ご自身の御旨を私達に教えてくださる。我が思いを主の思いと一つとしてくださったのです。
この主の思いこそ完全であり、最善、私達を幸いへと導くもの。そのような思い(御言葉)を神から与えられた民は一体どこにいるのでしょうか?

【1コリント2:16】
2:16 「だれが主の思いを知って、彼を教えることができようか」。しかし、わたしたちはキリストの思いを持っている。

こうして、私達が主に愛され続けて生きた全ての日々が、主を証しし、伝えられ、受け継がれ、御言葉を守り、御言葉に生きる素晴らしさを教え、主の御霊に導かれて、主のものとして、主のために生きる人生を主がどれほどに喜ばれるかを、その信仰を継承していかなければならないのです。
そう、私達の背中を私達に続く者達は必ず見ているのです。信仰を背中で語ることが新しい世代に主を教えることとなるのです。
主の恵みは一世代で終わるものではありません。それは命と共受け継がれます。幾世代までも、そしてとこしえまでも。

だから、主の永遠の恵みに私達も今日答えていきましょう。
今日も私達の内に主のみこころがなりますように。

永遠という視点

2015年02月04日 12:44

【2コリント5:10-14】
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。
5:11 このようにわたしたちは、主の恐るべきことを知っているので、人々に説き勧める。わたしたちのことは、神のみまえには明らかになっている。さらに、あなたがたの良心にも明らかになるようにと望む。
5:12 わたしたちは、あなたがたに対して、またもや自己推薦をしようとするのではない。ただわたしたちを誇る機会を、あなたがたに持たせ、心を誇るのではなくうわべだけを誇る人々に答えうるようにさせたいのである。
5:13 もしわたしたちが、気が狂っているのなら、それは神のためであり、気が確かであるのなら、それはあなたがたのためである。
5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。

私達が主の御言葉を語るのはキリストの愛の強い迫りを感じているからです。
それ以上の理由を探しても、おそらく答えうることは見つからないでしょう。
その燃える主の熱情により、私達は主のために気が狂うほどの愛をもって、同時に知性においてはその繊細なる神の御言葉を、聞く人々に適切に届き受け入れられるように、気を確かに冷静さをもって語るのです。
多くの人々はこの地上でのことしか考えることをせず、あるいは救われた兄弟姉妹においても、世との妥協の中にせっかく救われ与えられた新しい命を、その中に埋没させる歩みを続けてはいないでしょうか。
しかし、キリストの愛は、今日明日の生活しか見ない、私達の近視眼的な生き方に、永遠(天)の視点において最も重要なことがあるということを強く迫っているのです。
それは「わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならない(2コリント5:10)」という、厳粛な事実。
天地万物を造られた神を知る者は、私達の全てを知るこの神の御前に、やがてこの地の歩みを終えて、必ず立つ。そのときに、どのように主の御前に立つのかということを、私達は無視して生きることはできないのです。
それが「主の恐るべきことを知っている(2コリント5:11)」ということです。
主は私達の全ての歩みを知り、全て思うこと、言葉にしたことを知っておられるのです。
この方を悲しませ、怒らせ、失望させるような歩みを、自らの全てを十字架の上にささげ、実にご自分の命までも私達に与えて贖ってくださった主の、これほどまでに私達を愛して下さる愛の前に、どうしてすることができるでしょうか。

また、この方が与えてくださった命は永遠を知り永遠を思うことのできる永遠の命であり、天から降ってきた天の御国の素晴らしさの全てを知る命(ヨハネ3:31-34)なのです。

【1ペテロ1:8,9】
1:8 あなたがたは、イエス・キリストを見たことはないが、彼を愛している。現在、見てはいないけれども、信じて、言葉につくせない、輝きにみちた喜びにあふれている。
1:9 それは、信仰の結果なるたましいの救を得ているからである。

ですから、私達は救われ新しく生まれたことを知ったそのときから、この地上では与えることのできないような輝くような喜びに満ち、主イエスを見ずとも、自分のために十字架にかかられた主の愛を知り、最初からその愛に愛をもって答えようと歩み始めるのです。
この新生の喜びを、どうして世の雑事に心奪われ、簡単に失って良いでしょうか。
すでに私達の全てを満たし、また全てに勝利を得られた主イエスから目を離し、地上のことしか見えなくなって、永遠を思い、(この地上で先駆けて)天に生きるという、言葉に尽くせないほどの大きな恵みを失って良いでしょうか。
私達はいつでも、主に祈り、やがて主と深く交わり、主に感謝し、主を賛美し、主を崇める(礼拝する)とき、神の御座近くに安らい、天の御国に生きる、この視点にもう一度立つことがゆるされるのです。
それなのにどうして、救われる「以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く(エペソ4:22)」生き方で、この「地上のものに心を引かれて(コロサイ3:2)」歩んでいって良いでしょうか。
全てのものは時がくれば、「虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出(マタイ6:19)」されてしまうようなもの。
ただ「朽ちるもの(1コリント15:50)」なのです。

【2コリント5:1-9】
5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。
5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
5:6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
5:7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
5:8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。

主の御前に立つ日をどのように迎えるか、主を恐れるという視点は、私達の人生をどのように歩むのかという重要なことに行き当たります。
そしてそれは軽視されがちな、日常をどのように過ごすか、日々をどのように主のために大切に過ごすかということに関わるのです。

あなたは過ぎれば決して帰ることのない今日のこの日を、どのように過ごしますか?

【ローマ14:7-9】
14:7 すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。
14:8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。
14:9 なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヨハネ3:31-34】
3:31 上から来る者は、すべてのものの上にある。地から出る者は、地に属する者であって、地のことを語る。天から来る者は、すべてのものの上にある。
3:32 彼はその見たところ、聞いたところをあかししているが、だれもそのあかしを受けいれない。
3:33 しかし、そのあかしを受けいれる者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである。
3:34 神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りなく賜うからである。

【エペソ4:17-24】
4:17 そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。
4:18 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、
4:19 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。
4:20 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。
4:21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。
4:22 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、
4:23 心の深みまで新たにされて、
4:24 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

【コロサイ3:1-11】
3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
3:2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3:3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
3:4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。
3:5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
3:6 これらのことのために、神の怒りが下るのである。
3:7 あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。
3:8 しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。
3:9 互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
3:10 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。
3:11 そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。

【マタイ6:19-21】
6:19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
6:20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
6:21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。

【1コリント15:50】
15:50 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。

試練を超えた望み

2015年01月30日 12:51

【ヤコブ1:9-18】
1:9 低い身分の兄弟は、自分が高くされたことを喜びなさい。
1:10 また、富んでいる者は、自分が低くされたことを喜ぶがよい。富んでいる者は、草花のように過ぎ去るからである。
1:11 たとえば、太陽が上って熱風をおくると、草を枯らす。そしてその花は落ち、その美しい姿は消えうせてしまう。それと同じように、富んでいる者も、その一生の旅なかばで没落するであろう。
1:12 試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。
1:13 だれでも誘惑に会う場合、「この誘惑は、神からきたものだ」と言ってはならない。神は悪の誘惑に陥るようなかたではなく、また自ら進んで人を誘惑することもなさらない。
1:14 人が誘惑に陥るのは、それぞれ、欲に引かれ、さそわれるからである。
1:15 欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。
1:16 愛する兄弟たちよ。思い違いをしてはいけない。
1:17 あらゆる良い贈り物、あらゆる完全な賜物は、上から、光の父から下って来る。父には、変化とか回転の影とかいうものはない。
1:18 父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに、生み出して下さったのである。

人が試練に会う、その最も大きな理由は、朽ちるものから目を離させ、朽ちないものに目を向けさせるためです。
なぜなら、私達はいずれこの朽ちる世界から、朽ちない世界へと入れられる、天の御国に入り、御国を受け継ぐことになるからです。(これは天国に住まうことばかりではなく、天国が私達の嗣業、相続地として与えられているとまで約束されているのです。)

【1コリント15:50】
15:50 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。

ですから、この地上でどれほどに富んでいたとしても、それらのものは消え去るものであり、天の御国に入れられるときにはそれらの朽ちるものは何一つ携えて行くことができません。
逆に、たとえこの地で貧しくとも神を頼りとし、神に飢え渇いて神ご自身を求め、神のあわれみを受けて、キリストの豊かさに満たされて生きるのであれば、天の御国においては富んだ者とされるのです。

【マタイ5:3】
5:3 「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。

なぜなら、そのような者には神の国そのものが与えられるからです。
ですから、この地の豊かさ、この世が与える富か、天にある富を見て生きるのか、「宝のある所には、心もある(マタイ6:21)」。
私達がこの地を去ることは全ての者に定められていることですが、そのとき永遠という中で私達が富む者であるのか、朽ちるものを全て失い何も持たない者として永遠を生きるのかは、実は想像以上に大きな問題です。
ですから、信仰が成長する過程においては、この価値が逆転すること、地上の価値観ではなく天の価値観で生きることは大きな課題です。

【ヘブル5:12-6:1】
5:12 あなたがたは、久しい以前からすでに教師となっているはずなのに、もう一度神の言の初歩を、人から手ほどきしてもらわねばならない始末である。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要としている。
5:13 すべて乳を飲んでいる者は、幼な子なのだから、義の言葉を味わうことができない。
5:14 しかし、堅い食物は、善悪を見わける感覚を実際に働かせて訓練された成人のとるべきものである。
6:1 そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。

しかし、目の前にあるものに心奪われ易い私達には、この地の富を持ち、神に飢え渇く必要のないほど豊かなことは、神の国に入ることを難しくさせる(マタイ19:23)のです。
ですから、試練が私達の信仰を成長させるものとして存在するのです。

【ヤコブ1:2-4】
1:2 わたしの兄弟たちよ。あなたがたが、いろいろな試錬に会った場合、それをむしろ非常に喜ばしいことと思いなさい。
1:3 あなたがたの知っているとおり、信仰がためされることによって、忍耐が生み出されるからである。
1:4 だから、なんら欠点のない、完全な、でき上がった人となるように、その忍耐力を十分に働かせるがよい。

【1ペテロ1:7】
1:7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。

私達の欲望は罪を生み出し、死に至る(ヤコブ1:15)しかありませんが、神が私達に与えようとされているのは父から与えられる永遠に変わることのないもの(ヤコブ1:17)、私達「のために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない(受け継ぐべき)資産(1ペテロ1:4)」なのです。
朽ちるものは精錬される中で取り除かれ、永遠に朽ちないものを受け取るために永遠に朽ちない信仰を得る(1ペテロ1:7)べきなのです。
それが、主が私達に望まれること、だから試練をも喜べ(ヤコブ1:2)と主は語られているのです。
神に近づこうとする者、神のために生きることを望む者には、神は試練を与えます。
それは主がこの地、この世では与えられない、想像を超えた神の絶大な富を得させようと、人の理解を超えた神の壮大な愛を、そこに注いでおられるからです。
試練に会うとき、ただ意気消沈してはいけません。それを逃れることのみを願って、主の得させようとするものを何もわからず、ただ苦しみ、時として神に不満や疑問などを持って生きても、無意味に時をやり過ごそうとしているに過ぎません。
「神のなされることは皆その時にかなって美し(伝道者3:11)」く、必ず豊かな恵みに溢れる意味があるのです。

【ヘブル12:3-12】
12:3 あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。
12:4 あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。
12:5 また子たちに対するように、あなたがたに語られたこの勧めの言葉を忘れている、「わたしの子よ、主の訓練を軽んじてはいけない。主に責められるとき、弱り果ててはならない。
12:6 主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれるのである」。
12:7 あなたがたは訓練として耐え忍びなさい。神はあなたがたを、子として取り扱っておられるのである。いったい、父に訓練されない子があるだろうか。
12:8 だれでも受ける訓練が、あなたがたに与えられないとすれば、それこそ、あなたがたは私生子であって、ほんとうの子ではない。
12:9 その上、肉親の父はわたしたちを訓練するのに、なお彼をうやまうとすれば、なおさら、わたしたちは、たましいの父に服従して、真に生きるべきではないか。
12:10 肉親の父は、しばらくの間、自分の考えに従って訓練を与えるが、たましいの父は、わたしたちの益のため、そのきよさにあずからせるために、そうされるのである。
12:11 すべての訓練は、当座は、喜ばしいものとは思われず、むしろ悲しいものと思われる。しかし後になれば、それによって鍛えられる者に、平安な義の実を結ばせるようになる。
12:12 それだから、あなたがたのなえた手と、弱くなっているひざとを、まっすぐにしなさい。

どうか、この試練の先にある神の栄光を望み見て、もう一度しっかりと立ち、主の道を、「信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうでは(ヘブル12:2)」ありませんか。
あなたの歩む先には大いなる神の栄光が待っているのですから。

【2コリント4:17,18】
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【マタイ6:19-21】
6:19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
6:20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
6:21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。

【マタイ19:21-26】
19:21 イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
19:22 この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
19:23 それからイエスは弟子たちに言われた、「よく聞きなさい。富んでいる者が天国にはいるのは、むずかしいものである。
19:24 また、あなたがたに言うが、富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
19:25 弟子たちはこれを聞いて非常に驚いて言った、「では、だれが救われることができるのだろう」。
19:26 イエスは彼らを見つめて言われた、「人にはそれはできないが、神にはなんでもできない事はない」。

【1ペテロ1:3-7】
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、
1:4 あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。
1:5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。
1:6 そのことを思って、今しばらくのあいだは、さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、あなたがたは大いに喜んでいる。
1:7 こうして、あなたがたの信仰はためされて、火で精錬されても朽ちる外はない金よりもはるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、さんびと栄光とほまれとに変るであろう。

主の最善の計画

2015年01月29日 12:55

【使徒行伝26:15-18】
26:15 そこで、わたしが『主よ、あなたはどなたですか』と尋ねると、主は言われた、『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
26:16 さあ、起きあがって、自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしに会った事と、あなたに現れて示そうとしている事とをあかしし、これを伝える務に、あなたを任じるためである。
26:17 わたしは、この国民と異邦人との中から、あなたを救い出し、あらためてあなたを彼らにつかわすが、
26:18 それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』。

神は私達の人生に神の計画があることを明確に語ります。
人がそれを避けようとも、あるいは覆い隠そうとも、神はそれを人の思いに左右されることなく明確にします。
これは人の計画と神の計画は違う、人の思いと神の思いは違う(イザヤ55:8,9)ということを、神は避けて通ることがないからです。
つまり、人の計画のために神がいるのではなく、神の計画のために人の人生がある(2コリント5:14,15)のです。
神の計画はその人が救われ、新しい命を得たときから、いや実は私達がこの地に生み出される前(詩篇139:13-18)から、いやいや天地万物が造られる前(エペソ1:11,2:10)から、私達には主の計画が用意されているのです。
ですから、今日の箇所ではパウロに対して語られているのですが、パウロ自身が救われたのには神の深い計画があるのだということを、神はパウロが救わるそのときに同時に語られたのです。
それは神の深い愛によるものでした。
彼はクリスチャンの兄弟姉妹を、そして主イエス自身を迫害する者の筆頭でした。
ですから、自分が迫害をしているのが、自分の信じている神自身である、いや自分が待ち望んでいる救い主そのものであることを知ったとき、彼がもしも神の用意していた計画の全容を始めに知らされなければ、彼はこれまでの迫害の事実に、自分を責める思いに自らの歩むべき道を見誤り、ただ苦しみの中から出ることはできなかったでしょう。
しかし、主の真の思いを知らず、自らの理解と思いだけで掛け違えた、これまでの自らの誤った歩みでさえも、パウロ自身を救いに導き、さらにその救いの事実でさえ、多くの人々を救いに導く主の救いの大いなる計画の一部分に過ぎないということを思い知らされたのです。
それは人の理解をはるかに超えたまさしく神の計画に他なりませんでした。
つまり、ここに神の愛、主の深いあわれみがあるのです。
主は私達の全てを私達自身よりもよく知り、その思いの深くまでも知って、主のご計画を私達の内に、備えてくださいます。
それは私達が生まれるはるか前から、永遠に至るまでの計画。
主は天地万物を創造されたとき、「それは、はなはだ良かった。」(創世記1:31)と言われたように、それは最も善い計画、最上の計画。
私達の思いがいくら崇高でも、いくら良く見えたとしても主の最善の計画に届くことはなく、むしろ主の思いからかけ離れ、そのかけ違いは主が用意された計画を台無しにするものなのです。
そのかけ違いこそ、罪(「的外れ」ヘブル語)であり、その行く先は死なのです。(ローマ6:23)
だから今主は、あなたに何よりも善い、最上の、最善の計画を用意していると語っておられるのです。
そこには永遠に災いはなく、まさしく永遠の平安なのです。

【エレミヤ29:11-14】
29:11 主は言われる、わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を与え、希望を与えようとするものである。
29:12 その時、あなたがたはわたしに呼ばわり、来て、わたしに祈る。わたしはあなたがたの祈を聞く。
29:13 あなたがたはわたしを尋ね求めて、わたしに会う。もしあなたがたが一心にわたしを尋ね求めるならば、
29:14 わたしはあなたがたに会うと主は言われる。わたしはあなたがたの繁栄を回復し、あなたがたを万国から、すべてわたしがあなたがたを追いやった所から集め、かつ、わたしがあなたがたを捕われ離れさせたそのもとの所に、あなたがたを導き帰ろうと主は言われる。

今主の計画に歩むことを心から主に望むのであれば、それを心から祈るのであれば、主はどこからでも私達を最善の道に導き、のろわれた歩みから豊かな道のりへと祝福を回復し、この永遠の平安の中に私達を入れてくださるでしょう。

何という主の愛でしょうか。
だから主を求めて今祈りましょう。
どこから遅いと言うことはありません。今がそのとき、主の立ち返るのに今が一番早いのです。
だから、心から主に祈りましょう。
そこにあなたの最善の道が開くために。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【イザヤ55:6-9】
55:6 あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。
55:7 悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。
55:8 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。
55:9 天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

【2コリント5:14,15】
5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

【詩篇139:13-18】
139:13 あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。
139:14 わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。
139:15 わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。
139:16 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。
139:17 神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。
139:18 わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます。

【エペソ1:3-11】
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
1:6 これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。
1:7 わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。
1:8 神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、
1:9 御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。
1:10 それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。
1:11 わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。

【エペソ2:10】
2:10 わたしたちは神の作品であって、良い行いをするように、キリスト・イエスにあって造られたのである。神は、わたしたちが、良い行いをして日を過ごすようにと、あらかじめ備えて下さったのである。

【創世記1:31】
1:31 神が造ったすべての物を見られたところ、それは、はなはだ良かった。夕となり、また朝となった。第六日である。

【ローマ6:23】
6:23 罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。

祈りの力宣教の力

2015年01月23日 12:08

【使徒行伝12:11】
12:11 その時ペテロはわれにかえって言った、「今はじめて、ほんとうのことがわかった。主が御使をつかわして、ヘロデの手から、またユダヤ人たちの待ちもうけていたあらゆる災から、わたしを救い出して下さったのだ」。

時として主は私達の想像をはるかに超えて、主の御心を行う者のために御業を成され、あらゆる困難から私達を救い出して下さいます。
特に福音を告げ知らせる、福音宣教の働きには霊的戦いは付きもの、しかしその度に攻撃に屈していたら主の働きは決して進みません。
だからこそ、主はいかなる状況からでも私達の内に勝利を現し、主の御心(ご計画)のために主に仕える者が、決して敗北することがないように、主はあらゆることを働かせて、困難から助け出し、むしろ主の働きをさらに力強く押し進め、主の勝利が何ものにも揺るがされるものではないことを、圧倒的力を以て現されます。
それは戦いが激しくなればなるほど顕著なものとなり、主に勝利できるものは誰もいないことを、主は現さずにおられないということを、私達は認識する必要があります。
圧倒的勝利を以て、この地を統べ治めるために、私達教会を通して、主が来られている。

【詩編98篇】
98:1 新しき歌を主にむかってうたえ。主はくすしきみわざをなされたからである。その右の手と聖なる腕とは、おのれのために勝利を得られた。
98:2 主はその勝利を知らせ、その義をもろもろの国民の前にあらわされた。
98:3 主はそのいつくしみと、まこととをイスラエルの家にむかって覚えられた。地のもろもろのはては、われらの神の勝利を見た。
98:4 全地よ、主にむかって喜ばしき声をあげよ。声を放って喜び歌え、ほめうたえ。
98:5 琴をもって主をほめうたえ。琴と歌の声をもってほめうたえ。
98:6 ラッパと角笛の音をもって王なる主の前に喜ばしき声をあげよ。
98:7 海とその中に満ちるもの、世界とそのうちに住む者とは鳴りどよめけ。
98:8 大水はその手を打ち、もろもろの山は共に主のみ前に喜び歌え。
98:9 主は地をさばくために来られるからである。主は義をもって世界をさばき、公平をもってもろもろの民をさばかれる。

主こそが全地の統治者、主権者であり、王の王、主の主として、この地に来られたということを、教会は宣べ伝え、それを圧倒的にこの地に現すために存在しているのです。
ですから、目の前に見える妨げに、私達の心が屈し、主が勝利されようと望まれているのに、私達が敗北を受け入れてしまうのでなければ、主は必ず私達の内に圧倒的な勝利を現されるのです。
アーメンでしょうか?

【ローマ8:35-37】
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。

ここに必要なことは、このことを確信し、あきらめることなく力強く祈り続けることです。
今日の箇所で、ペテロの宣教の働きは、捕らえられることにより、目に見える状況に於いては途絶えてしまうはずでした。

【使徒行伝12:5】
12:5 こうして、ペテロは獄に入れられていた。教会では、彼のために熱心な祈が神にささげられた。

しかし、教会は屈することなく、むしろ熱心に祈り続けたのです。
その結果、ペテロ自身(使徒行伝12:11)にも、また教会自身(使徒行伝12:15)にも信じられないような御業をもって、主は勝利を現されたのです。
そしてペテロの働きはこの後も屈することなく、むしろエルサレムにある教会の基盤を築き、またそのことにより世界中の教会が力強く建て上げられていったのです。
使徒行伝に語られた初代教会の働きはこのような戦いと主の圧倒的な勝利の連続の内に成されていったのです。
まるで主の勝利が飲み込んでいくかのように、福音は世界中に宣べ伝えられ、世界中にこの信仰は広まり、世界中に教会は生まれたのです。
そうです。主の十字架の上で成し遂げられた完全なる(完成された)勝利が世界を飲み込んでいったのです。
あなたはこのようなことが今の時代にあっても、神が望まれるのであれば起こるということを信じますか?
それが宣教です。
人の力では決して進めることはできません。しかし、宣教は神の圧倒的な力によるのであれば、全地を飲み込むほどに力強く成し遂げられるのです。
そのために、教会は今もこの主の絶大な力を信じて、宣教のために祈り続けなければなりません。
この私達の弛まぬ祈りこそ、神の計画を押し進める原動力なのです。

【黙示録8:3-5】
8:3 また、別の御使が出てきて、金の香炉を手に持って祭壇の前に立った。たくさんの香が彼に与えられていたが、これは、すべての聖徒の祈に加えて、御座の前の金の祭壇の上にささげるためのものであった。
8:4 香の煙は、御使の手から、聖徒たちの祈と共に神のみまえに立ちのぼった。
8:5 御使はその香炉をとり、これに祭壇の火を満たして、地に投げつけた。すると、多くの雷鳴と、もろもろの声と、いなずまと、地震とが起った。

【ルカ18:6-8】
18:6 そこで主は言われた、「この不義な裁判官の言っていることを聞いたか。
18:7 まして神は、日夜叫び求める選民のために、正しいさばきをしてくださらずに長い間そのままにしておかれることがあろうか。
18:8 あなたがたに言っておくが、神はすみやかにさばいてくださるであろう。しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか」。

私達の祈りは主の御手を動かし、全地が主の義により正しく裁かれ、全地が振るい動きます。
私達の祈りは全くの無から全てを生み出された主の御手を動かすのです。
そして、その私達の祈りを通して、主はご自身のご計画を成し遂げていかれるのです。
であるとすれば、どうして主の切なる願いを受け取り、私達は祈らずにいられるでしょうか。

【1ペテロ3:8,9】
3:8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
3:9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。

主のご計画のために祈りましょう。
この地の全ての人の救いのために。
まず私達に預けられている、まさに今滅びようとしているこの国、この地の人々がひとりも滅びることなく救われるように、心砕き祈り続けましょう。
私達の祈りこそ、主の力なのです。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【使徒行伝12:1-19】
12:1 そのころ、ヘロデ王は教会のある者たちに圧迫の手をのばし、
12:2 ヨハネの兄弟ヤコブをつるぎで切り殺した。
12:3 そして、それがユダヤ人たちの意にかなったのを見て、さらにペテロをも捕えにかかった。それは除酵祭の時のことであった。
12:4 ヘロデはペテロを捕えて獄に投じ、四人一組の兵卒四組に引き渡して、見張りをさせておいた。過越の祭のあとで、彼を民衆の前に引き出すつもりであったのである。
12:5 こうして、ペテロは獄に入れられていた。教会では、彼のために熱心な祈が神にささげられた。
12:6 ヘロデが彼を引き出そうとしていたその夜、ペテロは二重の鎖につながれ、ふたりの兵卒の間に置かれて眠っていた。番兵たちは戸口で獄を見張っていた。
12:7 すると、突然、主の使がそばに立ち、光が獄内を照した。そして御使はペテロのわき腹をつついて起し、「早く起きあがりなさい」と言った。すると鎖が彼の両手から、はずれ落ちた。
12:8 御使が「帯をしめ、くつをはきなさい」と言ったので、彼はそのとおりにした。それから「上着を着て、ついてきなさい」と言われたので、
12:9 ペテロはついて出て行った。彼には御使のしわざが現実のこととは考えられず、ただ幻を見ているように思われた。
12:10 彼らは第一、第二の衛所を通りすぎて、町に抜ける鉄門のところに来ると、それがひとりでに開いたので、そこを出て一つの通路に進んだとたんに、御使は彼を離れ去った。
12:11 その時ペテロはわれにかえって言った、「今はじめて、ほんとうのことがわかった。主が御使をつかわして、ヘロデの手から、またユダヤ人たちの待ちもうけていたあらゆる災から、わたしを救い出して下さったのだ」。
12:12 ペテロはこうとわかってから、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家に行った。その家には大ぜいの人が集まって祈っていた。
12:13 彼が門の戸をたたいたところ、ロダという女中が取次ぎに出てきたが、
12:14 ペテロの声だとわかると、喜びのあまり、門をあけもしないで家に駆け込み、ペテロが門口に立っていると報告した。
12:15 人々は「あなたは気が狂っている」と言ったが、彼女は自分の言うことに間違いはないと、言い張った。そこで彼らは「それでは、ペテロの御使だろう」と言った。
12:16 しかし、ペテロが門をたたきつづけるので、彼らがあけると、そこにペテロがいたのを見て驚いた。
12:17 ペテロは手を振って彼らを静め、主が獄から彼を連れ出して下さった次第を説明し、「このことを、ヤコブやほかの兄弟たちに伝えて下さい」と言い残して、どこかほかの所へ出て行った。
12:18 夜が明けると、兵卒たちの間に、ペテロはいったいどうなったのだろうと、大へんな騒ぎが起った。
12:19 ヘロデはペテロを捜しても見つからないので、番兵たちを取り調べたうえ、彼らを死刑に処するように命じ、そして、ユダヤからカイザリヤにくだって行って、そこに滞在した。

御国の豊かさ

2015年01月22日 09:28

【マタイ4:8-10】
4:8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
4:9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
4:10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

あまりにも多くのクリスチャンがサタンのこの偽りの言葉(マタイ4:9)に無防備です。
特にこの国は目に見える豊かさ「栄華(マタイ4:8)」を追い求め、主を退けた国です。
先の世界恐慌や敗戦により、貧しく何もなくなったこの地に、豊かさで満たすのは神の与える豊かさであった(日本にはその時期にリバイバルが起こっていました)のに、目に見える豊かさを欲し、主の与える満ち満ちた豊かさを退けたのです。
そのとき多くのクリスチャン達が教会を離れました。
よく、かつては教会に集い、クリスチャンでしたという方にお目にかかりますが、そのような方々が今なお信仰を保てているのかどうかは疑問です。
しかし、その豊かさに信仰を偽られたのは教会を離れたクリスチャンばかりではありません。
教会に連なるクリスチャンであっても、今なお、目に見える生活に、目に見える豊かさを求め、その心が地上のこと以外に興味がないのであれば、それはすでにこのサタンが見せる「栄華(マタイ4:8)」に心奪われているのです。

【ピリピ3:19-21】
3:19 彼らの最後は滅びである。彼らの神はその腹、彼らの栄光はその恥、彼らの思いは地上のことである。
3:20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。
3:21 彼は、万物をご自身に従わせうる力の働きによって、わたしたちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じかたちに変えて下さるであろう。

受け継ぐべき天の御国(エペソ1:13,14)、父の相続(ローマ8:14-17)、天に積まれた宝(マタイ6:19-21)、それらは永遠の豊かさであり、目に見え、消え去っていくもの(2コリント4:18)ではありません。

【1ヨハネ2:15-17】
2:15 世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。
2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。
2:17 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。

【ヤコブ4:4】
4:4 不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。

けれども、私達が「肉の欲、目の欲、持ち物の誇(1ヨハネ2:16)」に心奪われるのであれば、それは世を愛する者であり、その果ては神に敵する者となるのです。
確かに人は最初の過ちにおいて、「女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。(創世記3:6)」とあるように、その欲を満たし得る実を見て、食べ、その欲を満たしたのです。
しかし、サタンが人に聞かせたのは偽りの言葉(創世記3:4,5)であり、その言葉の通り、人は善悪を知る者となりましたが、彼は神と共に住まう永遠の場所である、エデンの園から出され、永遠に生きる者ではなくなりました。(創世記3:22-24)

同様に、サタンは目に見えるもの(栄華)を与えて、私達から永遠のものを奪うのです。
その奪われるのは信仰であり、永遠の命です。
なぜなら、それに心奪われ、手にしたときから、天の御国への希望はこの地の欲を満たす未来へと書き換えられ、永遠を忘れ、その豊かさから興味が失せるのです。
まるでエデンの園を自らの足で出るかのように。
この地の豊かさ無しに天の御国の豊かさが、何の意味があろうかと。
しかし、そのとき失ったものの大きさが如何に大きなものであったのかさえも、そのときとなってはわからないでしょう。

【ヘブル12:6,7】
12:16 また、一杯の食のために長子の権利を売ったエサウのように、不品行な俗悪な者にならないようにしなさい。
12:17 あなたがたの知っているように、彼はその後、祝福を受け継ごうと願ったけれども、捨てられてしまい、涙を流してそれを求めたが、悔改めの機会を得なかったのである。

神の祝福を得なかった者は自らの力でこの地を生きる者となり、自らの力を積み重ね、自らを誇って生きる他に道はありませんが、それこそが神に逆らい、神に敵する道に他なりません。(オバデヤ1:1-4)
何と愚かにも失ったものの大きなことか。
偽られてはなりません。神が私達に与える豊かさとはそのような地上の豊かさとは全く比較にならないものです。
それは人の想像をはるかに超えるものであり、しかし主に永遠の望みを置く者に確実に与えられる驚くべき恵みなのです。

【黙示録21:11,18-21】
21:11 その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。
 [中略]
21:18 城壁は碧玉で築かれ、都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。
21:19 都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三はめのう、第四は緑玉、
21:20 第五は縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21:21 十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった。

金銀宝石は天の御国においては、アスファルトや煉瓦のような、御国を造る建材でしかありません。
確かに都は金銀宝石で光り輝いていますが、天の御国においてそれ自体に心惹かれ、礼賛する者などは居ません。
それは豊かさを現すものではなく、都の建材に過ぎないからです。

【黙示録22:3-5】
22:3 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、
22:4 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。
22:5 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。

天の御国おいては私達は何かを持っているから豊かなのではありません。
私達自身が満ち満ちて豊かであり、私達自身が主の栄光の輝きで輝いているのです。
それは主イエス自身が全てのものを持っていました(コロサイ1:15-17)が、それによって豊かだったのではなく、その存在自体が満ち満ちて豊かである(ヨハネ1:14,16)のと同様です。
そして、今この地において私達はこの満ち満ちた豊かさに満ち溢れることが与えられているのです。

【エペソ】
1:22 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。
1:23 この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

私達が地上で生きる全ての必要はこの満ち満ちたキリストの中から全て与えられ、満たされます。
それはすでに主が十字架の上に全てをささげ、私達に全てを与えて下さった、主の愛に基づき与えられているものに他なりません。
それは世にあるあらゆるものよりも確実であり、堅実なものです。

【エペソ3:16-19】
3:16 どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、
3:17 また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
3:18 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
3:19 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。

しかし、私達はすでに私達の内に与えられている「キリストの無尽蔵の富(エペソ3:8)」を、全く受け取ること無しにこの地上を歩んでも、何も意味がありません。
この無尽蔵の富こそ、この地上において、天に宝を積ませて私達を永遠に豊かなる者と至らしめ、またこの地上においても、主の御心に沿う善き業の全てのことのために、天地を動かして全てを満たす豊かさなのです。

【2コリント9:8】
9:8 神はあなたがたにあらゆる恵みを豊かに与え、あなたがたを常にすべてのことに満ち足らせ、すべての良いわざに富ませる力のあるかたなのである。

しかしそれですら、この地において与えられるもの自体が、神の御国を継ぐものとして与えられているもののほんの一部分に過ぎず、添えて与えられる程度のものであるのです。

【マタイ6:30-33】
6:30 ああ、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

では私達が天において与えられているものとはどれほど豊かなものなのでしょうか。
その御国を想う尽きない渇きこそ、私達をこの地において真のキリストにある豊かさをこの地で、天の御国の前味(「神の国をつぐことの保証」エペソ1:14)として先行して受け取らせるものです。
そして、この地上にあるあらゆるものも、天においてキリストと共に神の内に隠されている私達の命を、脅かすに足るものではなく、如何なる時にも私達を天のキリストの御座のすぐ御側にまで引き寄せて、永遠の安息の中に憩わせるものです。
さらに、やがてキリストと共に栄光の内によみがえる希望を、私達に与えるものなのです。

【コロサイ3:1-4】
3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
3:2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3:3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
3:4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

それはこの地上を天の御国に生きるように生きることであり、そのうちにある豊かさがこの地上に溢れ出て、私達の全生活、全人生を満たして余りある豊かさなのす。
あなたはこのような揺るぎない豊かさを欲しいと思いませんか?
「キリストの無尽蔵の富(エペソ3:8)」をサタンの誘惑に失うことを愚かなことだと思いませんか?

だから、御国を求めましょう。
その真ん中に御座を据え、全てを治める神ご自身を求めましょう。
いついかなるときも、この方を求める者は失望に終わることはないのですから。

【ローマ5:1-5】
5:1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
5:2 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
5:3 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
5:4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【エペソ1:13,14】
1:13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

【ローマ8:14-17】
8:14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
8:15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
8:16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。
8:17 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

【マタイ6:19-21】
6:19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
6:20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
6:21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。

【2コリント4:18】
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

【創世記3:4-8】
3:4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
3:5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
3:7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。

【創世記3:22-24】
3:22 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。
3:23 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。
3:24 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。

【オバデヤ1:1-4】
1:1 オバデヤの幻。主なる神はエドムについてこう言われる、われわれは主から出たおとずれを聞いた。ひとりの使者が諸国民のうちにつかわされて言う、「立てよ、われわれは立ってエドムと戦おう」。
1:2 見よ、わたしはあなたを国々のうちで小さい者とする。あなたはひどく卑しめられる。
1:3 岩のはざまにおり、高い所に住む者よ、あなたの心の高ぶりは、あなたを欺いた。あなたは心のうちに言う、「だれがわたしを地に引き下らせる事ができるか」。
1:4 たといあなたは、わしのように高くあがり、星の間に巣を設けても、わたしはそこからあなたを引きおろすと主は言われる。

【コロサイ1:15-17】
1:15 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。
1:16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
1:17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。

【ヨハネ1:14,16,17】
1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。
 [中略]
1:16 わたしたちすべての者は、その満ち満ちているものの中から受けて、めぐみにめぐみを加えられた。
1:17 律法はモーセをとおして与えられ、めぐみとまこととは、イエス・キリストをとおしてきたのである。

【エペソ3:8,9】
3:8 すなわち、聖徒たちのうちで最も小さい者であるわたしにこの恵みが与えられたが、それは、キリストの無尽蔵の富を異邦人に宣べ伝え、
3:9 更にまた、万物の造り主である神の中に世々隠されていた奥義にあずかる務がどんなものであるかを、明らかに示すためである。

福音を伝える

2015年01月15日 08:19

【使徒行伝10:34-43】
10:34 そこでペテロは口を開いて言った、「神は人をかたよりみないかたで、
10:35 神を敬い義を行う者はどの国民でも受けいれて下さることが、ほんとうによくわかってきました。
10:36 あなたがたは、神がすべての者の主なるイエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えて、イスラエルの子らにお送り下さった御言をご存じでしょう。
10:37 それは、ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音を述べたものです。
10:38 神はナザレのイエスに聖霊と力とを注がれました。このイエスは、神が共におられるので、よい働きをしながら、また悪魔に押えつけられている人々をことごとくいやしながら、巡回されました。
10:39 わたしたちは、イエスがこうしてユダヤ人の地やエルサレムでなさったすべてのことの証人であります。人々はこのイエスを木にかけて殺したのです。
10:40 しかし神はイエスを三日目によみがえらせ、
10:41 全部の人々にではなかったが、わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに現れるようにして下さいました。わたしたちは、イエスが死人の中から復活された後、共に飲食しました。
10:42 それから、イエスご自身が生者と死者との審判者として神に定められたかたであることを、人々に宣べ伝え、またあかしするようにと、神はわたしたちにお命じになったのです。
10:43 預言者たちもみな、イエスを信じる者はことごとく、その名によって罪のゆるしが受けられると、あかしをしています」。

よく私達は福音という言葉を用います。神からの良き知らせ。
私達の唇からこの福音が語り出され、世界中にまで宣教が行き渡ることは、四つの福音書の全ての書簡の最後に主イエスからの大宣教命令(マタイ28:18-20,マルコ16:15-18,ルカ24:45-49,ヨハネ20:21-23)が語られていることからもわかるように、まさしく主の御心の中心に位置することです。
「ああ、麗しいかな、良きおとずれを告げる者の足は(ローマ10:15)」とあるように、主はその良き知らせを伝える者の足を麗しいと語り、私達が福音を語ることを、主が如何に喜んでおられるかという、その思いを私達はここで知ることができるのです。
では私達の語るべき福音とは如何なるものなのでしょうか。
つまり私達が大切な誰かに伝道するとき、何を語ればいいのでしょうか。
ここには(使徒行伝10:38-43)、その福音の内容、つまり何を語るべきなのかということが最も短い形でまとめられています。
使徒ペテロ自身が語った最短の福音。

①まず、最初にペテロ自身の証しが語られます。
ペテロ自身が「聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、(1ヨハネ1:1)」ついて、自分自身と主との交わり。
そう、如何に私は主と出会い、如何に愛され、如何にして救われたのかについての証しをする。
②そしてその中心には主イエスの十字架の死と復活が語られ、よみがえられた主と私にどのように交わりをもたれているのか、今生きておられる主について証しする。
③主イエスは再び来られる(再臨)ということ。そしてそのとき主は生者と死者審判者として来られ、自らの言葉や行い(言動)を元に裁かれる(黙示録20:11-15)ということを知らせる。
④この十字架こそが唯一私達の罪をゆるし、罪の報酬たる死から、永遠の滅びから免れさせる唯一の救い(使徒行伝4:12)であると伝え、その罪からのゆるしを得るよう、救い主イエスキリストを信じ受け入れるよう勧める。

というものが福音です。
確かに教会に来ることを勧めることや、教会がどんなところか、キリスト教とはどんなものか、その習慣や形式、歴史などを話することも、きっかけとしては良いかも知れませんが、それらは決して福音ではありません。
それらの言葉が決して救うわけでも命を与えるわけでもないのです。
もちろん、福音を語り、信仰に至らせるのは、無理強いし、説得することではありません。
語る福音が受け入れられ、力を以てその人に働き、救いを得させ、信仰に至らせる(ローマ1:16,17)ものです。
それは人の力によらない、神の力によるものであり、人の力では到底及ばない神の奇跡によるもの(ヨハネ3:3-8,13-15)です。
語るべき機会、与えられる時間、どのような内容を、どこまで話するべきかは神が教えて下さる(マルコ13:10,11)ものです。
けれども、時として、語るべき機会が神に与えられたとしても、それが限られた時間であるときもあります。
ですから、如何なる状況に於いても私達は全力をもって、私達を救って下さった方、救い主イエスキリストを証しする備えをしておくことも必要でしょう。(どんなときでも語れるよう、3分程度で語れる救いの証しを備えておく。)
確かに語るべき言葉は主が与えて下さいますが、一度も語ったことがない、語る自信がないということが、主の福音を語ることを閉ざす理由とならないために。
決して難しいことではありません。あなたの知る主を語ればいいのです。
あなたがどのようなところ(惨めな自分や希望無き人生)から、どのように救われ、どのように愛され、今に至っているのかを。今生きておられる主と共に、どのように喜んで生きているのかを。
私達はおいしものを食べると、それを人に勧めたくなるというのはよくあることではないでしょうか。
そのようなことでさえ私達は一生懸命語れるのに、これほど私達を愛して下さった方を、またこの方が与えて下さった、言葉には到底尽くせない、新しい命を与えられたことによって得た、新しい生き方、人生の素晴らしさを、どうして語らないでいられるでしょう。
それもあなたの大切な人達にはなおさらのことではないでしょうか。
私達の接する周りの人達にいつ会える機会が失われるかは誰にもわかりません。
しかし、彼らは福音が語られなければ、何も聞かず知らされないまま、確実に何の判断もできぬまま永遠の滅びに向かっていくのです。(ルカ16:19-31)
あなたを救って下さった主にとっては、あなたの大切な人が滅びることは、私達の思う以上に筆舌しがたい悲しみ、断腸の思いで忍耐されておられるのです。

【エレミヤ31:20(文語訳)】
31:20 我(われ)彼(かれ)にむかひてかたるごとに彼(かれ)を念(おも)はざるを得(え)ず是(ここ)をもて我(わが)膓(はらわた)かれの爲(ため)に痛(いた)む我(われ)必(かなら)ず彼(かれ)を恤(あはれ)むべし

ですから、この福音をあなたの口から語る機会が与えられるよう祈りましょう。その時語るべき言葉が与えられるよう今から備え祈っていきましょう。

さあ、一人でも永遠の滅びから救われるために、共に祈りましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【マタイ28:18-20】
28:18 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
28:19 それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
28:20 あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。

【マルコ16:15-20】
16:15 そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。
16:16 信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。
16:17 信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、
16:18 へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。
16:19 主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。
16:20 弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕

【ルカ24:45-49】
24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて
24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。
24:47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。
24:48 あなたがたは、これらの事の証人である。
24:49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。

【ヨハネ20:21-23】
20:21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
20:22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
20:23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

【1ヨハネ1:1-4】
1:1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言について__
1:2 このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、かつ、あなたがたに告げ知らせるのである。この永遠のいのちは、父と共にいましたが、今やわたしたちに現れたものである__
1:3 すなわち、わたしたちが見たもの、聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりにあずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリストとの交わりのことである。
1:4 これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるためである。

【黙示録20:11-15】
20:11 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
20:13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
20:14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
20:15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

【使徒行伝4:12】
4:12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

【ローマ1:16,17】
1:16 わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。
1:17 神の義は、その福音の中に啓示され、信仰に始まり信仰に至らせる。これは、「信仰による義人は生きる」と書いてあるとおりである。

【ヨハネ3:3-8,13-15】
3:3 イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。
3:4 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。
3:5 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。
3:6 肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
3:7 あなたがたは新しく生れなければならないと、わたしが言ったからとて、不思議に思うには及ばない。
3:8 風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞くが、それがどこからきて、どこへ行くかは知らない。霊から生れる者もみな、それと同じである」。
 [中略]
3:13 天から下ってきた者、すなわち人の子のほかには、だれも天に上った者はない。
3:14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。
3:15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。

【マルコ13:10,11】
13:10 こうして、福音はまずすべての民に宣べ伝えられねばならない。
13:11 そして、人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。

【ルカ16:19-31】
16:19 ある金持がいた。彼は紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮していた。
16:20 ところが、ラザロという貧乏人が全身でき物でおおわれて、この金持の玄関の前にすわり、
16:21 その食卓から落ちるもので飢えをしのごうと望んでいた。その上、犬がきて彼のでき物をなめていた。
16:22 この貧乏人がついに死に、御使たちに連れられてアブラハムのふところに送られた。金持も死んで葬られた。
16:23 そして黄泉にいて苦しみながら、目をあげると、アブラハムとそのふところにいるラザロとが、はるかに見えた。
16:24 そこで声をあげて言った、『父、アブラハムよ、わたしをあわれんでください。ラザロをおつかわしになって、その指先を水でぬらし、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの火炎の中で苦しみもだえています』。
16:25 アブラハムが言った、『子よ、思い出すがよい。あなたは生前よいものを受け、ラザロの方は悪いものを受けた。しかし今ここでは、彼は慰められ、あなたは苦しみもだえている。
16:26 そればかりか、わたしたちとあなたがたとの間には大きな淵がおいてあって、こちらからあなたがたの方へ渡ろうと思ってもできないし、そちらからわたしたちの方へ越えて来ることもできない』。
16:27 そこで金持が言った、『父よ、ではお願いします。わたしの父の家へラザロをつかわしてください。
16:28 わたしに五人の兄弟がいますので、こんな苦しい所へ来ることがないように、彼らに警告していただきたいのです』。
16:29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。それに聞くがよかろう』。
16:30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。

祝福の地に生きる

2015年01月14日 11:08

【申命記11:10-16】
11:10 あなたがたが行って取ろうとする地は、あなたがたが出てきたエジプトの地のようではない。あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。
11:11 しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。
11:12 その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。
11:13 もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、
11:14 主はあなたがたの地に雨を、秋の雨、春の雨ともに、時にしたがって降らせ、穀物と、ぶどう酒と、油を取り入れさせ、
11:15 また家畜のために野に草を生えさせられるであろう。あなたは飽きるほど食べることができるであろう。
11:16 あなたがたは心が迷い、離れ去って、他の神々に仕え、それを拝むことのないよう、慎まなければならない。

エジプトは一年を通して雨があまり降らない土地であり、年に周期的に起きるナイル川の洪水を利用し灌漑することによって、初めて農業を行なえる土地でした。
洪水時に貯水し、洪水が引くと排水して耕地とし、作物を植えるのです。
定期的に貯水と排水を繰り返すことによって土壌の塩分が除かれ、周期的に肥沃な土が堆積されるという意味では豊かな土地ではありましたが、灌漑を人の手でしなければならない、「あそこでは、青物畑でするように、あなたがたは種をまき、足でそれに水を注いだ。(申命記11:10)」とあるように、非常に労力のかかる土地でした。
つまり、世を現すエジプトの生活は常に人の力によって生きなければならない、非常に苦労の多い、あるいは人が自分の力で生きることを止めてしまえば、生きることのできない過酷な生き方です。
しかし、主がイスラエルの民をエジプトから導き出し、彼らに与えた約束の地はそうではありません。
「しかし、あなたがたが渡って行って取る地は、山と谷の多い地で、天から降る雨で潤っている。(申命記11:11)」とあるように、山があるからそこに雲がぶつかりその下に雨が降り、谷があるからそこに川が流れる。天然の地形に恵まれるから、ちゃんと必要なときに雨が降る、人の力によらずに潤った土地、「乳と蜜の流れる国(申命記11:9)」だったのです。
主に救われた私達の生き方は本来このようなものです。
私達の努力には一切よらず、主の与えたもう主の豊かさだけで、全ては満たされ潤う生活。
世から出て、主の御手の内に生きる生活とはそのような約束の伴う土地なのです。
しかし同時にそれは、「もし、きょう、あなたがたに命じるわたしの命令によく聞き従って、あなたがたの神、主を愛し、心をつくし、精神をつくして仕えるならば、(申命記11:13)」とあるように、主の御心(「わたしの命令」=御言葉)に従い生きて、主を全身全霊を以て愛することによってもたらされる、主の祝福であるのです。
それは言い換えるのであれば、肉に歩まず御霊に導かれて歩む(ローマ8:11-17)、信仰による生活。
しかし、一度自分の力による生活、つまり肉の欲を満たす肉による生活(ガラテヤ5:16,17)を送ろうとするのであれば、それは世を愛する(1ヨハネ2:15-17)生き方であり、エジプトに逆戻りし、エジプトの奴隷生活つまり世の奴隷、罪の奴隷として生き続ける生活が待っているのです。
それは神から心離れ、欲を満たす代わりに祝福を奪い取りのろいと変える神々に仕え、拝む生活(申命記11:16)となる。
何と恐ろしいことでしょうか。
自分のために生きることと、主のために生きること。
自分の欲を満たすために生きる生活と、神を愛し神の御心に従う生活。
この境目は紙一重ですが、その結果はエジプトの生活と約束の地の生活以上の大きな差、祝福とのろい、命と死という大きな結果の違いとなって現れるのです。
あなたは今年、年の始めから年の終りまで、どのように過ごすことを望まれるでしょうか。
私はあなたに、「その地は、あなたの神、主が顧みられる所で、年の始めから年の終りまで、あなたの神、主の目が常にその上にある。(申命記11:12)」
という信仰の地に生きられることを望んでいます。
どうかこの年も主の祝福があなたの上に豊かにありますように。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ローマ8:11-17】
8:11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。
8:12 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。
8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。
8:14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
8:15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
8:16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。
8:17 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。

【ガラテヤ5:16,17】
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。

【1ヨハネ2:15-17】
2:15 世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。
2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。
2:17 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。

日々忠実に歩む

2015年01月07日 11:06

【ヤコブ4:13-17】
4:13 よく聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町へ行き、そこに一か年滞在し、商売をして一もうけしよう」と言う者たちよ。
4:14 あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。
4:15 むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。
4:16 ところが、あなたがたは誇り高ぶっている。このような高慢は、すべて悪である。
4:17 人が、なすべき善を知りながら行わなければ、それは彼にとって罪である。

新しい年を迎えると、昨年の反省などを踏まえながら、今年こそと目標を掲げ、一年の計画を立てたり、また人によっては何カ年計画といった形で、先の日の計画を立てるという方もいるでしょう。
ここで聖書が、このような人の性質について前提として語られているのは、人の命は主により定められ、その生きる道も主により造られるということです。
つまり、自らの計画を立てる大きな背景には、人は自分の力で生きていると思っているということです。
自分の力に頼り、あるいは人々の協力、助けもあるかも知れませんが、いずれにしても自分達の力によって、計画を立て、成し遂げていく。
一見すると、兄弟姉妹や教会といった単位で見るのであれば、それは神の計画、神の栄光に見えるかも知れません。
しかし、それが全て自分達の力で成し遂げられるのであれば、そこに神が働く隙が存在していません。
気がつけば神無しで物事がどんどん進んで行っている。そのようなことはよくあることです。
もしもそのようなことに少しでも気づき、あるいは行われている全ての計画に神の喜びが満ちず、また教会に、自分の信仰生活に、閉塞感が漂うようになっているのであれば、一度立ち止まって神に祈るべき時ではないでしょうか。
もしかすると、そこには人の力が満ち、人の栄光はあるけれど、神の働く余地が全くなくなっているのかも知れません。

【2コリント12:9,10】
12:9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

神の栄光は私達の弱さや欠け、無知など、私達の無力さ、小ささに現されるものであることを忘れているのかも知れません。
水は高いところから低いところに流れるように、主の恵みは低いところに注がれます。(詩篇113篇、ルカ6:20-26、1コリント1:26-31)
私達は知らず知らずに神の前に高慢になっているのかも知れません。
勘違いをしてはいけません。
私達の計画のために神が居られるのではありません。神の計画のために私達は生きている(2コリント5:14,15)のです。
私達は神の御心のままに造られ、御心のままに生かされ、主により保たれている(コロサイ1:15-17、エペソ1:3-12)のです。

【ローマ14:7-9】
14:7 すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。
14:8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。
14:9 なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。

主のために生きようと願うものには主は私達に主の御心を明かされます。
主の大いなるご計画の一端を私達が担うために。
それは祈りの内に、あるいは聖書を通して、あるいはメッセージや人の言葉を通して、主の思いを知り、その思いを我が思いとして担い、主からの召しとして、それを受け取る。つまり主のご計画を私自身がどのように担うかということを知るでしょう。
それは人の思いをはるかに超え、自分の力では到底できないようなものでしょう。しかし、だからこそ神の計画、神があなたに何もないからこそ働かれる計画なのです。

【マタイ6:33,34】
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。
6:34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

ならば、そのような人にはわからないようなことを、できないようなことを成すために、どのようにして今日一日を過ごしたら良いでしょうかと問うでしょうか。
だからこそ、私達には明日のことがわからないのです。
主と共に歩くとはそれほど大きなことであり、今日一日のことをするので充分なほど、私達にはそれぐらいの能力しかなく、またそれほど大いなる一日を私達に主は与えて下さっているのです。
今日を精一杯、主に忠実に心からの愛と誠実を以て、主の御心を思い、願い、祈り、御心が成るように生きるだけで、充分大変なこと、それ以上の能力は私達には与えられていないのです。
どれほど小さなことに見えても、主の御心を思い忠実に生きる。
この一年も神の御心が成るように、まず今日一日を誠実に積み重ねる、大切な日々を歩んで下さい。
主の祝福を心よりお祈りしています。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【詩篇113篇】
113:1 主をほめたたえよ。主のしもべたちよ、ほめたたえよ。主のみ名をほめたたえよ。
113:2 今より、とこしえに至るまで主のみ名はほむべきかな。
113:3 日のいずるところから日の入るところまで、主のみ名はほめたたえられる。
113:4 主はもろもろの国民の上に高くいらせられ、その栄光は天よりも高い。
113:5 われらの神、主にくらぶべき者はだれか。主は高き所に座し、
113:6 遠く天と地とを見おろされる。
113:7 主は貧しい者をちりからあげ、乏しい者をあくたからあげて、
113:8 もろもろの君たちと共にすわらせ、その民の君たちと共にすわらせられる。
113:9 また子を産まぬ女に家庭を与え、多くの子供たちの喜ばしい母とされる。主をほめたたえよ。

【ルカ6:20-26】
6:20 そのとき、イエスは目をあげ、弟子たちを見て言われた、「あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。神の国はあなたがたのものである。
6:21 あなたがたいま飢えている人たちは、さいわいだ。飽き足りるようになるからである。あなたがたいま泣いている人たちは、さいわいだ。笑うようになるからである。
6:22 人々があなたがたを憎むとき、また人の子のためにあなたがたを排斥し、ののしり、汚名を着せるときは、あなたがたはさいわいだ。
6:23 その日には喜びおどれ。見よ、天においてあなたがたの受ける報いは大きいのだから。彼らの祖先も、預言者たちに対して同じことをしたのである。
6:24 しかしあなたがた富んでいる人たちは、わざわいだ。慰めを受けてしまっているからである。
6:25 あなたがた今満腹している人たちは、わざわいだ。飢えるようになるからである。あなたがた今笑っている人たちは、わざわいだ。悲しみ泣くようになるからである。
6:26 人が皆あなたがたをほめるときは、あなたがたはわざわいだ。彼らの祖先も、にせ預言者たちに対して同じことをしたのである。

【1コリント1:26-31】
1:26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
1:27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
1:28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
1:29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
1:30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
1:31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。

【2コリント5:14,15】
5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

【コロサイ1:15-18】
1:15 御子は、見えない神のかたちであって、すべての造られたものに先だって生れたかたである。
1:16 万物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、位も主権も、支配も権威も、みな御子にあって造られたからである。これらいっさいのものは、御子によって造られ、御子のために造られたのである。
1:17 彼は万物よりも先にあり、万物は彼にあって成り立っている。
1:18 そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。

【エペソ1:3-12】
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
1:6 これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。
1:7 わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。
1:8 神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、
1:9 御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。
1:10 それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。
1:11 わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。
1:12 それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。

始めの日に

2015年01月03日 19:48

【出エジプト12:1-20】
12:1 主はエジプトの国で、モーセとアロンに告げて言われた、
12:2 「この月をあなたがたの初めの月とし、これを年の正月としなさい。
12:3 あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。
12:4 もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれないときは、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない。
12:5 小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。
12:6 そしてこの月の十四日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、
12:7 その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。
12:8 そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。
12:9 生でも、水で煮ても、食べてはならない。火に焼いて、その頭を足と内臓と共に食べなければならない。
12:10 朝までそれを残しておいてはならない。朝まで残るものは火で焼きつくさなければならない。
12:11 あなたがたは、こうして、それを食べなければならない。すなわち腰を引きからげ、足にくつをはき、手につえを取って、急いでそれを食べなければならない。これは主の過越である。
12:12 その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。
12:13 その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。
12:14 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。
12:15 七日の間あなたがたは種入れぬパンを食べなければならない。その初めの日に家からパン種を取り除かなければならない。第一日から第七日までに、種を入れたパンを食べる人はみなイスラエルから断たれるであろう。
12:16 かつ、あなたがたは第一日に聖会を、また第七日に聖会を開かなければならない。これらの日には、なんの仕事もしてはならない。ただ、おのおのの食べものだけは作ることができる。
12:17 あなたがたは、種入れぬパンの祭を守らなければならない。ちょうど、この日、わたしがあなたがたの軍勢をエジプトの国から導き出したからである。それゆえ、あなたがたは代々、永久の定めとして、その日を守らなければならない。
12:18 正月に、その月の十四日の夕方に、あなたがたは種入れぬパンを食べ、その月の二十一日の夕方まで続けなければならない。
12:19 七日の間、家にパン種を置いてはならない。種を入れたものを食べる者は、寄留の他国人であれ、国に生れた者であれ、すべて、イスラエルの会衆から断たれるであろう。
12:20 あなたがたは種を入れたものは何も食べてはならない。すべてあなたがたのすまいにおいて種入れぬパンを食べなければならない』」。

聖書における正月はイスラエルの民がエジプトを出たという事実を中心に定められました。
つまりイスラエルの民において、正月の中心は過越の祭りです。
(新年のことを、ヘブライ語で 「ローシュ・ハシャナ(年の頭の意)」と言います。
「七月には、その月の第一日に聖会を開かなければならない。なんの労役をもしてはならない。これはあなたがたがラッパを吹く日である。(民数記29:1)」とあり、第7の月1日が、今のイスラエルの民がローシュ・ ハシャナとして祝っている日です。)
ではなぜ聖書はこの過越を正月の中心に据えているのでしょうか。
それはエジプトを出る。世(エジプト)から出され(ヨハネ15:19)、世に属する全ての者に据えられた永遠のさばきから救われた(ガラテヤ1:4、ローマ5:8-10)ことを意味する祭りだからです。
また過越の祭りのとき、主が十字架にかかられたことでわかるように、主イエスご自身が過越にささげられる真の小羊(ヨハネ1:29、1コリント5:7)であるのです。
今日の箇所から、この過越の祭りのときに、皆に屠られ裂かれ火に焼かれる小羊の姿がわかるでしょうか。
またご自身の全てを私達に与える姿が見えるでしょうか。
聖餐にあらわされるご自身の裂かれた肉を、血を、私達に分かつ姿を。
そして主の血潮が流され、その血をもって、入口の二つの柱と、かもいに血を塗り、血で私達を覆って、主のさばきから私達を聖め別ち、私達に滅びが及ばないようにと、私達を血の代価を以て買い取られ、主のものとされた。
この小羊こそ、主イエスキリスト。
私達が見るべきものはこの方なのです。

【ヨハネ1:29】
1:29 見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

つまり、正月はこの方を見るとき(民数記21:8,9、ヨハネ3:14,15)であり、この方に私達がどのように贖われ救われたのか、罪深く、希望無く、罪の奴隷として日々死を待つだけであった私達の、主のただ一方的に注がれた愛あわれみにより、救われたあの日を思い出す日であるのです。
私達にとって新年は、昨年のことを忘れ、ただ新しい年の幸せを願うだけの日ではありません。
神は年の始めを、いつまでも私達の始めを思い出す日として定めたのだと、聖書に語っているということなのです。

【イザヤ51:1】
51:1 「義を追い求め、主を尋ね求める者よ、わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩と、あなたがたの掘り出された穴とを思いみよ。

あなたはこの年明けの時をどのように過ごされてきたでしょうか。
今一度このときに、私の始めの日について静かに心巡らせ、主の始めの愛を思い出し、主を愛することから始める、素晴らしい年明けのときを過ごそうではありませんか。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヨハネ15:18,19】
15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。

【ローマ5:8-10】
5:8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
5:9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
5:10 もし、わたしたちが敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。

【ガラテヤ1:4,5】
1:4 キリストは、わたしたちの父なる神の御旨に従い、わたしたちを今の悪の世から救い出そうとして、ご自身をわたしたちの罪のためにささげられたのである。
1:5 栄光が世々限りなく神にあるように、アァメン。

【ヨハネ1:29-34】
1:29 その翌日、ヨハネはイエスが自分の方にこられるのを見て言った、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。
1:30 『わたしのあとに来るかたは、わたしよりもすぐれたかたである。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この人のことである。
1:31 わたしはこのかたを知らなかった。しかし、このかたがイスラエルに現れてくださるそのことのために、わたしはきて、水でバプテスマを授けているのである」。
1:32 ヨハネはまたあかしをして言った、「わたしは、御霊がはとのように天から下って、彼の上にとどまるのを見た。
1:33 わたしはこの人を知らなかった。しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、わたしに言われた、『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。
1:34 わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。

【1コリント5:7,8】
5:7 新しい粉のかたまりになるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたは、事実パン種のない者なのだから。わたしたちの過越の小羊であるキリストは、すでにほふられたのだ。
5:8 ゆえに、わたしたちは、古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。

【民数記21:6-9】
21:6 そこで主は、火のへびを民のうちに送られた。へびは民をかんだので、イスラエルの民のうち、多くのものが死んだ。
21:7 民はモーセのもとに行って言った、「わたしたちは主にむかい、またあなたにむかい、つぶやいて罪を犯しました。どうぞへびをわたしたちから取り去られるように主に祈ってください」。モーセは民のために祈った。
21:8 そこで主はモーセに言われた、「火のへびを造って、それをさおの上に掛けなさい。すべてのかまれた者が仰いで、それを見るならば生きるであろう」。
21:9 モーセは青銅で一つのへびを造り、それをさおの上に掛けて置いた。すべてへびにかまれた者はその青銅のへびを仰いで見て生きた。

【ヨハネ3:14,15】
3:14 そして、ちょうどモーセが荒野でへびを上げたように、人の子もまた上げられなければならない。
3:15 それは彼を信じる者が、すべて永遠の命を得るためである」。

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