よみがえりの信仰

2015年03月07日 11:56

【2コリント4:8-11】
4:8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
4:9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
4:11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。

もしも私達の毎日の信仰の歩みが、自分の力で積み上げられたものであるのであれば、それは非常に虚しいものとなるでしょう。
それがどれほど一生懸命であったとしても、自分の努力によって建てた信仰は、自分の力以上の現実に出会うとき脆くも崩れる弱いものとなり、それまでの努力のゆえにむしろ虚しさを思うものとなるでしょう。
しかし、私達の信仰の中心はよみがえられた救い主イエスキリストにあるのです。
このよみがえりに希望があるのです。このよみがえられた方、主イエスのいのちが私の中に圧倒的な力となってよみがえる。
だからこそ、人知を超えたレベルで、私達を囲む全ての私達を死につけようとするものは、主イエスの死と共に葬られ、その全てを超えて私達はあらゆる状況からよみがえるのです。
誰がこのことを想像し得たでしょうか。死をも超える信仰があるということを。
死の先にさえ希望があるなどと言うことを有史以来、語る者など誰かあったでしょうか?
しかし主イエスご自身がこう語られているのです。

【ヨハネ11:25,26】
11:25 「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
11:26 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。

あなたはこの方を信じているのです。
もしも、この方を信じるというのであっても、この方のよみがえりを我が事として受け入れ信じないのであれば、その信仰は先にお話した通り虚しいものです。

【1コリント15:16-22】
15:16 もし死人がよみがえらないなら、キリストもよみがえらなかったであろう。
15:17 もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
15:18 そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
15:19 もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
15:20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。
15:21 それは、死がひとりの人によってきたのだから、死人の復活もまた、ひとりの人によってこなければならない。
15:22 アダムにあってすべての人が死んでいるのと同じように、キリストにあってすべての人が生かされるのである。

死を超える圧倒的な希望を持てる、この信仰にこそ、あらゆる状況を超え、世界を超え、時代を超えて、勝利者として歩んできたクリスチャンの真の姿があるのです。
よみがえりの主イエスキリストを信じる者に絶望はありません。死もありません。

【黙示録21:4,5】
21:4 人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。
21:5 すると、御座にいますかたが言われた、「見よ、わたしはすべてのものを新たにする」。

この方に全てをゆだねたとき、その信仰は自分の力で積み上げようとしたものをはるかに超えて、豊かに堅固なものとなるのです。
信仰は学びでも努力でもなく、最初から与えられている主イエス、よみがえりであり、命なのです。
あなたは主イエスのよみがえりを信じますか?
あなたの中に主イエスは今生きています。