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主に聞く

2015年03月27日 17:57

【エレミヤ33:1-3】
33:1 エレミヤがなお監視の庭に閉じ込められている時、主の言葉はふたたび彼に臨んだ、
33:2 「地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主、その名を主と名のっておられる者がこう仰せられる、
33:3 わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。

私達の人生において、私達がどのような状況に置かれたとしても、そのこと自体に目を奪われ、心奪われてしまったら、主の思い(御心)を聞くことはできません。
主の御声を聞くべきは順境の時に於いてばかりではなく、逆境の時はなおさらに聞くべきです。
なぜなら、全てのことにおいて、主は私達のはるかに想像を超え、考え、思いを超えて、ご計画を持っておられるからです。
自分の目に理解できない、自分の力を越える逆境のとき、それをもって主が私達を滅ぼそうとあるいは死に渡そうとしていると考える必要はありません。(出エジプト14:11,12)
その考えこそ、人の目でしか見えない狭い低い視野で考え出した偽りの結論でしかなく、その偽りに心奪われるのであれば、主への信仰は死の恐怖に覆われ、信仰を働かせてその先にある主の計画に進むことはできないのです。
ですから、そのような時こそ、主が何をご計画されているのかを主に聞くべきなのです。
そしてそこにこそ、目の前にある現状が、主の計画の内にあって、いかなるあわれみによってそれが成されているのかを知るのです。
今日の箇所において、この後主が語られたのは、イスラエルに対する厳しい裁きと、その後に訪れる主イエスキリストによる真の救いの計画(エレミヤ33:4-26)です。
それはこのエレミヤの、人には最低に思える監禁の状況からは想像もつかない、主の大いなるあわれみの日であり、栄光がイスラエルの上に輝く日なのです。
つまり、エレミヤが見たのは、主イエスキリストがこの地に来られ十字架による罪の贖いの御業を完成されることと同時に、終わりの日にイスラエルが主に立ち返り、そこに主イエスが再び来臨される日(再臨)のことを、その栄光の日について語られたのです。
それはその苦境の中にいるエレミヤにとって、主の御心を一身に求める者には最高の慰めとなる言葉であり、またその栄光を見て、永遠の御国の喜びの中に入れられ、苦しみを忘れ、悲しみは消え去った(黙示録21:3,4)ことでしょう。
それは信仰によって始めて見ることのゆるされる永遠の安息の中に入れられること(ヘブル11:13-16)なのです。
そして、ここにエレミヤの自身の生涯がこのような主の大いなるご計画の内にあり、だから今現在の苦境でさえ、主にある確かな歩みであることを知るのです。
確かにこの監禁状態はイスラエル(南ユダ王国)全土がバビロンとの戦いで飢饉に陥る中でも食料は王により与え続けられ(エレミヤ37:21)、主からの預言を、主に定められたその時まで死ぬことなく(使徒行伝27:21-26)、語り続けられたのです。
驚くべき主のご計画。
だから主はいつでも私達に全幅の信頼をもって、主に聞くようにと語られるのです。自分の小さな了見、知識、経験、力に頼り、好き勝手なことを叫び祈り続けるのではなく、主に聞け、主を呼び求めよと。
天地万物を造られた主ご自身が「わたしはあなたに答える」と言って下さるのです。最高のあわれみをもって。

【エレミヤ33:2,3】
33:2 「地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主、その名を主と名のっておられる者がこう仰せられる、
33:3 わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【出エジプト14:8-18】
14:8 主がエジプトの王パロの心をかたくなにされたので、彼はイスラエルの人々のあとを追った。イスラエルの人々は意気揚々と出たのである。
14:9 エジプトびとは彼らのあとを追い、パロのすべての馬と戦車およびその騎兵と軍勢とは、バアルゼポンの前にあるピハヒロテのあたりで、海のかたわらに宿営している彼らに追いついた。
14:10 パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。そしてイスラエルの人々は主にむかって叫び、
14:11 かつモーセに言った、「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。
14:12 わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」。
14:13 モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。
14:14 主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。
14:15 主はモーセに言われた、「あなたは、なぜわたしにむかって叫ぶのか。イスラエルの人々に語って彼らを進み行かせなさい。
14:16 あなたはつえを上げ、手を海の上にさし伸べてそれを分け、イスラエルの人々に海の中のかわいた地を行かせなさい。
14:17 わたしがエジプトびとの心をかたくなにするから、彼らはそのあとを追ってはいるであろう。こうしてわたしはパロとそのすべての軍勢および戦車と騎兵とを打ち破って誉を得よう。
14:18 わたしがパロとその戦車とその騎兵とを打ち破って誉を得るとき、エジプトびとはわたしが主であることを知るであろう」。

【黙示録21:3,4】
21:3 また、御座から大きな声が叫ぶのを聞いた、「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

【ヘブル11:13-16】
11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
11:14 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。
11:15 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。
11:16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

【エレミヤ37:21】
37:21 そこでゼデキヤ王は命を下し、エレミヤを監視の庭に入れさせ、かつ、パンを造る者の町から毎日パン一個を彼に与えさせた。これは町にパンがなくなるまで続いた。こうしてエレミヤは監視の庭にいた。

【使徒行伝27:21-26】
27:21 みんなの者は、長いあいだ食事もしないでいたが、その時、パウロが彼らの中に立って言った、「皆さん、あなたがたが、わたしの忠告を聞きいれて、クレテから出なかったら、このような危害や損失を被らなくてすんだはずであった。
27:22 だが、この際、お勧めする。元気を出しなさい。舟が失われるだけで、あなたがたの中で生命を失うものは、ひとりもいないであろう。
27:23 昨夜、わたしが仕え、また拝んでいる神からの御使が、わたしのそばに立って言った、
27:24 『パウロよ、恐れるな。あなたは必ずカイザルの前に立たなければならない。たしかに神は、あなたと同船の者を、ことごとくあなたに賜わっている』。
27:25 だから、皆さん、元気を出しなさい。万事はわたしに告げられたとおりに成って行くと、わたしは、神かけて信じている。
27:26 われわれは、どこかの島に打ちあげられるに相違ない」。

【エレミヤ33:4-26】
33:4 イスラエルの神、主は塁と、つるぎとを防ぐために破壊されたこの町の家と、ユダの王の家についてこう言われる、
33:5 カルデヤびとは来て戦い、わたしが怒りと憤りをもって殺す人々の死体を、それに満たす。わたしは人々のもろもろの悪のために、この町にわたしの顔をおおい隠した。
33:6 見よ、わたしは健康と、いやしとを、ここにもたらして人々をいやし、豊かな繁栄と安全とを彼らに示す。
33:7 わたしはユダとイスラエルを再び栄えさせ、彼らを建てて、もとのようにする。
33:8 わたしは彼らがわたしに向かって犯した罪のすべてのとがを清め、彼らがわたしに向かって犯した罪と反逆のすべてのとがをゆるす。
33:9 この町は地のもろもろの民の前に、わたしのために喜びの名となり、誉となり、栄えとなる。彼らはわたしがわたしの民に施すもろもろの恵みのことを聞く。そして、わたしがこの町に施すもろもろの恵みと、もろもろの繁栄のために恐れて身をふるわす。
33:10 主はこう言われる、あなたがたが、『それは荒れて、人もおらず獣もいない』というこの所、すなわち、荒れて、人もおらず住む者もなく、獣もいないユダの町とエルサレムのちまたに、
33:11 再び喜びの声、楽しみの声、花婿の声、花嫁の声、および『万軍の主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみは、いつまでも絶えることがない』といって、感謝の供え物を主の宮に携えてくる者の声が聞える。それは、わたしがこの地を再び栄えさせて初めのようにするからであると主は言われる。
33:12 万軍の主はこう言われる、荒れて、人もおらず獣もいないこの所と、そのすべての町々に再びその群れを伏させる牧者のすまいがあるようになる。
33:13 山地の町々と、平地の町々と、ネゲブの町々と、ベニヤミンの地、エルサレムの周囲と、ユダの町々で、群れは再びそれを数える者の手の下を通りすぎると主は言われる。
33:14 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家に約束したことをなし遂げる日が来る。
33:15 その日、その時になるならば、わたしはダビデのために一つの正しい枝を生じさせよう。彼は公平と正義を地に行う。
33:16 その日、ユダは救を得、エルサレムは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。
33:17 主はこう仰せられる、イスラエルの家の位に座する人がダビデの子孫のうちに欠けることはない。
33:18 またわたしの前に燔祭をささげ、素祭を焼き、つねに犠牲をささげる人が、レビびとである祭司のうちに絶えることはない」。
33:19 主の言葉はエレミヤに臨んだ、
33:20 「主はこう仰せられる、もしあなたがたが、昼と結んだわたしの契約を破り、また夜と結んだわたしの契約を破り、昼と夜が定められた時に来ないようにすることができるならば、
33:21 しもべダビデとわたしが結んだ契約もまた破れ、彼はその位に座して王となる子を与えられない。またわたしがわたしに仕えるレビびとである祭司に立てた契約も破れる。
33:22 天の星は数えることができず、浜の砂は量ることができない。そのようにわたしは、しもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビびとである祭司の数を増そう」。
33:23 主の言葉はエレミヤに臨んだ、
33:24 「あなたはこの民が、『主は自ら選んだ二つのやからを捨てた』といっているのを聞かないか。彼らはこのようにわたしの民を侮って、これを国とみなさないのである。
33:25 主はこう言われる、もしわたしが昼と夜とに契約を立てず、また天地のおきてを定めなかったのであれば、
33:26 わたしは、ヤコブとわたしのしもべダビデとの子孫を捨てて、再び彼の子孫のうちからアブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ばない。わたしは彼らを再び栄えさせ、彼らにあわれみをたれよう」。

主の守りのうち

2015年03月18日 12:56

【詩篇121:1-4,7】
121:1 わたしは山にむかって目をあげる。わが助けは、どこから来るであろうか。
121:2 わが助けは、天と地を造られた主から来る。
121:3 主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。
121:4 見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。
 [中略]
121:7 主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。

主の私達の守りは完全です。
その安全は多くの人々が求めるものですが、心から安心できることは決してなく、そのためそれを得るために人々は多大な努力を払ったりします。
しかし、そのように人々が求めて止まない本当の平安は、実はすぐ近くにあり、私達をこの地に生み出し、天地万物の全てを創造された主(2節)によってのみ得ることのできるです。

世界の名だたる富豪と言われる人達は、その富が盗まれてしまわないかと心配で眠ることもままならず、華やかな生活に見えてもいつも不安に怯えて暮らす、それが彼らの真実の姿であると聞いたことがあります。

【伝道者5:12】
5:12 働く者は食べることが少なくても多くても、快く眠る。しかし飽き足りるほどの富は、彼に眠ることをゆるさない。

また人は力を持つとさらに力を求め、どこまでも自らの命を守るために止まることはありません。
それは自らの持つ力に自らを救う力はなく、必死でそれを求めても得ることはないからです。
そして多くの権力者は歴史が示す通り、敵に怯え、死に怯えて、死ぬまで力を求め続けるのです。

【詩篇33:16-22】
33:16 王はその軍勢の多きによって救を得ない。勇士はその力の大いなるによって助けを得ない。
33:17 馬は勝利に頼みとならない。その大いなる力も人を助けることはできない。
33:18 見よ、主の目は主を恐れる者の上にあり、そのいつくしみを望む者の上にある。
33:19 これは主が彼らの魂を死から救い、ききんの時にも生きながらえさせるためである。
33:20 われらの魂は主を待ち望む。主はわれらの助け、われらの盾である。

その心にあるのは止まることのない死への恐怖。死に打ち勝たれた主を寄りどころとするのでなければ、人は死の恐怖の奴隷となり、生涯そこから解き放たれることはないのです。
主のみが私達の命を救い得る方であるのです。

【ヘブル2:14,15】
2:14 このように、子たちは血と肉とに共にあずかっているので、イエスもまた同様に、それらをそなえておられる。それは、死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、
2:15 死の恐怖のために一生涯、奴隷となっていた者たちを、解き放つためである。

永遠の都エルサレムにあるシオンの山、そこから主の助けが来る(1節)ことを知る者とはまさに主に救われ天に国籍を持つ者(ピリピ3:20)となった私達のことです。
だから私達はいつも天を見上げます。
ここにこそ私達の命がキリストと共に神のうちに隠されており(コロサイ3:1-3)、だからこそ何者も私達の命を脅かすことはできないのです。
ここに絶対的な守りが存在します。
この主に救われた者が何を心配することがあるのでしょうか。
「主はあなたの足の動かされるのをゆるされない。あなたを守る者はまどろむことがない。
見よ、イスラエルを守る者はまどろむこともなく、眠ることもない。(3,4節)」
と、私達が何もすることができない、寝る間でさえ、主は全く休まれることなく私達をこの絶対的な守りの中に入れ、守って下さっているのです。
もしも、私達が脅かされるとするのであれば、それは偽られ、主から離れて自らの力で生きようと、主に救われる前の生き方に帰り、決して心休まることのない世と変わりない生き方に戻ろうとして、この絶対的守りから出ようとしているからではないでしょうか。
あなたはこの平安を本当に味わっていますか?
この平安がどれほどの価値があるかということをもう一度見つめてみましょう。
そう、この平安はすぐ近くにある、まさにあなたのただ中、内に住まわれる主から来るのです。
だから今、この主のうちにとどまりましょう。世にはあなたの助けも守りも平安もないのですから。

【ヨハネ14:26,27】
14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
14:27 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ピリピ3:20】
3:20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。

【コロサイ3:1-3】
3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
3:2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3:3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。

愛を忘れない

2015年03月12日 12:24

【ヘブル6:10】
6:10 神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない。

主は私達の小さな愛を覚えておられます。
私達が主に示した愛ゆえに行った全ての行い、言葉、祈り、ささげもの。
それがどんなに小さな事であったとしても、何一つ忘れずに主は永遠に覚えておられるのです。
主が私達をどれほど愛しているかは、ご自身のまた天地万物の全てを与え尽くしてもという至上の愛であるのに、私達の愛はそれと比べて何と小さいのでしょう。
人の目には無意味にさえ思えるほどの小さな愛を、このような大きな愛の前で、無に等しいものであるのに、主は何一つ忘れないのです。
いや、それほどに私達を愛しているから、どんなに小さな事でも、それが主への真実の思いとしての愛を、主は必ず見出し(例:貧しいやもめのレプタ二つのささげもの、マルコ12:41-44)、そして決して忘れないのです。
主は私達のこの小さな愛をこの上なく喜ばれ、それをきらめく宝石のように尊ばれ、ご自身のものとしてその胸の中心に置かれるのです。

【雅歌4:9-11】
4:9 わが妹、わが花嫁よ、あなたはわたしの心を奪った。あなたはただひと目で、あなたの首飾のひと玉で、わたしの心を奪った。
4:10 わが妹、わが花嫁よ、あなたの愛は、なんと麗しいことであろう。あなたの愛はぶどう酒よりも、あなたの香油のかおりはすべての香料よりも、いかにすぐれていることであろう。
4:11 わが花嫁よ、あなたのくちびるは甘露をしたたらせ、あなたの舌の下には、蜜と乳とがある。あなたの衣のかおりはレバノンのかおりのようだ。

実に主は大いなる愛をもって私達を愛するばかりか、私達がどれほど小さくとも主を真実に心から愛するのを渇き待ち望み、このようにこの世の全ての麗しく尊いものよりも、これ以上に麗しくすぐれたものはないと、私達の愛を喜ばれるのです。
なぜ、これほどに愛してくださるのでしょう。
なぜ、このようなとるに足らない者を、不誠実で真実などなく、愛のないものの愛を、渇き、待ち焦がれ、このような小さな愛に、「あなたはわたしの心を奪った」とまで言われるのでしょうか。

この主の想いをもしも私達が知ってしまったら、私達は主を愛さずにいられなくなってしまいます。
それほどに愛されてしまったら、主から離れられなくなってしまいます。
この愛無しでは生きていけなくなってしまうのです。

【雅歌4:12-15】
4:12 わが妹、わが花嫁は閉じた園、閉じた園、封じた泉のようだ。
4:13 あなたの産み出す物は、もろもろの良き実をもつざくろの園、ヘンナおよびナルド、
4:14 ナルド、さふらん、しょうぶ、肉桂、さまざまの乳香の木、没薬、ろかい、およびすべての尊い香料である。
4:15 あなたは園の泉、生ける水の井、またレバノンから流れ出る川である。

そしてこの方を喜ばせるためだけに、この方のためだけに生き、この方だけを愛する者として(12節「閉じた園」は主への純潔なる愛)生きてしまいます。
人生の全てをこの方の愛の渇きを潤し、この方に少しでも良きものをささげるために、良い実を実らせようと、主のためにいのちを注ぎ流れ溢れさせようと思ってしまうのです。

だから主は私達の小さな愛を何一つ忘れません。
そして、これが私達の小さな信仰の大きな始まりとなるでしょう。

【ガラテヤ5:6】
5:6 尊いのは、愛によって働く信仰だけである。

あなたの愛を主がどれほど渇き待ち焦がれているか、あなたは知っていますか?

あなたは主を愛するために、新しく生まれてきたのです。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【マルコ12:41-44】
12:41 イエスは、さいせん箱にむかってすわり、群衆がその箱に金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持は、たくさんの金を投げ入れていた。
12:42 ところが、ひとりの貧しいやもめがきて、レプタ二つを入れた。それは一コドラントに当る。
12:43 そこで、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめは、さいせん箱に投げ入れている人たちの中で、だれよりもたくさん入れたのだ。
12:44 みんなの者はありあまる中から投げ入れたが、あの婦人はその乏しい中から、あらゆる持ち物、その生活費全部を入れたからである」。

※一コドラントは今の価値では二百円にも満たないものと言えるでしょう。

神の国が魅了する

2015年03月11日 12:43

【歴代誌下 9:3-8】
9:3 シバの女王はソロモンの知恵と、彼が建てた家を見、
9:4 またその食卓の食物と、列座の家来たちと、その侍臣たちの伺候振りと彼らの服装、および彼の給仕たちとその服装、ならびに彼が主の宮でささげる燔祭を見て、全く気を奪われてしまった。
9:5 彼女は王に言った、「わたしが国であなたの事と、あなたの知恵について聞いたうわさは真実でした。
9:6 しかしわたしは来て目に見るまでは、そのうわさを信じませんでしたが、今見ると、あなたの知恵の大いなることはその半分もわたしに知らされませんでした。あなたはわたしの聞いたうわさにまさっています。
9:7 あなたの奥方たちはさいわいです。常にあなたの前に立って、あなたの知恵を聞くこのあなたの家来たちはさいわいです。
9:8 あなたの神、主はほむべきかな。主はあなたを喜び、あなたをその位につかせ、あなたの神、主のために王とされました。あなたの神はイスラエルを愛して、とこしえにこれを堅くするために、あなたをその王とされ、公道と正義を行われるのです」。

主はソロモンを通して、この地上に神の国を顕されました。
それは確かに再臨された主イエスキリストが、ご自身が王となりこの地上を統べ治める千年王国の時代、この地に顕現する神の国の姿を、このような形で現したのであり、
ソロモンを選び、王として再臨される主イエスの型としてその姿を現されたというように見ることもできるでしょう。
と同時に、今ある教会は神の国の現れであり、その真の姿が顕現されるのであれば、このような顕れがこの地に現れるのです。
つまり、主イエスの十字架こそ天と地を繋ぐもの(ヨハネ1:、創世記28:12)であり、その主イエスがおられる教会こそ、天と地が繋がる場所(マタイ16:18,19、マタイ18:18-20)であり、「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ(ルカ17:21)」と主が語られたように、教会のただ中に神の国があるのです。

これほどに大きなことが教会である私達に与えられている。
このことを厳粛な事実として私達はどれほど真剣に受け止めているでしょうか。

さらに言うのであれば、シバの女王の心を魅了した(4節)、ソロモンの知恵(3節)は私達の内に住まうキリスト(コロサイ2:3)により実は私達に与えられており、また私達はソロモンが建てた神殿が壊された後の日に、主イエスの十字架の死と復活によって建てられた主の宮(ヨハネ2:19-22)、主の神殿(3節)なのです。
私達が真に主イエスに仕え、主の宮に私達自身を捧げる礼拝は、シバの女王が見たものをはるかに凌ぐものです。
なぜなら、これら全てが顕現するとき、地上の罪と死の法則が覆され、神の国の法則であるいのちの御霊の法則(ローマ8:1,2,10,11)のうちに、死が勝利に飲み込まれ(1コリント15:55)、よみがえりが死を超えて、神の国の現れとして溢れる(マルコ16:15-20、使徒行伝5:12-16)のです。
そのとき、それを見た者達はシバの女王が言った言葉のように(5~8節)、主イエスを王として迎えた者達の幸いを、そしてその者達の内に今生きて働かれ、今地を統べ治められる王なる主イエスを、求め、救われ、大いなる主の名を誉め讃えることでしょう。
私達は実はそのような者なのです。

【ルカ11:29-32】
11:29 さて群衆が群がり集まったので、イエスは語り出された、「この時代は邪悪な時代である。それはしるしを求めるが、ヨナのしるしのほかには、なんのしるしも与えられないであろう。
11:30 というのは、ニネベの人々に対してヨナがしるしとなったように、人の子もこの時代に対してしるしとなるであろう。
11:31 南の女王が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、彼女はソロモンの知恵を聞くために、地の果からはるばるきたからである。しかし見よ、ソロモンにまさる者がここにいる。
11:32 ニネベの人々が、今の時代の人々と共にさばきの場に立って、彼らを罪に定めるであろう。なぜなら、ニネベの人々はヨナの宣教によって悔い改めたからである。しかし見よ、ヨナにまさる者がここにいる。

神の国がこのようにこの地に顕れるとき、私達は世(社会)に対して、神の国の訪れを力強く語り、その主の裁きとそこからの救いを高々と告げ知らせる者となるのです。
どれほど大いなるものを、私達はすでに与えられているのでしょうか。
いやですから、これらを止めているのは私達自身であるということができるのです。
私達の小さな理解の信仰の中に主を閉じ込め、あるいは御霊の導きを退け肉に従い、主の御心を退け(ローマ8:5-13)、自らのために神を利用するような信仰を続けて、神を退け続ける。
もしも私達がこの生きた神の現れを、このように退け続けるのであれば、神の国がこの地を命をもって支配する(ローマ5:17)ことは私達の手によって止められ、むしろ罪と死が満ちて、この地は滅びに導かれていってしまうのです。
これほどのものを与えられている私達には、この地を滅びから神に立ち返らせるための責任があるのです。
この国が滅びに向かっている、その警告はすでに明示されています。
ですから今日3月11日を、この厳粛な主の御心を受け取る時としてもう一度ゆっくり考え、これまでの私達の歩みをもう一度見つめ直してみましょう。

この国が神のもとに立ち返り、滅びから救いへと導かれますように。

「御国がきますように。みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように。(マタイ6:10)」

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヨハネ1:50,51】
1:50 イエスは答えて言われた、「あなたが、いちじくの木の下にいるのを見たと、わたしが言ったので信じるのか。これよりも、もっと大きなことを、あなたは見るであろう」。
1:51 また言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。

【創世記28:10-17】
28:10 さてヤコブはベエルシバを立って、ハランへ向かったが、
28:11 一つの所に着いた時、日が暮れたので、そこに一夜を過ごし、その所の石を取ってまくらとし、そこに伏して寝た。
28:12 時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。
28:13 そして主は彼のそばに立って言われた、「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。あなたが伏している地を、あなたと子孫とに与えよう。
28:14 あなたの子孫は地のちりのように多くなって、西、東、北、南にひろがり、地の諸族はあなたと子孫とによって祝福をうけるであろう。
28:15 わたしはあなたと共にいて、あなたがどこへ行くにもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰るであろう。わたしは決してあなたを捨てず、あなたに語った事を行うであろう」。
28:16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。
28:17 そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。

【マタイ16:18,19】
16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。
16:19 わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

【マタイ18:18-20】
18:18 よく言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。
18:19 また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。
18:20 ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである」。

【ルカ17:20,21】
17:20 神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
17:21 また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

【コロサイ2:3】
2:3 キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。

【ヨハネ2:19-22】
2:19 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。
2:21 イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。
2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。

【ローマ8:1-13】
8:1 こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
8:2 なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。
8:3 律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。
8:4 これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。
8:5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
8:6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
8:8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
8:9 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。
8:10 もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。
8:11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。
8:12 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。
8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。

【1コリント15:55】
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。

【マルコ16:15-20】
16:15 そして彼らに言われた、「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えよ。
16:16 信じてバプテスマを受ける者は救われる。しかし、不信仰の者は罪に定められる。
16:17 信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、
16:18 へびをつかむであろう。また、毒を飲んでも、決して害を受けない。病人に手をおけば、いやされる」。
16:19 主イエスは彼らに語り終ってから、天にあげられ、神の右にすわられた。
16:20 弟子たちは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主も彼らと共に働き、御言に伴うしるしをもって、その確かなことをお示しになった。〕

【使徒行伝5:12-16】
5:12 そのころ、多くのしるしと奇跡とが、次々に使徒たちの手により人々の中で行われた。そして、一同は心を一つにして、ソロモンの廊に集まっていた。
5:13 ほかの者たちは、だれひとり、その交わりに入ろうとはしなかったが、民衆は彼らを尊敬していた。
5:14 しかし、主を信じて仲間に加わる者が、男女とも、ますます多くなってきた。
5:15 ついには、病人を大通りに運び出し、寝台や寝床の上に置いて、ペテロが通るとき、彼の影なりと、そのうちのだれかにかかるようにしたほどであった。
5:16 またエルサレム附近の町々からも、大ぜいの人が、病人や汚れた霊に苦しめられている人たちを引き連れて、集まってきたが、その全部の者が、ひとり残らずいやされた。

【ローマ5:17】
5:17 もし、ひとりの罪過によって、そのひとりをとおして死が支配するに至ったとすれば、まして、あふれるばかりの恵みと義の賜物とを受けている者たちは、ひとりのイエス・キリストをとおし、いのちにあって、さらに力強く支配するはずではないか。

よみがえりの信仰

2015年03月07日 11:56

【2コリント4:8-11】
4:8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
4:9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
4:11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。

もしも私達の毎日の信仰の歩みが、自分の力で積み上げられたものであるのであれば、それは非常に虚しいものとなるでしょう。
それがどれほど一生懸命であったとしても、自分の努力によって建てた信仰は、自分の力以上の現実に出会うとき脆くも崩れる弱いものとなり、それまでの努力のゆえにむしろ虚しさを思うものとなるでしょう。
しかし、私達の信仰の中心はよみがえられた救い主イエスキリストにあるのです。
このよみがえりに希望があるのです。このよみがえられた方、主イエスのいのちが私の中に圧倒的な力となってよみがえる。
だからこそ、人知を超えたレベルで、私達を囲む全ての私達を死につけようとするものは、主イエスの死と共に葬られ、その全てを超えて私達はあらゆる状況からよみがえるのです。
誰がこのことを想像し得たでしょうか。死をも超える信仰があるということを。
死の先にさえ希望があるなどと言うことを有史以来、語る者など誰かあったでしょうか?
しかし主イエスご自身がこう語られているのです。

【ヨハネ11:25,26】
11:25 「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
11:26 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。

あなたはこの方を信じているのです。
もしも、この方を信じるというのであっても、この方のよみがえりを我が事として受け入れ信じないのであれば、その信仰は先にお話した通り虚しいものです。

【1コリント15:16-22】
15:16 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。
15:17 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
15:18 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
15:19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
15:20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
15:21 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。
15:22 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。

死を超える圧倒的な希望を持てる、この信仰にこそ、あらゆる状況を超え、世界を超え、時代を超えて、勝利者として歩んできたクリスチャンの真の姿があるのです。
よみがえりの主イエスキリストを信じる者に絶望はありません。死もありません。

【黙示録21:4,5】
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
21:5 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。

この方に全てをゆだねたとき、その信仰は自分の力で積み上げようとしたものをはるかに超えて、豊かに堅固なものとなるのです。
信仰は学びでも努力でもなく、最初から与えられている主イエス、よみがえりであり、命なのです。
あなたは主イエスのよみがえりを信じますか?
あなたの中に主イエスは今生きています。

福音の命の力

2015年03月04日 12:48

【1テサロニケ2:1-8,13】
2:1 兄弟たちよ。あなたがた自身が知っているとおり、わたしたちがあなたがたの所にはいって行ったことは、むだではなかった。
2:2 それどころか、あなたがたが知っているように、わたしたちは、先にピリピで苦しめられ、はずかしめられたにもかかわらず、わたしたちの神に勇気を与えられて、激しい苦闘のうちに神の福音をあなたがたに語ったのである。
2:3 いったい、わたしたちの宣教は、迷いや汚れた心から出たものでもなく、だましごとでもない。
2:4 かえって、わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語るのである。
2:5 わたしたちは、あなたがたが知っているように、決してへつらいの言葉を用いたこともなく、口実を設けて、むさぼったこともない。それは、神があかしして下さる。
2:6 また、わたしたちは、キリストの使徒として重んじられることができたのであるが、あなたがたからにもせよ、ほかの人々からにもせよ、人間からの栄誉を求めることはしなかった。
2:7 むしろ、あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。
2:8 このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである。
 [中略]
2:13 これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として__事実そのとおりであるが__受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。

福音を伝えることは決して人の力ではありません。
もしもそうであるならば、迫害にあったとき、いやあらゆる苦しみ、悲しみ、悩みに会ったとき、つまりは私達の感情や状況、あるいは能力の差などによっても、福音が伝えられることが妨げられることになるからです。
順境であるから、福音を語ることができるのではなく、逆境においても、激しい攻撃の中でも、福音を伝える力は弱まることはない(2節)のです。
それは神の力によるからです。
神を喜ばせようとする(4節)者達を主は喜ばれ、その者を通して主はこの福音を伝えたい、ご自身の力を現そうとされるのです。
そう、救いを与える絶大な神の力と愛を。
そう、十字架にかかられた主イエスの力と愛そのものを。
そこに主イエスの命が流れるのです。
渇ける者を永遠に潤す(ヨハネ4:13-15)、永遠の命の水がその人から川々となって流れ(ヨハネ7:37-39)て、命に渇ける者を潤すのです。
一体神をおいて他に誰にこのようなことができるでしょう。
それはまさしく人知を超えた神の力、奇跡なのです。
多くの人が福音を語る方法論を模索します。また、語るべき説得力のある内容をと考えます。
しかし、主は宣教の愚かさ(1コリント1:21)をもって、福音を世界中に届けて来られたのです。
人と直接関わり命に直接触れることでしか、愚かに思えるこの方法でしか、主の命は溢れ流れないのです。
この愚かさに主ご自身が臨まれ、ご自身の十字架を現し続けられたのです。
いやこの愚かさにしか十字架の死とよみがえりを現すことができないのです。
だから主の喜びのために、だから愚かに見えても、福音に自分の命をささげるしか、溢れる主の命を、愛を、伝えることはできないのです。
その自らの内に溢れる十字架の愛を、パウロは「このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである。(8節)」と語っているのです。
そしてだからこそ彼らが語った言葉が人間の言葉としてではなく神の言として確かに人々に伝わり、またその言が生きてその中に働いた(13節)のです。

【1コリント】
1:17 いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。
1:18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
1:19 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。
1:20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
1:21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
1:22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
1:23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
1:24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

何と私達は効率の良い伝道、効果的な伝道などという無意味なものを求めていたのでしょうか。
神が愚かとなられたのです。
神が弱くなられたのです。
私達は何をして何を誇ろうとしているのでしょうか。
だから主が私達を愛してくださったように、まだ主を知らない多くの主が愛する人々を、心から愛そうではありませんか。
主が私達に命をささげるほどに、愛してくださったのですから。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヨハネ4:13-15】
4:13 イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
4:15 女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。

【ヨハネ7:37-39】
7:37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
7:39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。

【1コリント1:17-25】
1:17 いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。
1:18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
1:19 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。
1:20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
1:21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
1:22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
1:23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
1:24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

神をただ神とする

2015年02月25日 12:26

【出エジプト20:3-6】
20:3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

この言葉はイスラエルの民がモーセと共にエジプトを出た、その後シナイ山で主から授かった十戒の中の一節です。
この十戒は主イエスご自身が「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている(マタイ22:37-40)」と語られているように、十戒の前半は神に対する愛について、後半は隣人に対する愛について、そしてその中間には神の権威を現し、また隣人としての側面も持つ、親に対する愛についてが語られています。
つまり、十戒は戒めでありますが、同時にその二つの愛によって、律法は全うされると語られているのです。

さて、今日の箇所はその中で神に対する愛について語られている戒め。
「どんな形をも造ってはならない。(4節)」ということは、神を偶像として造ってはならないという意味でもありますが、私達の具体的な信仰生活においてはもう一歩踏み込んだ意味を見ることができます。

自分は確かに神を形にした彫像や絵などそれら一切のものを、飾ったり崇めたりはしていない。
プロテスタントのキリスト教徒の皆さんは特にそのようなことに気をつけているという方も多くおられるでしょう。
だから自分は大丈夫だと、この戒めを思いながらそのように考えられる。
しかし聖書は、もう少し人の心を深い意味で照らし、偶像というものについて語っています。

「そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。(サムエル上15:23)」と語られるように、主に従い生きることを主は喜ばれます
が、私達が自分の判断や思いから、主を越えて自分を主張し、主に従わず、結果主に背くことは、占い、偶像礼拝と同様の罪であるとはっきり指摘しています。
また、「だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。(コロサイ3:5)」とも語られているように、自らの欲望を満たすことを望み続ける生活は、神の思いから離れるばかりか、神に敵対し、自分を満たすための祭壇を築くようになります。
これが主の祭壇とは異なる偶像を祭る祭壇となるのです。
しかし、「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。(ヤコブ1:15)」とあるように、その行き着く先は罪であり、死に他なりません。
古来から、人はその生来の罪の性質から、「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。(ローマ8:6,7)」とあるように、神に従い主のために生きるということに逆らいます。
神の計画のために自分が居るのではなく、自分のために神が居ると、神を自分に従う神としようとします。
このとき、人は神を自分に都合の良い神像に刷り換え、本来の神を見ようとしません。
ここに神を自分の思いの中に閉じ込めようとする、「どんな形をも造ってはならない。(4節)」ということが崩されていくのです。

【士師記6:12-14】
6:12 主の使は彼に現れて言った、「大勇士よ、主はあなたと共におられます」。
6:13 ギデオンは言った、「ああ、君よ、主がわたしたちと共におられるならば、どうしてこれらの事がわたしたちに臨んだのでしょう。わたしたちの先祖が『主はわれわれをエジプトから導き上られたではないか』といって、わたしたちに告げたそのすべての不思議なみわざはどこにありますか。今、主はわたしたちを捨てて、ミデアンびとの手にわたされました」。
6:14 主はふり向いて彼に言われた、「あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手からイスラエルを救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか」。

ある人は神の御業は今はない。主は今私と共に生きておられるというのは喩えのようなもの私達にはわからない。
主は積極的にまた具体的に私達の人生に何かをなされることはない。
とまるでおとぎ話の世界のように信仰を捉え、神をそして神の絶大なる力をまた私達を愛して止まず今生きて私達と共に居られ生きて働かれる無限の神を、自分の理解や常識の中に、不信仰の内に小さく小さく閉じ込めてしまっていないでしょうか。

【マタイ25:24-30】
25:24 一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。
25:25 そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。
25:26 すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。
25:27 それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。
25:28 さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。
25:29 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
25:30 この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。

ある人は愛なる神を裁く神としか見ず、あるいは恐怖し、あるいは心離れて、神をまるでサタンと同様な糾弾者のように思っていないでしょうか。
生きること、信仰の全てを裁きから逃れるために何をするかであるように生涯を歩み、そのように信仰を正しく守り続けることに神経を注ぎ力を注いで、主に安息することなしに生き続ける。
愛なる神はどれほど私達を愛し、どれほど素晴らしいものを分かち、また主のご計画のために共にそれを成すために生きることをどれほど望み、共に喜びたいと願って居られることでしょうか。

【マラキ1:2】
1:2 主は言われる、「わたしはあなたがたを愛した」と。ところがあなたがたは言う、「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか」。

【マラキ3:13-15】
3:13 主は言われる、あなたがたは言葉を激しくして、わたしに逆らった。しかもあなたがたは『われわれはあなたに逆らって、どんな事を言ったか』と言う。
3:14 あなたがたは言った、『神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか。
3:15 今われわれは高ぶる者を、祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく、神を試みても罰せられない』」。

ある人は神を目に見えないからこそ、侮るべきものとして、自らの罪を重ね、忍耐と愛をもって裁きを遅らせ、神に悔い改めて立ち返ることを望まれていることを全く知らずあるいは見ないようにして生きているかも知れません。
どこまでならゆるされるのかを試みることが信仰でも、神の愛を知ることでもありません。
自らを神のように欲望のままに生きていても信仰者である自分はゆるされると、十字架の贖いをその愛を無益なものとして退け捨てた、神を侮る者を、義なる神は裁かずそのまま捨て置かれることはされないでしょう。

私達は、聖書に書かれ、また今も生きて働き、天地万物を創造され今もその全てを一刻一秒休むことなく保たれて居られる、無限の神と相対しているのです。
この方を私達の尺度で曲げ、形におさめ、都合の良い信仰のための対象とすることがあってはなりません。
それは私達自身を神とすることです。
主は「わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである(黙示録21:6)」という方、全ての始まりであり結論である方、この方が私達の先に居られるのであり、私達がこの方のために、この方により造り変えられるべきなのです。
この方こそ唯一の神、全地の主権者なのです。

【ダニエル7:13,14】
7:13 わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。
7:14 彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。

この地上にあるいかなるものにも、形おさまらない、無限なる神を恐れ、ひれ伏します。
そしてこのような方が、ご自身の命を賜うほどに私を愛してくださったという驚くべき事実に、ひれ伏します。

主よ。私達はただあなただけのものです。あなたを愛します。
あなたの御心のみがこの身になりますように。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【マタイ22:236-40】
22:36 「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
22:38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。
22:39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
22:40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

【サムエル上15:22,23】
15:22 サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。
15:23 そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。

【コロサイ3:5-11】
3:5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
3:6 これらのことのために、神の怒りが下るのである。
3:7 あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。
3:8 しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。
3:9 互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
3:10 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。
3:11 そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。

【ローマ8:5-8】
8:5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
8:6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
8:8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
※「肉の思い」=生来の神から離れ自分のために生きようとする罪深い人の性質から来る思い
※「霊の思い」=内に住む新しい命としての聖霊なる神に導かれる、主のために生きようという思い。

愛と信仰の原点

2015年02月20日 12:50

【マルコ14:3-9】
14:3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
14:4 すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。
14:5 この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。
14:6 するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
14:7 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。
14:8 この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。
14:9 よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。

すべての状況を越え、また人々にどのように思われるかと考えることを置き、常識も人の思うすべてを越えて、主を愛すること、そしてそれを行動に現していくことは非常に難しいことです。
いや人によって、それが本当に信仰的な行動かどうかと疑うことすらあるでしょう。
周りを見比べ、常識に照らし合わせ、信仰を律法的に判断し、行動を決めるのであれば、確かに誤りのない信仰生活を送ることができるように思えるかも知れません。
しかし、ここに語られていることは「ひとりの女(マルコ14:3)」が正しかったどうかではなく、主を喜ばせたかどうかという基準です。
主は彼女の心の内の全てをご存知でした。
だから彼女が主をどれほどに愛しているかを主は知っておられたし、だからこそ主が「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう(マルコ9:31)」とご自身が十字架の死を迎えることを語った時、弟子達の誰一人そのことを悟った者はいなかったのに、彼女ただ一人が主の「葬りの用意(マルコ14:8)」をしてくれたことを喜んだのです。
「よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう(マルコ14:9)」と主が語られるほどに、今も主の御言葉としていつまでも彼女のことが語り継がれるほどに、主はこのことを喜ばれました。

確かにこのことは人の目にはたいそう愚かなことに映ったでしょう。
三百デナリ以上と言われる香油とは「彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。(マタイ20:2)」とあるように、一日の労働賃金を一デナリとするのであれば、仮にこれが現在の一万円相当と見積もっても、三百万円相当のものであったと想像されます。
当時、女性はこのように香油を貯めて財産として蓄えておく習慣があったようですので、それを突然すべて注いでしまうということは誰をも驚かす、常識を越えた行動であったでしょう。
それがこの聖句の中に描かれた、人々が彼女を厳しくとがめた姿に現れているのです。
それも、「貧しい人たちに施すこと(マルコ14:5)」ということを主ご自身がこれまで父に喜ばれる信仰として語られてきたのですから、これは律法的な判断においても人々の言うことの方が正しいように思われます。
しかし、彼らには主の十字架の事実を悟ることができなかった。彼女だけがこの重要な事実を悟った。
そしてそのためにできる限りのことをし、全てを注ぎ出し、主に最上のささげものをささげることを彼女はゆるされたのです。
それは主を愛するがゆえに、人の常識においては知ることのできない主の大いなる計画を悟らせ、主を愛するがゆえに、人々の思惑や常識を超えて、主を最も喜ばせる行動へと身をゆだねさせたのです。

【ルカ7:47】
7:47 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。

私達の罪がどれほどに汚れきったもの
であったのかをどうか思い出してください。
それは神の子イエスキリストの命の代価でなければ贖えないほどに汚れたものであり、だから主は父なる神の御怒りを一身に受けて裁かれ、永遠の滅びに身を焼かれたのです。
だから、あなたがどれほどに主に愛されたのか、今愛されているのかを思い出してください。
そのとき、愛する方を私はどのように愛することができるのか。どのように喜ばせることができるのか。という「愛によって働く信仰(ガラテヤ5:6)」の原点が見えてくるでしょう。

【1コリント13:1-3】
13:1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
13:2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
13:3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

「わたしによい事をしてくれたのだ。(マルコ14:6)」と主から一言を頂けるだけでいい。愛する方が喜ばれるために、十字架に全てをささげられた方のために、私の全てをささげて愛したい。
この全身全霊、この命、この生涯を主に最も喜ばれるささげものをささげるためにささげ尽くしたい。
私はそのために造られ、そのために生き、そのために主から永遠に離れず、主を愛しているのです。
私達全てのものはそのように造られたのです。そのように生きることが最も幸せなのです。
キリスト者の本当の幸いはこの永遠の愛に基づく歩みなのです。

【ローマ14:7-9】
14:7 すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。
14:8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。
14:9 なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。

あなたはどのように主を愛して、今日この一日を重ねていきますか?

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。
【マルコ9:31,32】
9:31 それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。
9:32 しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。」

【ルカ7:36-50】
7:36 あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
7:37 するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、
7:38 泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。
7:39 イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。
7:40 そこでイエスは彼にむかって言われた、「シモン、あなたに言うことがある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。
7:41 イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。
7:42 ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。
7:43 シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。
7:44 それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。
7:45 あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。
7:46 あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。
7:47 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。
7:48 そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。
7:49 すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。
7:50 しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

【ガラテヤ5:5,6】
5:5 わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。
5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。

再臨の望み

2015年02月18日 19:49

【詩篇118篇】
118:1 主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。
118:2 イスラエルは言え、「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」と。
118:3 アロンの家は言え、「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」と。
118:4 主をおそれる者は言え、「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」と。
118:5 わたしが悩みのなかから主を呼ぶと、主は答えて、わたしを広い所に置かれた。
118:6 主がわたしに味方されるので、恐れることはない。人はわたしに何をなし得ようか。
118:7 主はわたしに味方し、わたしを助けられるので、わたしを憎む者についての願いを見るであろう。
118:8 主に寄り頼むは人にたよるよりも良い。
118:9 主に寄り頼むはもろもろの君にたよるよりも良い。
118:10 もろもろの国民はわたしを囲んだ。わたしは主のみ名によって彼らを滅ぼす。
118:11 彼らはわたしを囲んだ、わたしを囲んだ。わたしは主のみ名によって彼らを滅ぼす。
118:12 彼らは蜂のようにわたしを囲み、いばらの火のように燃えたった。わたしは主のみ名によって彼らを滅ぼす。
118:13 わたしはひどく押されて倒れようとしたが、主はわたしを助けられた。
118:14 主はわが力、わが歌であって、わが救となられた。わたしは主のみ名によって彼らを滅ぼす。
118:11 彼らはわたしを囲んだ、わたしを囲んだ。わたしは主のみ名によって彼らを滅ぼす。
118:12 彼らは蜂のようにわたしを囲み、いばらの火のように燃えたった。わたしは主のみ名によって彼らを滅ぼす。
118:13 わたしはひどく押されて倒れようとしたが、主はわたしを助けられた。
118:14 主はわが力、わが歌であって、わが救となられた。
118:15 聞け、勝利の喜ばしい歌が正しい者の天幕にある。「主の右の手は勇ましいはたらきをなし、
118:16 主の右の手は高くあがり、主の右の手は勇ましいはたらきをなす」。
118:17 わたしは死ぬことなく、生きながらえて、主のみわざを物語るであろう。
118:18 主はいたくわたしを懲らされたが、死にはわたされなかった。
118:19 わたしのために義の門を開け、わたしはその内にはいって、主に感謝しよう。
118:20 これは主の門である。正しい者はその内にはいるであろう。
118:21 わたしはあなたに感謝します。あなたがわたしに答えて、わが救となられたことを。
118:22 家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。
118:23 これは主のなされた事でわれらの目には驚くべき事である。
118:24 これは主が設けられた日であって、われらはこの日に喜び楽しむであろう。
118:25 主よ、どうぞわれらをお救いください。主よ、どうぞわれらを栄えさせてください。
118:26 主のみ名によってはいる者はさいわいである。われらは主の家からあなたをたたえます。
118:27 主は神であって、われらを照された。枝を携えて祭の行列を祭壇の角にまで進ませよ。
118:28 あなたはわが神、わたしはあなたに感謝します。あなたはわが神、わたしはあなたをあがめます。
118:29 主に感謝せよ、主は恵みふかく、そのいつくしみはとこしえに絶えることがない。

この詩篇はメシヤ預言であり、「家造りらの捨てた石は隅のかしら石となった。(詩篇118:22)」を主ご自身が引用して(マタイ21:42,マルコ12:10,ルカ20:18)ご自身が預言された救い主であることを語られたことからもわかる通り、この預言は初臨(主が救い主として約2000年前にこの地に来られた)のキリストにより成就しました。
しかし、この預言は同時に再臨のキリストが成就するものとして見ることができます。

まずは初臨において、この隅のかしら石(22節)こそ神殿を建てる際に土台となる重要な石であり、主イエスご自身がこの石となって、すでに今私達はこの石と組み合わされ主の宮を建て上げる(エペソ2:20-22、1ペテロ2:4,5)ものとなっています。
ですから、主はご自身が十字架にかかり死を迎えた後、三日後によみがえることを、この神殿を指して示し、霊においてこの神殿が建て上げられること(ヨハネ2:19-21)を語られましたが、当然そのときには誰も理解することができず、主イエスの十字架刑を決定する裁判の席でも、その真の意味が理解されぬまま偽証の元(マルコ14:58)となり糾弾されているのです。

また、この石はゼカリヤ3:6-10、4:6-10に登場する一つの石として、ゼカリヤの神殿再建の預言の中にも登場します。
これは、バビロンに捕囚されたイスラエルの民がエルサレムに帰還後、神殿を再建したとき、この再建工事がアルタシャスタ王により中断を命じられ失望の中にいたイスラエルの民に、大祭司ヨシュアと総督ゼルバベルとを中心として再び工事を再開するよう命じる預言であり、このときの神殿再建で成就している預言です。
しかし同時に、主イエスが再臨するとき、大祭司(ヨシュア)であり王(ゼルバベル)である主ご自身が、この地に再び来られた後、この宮をご自身の手で再建されることを語る預言として見ることもできるのです。

このことからもわかるように、詩篇118篇は主の再臨の預言として見るならば、この詩篇が止まることのない賛美から始まり、10-13節でエルサレムが敵に囲まれ苦しめられるときが来ること、そして主ご自身がその戦いに圧倒的な勝利を得られること、そして、閉ざされた義の門が開かれる(19節)こと(詩篇24:7-10)、27節においての礼拝の姿を再開された祭りとして見ることができることなどから、再臨の様子を語る預言としてのゼカリヤ14章と一致していることがわかると思います。

主がこの地に来られる。主ご自身が力強い臨在を以て、一定の時代の地域や国に臨まれ人々の信仰を復興されるリバイバルということが起こるときも、この詩篇に見られる再臨の様相と同様なことが見られるでしょう。
なぜならば、私達キリストの教会は個々があらゆる時代、地域に遣わされて、一つのキリストの御体を建て上げるものでありますが、そうである以上その時代、地域、国おいて、罪が満ち、その罪が熟すとき、主が臨まれ正しく裁きを行われるという主の計画に私達は遭遇するでしょう。
まさしく終末の時代、大患難時代に起こることは世界中に罪が熟したときに起こるべきことですが、私達が遣わされた時代、地域においても、部分的にそのようなことが起こるのです。
そのときには、聖徒達は終末の預言と同様の現象が起こっていることを知り、今が終わりの時であると認識し、終末における神の計画が一日も早く成就するように祈りまたそのために生きていくでしょう。
こうして、主の計画はあらゆる時代あらゆる地域において押し進められ、主が再び来られる日が日一日近づけられていくのです。
それは主と聖徒達の共同作業。それが私達に与えられている聖徒としての役割ということができるでしょう。

主のリバイバルが近づくとき、戦いは激化する(1ペテロ5:8,9、黙示録12:12)ことでしょう。
偽りの預言は激しく、反キリスト達の自分こそはキリストを語っている現しているという働きは、聖徒達を偽りの道に導き、何が真理なのかすら混乱させられる自体も発生する(2テサロニケ4:3,4、2ペテロ3:3-13)でしょう。

【マタイ24:4-12】
24:4 そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。
24:6 また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
24:7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。
24:8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
24:9 そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。
24:10 そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。
24:11 また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。
24:12 また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。

でも、この詩篇はあらゆるときに一心に主のみを頼りとすることを語り、私達に希望を与えます。
ここに揺るぐことのない真理があり、決して変わらぬ望みがあるのです。
主を呼ぶ者に主は必ず答え、そして苦しめられ悩む者に、主はご自身が先立たれて戦い、その全てに圧倒的な勝利を得られる(ローマ8:31-39)のです。

【詩篇118:5-9】
118:5 わたしが悩みのなかから主を呼ぶと、主は答えて、わたしを広い所に置かれた。
118:6 主がわたしに味方されるので、恐れることはない。人はわたしに何をなし得ようか。
118:7 主はわたしに味方し、わたしを助けられるので、わたしを憎む者についての願いを見るであろう。
118:8 主に寄り頼むは人にたよるよりも良い。
118:9 主に寄り頼むはもろもろの君にたよるよりも良い。

大きな転換期を迎えようとするこの国は、その罪が熟し、滅びに向かういくつもの選択をサタンに魂を得るかのようにしていくでしょう。
それはすでに目に見える豊かさに魂を売ってきたこの国の避けようのない結論のように、迫ってくるでしょう。
私達がそこに終末の時代を見るときこそ、真の信仰が必要となるときです。
主の名を呼びましょう。
我らの主イエスキリスト「による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていない(使徒行伝4:12)」のですから。

【マタイ24:42】
24:42 だから、目をさましていなさい。いつの日にあなたがたの主がこられるのか、あなたがたには、わからないからである。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【エペソ2:20-22】
2:20 またあなたがたは、使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられたものであって、キリスト・イエスご自身が隅のかしら石である。
2:21 このキリストにあって、建物全体が組み合わされ、主にある聖なる宮に成長し、
2:22 そしてあなたがたも、主にあって共に建てられて、霊なる神のすまいとなるのである。

【1ペテロ2:4-9】
2:4 主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。
2:5 この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
2:6 聖書にこう書いてある、「見よ、わたしはシオンに、選ばれた尊い石、隅のかしら石を置く。それにより頼む者は、決して、失望に終ることがない」。
2:7 この石は、より頼んでいるあなたがたには尊いものであるが、不信仰な人々には「家造りらの捨てた石で、隅のかしら石となったもの」、
2:8 また「つまずきの石、妨げの岩」である。しかし、彼らがつまずくのは、御言に従わないからであって、彼らは、実は、そうなるように定められていたのである。
2:9 しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。

【ヨハネ2:19-22】
2:19 イエスは彼らに答えて言われた、「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。
2:20 そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。
2:21 イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。
2:22 それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。

【ゼカリヤ3:6-10】
3:6 主の使は、ヨシュアを戒めて言った、
3:7 「万軍の主は、こう仰せられる、あなたがもし、わたしの道に歩み、わたしの務を守るならば、わたしの家をつかさどり、わたしの庭を守ることができる。わたしはまた、ここに立っている者どもの中に行き来することを得させる。
3:8 大祭司ヨシュアよ、あなたも、あなたの前にすわっている同僚たちも聞きなさい。彼らはよいしるしとなるべき人々だからである。見よ、わたしはわたしのしもべなる枝を生じさせよう。
3:9 万軍の主は言われる、見よ、ヨシュアの前にわたしが置いた石の上に、すなわち七つの目をもっているこの一つの石の上に、わたしはみずから文字を彫刻する。そしてわたしはこの地の罪を、一日の内に取り除く。
3:10 万軍の主は言われる、その日には、あなたがたはめいめいその隣り人を招いて、ぶどうの木の下、いちじくの木の下に座すのである」。

【ゼカリヤ4:6-10】
4:6 すると彼はわたしに言った、「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。
4:7 大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前に平地となる。彼は『恵みあれ、これに恵みあれ』と呼ばわりながら、かしら石を引き出すであろう」。
4:8 主の言葉がわたしに臨んで言うには、
4:9 「ゼルバベルの手はこの宮の礎をすえた。彼の手はこれを完成する。その時あなたがたは万軍の主が、わたしをあなたがたにつかわされたことを知る。
4:10 だれでも小さい事の日をいやしめた者は、ゼルバベルの手に、下げ振りのあるのを見て、喜ぶ。これらの七つのものは、あまねく全地を行き来する主の目である」。

【詩篇24:7-10】
24:7 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
24:8 栄光の王とはだれか。強く勇ましい主、戦いに勇ましい主である。
24:9 門よ、こうべをあげよ。とこしえの戸よ、あがれ。栄光の王がはいられる。
24:10 この栄光の王とはだれか。万軍の主、これこそ栄光の王である。[セラ

【1ペテロ5:8,9】
5:8 身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。
5:9 この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。

【黙示録12:12】
12:12 それゆえに、天とその中に住む者たちよ、大いに喜べ。しかし、地と海よ、おまえたちはわざわいである。悪魔が、自分の時が短いのを知り、激しい怒りをもって、おまえたちのところに下ってきたからである」。

【2テサロニケ4:3,4】
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。

【2ペテロ3:3-13】
3:3 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、
3:4 「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。
3:5 すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、
3:6 その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。
3:7 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。
3:8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
3:9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
3:10 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。
3:11 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、
3:12 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。
3:13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。

【ローマ8:31-39】
8:31 それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。
8:32 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。
8:33 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。
8:34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

【ゼカリヤ14章】
14:1 見よ、主の日が来る。その時あなたの奪われた物は、あなたの中で分かたれる。
14:2 わたしは万国の民を集めて、エルサレムを攻め撃たせる。町は取られ、家はかすめられ、女は犯され、町の半ばは捕えられて行く。しかし残りの民は町から断たれることはない。
14:3 その時、主は出てきて、いくさの日にみずから戦われる時のように、それらの国びとと戦われる。
14:4 その日には彼の足が、東の方エルサレムの前にあるオリブ山の上に立つ。そしてオリブ山は、非常に広い一つの谷によって、東から西に二つに裂け、その山の半ばは北に、半ばは南に移り、
14:5 わが山の谷はふさがれる。裂けた山の谷が、そのかたわらに接触するからである。そして、あなたがたはユダの王ウジヤの世に、地震を避けて逃げたように逃げる。こうして、あなたがたの神、主はこられる、もろもろの聖者と共にこられる。
14:6 その日には、寒さも霜もない。
14:7 そこには長い連続した日がある(主はこれを知られる)。これには昼もなく、夜もない。夕暮になっても、光があるからである。
14:8 その日には、生ける水がエルサレムから流れ出て、その半ばは東の海に、その半ばは西の海に流れ、夏も冬もやむことがない。
14:9 主は全地の王となられる。その日には、主ひとり、その名一つのみとなる。
14:10 全地はゲバからエルサレムの南リンモンまで、平地のように変る。しかしエルサレムは高くなって、そのもとの所にとどまり、ベニヤミンの門から、先にあった門の所に及び、隅の門に至り、ハナネルのやぐらから、王の酒ぶねにまで及ぶ。
14:11 その中には人が住み、もはやのろいはなく、エルサレムは安らかに立つ。
14:12 エルサレムを攻撃したもろもろの民を、主は災をもって撃たれる。すなわち彼らはなお足で立っているうちに、その肉は腐れ、目はその穴の中で腐れ、舌はその口の中で腐れる。
14:13 その日には、主は彼らを大いにあわてさせられるので、彼らはおのおのその隣り人を捕え、手をあげてその隣り人を攻める。
14:14 ユダもまた、エルサレムに敵して戦う。その周囲のすべての国びとの財宝、すなわち金銀、衣服などが、はなはだ多く集められる。
14:15 また馬、途n、らくだ、ろば、およびその陣営にあるすべての家畜にも、この災のような災が臨む。
14:16 エルサレムに攻めて来たもろもろの国びとの残った者は、皆年々上って来て、王なる万軍の主を拝み、仮庵の祭を守るようになる。
14:17 地の諸族のうち、王なる万軍の主を拝むために、エルサレムに上らない者の上には、雨が降らない。
14:18 エジプトの人々が、もし上ってこない時には、主が仮庵の祭を守るために、上ってこないすべての国びとを撃たれるその災が、彼らの上に臨む。
14:19 これが、エジプトびとの受ける罰、およびすべて仮庵の祭を守るために上ってこない国びとの受ける罰である。
14:20 その日には、馬の鈴の上に「主に聖なる者」と、しるすのである。また主の宮のなべは、祭壇の前の鉢のように、聖なる物となる。
14:21 エルサレムおよびユダのすべてのなべは、万軍の主に対して聖なる物となり、すべて犠牲をささげる者は来てこれを取り、その中で犠牲の肉を煮ることができる。その日には、万軍の主の宮に、もはや商人はいない。

寄り頼む者には

2015年02月12日 12:24

【詩篇18:1-7】
18:1 わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。
18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
18:3 わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。
18:4 死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。
18:5 陰府の綱は、わたしを囲み、死のわなは、わたしに立ちむかいました。
18:6 わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました。
18:7 そのとき地は揺れ動き、山々の基は震い動きました。主がお怒りになったからです。

主に寄り頼むということを基盤とすることは如何に大きいことでしょうか。
神を味方とするということは何と心強いことでしょう。
つまり、そこにあるのは絶対者である神による、絶対的な守り、絶対的な勝利。人には、いやあらゆる被造物には手を出すことのゆるされない絶対的な領域に私達は入れられ、そこで完全な安息を受け取ることを、それは意味するのです。
そのとき、私達にあだした者を、主ご自身が怒られ、主ご自身が彼らと戦われるのです。
天地万物を創造され、今なおその天地万物をご自身によって保たれている神に敵して、滅びない存在は居ません。
そう、私達を取り巻くあらゆる敵から私達を絶対的に救うことができるのはこの方しかいないのです。

【ローマ8:31】
8:31 もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。

【イザヤ43:13】
43:13 「わたしは神である、今より後もわたしは主である。わが手から救い出しうる者はない。わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう」。

もしもあなたが恐れているとすれば、この事実を偽られているということです。
恐れが心を覆っているのは、何より神を恐れていないからと言えるでしょう。
恐るべき方がどのような方であるかを知らないでいる。あるいは絶対的存在である神を小さくしようとする偽りに惑わされ、それを心の中でそのままに放置しているに過ぎません。
あくまでそれらは偽りです。

【マタイ10:28】
10:28 また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。

あるいはこの絶対的存在である神が私達をどれほどに愛しているかということを忘れてしまっているのです。
実に、この方、主イエスキリストはご自身の命をも私達に与えるほどに私達を愛しておられるからこそ、私達はこの方の愛によって、あらゆることに、この方の絶対的な勝利をもって、圧倒的な勝ちを得て、さらに余りあるほどなのです。
そしてこの方の力強い完全なる愛は、私達から絶対的に離れることは永遠になく、私達はこの主の愛の中に、永遠に勝利者として生きるのです。

【ローマ8:35-39】
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、死に定められており、ほふられる羊のように見られている」と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。

この絶対的勝利者、唯一の神である方の私への愛、十字架を見上げて、どうしてなお恐れる必要があるでしょう。
この十字架こそ、「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか(1コリント15:55)」と全てを勝利に飲み込み、全ての被造物を待ち受ける死すら勝利に飲み込んだもの。
主はこれを全世界の中心で成し遂げ全てに勝利を得られたのであり、その事実こそが私達への愛に他ならないのです。
そうです。主は私を愛する故、全世界の中心で全てのものに絶対的勝利を得てくださったのです。

【1ヨハネ4:9,10,16-18】
4:9 神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。
4:10 わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある。
 [中略]
4:16 わたしたちは、神がわたしたちに対して持っておられる愛を知り、かつ信じている。神は愛である。愛のうちにいる者は、神におり、神も彼にいます。
4:17 わたしたちもこの世にあって彼のように生きているので、さばきの日に確信を持って立つことができる。そのことによって、愛がわたしたちに全うされているのである。
4:18 愛には恐れがない。完全な愛は恐れをとり除く。恐れには懲らしめが伴い、かつ恐れる者には、愛が全うされていないからである。

あなたの目は何を見ているでしょうか。
あなたを恐れさせる現実ですか?問題ですか?敵ですか?
それとも、あなたへの永遠の愛、主イエスキリストの十字架ですか?

もう一度、あなたの見つめている先が何なのかを考えてみてください。
恐れという偽りは、この唯一の真実なる方の愛によって、消え失せるでしょう。
それが主を恐れるという真実です。

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