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疲れた心、人生に

2015年05月04日 21:27

疲れた時にはココアなど飲んで、疲労回復というのも良いでしょう。
そろそろ暑い季節に入ってきそうですが、冷たい飲み物ばかりだと体を壊しますからね。
疲労回復成分カカオマスポリフェノールが含まれていてストレスの抑制と、活性炭素の発生を抑える働きがあるとか言うお話。そのほか健康を支える成分がいろいろそろっていて、体に良いそうですが。

さて、疲れた心、疲れた人生には、聖書が一番です。もちろん疲れた体にも。
最初からこちらをお勧めすればよかったですね。

聖書、神の御言葉は蜜よりも甘いと語られています。

【詩篇19:7-】
19:7 主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
19:8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。
19:9 主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。
19:10 これらは金よりも、多くの純金よりも慕わしく、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。
19:11 あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。

さらに掛け違えた人生を正しく導き、疲れ切って何が生きる喜びか忘れた者をも、人生の深い喜びを得させるのです。
そして人生に迷った眼を開き、どちらに進み行けば、そこに本当の人生の祝福を得られるかを指し示します。
まさに暗闇に灯る光のように。

【詩篇119:105】
119:105 あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。

神の言葉はまさしくこの全地を、万物を、造ったものであり、この神の言葉こそ私達の未来を造るものなのです。

【ヘブル11:3】
11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

ですから、神の御言葉を知る知恵は人生を大きく変革していきます。
その知恵は人知を超えて、私達の人生をダイナミックに変貌させ、全能の神そのものと交わらせ、その人生は時代を造る者として、全世界の歴史に関わり、神の計画に携わる者へと私達を導いていくのです。

【箴言8:4-21】
8:4 「人々よ、わたしはあなたがたに呼ばわり、声をあげて人の子らを呼ぶ。
8:5 思慮のない者よ、悟りを得よ、愚かな者よ、知恵を得よ。
8:6 聞け、わたしは高貴な事を語り、わがくちびるは正しい事を語り出す。
8:7 わが口は真実を述べ、わがくちびるは悪しき事を憎む。
8:8 わが口の言葉はみな正しい、そのうちに偽りと、よこしまはない。
8:9 これはみな、さとき者の明らかにするところ、知識を得る者の正しとするところである。
8:10 あなたがたは銀を受けるよりも、わたしの教を受けよ、精金よりも、むしろ知識を得よ。
8:11 知恵は宝石にまさり、あなたがたの望むすべての物は、これと比べるにたりない。
8:12 知恵であるわたしは悟りをすみかとし、知識と慎みとをもつ。
8:13 主を恐れるとは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、偽りの言葉とを憎む。
8:14 計りごとと、確かな知恵とは、わたしにある、わたしには悟りがあり、わたしには力がある。
8:15 わたしによって、王たる者は世を治め、君たる者は正しい定めを立てる。
8:16 わたしによって、主たる者は支配し、つかさたる者は地を治める。
8:17 わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。
8:18 富と誉とはわたしにあり、すぐれた宝と繁栄もまたそうである。
8:19 わたしの実は金よりも精金よりも良く、わたしの産物は精銀にまさる。
8:20 わたしは正義の道、公正な道筋の中を歩み、
8:21 わたしを愛する者に宝を得させ、またその倉を満ちさせる。

どうでしょうか?
聖書を読みたくなってきたでしょうか?
聖書を神からの語りかけを聞くように読むとき、その鍵は開かれていくでしょう。
そこに驚くべき神の約束の数々が、愛する私達に丁寧に語り聞かせるように、綴られています。
聖書は神から私達へのラブレターと言えるでしょう。

ということで、今日も主の深い愛を感じながらまず聖書を読んでいきましょうか。

愛を育む毎日

2015年05月01日 12:41

【ヨハネ21:7】
21:7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。

日々主と親しく交わることはとても大切なことです。それは絶えることのない愛の交わりの関係の中に生きることです。
そのことは同時に最初に主に救われた日、主にお会いした日に知った、初めの愛を忘れない(黙示録2:4)ということ、その愛を主との交わりの日々の中で大切に育んでいくということでもあります。
信仰生活はこの愛から離れたところには存在しません。「愛によって働く信仰(ガラテヤ5:6)」に基づかないのであれば、何をしても無味乾燥で、全てが苦しみでしかないでしょう。

【ガラテヤ13:1-3】
13:1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
13:2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
13:3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

逆に言えば、私達がこの「愛によって働く信仰」によって日々を歩むのであれば、それは全てのことが主との愛の交わりとなります。それは実はとても大切なことなのです。

信仰生活はいつも決して順調と言える日ばかりではないかも知れません。
試練の中を通るときもあれば、その中で主は何を望まれこのような状況の中に私を置くのかと、主への信仰の葛藤をするときもあるでしょう。
私達の弱さが主に不信を抱かせたり、主から背を向けるときも、あるいは主を裏切り、あるいは主をのろい、「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。(エレミヤ17:9)」とはよく人の心を表した言葉で、何とも私達の主への愛は不誠実なもので、主への愛をささやきながら、次の瞬間には主を忘れるような者なのです。
今日の聖書の箇所はペテロのまさにそのようなときに迎えたある瞬間でした。
ペテロは主イエスが捕らえられ十字架に処刑をされるために、裁判にかけられている席で、主を三度否みます。
それは主イエスに預言された通りのことであり、鶏の鳴き声を聞いてその言葉を思いだし、主を裏切り主を見捨てた自らの姿に激しく泣いた(マタイ26:69-75)のです。
彼はこのとき自らの命惜しさに主をのろいさえしています。まさにこのときペテロは主イエスへの信仰すら捨てたと言えるでしょう。
ですから、主を裏切ったペテロは再び漁師に戻る如く、仲間の弟子達を連れて、ガリラヤ湖で漁をしていた(ヨハネ21:3-14)のです。
そんな中、十字架の死からよみがえられた主イエスが、初めにペテロ達に出会ったときの思い出と重なる姿でご自身の姿を現されます。
そのとき、「あれは主だ」と言う言葉を聞いて、まさに漁師に戻り裸になっていた自分から、急いで主と共に過ごした日々の時のように上着をまとって海にとびこんだのです。

そうです。ペテロを主の元に飛び込ませたのは、主と出会ったとき、その初めの愛を忘れていなかったためであり、また主に従い主と共に毎日過ごした主との愛の交わりの日々が、信仰を失い神から離れたペテロを瞬時に主の元に戻らせたのです。
主の愛ほど大きな愛はありません。
自らの命を捨て、罪にまみれた私を十字架に贖ってくださった大きな愛。
この方を愛し、またその大きな愛に包まれて過ごす日々を、その大きな喜びの日々を、どうして忘れることができましょうか。
その愛の日々だけが、たとえ私達が信仰生活の中でつまづき倒れることがあったとしても、私達を神の元へと立ち返らせるのです。
そこには初めに主が愛してくださったのと全く変わることなく、手を広げて私を招き、しかしその手には私のこの罪を釘づけて、その傷跡がはっきりと残っているのです。それこそが私への永遠に変わらない愛の傷跡であると私に力強く語り、この愛に戻れと、我が元に戻れと、語りかけるのです。
何と麗しいことでしょう。何気なく毎日主と共に歩む愛の交わりの日々は、このように力強く、弱く揺れやすくつまづきやすい私達を、永遠の愛へと導いてくれるのです。
だから、焦ることなく主への愛を育む日々を過ごしていきましょう。
たとえ今は小さい愛でも、やがて主に顔と顔を合わせてお会いする日、私達の愛をもって、心底主を喜ばせる者となるために。

【雅歌8:4,6,7】
8:4 エルサレムの娘たちよ、わたしはあなたがたに誓い、お願いする、愛のおのずから起るときまでは、ことさらに呼び起すことも、さますこともしないように。
 [中略]
8:6 愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷だからです。そのきらめきは火のきらめき、最もはげしい炎です。
8:7 愛は大水も消すことができない、洪水もおぼれさせることができない。もし人がその家の財産をことごとく与えて、愛に換えようとするならば、いたくいやしめられるでしょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【黙示録2:4,5】
2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。

【ガラテヤ5:6】
5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。

【マタイ26:69-75】
26:69 ペテロは外で中庭にすわっていた。するとひとりの女中が彼のところにきて、「あなたもあのガリラヤ人イエスと一緒だった」と言った。
26:70 するとペテロは、みんなの前でそれを打ち消して言った、「あなたが何を言っているのか、わからない」。
26:71 そう言って入口の方に出て行くと、ほかの女中が彼を見て、そこにいる人々にむかって、「この人はナザレ人イエスと一緒だった」と言った。
26:72 そこで彼は再びそれを打ち消して、「そんな人は知らない」と誓って言った。
26:73 しばらくして、そこに立っていた人々が近寄ってきて、ペテロに言った、「確かにあなたも彼らの仲間だ。言葉づかいであなたのことがわかる」。
26:74 彼は「その人のことは何も知らない」と言って、激しく誓いはじめた。するとすぐ鶏が鳴いた。
26:75 ペテロは「鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう」と言われたイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣いた。
※74節は新改訳では「のろいをかけて誓い始めた。」と訳されています。

【ヨハネ21:3-14】
21:3 シモン・ペテロは彼らに「わたしは漁に行くのだ」と言うと、彼らは「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って舟に乗った。しかし、その夜はなんの獲物もなかった。
21:4 夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知らなかった。
21:5 イエスは彼らに言われた、「子たちよ、何か食べるものがあるか」。彼らは「ありません」と答えた。
21:6 すると、イエスは彼らに言われた、「舟の右の方に網をおろして見なさい。そうすれば、何かとれるだろう」。彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それを引き上げることができなかった。
21:7 イエスの愛しておられた弟子が、ペテロに「あれは主だ」と言った。シモン・ペテロは主であると聞いて、裸になっていたため、上着をまとって海にとびこんだ。
21:8 しかし、ほかの弟子たちは舟に乗ったまま、魚のはいっている網を引きながら帰って行った。陸からはあまり遠くない五十間ほどの所にいたからである。
21:9 彼らが陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に魚がのせてあり、またそこにパンがあった。
21:10 イエスは彼らに言われた、「今とった魚を少し持ってきなさい」。
21:11 シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三びきの大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた。
21:12 イエスは彼らに言われた、「さあ、朝の食事をしなさい」。弟子たちは、主であることがわかっていたので、だれも「あなたはどなたですか」と進んで尋ねる者がなかった。
21:13 イエスはそこにきて、パンをとり彼らに与え、また魚も同じようにされた。
21:14 イエスが死人の中からよみがえったのち、弟子たちにあらわれたのは、これで既に三度目である。

【ルカ5:1-11】
5:1 さて、群衆が神の言を聞こうとして押し寄せてきたとき、イエスはゲネサレ湖畔に立っておられたが、
5:2 そこに二そうの小舟が寄せてあるのをごらんになった。漁師たちは、舟からおりて網を洗っていた。
5:3 その一そうはシモンの舟であったが、イエスはそれに乗り込み、シモンに頼んで岸から少しこぎ出させ、そしてすわって、舟の中から群衆にお教えになった。
5:4 話がすむと、シモンに「沖へこぎ出し、網をおろして漁をしてみなさい」と言われた。
5:5 シモンは答えて言った、「先生、わたしたちは夜通し働きましたが、何も取れませんでした。しかし、お言葉ですから、網をおろしてみましょう」。
5:6 そしてそのとおりにしたところ、おびただしい魚の群れがはいって、網が破れそうになった。
5:7 そこで、もう一そうの舟にいた仲間に、加勢に来るよう合図をしたので、彼らがきて魚を両方の舟いっぱいに入れた。そのために、舟が沈みそうになった。
5:8 これを見てシモン・ペテロは、イエスのひざもとにひれ伏して言った、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者です」。
5:9 彼も一緒にいた者たちもみな、取れた魚がおびただしいのに驚いたからである。
5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブとヨハネも、同様であった。すると、イエスがシモンに言われた、「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ」。
5:11 そこで彼らは舟を陸に引き上げ、いっさいを捨ててイエスに従った。

祝福の訪れ

2015年04月30日 13:42

【創世記8:11】
8:11 はとは夕方になって彼のもとに帰ってきた。見ると、そのくちばしには、オリブの若葉があった。ノアは地から水がひいたのを知った。

祝福の現れはとても小さな所から始まります。
私達の生活は主に対してどのような関係であるか?ということに関わります。
主にいかに親しく主の近くにいるかという主との距離と、主に目を向けているのか、自分や他のもの、人に目を向けて神から顔を背けていないか、つまりはどちらを向いているのかということ、私達の主に対する心の有り様に関わります。
そして、その結果として、祝福された歩みをしているのか、のろいの道を歩んでいるのかがはっきりと分かれるのです。

【申命記11:26-28】
11:26 見よ、わたしは、きょう、あなたがたの前に祝福と、のろいとを置く。
11:27 もし、きょう、わたしがあなたがたに命じるあなたがたの神、主の命令に聞き従うならば、祝福を受けるであろう。
11:28 もしあなたがたの神、主の命令に聞き従わず、わたしが、きょう、あなたがたに命じる道を離れ、あなたがたの知らなかった他の神々に従うならば、のろいを受けるであろう。

主から私達の心が離れると、主の御心(御言葉)から離れ、主が私達に本来備えてくださった祝福の道を離れて、のろいの道を歩む。掛け違え(罪)た道を歩むようになるわけです。
その罪の道は決して神に戻る道ではないわけですからその掛け違えは日に日に大きくなり、やがてはその生活全体がのろいに満ちたものとなるのです。
それは人の満足を求め続ける道ですから、人の目にはきらびやかであったり華やかであったとしても、あるいは自分の欲望をいかにも満足させる自分に良い道に思えたとしても、それは善悪を知る木の実がそうであったように(創世記3:6)、死に至る道の輝き、誘惑の輝きに他なりません。
それはまさにノア時代に洪水が起こる前にあった、人々の姿にあったと言えるでしょう。
まさに人々が罪を重ねて続けて悪を犯し、地をのろいに変えてしまったのです。

【創世記6:-57】
6:5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
6:6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
6:7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。

またそれは決してノア時代だけに固定されるものではなく、神から離れ人の繁栄を求める全ての時代の人々の姿でもあり、まさにこの時代もこの国も罪の満ち溢れる只中にあるわけです。

ですから、私達もたとえクリスチャンと言えどもこの誘惑に常にさらされているわけで、ともするとこの誘惑こそが神の栄光の輝きのように錯覚し、あるいは世の常識こそが正しいような気になって、地上の輝きで天の御国の輝きを失い、世の常識で神の御言葉を失う生活をしかねません。
そうなると生活から徐々に神の祝福が失われ、のろいにすり替わっていくわけです。
それは非常に徐々に、生活の小さなことから、なぜかいろいろなことがうまくいかなくなり、全てのことがだんだん噛み合わなくなっていきます。
はじめは自分の欲望を満足させるために何かが得られるように感じるかもしれませんが、それがやがて全体で見ていくと歯車が狂ってくる。確かに人の目にはうまく行き、自分の考えの通りにことが進んでいっているように見えても、何かが狂ってくる。
主の栄光の現れではなく、罪の現れが生活を覆い始める。
それこそ、私達が救われる前に、罪の中に居たときと何も変わらない生活に戻っていくわけです。
主の祝福を失うことは実はとても恐ろしいことです。それこそがのろいそのもの、私達の命である神から離れることは死を意味することであり、死が生活を覆うと言うことだからです。

しかし主はその生活から神に立ち返るようにいつも望まれます。そうでなければ主は私達を祝福することができないからです。主の栄光を私達の生きる生活の中に現すことができないからです。
私達の生活を主の側に戻す、それが聖別です。
私達の生活を主の御言葉の基準に戻す。考えを御言葉中心に変える。自らの満足のためではなく、神が喜ばれることのために生きる。神の喜びを自らの喜びとする。信仰によって、神の栄光の輝きを見る。地上の輝きではなく天の御国の永遠の輝きを求めて生きる。
こうして私達の心を全く聖別する歩みを進めるとき、始めて主の祝福が戻ってきます。
まるで、ノアの時代に洪水が全てを飲み尽くし、この地上が神により聖別されたように。
しかし、私達の場合は主の裁きに滅びるという方法ではなく、主イエスキリストの十字架により、古き私達は死に、新しき命に、神にあって生きるために、よみがえるという方法で私達を聖別してくださいました。

【1ペテロ】
3:18 キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。
3:19 こうして、彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた。
3:20 これらの霊というのは、むかしノアの箱舟が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。その箱舟に乗り込み、水を経て救われたのは、わずかに八名だけであった。
3:21 この水はバプテスマを象徴するものであって、今やあなたがたをも救うのである。それは、イエス・キリストの復活によるのであって、からだの汚れを除くことではなく、明らかな良心を神に願い求めることである。

私達の聖別は日々のことです。
生活において、私達の心が主から離れるのであれば、私達はすくにこの十字架の元にあわれみを求め、この罪を悔い改めて、日々罪をゆるされ、日々新しくされ、日々救われ続けて、主の救いの恵みを確かなものとする必要があります。
そのとき、私達に祝福が訪れるのです。
祝福の訪れは、今日の聖句にあるようにとても小さな訪れかもしれません。
洪水の後、ノアは箱船の中で、この小さな訪れを受け取りました。
オリーブは信仰にある祝福された生活を意味するもの(詩篇128:1-4)、その若葉はその始まりを意味します。
それはのろいの時と同様に、徐々に回復していく道のり。でも今度はもっと恵み溢れて、主の恵みには限りがありませんから、私達はその祝福に満ち溢れて歩む者となることでしょう。
主の祝福の計画は十字架にあって、すでにあなたの中に始められています。
さあ、共にこの十字架の前に主の聖別を願いましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【創世記3:6】
3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

【詩篇128:1-4】
128:1 すべて主をおそれ、主の道に歩む者はさいわいである。
128:2 あなたは自分の手の勤労の実を食べ、幸福で、かつ安らかであろう。
128:3 あなたの妻は家の奥にいて多くの実を結ぶぶどうの木のようであり、あなたの子供たちは食卓を囲んでオリブの若木のようである。
128:4 見よ、主をおそれる人は、このように祝福を得る。

勝利の旗が翻ってる

2015年04月27日 15:22

天気のいい日にはつい洗濯をしたくなるもの。気持ちよく広がる青い空の元、真っ白になった洗濯物が翻って、どこか誇らしげな勝利の旗のようです。
人は面白いものでこんな小さなことにでも希望を見いだせたり、平安な日々を感じれたりするのですから、もし私達の心の内が同じように晴れ渡り、また真っ白にきれいなものであったら、その毎日はいかに希望に富み、また平安に満ち溢れることでしょう。
ですから、私達は太陽よりもまぶしく聖なる光を放たれる神様の前に、私達の罪を照らし出していただく必要があります。
そうでないなら、私達は知らぬ間に罪を隠し持ち、気がつけば神に背を向け、とんでもないところを歩んでいるやも知れません。
主に私達の心を見張っていただく、主は私達の心を守ってくださる方であるのです。

【詩篇19:12-14】
19:12 だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。
19:13 また、あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されることのないようにしてください。そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、大いなるとがを免れることができるでしょう。
19:14 わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いがあなたの前に喜ばれますように。

そして私達の罪がいかに深く、その罪が血を求め、死を求めて、真っ赤に染まっていたとしても、主は主の前に自らの罪を悔い改める者を、その心を雪よりも白くしてくださる方なのです。

【イザヤ1:18】
1:18 たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。

【1ヨハネ1:5-10】
1:5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
1:6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。
1:7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
1:10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

何と幸いなことでしょう。
そしてこのときにこそ、私達の心には主の勝利の御旗が翻ります。

【出エジプト17:15,16】
17:15 モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ。
17:16 そしてモーセは言った、「主の旗にむかって手を上げる、主は世々アマレクと戦われる」。

【雅歌2:4】
2:4 わたしの上にひるがえる彼の旗は愛であった。

今日も私達はそのように一歩一歩主にきよめていただきながら、信仰の歩みを重ねて行けたら幸いですね。
私の上に翻る主の勝利の旗は十字架の愛の御旗であるのですから。

罪に勝たれた主

2015年04月24日 14:08

【1ヨハネ3:8,9】
3:8 罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。
3:9 すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。

何と驚くべき事でしょうか。
私達人間は常に自分自身の犯す罪に人生が振り回される生活を送ります。
それにより幾度人生を遠回りし、掛け違え、傷つき、人生が破壊されてきたことでしょう。
しかし神は、神を信じ、神から新しく生まれた者、私達を、むしろその罪を犯し続ける悪魔のわざを滅ぼすために、罪を犯せない者にしたというのです。
そのために神の子がこの地に現れたのだと。そのためにイエス様は、私達の罪のために、十字架にかかって下さったのだと。

人は神から離れ、自分のために自分で行うことの全ては、罪を犯す結果となります。
それは私達の全人生を知り、またどのように生きるのが最もふさわしいかをよく知っておられる、神から離れているからです。
人生において、こんなはずではなかったのにと、明らかに何かを掛け違えたことを実感する時もあるでしょう。
神を信じ、神に人生をゆだね、また神の目的、計画のために生きる人生こそ、私達が人生を掛け違えない人生です。
なぜなら、全ての人は神のご計画(御心、みこころ)によって、この神のご計画(御心)のために生まれてきたからです。
その目的に沿って歩もうとするのであれば、それはまさしく掛け違えることのない神の御心を歩む人生となります。
逆に言えば、この自分の人生を、自分の目的で生きようとして、掛け違って生きようと、神から心離れていることこそが、罪なのです。
そして、私達がイエス様の十字架により罪ゆるされ、神の子とされたのであれば、その内には「神の種(9節)」である聖霊が新しい命として与えられています。
この聖霊こそが、私達が罪を犯し続けるのであれば、その内から罪を犯し続けている私達が、神を悲しませていることを教え、罪を犯すことに良心が刺され、たとえ繰り返そうとしても、罪を犯し続けることができないように、導いてくれるのです。
このとき、自分が神から離れていたこと、そしてそのために犯してしまった罪が、心の内に現されます。
この罪を赦し除いて下さるのは、最初に救われたとき我が罪のためにイエス様がかかってくださった、あの十字架のみです。だから私達はこの十字架の前に出て、罪を告白し、悔い改めを祈るのです。
こうして神に立ち返り、この十字架の御業によって、罪は砕かれ、悪魔のわざは滅ぼされるのです。
私達にはいつもこの十字架の御業が与えられています。そしていつも新しく与えられた命が、聖霊が私達の内に生きているのです。何と幸いなことでしょう。
この命こそ、イエス様の命、この命こそ神を喜ばせる性質を最初から持ち、神を喜ばせ、神の御心、神の御業を成させるために、私達を内から命ごと導くのです。

そうです。もうあなたの悪魔に振り回された人生は終わったのです。あなたはその支配下にはもういないのです。
あなたは神の十字架の奇跡により、神の子とされたのです。

【コロサイ1:13,14】
1:13 神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。
1:14 わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。
※やみの力=悪魔の力

何と喜ぶべきことでしょうか。
だからさあ、この喜びを、この奇跡を、主に感謝致しましょう。

※参照までに今日の聖書箇所の前後の箇所となります。
さらに今日の御言葉の理解がさらに広がればと願い掲載します。ご覧下さい。

【1ヨハネ3:1-10】
3:1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。
3:2 愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。
3:3 彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。
3:4 すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。
3:5 あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。
3:6 すべて彼におる者は、罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である。
3:7 子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である。
3:8 罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。
3:9 すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。
3:10 神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。

雨の日が続いてますが

2015年04月22日 16:13

最近雨の日が続きます。何かせっかく暖かくなって来たのに憂鬱という方もいらっしゃるでしょう。
洗濯物が乾かないから、洗濯もできない。などと言われている方もいらっしゃるのではないでしょうか。
ところで、雨が降ることが、悪い事ばかりではないのはおわかりでしょう。
気温が上昇しすぎないように、干ばつで土地が干からびてしまわないように。
干からびてしまえば土地は乾燥で脆くなり崩せばポロポロに崩れてしまう土地になるでしょう。
地球の温暖化が叫ばれています。
確かに北極の氷の現象などを見れば、そのような危機感で人が何とかせねばと切迫感を感じる人もいるかも知れませんが、同時に今南極の氷は増えているという報告もあり、人の目には温暖化なのか寒冷化なのかさえ、定かにはわからないようです。
しかし、神は私達人のために、この地球の温度を一定に保とうと、素晴らしい仕組みを持っておられる。
その一つが雨であったりする訳なのですが。
そしてその一定の法則を知恵として雲に与えたという驚くべきことが聖書には書かれているのです。

【ヨブ38:25-28,33-38】
38:25 だれが大雨のために水路を切り開き、いかずちの光のために道を開き、
38:26 人なき地にも、人なき荒野にも雨を降らせ、
38:27 荒れすたれた地をあき足らせ、これに若草をはえさせるか。
38:28 雨に父があるか。露の玉はだれが生んだか。
 [中略]
38:33 あなたは天の法則を知っているか、そのおきてを地に施すことができるか。
38:34 あなたは声を雲にあげ、多くの水にあなたをおおわせることができるか。
38:35 あなたはいなずまをつかわして行かせ、『われわれはここにいる』と、あなたに言わせることができるか。
38:36 雲に知恵を置き、霧に悟りを与えたのはだれか。
38:37 だれが知恵をもって雲を数えることができるか。だれが天の皮袋を傾けて、
38:38 ちりを一つに流れ合わさせ、土くれを固まらせることができるか。

以上のように見ると主は私達を寝ている間も見つめ、守り、御力を働かせて私達の生活の全てを、統べ治め、私達はこのことによって、神に生かしてもらっている。そうでない日は実は一日もないんですね。
何と感謝なことでしょうか。

【詩篇121:2,3】
121:2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。
121:3 主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。

ということで、少しは雨の憂鬱も、神への感謝の内に、治まってきたのではないでしょうか。

太陽ポカポカ

2015年04月21日 11:28

暖かくなってくると、ポカポカとその日差しが気持ちよくて、つい眠くて眠くてウトウトということがあるでしょう。
もちろん寝不足ではないけれど、冬の寒さから解放されて、体のリズムも変わってくる時期だからでしょうか。
それにしても、晴れた日は特にこの太陽の暖かさがたまりません。
聖書には、この太陽の暖まりこそ、すべての人に与えられている恵みであることが語られています。

【詩篇19:4-6】
19:4 神は日のために幕屋を天に設けられた。
19:5 日は花婿がその祝のへやから出てくるように、また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。
19:6 それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。その暖まりをこうむらないものはない。

神は私達を愛し、私達が生きる姿を喜ばれ、すべての人にこの太陽のぼらせ、その暖まりにこうむることができるようにしてくれました。
そこに神の私達への愛があるんですね。
そう思うと、この幸せについ喜びながら、神の愛に感謝しながら、ついまたうとうとしてしまいそうです。

よみがえりの希望

2015年04月20日 18:02

【1コリント15:16-20】
15:16 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。
15:17 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
15:18 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
15:19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
15:20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。

あなたはイエス様がよみがえったということを本当にわかっていますか?
死者のよみがえりについて、やがて終わりの日イエス様が再び来られる日(再臨)に、あなた自身がよみがえるということを信じられますか?
今もしも、このよみがえりということについて、どうしても実感の上でわからなかったとしたら、そのときは臆することなく、そのことがわからない、教えて欲しいと主に祈ってみましょう。
聖書に書かれていることは、確かに私達の常識をはるかに超越しているものです。そのひとつひとつを無理に頭で理解したとしても、そのことが信仰には結びつきません。
しかし、主ご自身は神の言葉である方(ヨハネ1:1-5,14)です。この方が私達の中に生きておられるから、この方に願うとき、やがて自然と私達の内にわかるように、私達の心に触れるくださるのです。

【ヤコブ1:5,6】
1:5 あなたがたのうち、知恵に不足している者があれば、その人は、とがめもせずに惜しみなくすべての人に与える神に、願い求めるがよい。そうすれば、与えられるであろう。
1:6 ただ、疑わないで、信仰をもって願い求めなさい。

よみがえりということがわからないがために、かつて論争があったということを聖書は伝えています。

【1コリント15:12-14】
15:12 さて、キリストは死人の中からよみがえったのだと宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死人の復活などはないと言っているのは、どうしたことか。
15:13 もし死人の復活がないならば、キリストもよみがえらなかったであろう。
15:14 もしキリストがよみがえらなかったとしたら、わたしたちの宣教はむなしく、あなたがたの信仰もまたむなしい。

今日の聖書の箇所に先立ち、このように語られています。実は聖書には同様の論争が幾度も繰り返されており、人の頭ではこのよみがえりということが理解できないということがわかるのです。しかし、同時にこのよみがえりということが、信仰者としての生涯の歩みを決定づけるほど重要な内容であったということもわかります。
無理に理解しようとしたことが、この大論争を生みましたが、これを本当にわかると言えるよう実感できるのは、人の知恵ではなく、神によるものなのです。

ただ一つだけ言えることがあります。
イエス様を信じ受け入れ救われた後、このイエス様が今あなたの内に生きていることをどこかで感じているならば、それはイエス様が十字架で死んでよみがえられたからです。
そしてあなたの中に生きているこのキリストの命こそ、あなたが肉体の死を迎えてなおあなたを永遠に生かし、やがてよみがえりの日にあなた自身を、イエス様がよみがえられたように私達をよみがえらせるのです。
そしてこの死を超越するよみがえりの信仰こそが、私達の如何なる難題や、苦境においても、それを超えて勝利を得させる驚くべき希望であるということが言えるのです。

【2コリント4:8-11】
4:8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
4:9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
4:11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。

イエス様がよみがえった。その大いなる希望をもって、あなたも力強い信仰の歩みを踏み出していきたいと思いませんか?

では、共に祈りましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヨハネ1:1-5,14】
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は初めに神と共にあった。
1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
 [中略]
1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

死をも超えて

2015年04月15日 12:25

【ヨハネ11:25,26】
11:25 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
11:26 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。

クリスチャンは死を恐れません。
主を知らない者は自分が死んだ後どこに行くのかを知りません。死に対しては恐怖を抱きます。
それは人の肉体の死は、そのまま永遠の行き先と関わるからです。
「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている(ヘブル9:27)」ため、人はその死を恐れます。
なぜなら、私達は「神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、(私達の一切の行いと口にした言葉は)明らかにされ(ローマ2:16)」それを元に裁かれる(黙示録20:12)のです。
その時私達自身のことを自らが弁明し、裁きを逃れ得る者があるでしょうか。
そこに存在することは、ただ逃れ得ない自らの、罪からの報酬としての第二の死(黙示録20:6、20:14、21:8)であり、主イエスにより救われた者、命の書に名を書かれている者達はその裁きの時にあって、すでにキリストと共に第一の復活にあってよみがえり、この第二の復活の後に定められた裁きを恐れる必要はない(黙示録20:6)のです。
さらに、主イエスが十字架に贖いの御業を成就した後の時代に生きる、主イエスの救いを受けた私達は、その肉体の死を迎える時に際し、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう(ルカ23:43)」と、主イエスを受け入れた罪人がそのままパラダイスに上げられたのと同様に、パラダイスつまりは天の御国に引き上げられるのです。
何と驚くべき事に私達は、死(黄泉)を見るのではなく、死を迎えた次に瞬間には天の御国に主と共に、喜びの内に永遠に住まうこととなるのです。
そう、私達は死を味わうことがないのです。

【マタイ16:28】
16:28 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。

ですから、神の御国にこの地において入れられた者には、この地で生きることも天に生きることも何も変わることなく、むしろ天に生きることを幸いと願うほど(ピリピ1:21-23)に、死は私達を何も脅かす要素とはならないのです。
なぜなら、私達は救われたその時から、永遠の命を与えられ、その時から永遠に主と共に生きる者となったのであり、私達はすでに死んでよみがえったからこそ、もはや死が私達を支配することはなく(ローマ6:6-11)、死は私達に対して何の力も持たないのです。

【ガラテヤ15:55-57】
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。

だから、私達はこの死に捕らわれることがもうないからこそ、主に与えられたこの地上での歩みの限られた時を、主のために如何に歩むかということだけを考えることができるのです。
なぜなら、私達は主が定められたこの肉体の死を迎える時(ヨハネ7:30、ヨハネ8:20、ヨハネ17:1)までは、主の計画の元に、どのようにしても死を迎えることは決してありません。
だからこそ、この地上で「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらう(マタイ6:31)」必要はないのです。
むしろ、主に自らをささげ生きる時、そこに天の永遠の礼拝が満ち(ローマ12:1)、神にこの生涯を如何に喜ばれるささげ物としてささげるのか。最上の供え物として、自らを神にささげる喜びのために私達の生涯があることを知るのです(歴代志上29:10-19)。
その時、死を超えた永遠の礼拝をささげるという生涯の中で、何ものにも揺るがされることなく、主ご自身を一身に求め、ただ神の国と神の義を求め生きる者となるでしょう。
そうです。私達、信仰者の歩みはよみがえった者の歩み、死をも超えた歩みなのです。
だから主は私達によみがえりの絶大なる恵みをもって、私達に語り、また訊ねられるのです。

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか(ヨハネ11:25,26)」

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヘブル9:26-28】
9:26 しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。
9:27 そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、
9:28 キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。

【ローマ2:14-16,25-29】
2:14 すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。
2:15 彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。
2:16 そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。
 [中略]
2:25 もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。
2:26 だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。
2:27 かつ、生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、さばくのである。
2:28 というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。
2:29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。

【黙示録20:6】
20:6 この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。

【黙示録20:11-15】
20:11 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
20:13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
20:14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
20:15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

【黙示録21:6-8】
21:6 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
21:8 しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。

【マタイ16:24-28】
16:24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
16:25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
16:26 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
16:27 人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。
16:28 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。

【ピリピ1:21-25】
1:21 わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。
1:22 しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。
1:23 わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。
1:24 しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。
1:25 こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。

【ローマ6:6-11】
6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
6:8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
6:9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
6:10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
6:11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

【ヨハネ7:30】
7:30 そこで人々はイエスを捕えようと計ったが、だれひとり手をかける者はなかった。イエスの時が、まだきていなかったからである。

【ヨハネ8:20】
8:20 イエスが宮の内で教えていた時、これらの言葉をさいせん箱のそばで語られたのであるが、イエスの時がまだきていなかったので、だれも捕える者がなかった。

【ヨハネ17:1】
17:1 これらのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われた、「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい。

【マタイ6:30-33】
6:30 ああ、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

【ローマ12:1】
12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

【歴代志上29:10-19】
29:10 そこでダビデは全会衆の前で主をほめたたえた。ダビデは言った、「われわれの先祖イスラエルの神、主よ、あなたはとこしえにほむべきかたです。
29:11 主よ、大いなることと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのものです。天にあるもの、地にあるものも皆あなたのものです。主よ、国もまたあなたのものです。あなたは万有のかしらとして、あがめられます。
29:12 富と誉とはあなたから出ます。あなたは万有をつかさどられます。あなたの手には勢いと力があります。あなたの手はすべてのものを大いならしめ、強くされます。
29:13 われわれの神よ、われわれは、いま、あなたに感謝し、あなたの光栄ある名をたたえます。
29:14 しかしわれわれがこのように喜んでささげることができても、わたしは何者でしょう。わたしの民は何でしょう。すべての物はあなたから出ます。われわれはあなたから受けて、あなたにささげたのです。
29:15 われわれはあなたの前ではすべての先祖たちのように、旅びとです、寄留者です。われわれの世にある日は影のようで、長くとどまることはできません。
29:16 われわれの神、主よ、あなたの聖なる名のために、あなたに家を建てようとしてわれわれが備えたこの多くの物は皆あなたの手から出たもの、また皆あなたのものです。
29:17 わが神よ、あなたは心をためし、また正直を喜ばれることを、わたしは知っています。わたしは正しい心で、このすべての物を喜んでささげました。今わたしはまた、ここにおるあなたの民が喜んで、みずから進んであなたにささげ物をするのを見ました。
29:18 われわれの先祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたの民の心にこの意志と精神とをいつまでも保たせ、その心をあなたに向けさせてください。
29:19 またわが子ソロモンに心をつくしてあなたの命令と、あなたのあかしと、あなたのさだめとを守らせて、これをことごとく行わせ、わたしが備えをした宮を建てさせてください」。

よみがえりの信仰

2015年04月09日 13:01

【ルカ23:49-24:7】
23:49 すべてイエスを知っていた者や、ガリラヤから従ってきた女たちも、遠い所に立って、これらのことを見ていた。
23:50 ここに、ヨセフという議員がいたが、善良で正しい人であった。
23:51 この人はユダヤの町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた。彼は議会の議決や行動には賛成していなかった。
23:52 この人がピラトのところへ行って、イエスのからだの引取り方を願い出て、
23:53 それを取りおろして亜麻布に包み、まだだれも葬ったことのない、岩を掘って造った墓に納めた。
23:54 この日は準備の日であって、安息日が始まりかけていた。
23:55 イエスと一緒にガリラヤからきた女たちは、あとについてきて、その墓を見、またイエスのからだが納められる様子を見とどけた。
23:56 そして帰って、香料と香油とを用意した。それからおきてに従って安息日を休んだ。
24:1 週の初めの日、夜明け前に、女たちは用意しておいた香料を携えて、墓に行った。
24:2 ところが、石が墓からころがしてあるので、
24:3 中にはいってみると、主イエスのからだが見当らなかった。
24:4 そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着たふたりの者が、彼らに現れた。
24:5 女たちは驚き恐れて、顔を地に伏せていると、このふたりの者が言った、「あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。
24:6 そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。まだガリラヤにおられたとき、あなたがたにお話しになったことを思い出しなさい。
24:7 すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか」。

確かに人の目は主イエスキリストの葬られる様を見届けていました。
主イエスは亜麻布に包まれ、墓の中にその体は納められました。
そして重い、おそらくは1トン以上はあったであろうと言われている石が、その墓の入り口を塞ぎましたが、死という事実はその石よりもはるかに大きく重く主イエスと彼女達を隔てました。
翌日墓に訪れた彼女達はそのどうしようもない主イエスの死という事実に、巨大な石と共に向き合わなければならないはずでした。

【マルコ16:3,4】
16:3 そして、彼らは「だれが、わたしたちのために、墓の入口から石をころがしてくれるのでしょうか」と話し合っていた。
16:4 ところが、目をあげて見ると、石はすでにころがしてあった。この石は非常に大きかった。

しかし、目にするはずの現実は、彼女達が最大の問題として話し合い心配してきたことに反して、覆されていたのです。
その最大の問題である巨大な石と共に、主イエスの死という事実ごと。

これは私達の人生のあらゆる問題に関して同様のことが言えます。
人の目で見た事実は、ちゃんと論理的にその問題がどうして発生したのかを知らせ、人はそこに基づき、その問題を如何に解決するべきかと考えるわけです。
そして、どのような方法論でそれを解決しようかと考え、あるいは努力しようと考えます。
この時点で、人はその問題の大きさに途方に暮れたりするわけで、ああでもないこうでもないと心は悩みに覆われるわけです。
さてあなたの毎日はそのように、悩みに覆われていないでしょうか。
確かにあなたの目で見る事実に、あなたは心奪われていないでしょうか。
「すなわち、人の子は必ず罪人らの手に渡され、十字架につけられ、そして三日目によみがえる、と仰せられたではないか(7節)」と、主イエスのよみがえりについて聞いているのは彼女達ばかりではありません。むしろ私達の方がはるかにそのことを知っているはずです。
なぜなら、この方がよみがえって下さったからこそ、私達は救われ、私達の内には新しい命が確かに生きているわけなのですから。

【ルカ24:5,6】
24:5 あなたがたは、なぜ生きた方を死人の中にたずねているのか。
24:6 そのかたは、ここにはおられない。よみがえられたのだ。

私達がよみがえりの主を忘れ、問題の中に頭を没頭させ、解決を何とか求めようともがき続けることはこの墓の中に主の死体を探し続けることと同じです。
死の中を探し回っても、いつまで経っても死という事実しか見つかりません。
しかし、主イエスはよみがえられたのです。
私達にとって死以上の問題があるでしょうか。しかし主はこの死に打ち勝ちよみがえられたのです。

【1コリント15:55】
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。

この方の死にも勝利した事実は、全てを勝利に飲み込ます。私達の問題は巨大な石を取り除くどころか、跡形もなくこの勝利に飲み込まれてしまうのです。

【1コリント15:19,20】
15:19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
15:20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。

ここにはどのような方法でその問題を解決すべきかなどという人間的なプロセスは存在しません。
神は私達が問題を解決するためのプロセスを遠くから見守り、ともすればその手伝いをしてくれるかも知れないような、虚しい存在ではないのです。
そのような信仰に基づき生きているのであれば、「わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在」です。
信仰はもっとシンプルであり、もっと根底的な部分から勝利に満ち、希望に満ちているのです。
ただよみがえりの主を信じる信仰のみが、墓の中に死を探し続けるような問題に心奪われ続ける毎日から私達を解放し、すべてに勝利を得させるのです。
そのとき、全ての問題は主イエスの勝利の前にひれ伏し、全てはこの勝利に飲み込まれていきます。

【2コリント4:8-11】
4:8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
4:9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
4:11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。

あなたはこのよみがえりの主を信じていますか?
ならば全ての問題は死に貧するところからよみがえり、あなた圧倒的な勝利者となります。
あなたはそのことを信じますか?
信じるならば、さあ直ちに主イエスの前に行き、自分の問題の全てを、十字架のもとに置きましょう。
あなたにはできないでも、主に不可能はないのです。

【ローマ8:35-37】
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。

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