ブログ

主を知っていますか?

2014年11月05日 12:29

【マタイ22:41,42】
22:41 パリサイ人たちが集まっていたとき、イエスは彼らにお尋ねになった、
22:42 「あなたがたはキリストをどう思うか。だれの子なのか」。彼らは「ダビデの子です」と答えた。

「あなたがたはキリストをどう思うか(マタイ22:42)」
この言葉にどう答えるかによって、私達の未来は決定します。
そして今の生き方が自体が変わるのです。

この質問を主イエスがされたときは、パリサイ人が主イエスに集まり信仰問答をしているときでした。

【マタイ22:15】
22:15 そのときパリサイ人たちがきて、どうかしてイエスを言葉のわなにかけようと、相談をした。

このパリサイ人は、ユダヤ人の中で当時の「宗教の最も厳格な派(使徒行伝26:5)」に属する者達だったのです。
つまり、知識においては当時救い主キリストとはどのような方であるかということを最もよく知っている者達だったでしょう。
そして、律法を守ることに於いても厳格であったのですから、当時の人々の中では、人間的には最も優れた信仰者であったと言えるでしょう。
しかし、彼らは目の前にいる方をキリストだと答えることができなかった。

結果この後自分達を救うために地に来られた救い主を、彼らは自らの手で十字架にかけてしまい、待ち望んだ救いを彼ら自身が遠ざけてしまったのです。

【1コリント2:8-12】
2:8 この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。
2:9 しかし、聖書に書いてあるとおり、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神は、ご自分を愛する者たちのために備えられた」のである。
2:10 そして、それを神は、御霊によってわたしたちに啓示して下さったのである。御霊はすべてのものをきわめ、神の深みまでもきわめるのだからである。
2:11 いったい、人間の思いは、その内にある人間の霊以外に、だれが知っていようか。それと同じように神の思いも、神の御霊以外には、知るものはない。
2:12 ところが、わたしたちが受けたのは、この世の霊ではなく、神からの霊である。それによって、神から賜わった恵みを悟るためである。

このことは私達自身にも同じことが言えます。
いくら信仰的な知識を積み重ね、厳格に信仰を守るような信仰者としての歩みを見せていても、目の前に生きて共に居られいる主をキリストと知らなければ、救い主としても、神としても、何の意味もないのです。
それは私達の人生に何の関わりを持たない、何の影響も与えない、何の力もない存在となってしまうのです。

実に主を知るとは、人の知恵にも、力にも、学歴にも、社会的な地位にも、富んでいても、貧しくても、一切人によるものはなく、神によってのみ成された神の御業なのです。
むしろ、神の栄光を現すのは主のみにすがりより頼む他ない者達、自分に何ものもないから自分を誇れず、神のみを誇るしかない者達によるのです。
そうして、私達は一方的な主の恵みにより主を知ったはずなのです。

【1コリント1:25-31】
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。
1:26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
1:27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
1:28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
1:29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
1:30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
1:31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。

また、人の信仰を借りて、主イエスとの関係を持つことはできません。

【使徒行伝19:13-17】
19:13 そこで、ユダヤ人のまじない師で、遍歴している者たちが、悪霊につかれている者にむかって、主イエスの名をとなえ、「パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。出て行け」と、ためしに言ってみた。
19:14 ユダヤの祭司長スケワという者の七人のむすこたちも、そんなことをしていた。
19:15 すると悪霊がこれに対して言った、「イエスなら自分は知っている。パウロもわかっている。だが、おまえたちは、いったい何者だ」。
19:16 そして、悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押えつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になって、その家を逃げ出した。
19:17 このことがエペソに住むすべてのユダヤ人やギリシヤ人に知れわたって、みんな恐怖に襲われ、そして、主イエスの名があがめられた。

いくら主イエスの名を知っていようとも、あるいはどれほど素晴らしい、信仰深い信仰者を知っていようとも、キリストを救い主として、神として信じて、知って、共に生きて行くのでなければ、何の力もありません。
いや、その絶大な力と権威を持つ神の御名は、それを信じる者のうちにしか、この方を知る者のうちにしか、働くことはないのです。
信仰とは各々各自の神との関係であり、誰かがあなたの代わりに食事をすることができないのと同様に、信仰も誰かが代わりにはなれないのです。
誰かから見聞きしたことではだめなのです。

【ヨハネ17:3】
17:3 永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。

【ヨハネ3:36】
3:36 御子を信じる者は永遠の命をもつ。御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまるのである」。

遠くから主に近づかず、紙に書かれただけの信仰、あるいは人が持っている信仰を使って、主と交わることなしに形だけ信仰者であっても、あなたが主を知っていることには決してなりません。
しかし、あなたに近づこうと手を伸ばし、深い交わりを与えて下さり、実にそのためにあなたのうちに今住まわれる神は、主ご自身を知り、信じ、主に従うことが永遠の命であるとあなたに語りかけているのです。

【ヨハネ5:38-42】
5:38 また、神がつかわされた者を信じないから、神の御言はあなたがたのうちにとどまっていない。
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
5:40 しかも、あなたがたは、命を得るためにわたしのもとにこようともしない。
5:41 わたしは人からの誉を受けることはしない。
5:42 しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。

あなたは主を愛しているでしょうか?
あなたは、主にどれほどに愛されて今生きているのかということを知っているでしょうか?
あなたの主への愛は冷めていませんか?
主を知ることは、主の愛を知り、主を愛することから始まるのです。

「あなたがたはキリストをどう思うか(マタイ22:42)」と今あなたが主から訊ねられたなら、「あなたこそ、生ける神の子キリストです(マタイ16:16)」と、今生きてあなたの傍らに共に居られる方に愛と信仰を持って、本当に答えることができるでしょうか。
それがあなたと神との本当の距離(関係)なのです。
あなたの永遠の命のために神との愛の関係を建て直しましょう。

【ヘブル12:2(新改訳)】
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。

信仰が生きて自分のものでないなら、パリサイ人と同様に目の前にいても主イエスを見ることはできません。

あなたの信仰の目は、主イエスを確かに見つめていますか?

共に主に祈りましょう。

※今日のメッセージの引用箇所です。ご参照下さい。

【使徒行伝26:1-5】
26:1 アグリッパはパウロに、「おまえ自身のことを話してもよい」と言った。そこでパウロは、手をさし伸べて、弁明をし始めた。
26:2 「アグリッパ王よ、ユダヤ人たちから訴えられているすべての事に関して、きょう、あなたの前で弁明することになったのは、わたしのしあわせに思うところであります。
26:3 あなたは、ユダヤ人のあらゆる慣例や問題を、よく知り抜いておられるかたですから、わたしの申すことを、寛大なお心で聞いていただきたいのです。
26:4 さて、わたしは若い時代には、初めから自国民の中で、またエルサレムで過ごしたのですが、そのころのわたしの生活ぶりは、ユダヤ人がみんなよく知っているところです。
26:5 彼らはわたしを初めから知っているので、証言しようと思えばできるのですが、わたしは、わたしたちの宗教の最も厳格な派にしたがって、パリサイ人としての生活をしていたのです。

勝利する信仰者

2014年10月31日 12:37

【ヨハネ16:33】
16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

聖書は私達に、苦しみは一切無いと語っているわけではありません。
むしろ、その逆に主イエスのものとされたからこそ戦いがあると、苦しみにも会うと語っています。
それは、私達が救われた結果、世のものではなく、むしろそこから選び出されて、神のものとされたのであり(ヨハネ15:19)、到来されようとする神と世との接点に私達がいるからであり、それはその位置に私達が遣わされているからです。

【ヨハネ17:14-18】
17:14 わたしは彼らに御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世のものではないからです。
17:15 わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。
17:16 わたしが世のものでないように、彼らも世のものではありません。
17:17 真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。
17:18 あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。

この苦しみや戦いはこの世のどのようなものとも異なります。
私達は目に見える世界において、苦しみ、葛藤しますが、この「戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦い(エペソ6:12)」なのです。
それが信仰の戦いなのです。
しかし主は決してそれを冷たく高見の見物をしながら、私達を遣わすのではありません。
「さあ、行きなさい。わたしがあなたがたをつかわすのは、小羊をおおかみの中に送るようなものである。(ルカ10:3)」とそれがいかに危険な場所であるかを知りながらも、「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、彼らを悪しき者から守って下さることであります。(ヨハネ17:15)」と父なる神に直接お願いしてくださっているのです。
そして、「聖なる父よ、わたしに賜わった御名によって彼らを守って下さい。それはわたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。(ヨハネ17:11)」と主イエスの御名を私達に与え、また私達を主イエスの御名によって呼ばれる者、主のものとされ、それにより私達が御名により守られるよう願われたのです。
名には、その名を持つ者の性質を持ち、その名を持つ者の権威があるのです。
だから主は、永遠の勝利者であり、また「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた(マタイ28:18)」というご自身の御名を私達にくださったのです。

また世の如何なるものにも汚されないために、

【ヨハネ】
17:17 真理によって彼らを聖別して下さい。あなたの御言は真理であります。
17:18 あなたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。
17:19 また彼らが真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします。

真理(御言葉)によって私達を聖別し、また真理であられる主ご自身も、ご自身を預言する御言葉にあって、ご自身を十字架にささげ、完全なる聖別をされました。
これにより私達は主イエスによって、真理によって、十字架によって、世から、私達を汚す一切のものから、聖別されたのです。
こうして私達は十字架の上で完全なる勝利を得られた主によって、私達も勝利者となったのです。

私達は世にあって悩みがあり、戦いがあると言えど、これほどに主は私達を心配し、これほどに愛し、実に主ご自身によって勝利を得る者としてくださったのですから、私達はこの勝利の中に生きる者となろうではありませんか。

【黙示録7:9-17】
7:9 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、
7:10 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。
7:11 御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、
7:12 「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。
7:13 長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。
7:14 わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。すると、彼はわたしに言った、「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。
7:15 それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。
7:16 彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。
7:17 御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。

私達は世にあっては患難を通りますが、そのことはかえって十字架にあって主の勝利の内に、完成された平安の中に私達を憩わせ、天の永遠の礼拝にこの地に居ながら集い、永遠に主に賛美をささげる者と私達を導くのです。
実にこの世の戦いでさえ、世(地上)から私達を引き離し、主の強い愛の内に私達を天の御国に引き寄せる道具とされるのです。
何という圧倒的な主の愛、何と圧倒的な勝利と平安でしょうか。

すでに主は勝利を完成されているのです。恐れることはありません。
主の御名により、主の御言葉により、主の十字架により、すでに私達は勝利しているのです。
ですから、今あなたを取り巻くあらゆる戦いに、主にあって勇気を出し、勝ちを得ていこうではありませんか。

主がその勝利をこの地に完全に現す、主が来られる日は近いのですから。
主の日を一日も早く近づけるために。

※今日の引用箇所です。ご参照下さい。

【ヨハネ15:18-20】
15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。
15:20 わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。
15:21 彼らはわたしの名のゆえに、あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。それは、わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである。

【エペソ6:10-13】
6:10 最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。
6:11 悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。
6:12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。
6:13 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

自分という偶像

2014年10月30日 11:55

【申命記4:23-31】
4:23 あなたがたは慎み、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れて、あなたの神、主が禁じられたどんな形の刻んだ像をも造ってはならない。
4:24 あなたの神、主は焼きつくす火、ねたむ神である。
4:25 あなたがたが子を生み、孫を得、長くその地におるうちに、道を誤って、すべて何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪をなして、その憤りを引き起すことがあれば、
4:26 わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対してあかしとする。あなたがたはヨルダンを渡って行って獲る地から、たちまち全滅するであろう。あなたがたはその所で長く命を保つことができず、全く滅ぼされるであろう。
4:27 主はあなたがたを国々に散らされるであろう。そして主があなたがたを追いやられる国民のうちに、あなたがたの残る者の数は少ないであろう。
4:28 その所であなたがたは人が手で作った、見ることも、聞くことも、食べることも、かぐこともない木や石の神々に仕えるであろう。
4:29 しかし、その所からあなたの神、主を求め、もし心をつくし、精神をつくして、主を求めるならば、あなたは主に会うであろう。
4:30 後の日になって、あなたがなやみにあい、これらのすべての事が、あなたに臨むとき、もしあなたの神、主に立ち帰ってその声に聞きしたがうならば、
4:31 あなたの神、主はいつくしみの深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、またあなたの先祖に誓った契約を忘れられないであろう。

偶像は人の手で造り出すものです。
何か自然に存在しているもので、それが勝手に人に影響を及ぼしてくるというものではありません。
この偶像を礼拝するようになるにはこの偶像を自らが受け入れるために、すでに心の中に神ではないものを慕う心が存在します。
つまり心の中にすでに偶像が存在している。

【1コリント8:4-6】
8:4 わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。
8:5 というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、多くの主があるようではあるが、
8:6 わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。

私達が神を愛し、神に常に心を向け生活しているのであれば、偶像は全く私達にとって何の意味もないものです。
しかし、その目が自分を愛し、自分のために生活を守るということに、心が占められるなら、そこに偶像が造り出される。

【コロサイ3:5,6】
3:5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
3:6 これらのことのために、神の怒りが下るのである。

それも、偶像と言われているものは、それを礼拝している者には神として認識されることが最も厄介なところです。
つまり、偶像礼拝者は神以外のものを礼拝していると思っておらず、神を礼拝していると思い込んでいる。
でもそれを放置するのであれば、どこまででも神と異なるものを神とあがめるようになる。それでも自分は神を信じていると思い何の疑いも起こらないところが恐ろしいところです(エレミヤ44:16-23)。
しかし、その偶像はもちろん神ではないものですから、根本的にその性質が異なります。
つまり自分を目的にし、自分の思い通りに生きるため、自分の力で生きることを認め、自分の手の業を栄えさせる神を、自分の手の業によって造る。
この自分の栄光、自己礼拝のために造り出されるものが偶像です。
そして、これは人には全く認識できないほど小さく見えるところから生まれるのです。

【出エジプト32:1-10】
32:1 民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。
32:2 アロンは彼らに言った、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」。
32:3 そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。
32:4 アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。
32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そしてアロンは布告して言った、「あすは主の祭である」。
32:6 そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。
32:7 主はモーセに言われた、「急いで下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。
32:8 彼らは早くもわたしが命じた道を離れ、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、これに犠牲をささげて、『イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である』と言っている」。
32:9 主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。
32:10 それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」。

神の目にはこれは立派な偶像礼拝です。人がどのように言い訳をしても、神の怒りを引き起こす充分な理由です。
根本は神を愛するより、自分を愛する、神を見るより、自分を見る、というところから発生するもの。
自分を神のようにする恐ろしい罪から生まれているのです。
それは自分を神に対して、サタンと同じ立ち位置に置くものであり、神から離れ、やがて自分の力、自分の栄光を認めない神を憎み、神に敵対する者となるのです。

【創世記3:4-10】
3:4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
3:5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
3:7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
3:9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
3:10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。

神を誤解し、憎み、神に逆らうようになる、人の心の構造はこのように生まれるのですが、多くの人が自分の思う通りならない神に、自分が敵対するようになっているとは気づきません。
しかし、自分のために神が存在しているのではありません。天地万物は神の目的のために造られたのです。
それは神を愛し、神に愛されることにより全てが神と一つされるためです。

【エペソ1:8-12】
1:8 神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、
1:9 御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。
1:10 それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。
1:11 わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。
1:12 それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。

もしも、私達が自らを愛することから心を離し、神に愛され、神を愛することから生きるのであれば、どれほど解放されることでしょう。
それはエデンの園における神との関係の回復。
自分を捕らえているのは自分自身なのです。
神はそこから心を離し、神を愛し、その心が神のためにあるように生きることにより、私達を自分から解放するばかりか、そのこと自体が神ご自身の御心を成すこととなり、またこの御心の中に私達への愛が溢れ、私達が主と共に永遠に生きる者となることを望んでおられるのです。

【マタイ16:24-26】
16:24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
16:25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
16:26 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。

【ヨハネ12:24,25】
12:24 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
12:25 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。

神は私達が自己礼拝を捨て、偶像を打ち砕き、自分が自分を捕らえ続ける自分地獄から解放され、神の祭壇のみを建て、神のみを愛し、永遠の命に至るよう私達が歩むことを望んでおられます(1コリント10:16-22,2コリント6:14-18)。
解放の時を叫ぶなら、今がその時です。
自分自身から解放されましょう。
それがサタンの呪縛からの解放となります。
自分を否むことには痛みが伴うように思うでしょう。
けれどもその道すら主がすでに用意されています。
私達はすでに自分自身を主イエスと共に十字架につけ、死んだのです。今生きているのはよみがえられたキリストの命による(ガラテヤ2:19,20)のです。
自分とはすでに一切関係がありません。
痛みを訴えるのは自分を握りしめる自分の心だけなのです。
主の十字架に心を向けましょう。
主に心を向けましょう。
そこに自分を手放しても痛くない、溢れるほどの主の愛があなたに注がれているのがわかるでしょう。
その無限に注ぎ続けられる愛を受けて、主を愛し、主のために生きましょう。
その時、あなたの本当の主にある歩みが始まります。
共に祈りましょう。

※今日の引用箇所です。

【エレミヤ44:16-23】
44:16 「あなたが主の名によってわたしたちに述べられた言葉は、わたしたちは聞くことができません。
44:17 わたしたちは誓ったことをみな行い、わたしたちが、もと行っていたように香を天后にたき、また酒をその前に注ぎます。すなわち、ユダの町々とエルサレムのちまたで、わたしたちとわたしたちの先祖たちおよびわたしたちの王たちと、わたしたちのつかさたちが行ったようにいたします。その時には、わたしたちは糧食には飽き、しあわせで、災に会いませんでした。
44:18 ところが、わたしたちが、天后に香をたくことをやめ、酒をその前に注がなくなった時から、すべての物に乏しくなり、つるぎとききんに滅ぼされました」。
44:19 また女たちは言った、「わたしたちが天后に香をたき、酒をその前に注ぐに当って、これにかたどってパンを造り、酒を注いだのは、わたしたちの夫が許したことではありませんか」。
44:20 そこでエレミヤは男女のすべての人、およびこの答をしたすべての民に言った、
44:21 「ユダの町々とエルサレムのちまたで、あなたがたとあなたがたの先祖たち、およびあなたがたの王たちとあなたがたのつかさたち、およびその地の民が香をたいたことは、主がこれを忘れず、また、心にとどめておられることではないか。
44:22 主はあなたがたの悪しきわざのため、あなたがたの憎むべき行いのために、もはや忍ぶことができなくなられた。それゆえ、あなたがたの地は今日のごとく荒れ地となり、驚きとなり、のろいとなり、住む人のない地となった。
44:23 あなたがたが香をたき、主に罪を犯し、主の声に聞き従わず、その律法と、定めと、あかしに従って歩まなかったので、今日のようにこの災があなたがたに臨んだのである」。

【1コリント10:16-22】
10:16 わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。
10:17 パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。
10:18 肉によるイスラエルを見るがよい。供え物を食べる人たちは、祭壇にあずかるのではないか。
10:19 すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。
10:20 そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。
10:21 主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。
10:22 それとも、わたしたちは主のねたみを起そうとするのか。わたしたちは、主よりも強いのだろうか。

【2コリント6:14-18】
6:14 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
6:15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。
6:16 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」。
6:17 だから、「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
6:18 そしてわたしは、あなたがたの父となり、あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。

【ガラテヤ2:19,20】
2:19 わたしはキリストと共に十字架につけられた。
2:20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。

愛ゆえの低すぎるハードル

2014年10月28日 12:49

【列王記下5:8-14】
5:8 神の人エリシャは、イスラエルの王がその衣を裂いたことを聞き、王に人をつかわして言った、「どうしてあなたは衣を裂いたのですか。彼をわたしのもとにこさせなさい。そうすれば彼はイスラエルに預言者のあることを知るようになるでしょう」。
5:9 そこでナアマンは馬と車とを従えてきて、エリシャの家の入口に立った。
5:10 するとエリシャは彼に使者をつかわして言った、「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう」。
5:11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った、「わたしは、彼がきっとわたしのもとに出てきて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、らい病をいやすのだろうと思った。
5:12 ダマスコの川アバナとパルパルはイスラエルのすべての川水にまさるではないか。わたしはこれらの川に身を洗って清まることができないのであろうか」。こうして彼は身をめぐらし、怒って去った。
5:13 その時、しもべたちは彼に近よって言った、「わが父よ、預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか」。
5:14 そこでナアマンは下って行って、神の人の言葉のように七たびヨルダンに身を浸すと、その肉がもとにかえって幼な子の肉のようになり、清くなった。

神がご自身の手で御業を行われる時には、人にそれほど大きなことを要求されるわけではありません。
人に奇跡自体を行うようなことを要求されることも、人の能力ギリギリの、ともすれば失敗するかも知れないようなことを万に一つも成功させなければ、神がお認めにならず、御業を起こさないと言うようなことはありません。
つまり、主が私達に何かを求められるときは能力的にはその本人には充分に可能なさして難しくないことを要求されるのです。
それは何のためにか。
神に従うかどうか、その行動で主への従順を告白するため、従順という主へのささげ物をささげる(サムエル上15:22,23)ためです。
そのために、主が要求されるそれらの簡単なことは、能力的には充分可能なことですが、人の目に映る状況や、そこから心に浮かぶ人の判断という部分を通すと、とても従いづらいものであることが多々あります。
つまり、自分の考えでは従いづらいが、主のみを信じるのであれば、その行動自体は非常に簡単というものなのです。

たとえば、出エジプト記で神が紅海を割って、イスラエルがその海の中を、かわいた地を通って救われ、それを追いかけてきたエジプト軍がかえって海に飲み込まれ壊滅したシーンで、モーセが要求されたことは「あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。(出エジプト14:16)」とあるように、「つえを上げ、手を海の上にさし伸べ」ただけでした。海を割ったのは主ご自身です。
しかし、人の目に見えるのは前が海、後ろがエジプト軍という状況であり、人の判断は「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです(出エジプト14:11,12)」という主への恨み言となったわけです。

イスラエルの最初の王となったサウルも、王に任命されたすぐ後に、非常に簡単なことを主から要求されましたが、彼の判断で二度も主に従わず、結果主によってイスラエルの王から退けられることとなった(サムエル上13:11-14,サムエル上15:17-23)のです。

【サムエル上15:22,23】
15:22 サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。
15:23 そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。

今日の箇所に於いて、ナアマンが要求されたことはヨルダン川の水で『身を洗って清くなれ』と言うだけでした。
しかしナアマンが考えていた「わたしは、彼がきっとわたしのもとに出てきて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、らい病をいやすのだろうと思った。(列王記下5:11)」という信仰とは、そのあまりに簡単な要求は違いすぎて、ナアマンには素直に従うことが難しかったのです。
人はそれらしいものや、自分の納得しやすいものを求めてしまいがちです。
そこに偽りの信仰は入りやすく、さも神の業が起こされそうに見えるあるいは聞こえることに、心は簡単に捕らえられてしまうのです。
偽りの巧妙さは人の喜ぶ受け入れやすいものを人に提供し、真理から、神から、私達を引き離そうとします。
聖書が語るシンプルなただ主を信じ、主に従い歩むという信仰は、それがシンプルであるがゆえに、多くの人々が簡単に退けてしまうのです。
しかし、主は私達が自らの心に従うのではなく単純に主を信じ従うのであれば、天地万物を動かしても、ご自身の大いなる御業を現される方なのです。

【ルカ18:16,17】
18:16 するとイエスは幼な子らを呼び寄せて言われた、「幼な子らをわたしのところに来るままにしておきなさい、止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
18:17 よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。

主の望まれる信仰は、主の深いあわれみのゆえに、子供でも可能なシンプルで容易な低いハードルですが、その純粋無垢なシンプルさは大人にはかえって難しいものと言えるでしょう。

あなたが見ているのは自分の思いでしょうか、それとも神の思いでしょうか。
あなたが従うのは自分の思いでしょうか、それとも神の思いでしょうか。
もう一度祈り、聖書に聞いてみましょう。
私達の築き上げた信仰が自らの手で複雑で難しいものにしてはいないかを。
私達の持つ何ものにも頼らず、ただ主を信じ主に従う者に一方的に与えようとされる、神のあまりにも深いあわれみを、その大いなる御業を、妨げているのは自分自身であるかも知れないのですから。
全てを明らかにされる、真理であり、光である方の前に、この十字架の前に、共に祈ってまいりましょう。

※今回の聖書箇所になります。ご参照下さい。

【サムエル上13:11-14】
13:11 その時サムエルは言った、「あなたは何をしたのですか」。サウルは言った、「民はわたしを離れて散って行き、あなたは定まった日のうちにこられないのに、ペリシテびとがミクマシに集まったのを見たので、
13:12 わたしは、ペリシテびとが今にも、ギルガルに下ってきて、わたしを襲うかも知れないのに、わたしはまだ主の恵みを求めることをしていないと思い、やむを得ず燔祭をささげました」。
13:13 サムエルはサウルに言った、「あなたは愚かなことをした。あなたは、あなたの神、主の命じられた命令を守らなかった。もし守ったならば、主は今あなたの王国を長くイスラエルの上に確保されたであろう。
13:14 しかし今は、あなたの王国は続かないであろう。主は自分の心にかなう人を求めて、その人に民の君となることを命じられた。あなたが主の命じられた事を守らなかったからである」。

【サムエル上15:17-23】
15:17 サムエルは言った、「たとい、自分では小さいと思っても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされた。
15:18 そして主はあなたに使命を授け、つかわして言われた、『行って、罪びとなるアマレクびとを滅ぼし尽せ。彼らを皆殺しにするまで戦え』。
15:19 それであるのに、どうしてあなたは主の声に聞き従わないで、ぶんどり物にとびかかり、主の目の前に悪をおこなったのですか」。
15:20 サウルはサムエルに言った、「わたしは主の声に聞き従い、主がつかわされた使命を帯びて行き、アマレクの王アガグを連れてきて、アマレクびとを滅ぼし尽しました。
15:21 しかし民は滅ぼし尽すべきもののうち最も良いものを、ギルガルで、あなたの神、主にささげるため、ぶんどり物のうちから羊と牛を取りました」。
15:22 サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。
15:23 そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。

思い煩いからの解放

2014年10月24日 12:37

【ピリピ4:6,7】
4:6 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
4:7 そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

人が何かに思い煩うとき、その心はその思い煩いに占拠されます。
本来私達の心は主に向けられるためにあり、そこには主を愛するという基本的な心の方向性と共に、私達の内には主からの平安が満ちてきます。
つまり、私達の心を私達自身に目を向け、目を止め、そこから目を離せなくなるとき、この主との間に流れる愛と命の流れは止められてしまうのです。
これが平安が失われる状態、恐れと不安に心が占拠されてしまうのです。
それが思い煩うことであり、主はそこから心を離せなくなった弟子達に「信仰の薄い者たちよ。」(マタイ6:30,8:26,14:31)と戒め、心が思い煩いに覆われて「信仰を働かせることができない者たちよ。」と語っているのです。
もしも彼らがすぐ側に居る方が神の子、神そのものである方であることを知っていれば、それほど安心なことはないのに、そう思われる方は少なくないでしょう。
そう、その通りなのです。
その方は今、あなたのすぐ側にいるのです。
だから思い煩う必要がないのです。

【1ペテロ5:7(新改訳)】
5:7 あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。

さらに、聖書は主ご自身が私達の心配をしてくださるとまで語っているのです。
何と感謝なことでしょうか。
だから、私達は全てのことに、今生きて側におられる主に「感謝をもって祈と願いとをささげ(ピリピ4:6)」ることができる。
その心がこうして主への感謝と賛美のうちに主に向けられるとき、心は思い煩いから解放され、その心に神の平安が戻るのです。

【ヨハネ14:27】
14:27 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。

その平安こそ、神のみが与えることのできる平安。
内に住まわれる聖霊が天国にある平安を私達に与えて下さるのです。

【コロサイ3:1-3】
3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
3:2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3:3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。

この聖霊は、私達はキリストと共にすでに死んだものであり、キリストと共によみがえった私達のいのちは「キリストと共に神のうちに隠されている」のであるから、如何なる者もこれを害することのできないということを、力強く私達に証しします。
そのいのちは天にあるのだと、天国にいのちのある、つまり天国に私自身のある平安を聖霊は教えるのです。
これこそが「人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安(ピリピ4:7)」です。
そして、私達の心が主のもとに戻ったとき、この「神の平安」が、それまで偽られ放題、傷つき放題で、恐れと不安に、死の恐怖(ヘブル2:14,15)にさえ捕らえようとしていたものから、私達の心と思いを守ってくれるのです。
いかに感謝しても尽きせない主の大いなる愛。
だから、いかなることでも、このような平安を与えるものは存在しないのです。
世にはこの平安がないからこそ、私達は自分や自分の目が届く、力が及ぶ、範囲には平安を得られる手段や方法、物事は存在しないわけです。
ああ、何と思い煩い、あれこれ考えることは無駄なことでしょうか。

【詩篇138:7,8】
138:7 たといわたしが悩みのなかを歩いても、あなたはわたしを生かし、み手を伸ばしてわが敵の怒りを防ぎ、あなたの右の手はわたしを救われます。
138:8 主はわたしのために、みこころをなしとげられる。主よ、あなたのいつくしみはとこしえに絶えることはありません。

【詩篇121:1,2】
121:1 わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。
121:2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。

【ヨハネ16:23,24,26,27】
16:23 よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたが父に求めるものはなんでも、わたしの名によって下さるであろう。
16:24 今までは、あなたがたはわたしの名によって求めたことはなかった。求めなさい、そうすれば、与えられるであろう。そして、あなたがたの喜びが満ちあふれるであろう。
 [中略]
16:26 その日には、あなたがたは、わたしの名によって求めるであろう。わたしは、あなたがたのために父に願ってあげようとは言うまい。
16:27 父ご自身があなたがたを愛しておいでになるからである。それは、あなたがたがわたしを愛したため、また、わたしが神のみもとからきたことを信じたためである。

さあ、だから目を主に向かって上げて、あなたの思い煩いの一切を主にゆだねて、尽きせない感謝をもって主に祈りましょう。

※聖書の引用箇所を以下にまとめておきました。ご参照下さい。

【マタイ6:30-33】
6:30 ああ、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

【マタイ8:24-26】
8:24 すると突然、海上に激しい暴風が起って、舟は波にのまれそうになった。ところが、イエスは眠っておられた。
8:25 そこで弟子たちはみそばに寄ってきてイエスを起し、「主よ、お助けください、わたしたちは死にそうです」と言った。
8:26 するとイエスは彼らに言われた、「なぜこわがるのか、信仰の薄い者たちよ」。それから起きあがって、風と海とをおしかりになると、大なぎになった。

【マタイ14:28-31】
14:28 するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。
14:29 イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。
14:30 しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。
14:31 イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。

【ヘブル2:14,15】
2:14 このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、
2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。

肉の人と霊の人

2014年10月22日 12:17

【創世記13:1-18】
13:1 アブラムは妻とすべての持ち物を携え、エジプトを出て、ネゲブに上った。ロトも彼と共に上った。
13:2 アブラムは家畜と金銀に非常に富んでいた。
13:3 彼はネゲブから旅路を進めてベテルに向かい、ベテルとアイの間の、さきに天幕を張った所に行った。
13:4 すなわち彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ。
13:5 アブラムと共に行ったロトも羊、牛および天幕を持っていた。
13:6 その地は彼らをささえて共に住ませることができなかった。彼らの財産が多かったため、共に住めなかったのである。
13:7 アブラムの家畜の牧者たちとロトの家畜の牧者たちの間に争いがあった。そのころカナンびととペリジびとがその地に住んでいた。
13:8 アブラムはロトに言った、「わたしたちは身内の者です。わたしとあなたの間にも、わたしの牧者たちとあなたの牧者たちの間にも争いがないようにしましょう。
13:9 全地はあなたの前にあるではありませんか。どうかわたしと別れてください。あなたが左に行けばわたしは右に行きます。あなたが右に行けばわたしは左に行きましょう」。
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったから、ゾアルまで主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。
13:11 そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。こうして彼らは互に別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住み、天幕をソドムに移した。
13:13 ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪びとであった。
13:14 ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。
13:15 すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。
13:16 わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします。もし人が地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えられることができましょう。
13:17 あなたは立って、その地をたてよこに行き巡りなさい。わたしはそれをあなたに与えます」。
13:18 アブラムは天幕を移してヘブロンにあるマムレのテレビンの木のかたわらに住み、その所で主に祭壇を築いた。

私達信仰者の歩みには二つの道が用意されています。
それは肉によって歩む道と、霊によって歩む道。別の言い方をするのであれば信仰によって歩む道と、自分の判断で自分の力と知恵によって歩む道。
これは信仰生活が始まる最初の段階から、どちらを選択して歩むのかを少しずつでも主から問われ、日を追うごとに迫られることとなる重要な課題です。
救われて間もなくは、その喜びで信仰者としての歩みを求めようとするでしょう。
しかし、少しずつ時間を経るにつれ、世と信仰の折り合いをつけ始める。
世は自分の目に見え、耳に聞こえるものを元に、自分の経験則や世の常識を頼りに生きることを正しい、通常の生き方であると教えます。
そして、それを超越した、神による導きなどということは非常識、クレイジーな生き方であると、それをどうにかして止めるようと勧めるのです。
そして、頭の中でその葛藤が大きくなる。
聖書は、神の大いなる栄光が現された数々の御業が、そこに登場する人々を通じ、その信仰によって歩む中に現されることを力強く語ります。
あるいは私達の内側からは聖霊を通じ、その道が人の目には常識的で、正しい、あるいは安全な歩みに見えたとしても、そこには平安がなく、それとは別に確かにそこへ進むのであれば大きな平安を感じられる、主が導こうとしている道が存在していることを、私達に語りかけます。
世の常識と異なる主の道。それは信仰によってでなければ見る(ヘブル11:1)ことがかなわず、信仰によってでしか選択することのできない道です。
これは折り合いがゆるされない選択です。なぜなら、人生の大きな選択、その先には私達の永遠の歩みでさえ、主の視野には入っているからです。
だからそのような重要なものとして主は選択を迫られる。
そのときには、これまで信仰生活に折り合いをつけてきたことは大きなマイナスとなります。
なぜなら、心の奥底から語る自分の常識が、信仰の目を覆い隠し、信仰によって選択を取ることより、リスクを考えて、自分の目に見えるものを選択することしかできないのです。
ここで重要となるのが毎日の信仰生活なのです。
ここに語られるアブラハムの歩みは移動する先々で祭壇を建て(創世記12:7,8,13:4,18)、神を中心にした生活をです。
しかし、ロトには祭壇を自ら建てたということは聖書には記されていないのです。
だからこそ、ロトの目には信仰の目で見えるものより、人の目に見える豊かさを選んで(創世記13:10)しまった。それが霊的には罪に溢れた主に忌み嫌われている土地であることを、つまりはのろいは満ちるけれど、主の心はそこにない、主の祝福のない土地を、良い土地と思って受け取ってしまったのです。
しかし、アブラハムはその選択の時点で、すでに信仰を働かせています。
積極的な選択をロトに譲りました(創世記13:9)が、アブラハムは受動的選択の中にすでに主への万感の信頼を持っていた。
主はいかなる時にも主に信頼し、主に向き合い、主に来る者に良くして下さる(ヘブル11:6)ということを知っていたからこそ、その選択をロトに譲ることができたのです。
すでに選択をする前に、選択を譲るという選択に於いて、主への信仰により、アブラハムは祝福を得ていたのです。主はその信仰を喜ばれた。
だから、その祝福は信仰の目をあげて見ることでしか見ることのできないもの(創世記13:14-17)。広大な約束の地と多くの子孫達の繁栄する姿でした。
そしてそれを見て、アブラハムはさらに祭壇を建て(創世記13:18)、主を拝しほめたたえたのです。
アブラハムはその最初に神の約束のみを信じて、ウルの地を出て、神の約束だけを頼りに歩む、信仰によって歩み続けた人でした。
だから、その生活を神の祭壇を建てることから始め、神への信仰を生活の中心据えたのです。
いや、そのように信仰によって人生を選択し歩む者は、主の恵みの素晴らしさと、その途上に於いては人の目には何もなく見えず、人の力は何も通用しない、主の力強い御手だけがそこに連れて行くことのできる、成し遂げることのできることを知り、主だけを頼りに主に全てをゆだねて、信仰生活を歩むのです。
これが信仰者の歩みです。
聖書はこのように信仰によって歩む、霊に導かれて歩む霊の人と、自力で世と妥協する内に世に染まって生きる肉によって歩む肉の人とを、このようにはっきりと受ける結論の違うものとして、語っているのです。

【ガラテヤ5:16-25】
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
5:18 もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。
5:19 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、
5:23 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
5:24 キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
5:25 もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。

あなたは霊の人として主の祝福を受ける歩みを選択しますか?それとも肉の人として、世ののろいを受ける歩みを選択しますか?

永遠の約束の地、神の国をつぐ者としての信仰者としての歩みを、あなたが選ぶことができますように祈ります。

※メッセージで引用している聖書箇所です。ご参照下さい。

【ヘブル11:1-3,6】
11:1 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。
11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
 [中略]
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

【創世記12:6-8】
12:6 アブラムはその地を通ってシケムの所、モレのテレビンの木のもとに着いた。そのころカナンびとがその地にいた。
12:7 時に主はアブラムに現れて言われた、「わたしはあなたの子孫にこの地を与えます」。アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。
12:8 彼はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った。西にはベテル、東にはアイがあった。そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の名を呼んだ。

主に近づく人生

2014年10月21日 12:50

【ルカ19:5,6】
19:5 イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。
19:6 そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。

私達は何と高慢なことでしょう。神に向き合うとき、高いところから、眺めるように、見下ろすように、主と直接交わるでもない、ちょうどいい距離をおいて、ちょうどいい位置で神との関係を持とうとします。
それは、自らが何者であるにしても、人としてのアイデンティティーを何一つ下ろすことなく、自分が何かであるままで、主に向き合おうとするからです。
もしも、主イエスと直接顔と顔を向き合わせる交わりを持つのであれば、主イエスは神そのものであられる方(ヨハネ1:18,コロサイ2:9-10)ですから、その圧倒的な臨在の前にひれ伏さざるを得ないからです。
それは自分の生きてきたこれまでを全てを下ろされ、ただ一人の小さい弱い人であること、風が吹けば消え去るはかない命を持つ一被造物(イザヤ40:6-8)に過ぎないことが、神の前でははっきりと現わされてしまうからです。
つまり神の前に自分の都合を振りかざし、自分の生活にいかに良いことをしてくれるだろうと、神を利用するために近づくことなどはできないのです。
だから、逆に自分を神の前に保つために、このような高い場所に自分を置いてしまう。
主イエスが「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。(ルカ19:5)」というように声をかけられたのは、この都合の良い関係を打ち壊すためでした。
そして、まず高いところから下りてくるように言われたのです。
その言葉は決して厳しく戒めるように言われたのではありませんでした。
ザアカイとやさしく親しく名を呼び、何も持たない一人の人としてのザアカイに、神の子は向かい合ってくださったのです。
さらに「きょう、あなたの家に泊まることにしているから(ルカ19:5)」と、最も親しい交わりをご自身から求められたのです。
そのとき、ザアカイの人生の全てが変わったのです。
神の子との交わり、その臨在に、その命に直接触れた者だけが、このように人生を変えることができる。
主に喜ばれる者として主のために生きるため、古きを捨て去り、新しい命によって、新しく生きるのです(ローマ12:2,エペソ4:22-24)。

【1コリント5:17】
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

それは救われたときの最初の一回限りの話ではありません。
常に私達は自分の都合で神の前にこのように高慢な位置で向き合おうとするのですが、そのたびに主の招きに答え近づくのであれば、まずその高きから下ろされ、ただ一人の人、一被造物として、裸のまま、神に向き合い、親しく交わり、そのたびに自らの歩みを一新する。そのような日々を私達は生きる必要があるのです。

【2コリント4:16】
4:16 たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。

【イザヤ40:31】
40:31 しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。

でなければ、一生主を高見の見物しながら、主とは関係のない、だからこそ、主を親しく知ることも、新しい命の恵みにあずかることも、救いの喜びに生き続けることも、主が私達に本来用意して下さった絶大なる祝福を何も受け取ることもなく、およそクリスチャンとして生まれた意味の何もない人生を歩むこととなるでしょう。

【ヤコブ4:8】
4:8 神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいて下さるであろう。

今あなたは主の前にどのような位置にいるでしょうか。
そんなあなたに主はあなたの名を呼んで、まず近づくように、親しく交わることを望んで招かれています。
さあ、その高い場所から今下りて主のもとに近づきましょう。
そこからあなたの新しい今日が始まるのですから。

※今日の聖書箇所です。メッセージと一緒にご参照ください。

【イザヤ40:6-8】
40:6 「人はみな草だ。その麗しさは、すべて野の花のようだ。
40:7 主の息がその上に吹けば、草は枯れ、花はしぼむ。たしかに人は草だ。
40:8 草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。

【ヨハネ1:18】
1:18 神を見た者はまだひとりもいない。ただ父のふところにいるひとり子なる神だけが、神をあらわしたのである。

【コロサイ2:9-11】
2:9 キリストにこそ、満ちみちているいっさいの神の徳が、かたちをとって宿っており、
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、それに満たされているのである。彼はすべての支配と権威とのかしらであり、
2:11 あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。

【1コリント5:17】
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

【ローマ12:2】
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

【エペソ4:22-24】
4:22 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、
4:23 心の深みまで新たにされて、
4:24 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

【ルカ】
19:1 さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。
19:2 ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。
19:3 彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。
19:4 それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。
19:5 イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。
19:6 そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。
19:7 人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。
19:8 ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。
19:9 イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。
19:10 人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。

信仰の明暗

2014年10月17日 12:51

【エペソ5:5-14】
5:5 あなたがたは、よく知っておかねばならない。すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。
5:6 あなたがたは、だれにも不誠実な言葉でだまされてはいけない。これらのことから、神の怒りは不従順の子らに下るのである。
5:7 だから、彼らの仲間になってはいけない。
5:8 あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさい__
5:9 光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものである__
5:10 主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。
5:11 実を結ばないやみのわざに加わらないで、むしろ、それを指摘してやりなさい。
5:12 彼らが隠れて行っていることは、口にするだけでも恥ずかしい事である。
5:13 しかし、光にさらされる時、すべてのものは、明らかになる。
5:14 明らかにされたものは皆、光となるのである。だから、こう書いてある、「眠っている者よ、起きなさい。死人のなかから、立ち上がりなさい。そうすれば、キリストがあなたを照すであろう」。

ここには二つの信仰者の姿が現されています。
それは光にある者とやみにある者。
そして、やみにある者をすでにここでは信仰者としては見ておらず、兄弟姉妹にその仲間にならず、そこから離れなさいと明記しています。
私達は救われたときすでに「あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。(エペソ5:8)」とあるように、やみから光に移されています。
しかし、やみのわざに加わり、やみにある者達と仲間となるなら、やがて光にある者もやみへと陥っていくのです。せっかく光に移された者がやみとなること、それは「すべて不品行な者、汚れたことをする者、貪欲な者、すなわち、偶像を礼拝する者は、キリストと神との国をつぐことができない。(エペソ5:5)」とあるように神の国をつぐことがないという、最も虚しく、最も恐ろしい結論を生むこととなるのです。
救われたはずの者が神の国をつぐという神の選びから外される。
確かに選ばれた民イスラエルも、その選択肢において、どのように歩むのかによりその結論は大きく異なったことを聖書は語っています。

【申命記11:26-29】
11:26 見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。
11:27 もし、きょう、わたしがあなたがたに命じるあなたがたの神、主の命令に聞き従うならば、祝福を受けるであろう。
11:28 もしあなたがたの神、主の命令に聞き従わず、わたしが、きょう、あなたがたに命じる道を離れ、あなたがたの知らなかった他の神々に従うならば、のろいを受けるであろう。
11:29 あなたの神、主が、あなたの行って占領する地にあなたを導き入れられる時、あなたはゲリジム山に祝福を置き、エバル山にのろいを置かなければならない。

選ばれた民には二つの選択肢が存在します。
それは主に従い、主を愛して、主の民として生き、命と祝福を得る道と、主に従うよりも自らの思い(欲求)に従い、自らを愛して、主から心離れて生き、死とのろいを受ける道。
まさしくそれは、今日語られている、光とやみ、どちらにあって歩むのかと同じことを意味しています。
さらにそれは聖書の始めから、存在する選択肢でもあります。

【創世記2:8,9】
2:8 主なる神は東のかた、エデンに一つの園を設けて、その造った人をそこに置かれた。
2:9 また主なる神は、見て美しく、食べるに良いすべての木を土からはえさせ、更に園の中央に命の木と、善悪を知る木とをはえさせられた。」

とあり、そこには主が明らかに一つの選択肢を選ばないように命じておられる。それを選択するのであれば「必ず死ぬ(新改訳)」と主は人に語っている。

【創世記2:16,17】
2:16 主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。
2:17 しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

もう一つの選択肢、命の木こそ永遠の命に通じる道、「彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない(創世記3:22)」とその行き着く先は人には語られておらず隠された奥義でありながら、それを見出し選択するのであれば永遠に生きる道であるのです。
つまり、光を選らぶかやみを選ぶか、それは信仰者の永遠において明暗を分ける、大きな選択肢でありながら、創造の始めから本人の選択のみを主は見ておられる。
ここに自由意志における選択が存在しているのは、自らの意志において主を選択する者を、主が欲しているからに他ならず、ロボットのように最初から神に従うような人を造っても意味がなかった。
つまり、自ら喜んで主を選び、主に従い、主を愛する者でなければ、自らの全てを与えるほどに私達を愛しても、神には何の意味もないのです。
たとえ誰に誘惑され、どれほど多くの人がやみを選択しても、光を選ぶ者のみを主はご自身のものとする。
神の前には、他人のせいや何かのせいに言い訳することはできないのです。
すでに救われるとき選んだ選択肢は信仰生活を歩む長い道のりに、常に二つ存在し、主は私達に「光の子らしく歩(エペソ5:8)」ことを望んでおられるのです。

【ヨハネ3:17-21】
3:17 神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
3:18 彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。
3:19 そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。
3:20 悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。
3:21 しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。

この選択肢を選び続け歩むための視点が、今日語られた御言葉の真ん中に存在する、「主に喜ばれるものがなんであるかを、わきまえ知りなさい。(エペソ5:10)」という言葉なのです。
私達は聖書の中から主がどのようなことを喜ばれるのか、語られる言葉を通して知ることができます。
同時に私達の内に生きる聖霊は、主の喜びを内からわき上がる喜びとして私達に教えるのです。
どのようにひとつひとつの行動を選択し、日々をどのように選択するのか、それは「主よ。あなたの喜ばれることは何ですか?」という祈りの内に、私達の日々の中に実を結んでいくのです。

今日あなたはどのように生き、主を喜ばせますか?
主の永遠の喜びがあなたを今日も包みますように。

主の栄光を求めて

2014年10月16日 12:49

【ルカ17:7-10】
17:7 あなたがたのうちのだれかに、耕作か牧畜かをする僕があるとする。その僕が畑から帰って来たとき、彼に『すぐきて、食卓につきなさい』と言うだろうか。
17:8 かえって、『夕食の用意をしてくれ。そしてわたしが飲み食いをするあいだ、帯をしめて給仕をしなさい。そのあとで、飲み食いをするがよい』と、言うではないか。
17:9 僕が命じられたことをしたからといって、主人は彼に感謝するだろうか。
17:10 同様にあなたがたも、命じられたことを皆してしまったとき、『わたしたちはふつつかな僕です。すべき事をしたに過ぎません』と言いなさい」。

なぜ私達は自分の成果を求めるのでしょうか。
それは自分の栄光を求めること。
自分が誰かに認められるため、また自分の達成感のため、自分が何かしらに成った、あるいは達したという実感を得るため、すべては自分を見て自分が何かしらに行き着いて、信仰者としてどう見えるか、どう認められるかに捕らえられている。
そして、それを互いに誉め合い、認め合い、それを目的として教会というコミュニティーに集うと言うのであれば、それは主の本旨であるとは言えません。

【ヨハネ5:42-44】
5:42 しかし、あなたがたのうちには神を愛する愛がないことを知っている。
5:43 わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。
5:44 互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。

私達が自分自身の姿がどうあるのかということから目を離すことをなくして、神を見ることはできません。また、神を信じる信仰に立って、日々を過ごすこともできません。
それは自らを誉れを求め、自らを愛することが優先される毎日であり、神を愛し、神に喜ばれることを後回しにした、あるいは頭にない生き方だからです。

【ヨハネ12:25,26】
12:25 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。
12:26 もしわたしに仕えようとする人があれば、その人はわたしに従って来るがよい。そうすれば、わたしのおる所に、わたしに仕える者もまた、おるであろう。もしわたしに仕えようとする人があれば、その人を父は重んじて下さるであろう。

自らがどれほどに栄光に輝こうとも、それを互いに誉め合おうとも、神の栄光を求めないのであれば何の意味もありません。また、神に喜ばれる生き方とはなりません。
なぜなら、自分の栄光が、神が真に現そうとする栄光の輝きを覆い隠し、むしろそれは輝きではなく人の手に汚されたもの以外に何ものでもないからです。
そして、神の真の栄光がどこにあったのかすらわからないということになる。
つまりそれは視点と心の向かう方向の問題、自分を見る者は自分の栄光を見ようとしますが、神を見る者は神の栄光を見ようとします。
そのとき自らがどのような状態であっても関係の無いことなのです。
それは神の栄光の喜びに、自らを忘れてしまうからであり、神が栄光を受けることに比べれば自らのことは何の価値もないこと、それほどに自らが見えなくなるほどの栄光を、主を望み見る者は見てしまうからなのです。
自分の命よりも価値のあるものを見出せた人は何と幸いなことでしょう。しかしそこにたどり着く人は多くはありません。

神の栄光が現れること以上に価値のあることはありません。

【ヨハネ7:18】
7:18 自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない。

ですから、私達は主の喜ばれることのために、自らをささげ、主に仕えますが、その全ては主の喜びのためであり、主の栄光が現れるために他なりません。
むしろそのために人知れず自らをささげ、それが人の目にどれほど無価値に見え、また無駄なことのように見えたとしても、そこに神の栄光を望めるのであれば、私達は自らの命をも最高のささげ物としてささげる。
それは主イエスが父なる神の栄光をただ一身に求め、自らを十字架にささげた姿に見ることのできるもの。
父を唯一満足させたささげ物をささげた姿、この地上で死に至るまで主に仕えた姿。
だから、主はそこにご自身のこの上なき大いなる栄光を現されたのです。

【ヨハネ12:28-33】
12:28 父よ、み名があがめられますように」。すると天から声があった、「わたしはすでに栄光をあらわした。そして、更にそれをあらわすであろう」。
12:29 すると、そこに立っていた群衆がこれを聞いて、「雷がなったのだ」と言い、ほかの人たちは、「御使が彼に話しかけたのだ」と言った。
12:30 イエスは答えて言われた、「この声があったのは、わたしのためではなく、あなたがたのためである。
12:31 今はこの世がさばかれる時である。今こそこの世の君は追い出されるであろう。
12:32 そして、わたしがこの地から上げられる時には、すべての人をわたしのところに引きよせるであろう」。
12:33 イエスはこう言って、自分がどんな死に方で死のうとしていたかを、お示しになったのである。

【ヨハネ13:30-32】
13:30 ユダは一きれの食物を受けると、すぐに出て行った。時は夜であった。
13:31 さて、彼が出て行くと、イエスは言われた、「今や人の子は栄光を受けた。神もまた彼によって栄光をお受けになった。
13:32 彼によって栄光をお受けになったのなら、神ご自身も彼に栄光をお授けになるであろう。すぐにもお授けになるであろう。

【イザヤ53:2-7】
53:2 彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない。
53:3 彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
53:7 彼はしえたげられ、苦しめられたけれども、口を開かなかった。ほふり場にひかれて行く小羊のように、また毛を切る者の前に黙っている羊のように、口を開かなかった。

私達の人生は神の栄光が現されるためにあります。
そのためには、まず自分から目を離し、主の十字架を見上げ、主の愛を知って喜びに満ち、この愛に答えて、心から主を愛し、主が喜ばれることはいかなることかを求めることです。
そうする小さな日々の中で、私達は主の栄光が現される生き方を、主イエスがこの地上で歩まれた道のりの中に見出し、この御足の跡を自然とたどることでしょう。
やがて、その歩みに主の栄光が満ち溢れ、この地上では味わうことのできないほどの主の永遠の喜びの中に入れられることでしょう。

【ピリピ2:5-11】
2:5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。
2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
2:9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
2:10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
2:11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

あなたは今日、何を求めて、何のために生きますか?

祈りの究極の喜び

2014年10月15日 12:17

【マタイ6:6】
6:6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

祈りは人に聞かせるためのものではありません。また、しなければならない義務でもありません。
祈りは主との交わりです。それはまさしく愛の交わりです。
ですから、誰にも聞かせる必要はありません。
でも声を出さずに祈ることを言っているわけではありません。神は私達に言葉を与え、神の言葉が天地を創造されたのと同様に人だけに言葉を与えられたのですから、祈りの言葉を発することは力を持って、主の創造の力を発することでもあります。そして、その言葉は真実になる、そういう祈りも存在しています。
しかし、ここで語られているのは誰にも見せない主との個人的な交わりとしての祈りのことを言います。
そういう意味においては、奥まった所にある祈りの小部屋は、決して物理的なある空間を指しているわけではないということがわかるでしょう。
つまりは、主と自分だけが交わる、誰も立ち入ることのできない親しい交わりとしての祈りの間をいうのです。
しかし、これはとても重要な空間です。
なぜなら、この親しい関係でしか、主に本当の自分の気持ちを、祈りに素直に表すことはできないでしょう。
また、主ご自身も、主の本当の深い御旨を、そう易々と公表されたりはしません。
むしろ、大切なことは私個人にだけそっと、親しい誰にも立ち入らせない交わりの中でしか言わないのは、人間の関係においても同じことでしょう。

さらにこの祈りの空間は祈りが深まれば深まるほど、この部屋があらゆる現実から隔絶された聖なる部屋ということがわかるでしょう。
聖の究極の聖、最も全てのものから別たれ、奥まった部屋、至聖所(幕屋、神殿の最深部)であるということを。

【詩篇27:4-8】
27:4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。
27:5 それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。
27:6 今わたしのこうべはわたしをめぐる敵の上に高くあげられる。それゆえ、わたしは主の幕屋で喜びの声をあげて、いけにえをささげ、歌って、主をほめたたえるであろう。
27:7 主よ、わたしが声をあげて呼ばわるとき、聞いて、わたしをあわれみ、わたしに答えてください。
27:8 あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。

【ヘブル4:14-16】
4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

【ヘブル10:19-22】
10:19 兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、
10:20 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、
10:21 さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、
10:22 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。

そこには、主ご自身の臨在そのものがあり、永遠の贖いがあり、永遠の命があり、神の深い愛があり、溢れる恵みがあり、感動があり、つまりは言葉に尽くせない主の豊かさがここに満ち溢れているのです。
これを知らずして、クリスチャンである理由は存在しないでしょう。
むしろここで知る豊かさこそ、永遠の豊かさであり、天地万物の全てを主が動かして、主が祈りに答え、また全くの無から有を生み出す創造の御業を見る。全てはこの場所から始まるのです。
つまり、私達はこのような主との祈りにおける深い交わりを、祈れば祈るほど持つことができるようになり、その祈りの空間は日々豊かさを増していくのです。
何と素晴らしいことでしょうか。

この祈りの空間こそは、この現実の全ての時間軸から外れたところに存在し、その全ては永遠という中に存在するのです。
たとえば、祈るうちに時間を忘れ、あっと言う間に時間が過ぎていることもあれば、ほんの少しの時間でも祈ることによって満ち溢れる。しかし、その間の時間はどれほどにも長く感じるほど、満ち足りた時間となることもある。
そうです。この祈りの空間は永遠の神の御国に、そして主の御座のすぐそばに位置するものなのです。

【詩篇84:10】
84:10 あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。

【コロサイ3:1】
3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。

【ヘブル12:22-24】
12:22 しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、
12:23 天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、
12:24 新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。

そして、この祈りの小部屋がもしも神の国に通じるものであるということがわかり、また主との親しい交わりの場所だとわかるのであれば、この場所こそが天における私達の住まいであるということがわかるでしょう。

【ヨハネ14:1-4】
14:1 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
14:3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。
14:4 わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。

ですから、今この地上で主に祈るということは、天における主と過ごす家を、今この地上で用意していることと関わると言うことがわかると思います。
この地上での主との祈りの時が、その交わりが豊かであれば豊かであるほど、私達が天において主と住まう家は、豊かなものとなるでしょう。
そう、天に帰ったときの我が家は、主と何日も何年も何時間も親しく過ごした、なじみ深い、あの豊かな部屋であるということになるのです。
だとするならば、この地上で主との親しい祈りにおける交わりを持たないということは、天において、どれほど寂しく、みすぼらしい家に帰らなければならないことでしょうか。
主との祈りの醍醐味を知るクリスチャンは、このことを知っているはずであり、だとするのであれば、自らの生活の全てをここから始めることでしょう。
そして、祈ることを無視して生活に没頭することがいかに無鉄砲で、無味乾燥なもので、無防備なものであるかと思っていることでしょう。
残念なことですが、多くの兄弟姉妹はこのような祈りが存在することを知ることもなく、まただからこそ興味をいだくことも少ないようです。
しかし今あなたはその素晴らしさを知ったのです。
それはあなたの人生の全ての源になるものです。
あなたの人生を永遠の豊かさに導くものです。
あなたを主のすぐ御側に招くものです。
そして、あなたへの主の愛が人の理解を超えるほど、いかに絶大なものであるか、その受け止めきれないほどの溢れる愛を体感しつつ、知ることとなるのです。
この豊かな時を知らずに過ごすことはもったいないことだとは思いませんか?

ですから、さあ、共に主との祈りの深みに漕ぎ出しましょう。主があなたを待っています。
祈りに時間は関係ありません。
どれほど時間が無くとも、どれほど時間をかけてもいいのです。
ただそこに、主と過ごす永遠が待っているのですから。

さあ、愛する兄弟姉妹。
共に主の前に出て、今祈り始めましょう。

<< 7 | 8 | 9 | 10 | 11 >>