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主の眼差しを忘れない

2015年05月27日 18:41

【詩編94:3】
94:3 主よ、悪しき者はいつまで、悪しき者はいつまで勝ち誇るでしょうか。
94:4 彼らは高慢な言葉を吐き散らし、すべて不義を行う者はみずから高ぶります。
94:5 主よ、彼らはあなたの民を打ち砕き、あなたの嗣業を苦しめます。
94:6 彼らはやもめと旅びとのいのちをうばい、みなしごを殺します。
94:7 彼らは言います、「主は見ない、ヤコブの神は悟らない」と。
94:8 民のうちの鈍き者よ、悟れ。愚かな者よ、いつ賢くなるだろうか。
94:9 耳を植えた者は聞くことをしないだろうか、目を造った者は見ることをしないだろうか。
94:10 もろもろの国民を懲らす者は罰することをしないだろうか、人を教える者は知識をもたないだろうか。
94:11 主は人の思いの、むなしいことを知られる。
94:12 主よ、あなたによって懲らされる人、あなたのおきてを教えられる人はさいわいです。
94:13 あなたはその人を災の日からのがれさせ、悪しき者のために穴が掘られるまでその人に平安を与えられます。
94:14 主はその民を捨てず、その嗣業を見捨てられないからです。
94:15 さばきは正義に帰り、すべて心の正しい者はそれに従うでしょう。
94:16 だれがわたしのために立ちあがって、悪しき者を責めるだろうか。だれがわたしのために立って、不義を行う者を責めるだろうか。

人は悪い事をするとき、人前で見られるように正々堂々とする人はいません。
悪い事は人の目を盗んでします。
それは本人が悪い事をしているという罪の意識を持って行っているからに他なりません。
しかし、ここで一つ重要な事実が欠けいます。人の目を盗めても神の目を盗むことはできないということです。
神は私達が何をしているのか一刻一秒その目が離れることはありません。
ですから、もちろん善い事を行うにしても、何にしても神の目は私達から離れることはないのです。
このことを認識することはとても大きいことです。
なぜなら、人はこの神の目から隠れるということから、罪人として神から離れて生きようとする歩みが始まるからです。

【創世記3:6-11】
3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
3:7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
3:9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
3:10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
3:11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。

ここに罪の本質が現れています。
自らを見て罪人であることを知るのであれば、いつくしみ豊かであわれみ深い主に、あわれみを求め、その罪からの救いを求めるため主に近づけば良かったのです。
しかし、その罪を隠し、さらに神に隠しおおせないことを知って、神ご自身から身を隠したのです。
神と共にエデンの園で何不自由なく暮らしていた人が、罪が人に入った瞬間から、神から隠れよう、離れようとする者となったのです。
つまりこれは、自分の罪を神の前に自分で何とかしようとしたからに他なりません。
そして、完全なる聖であられる方の前に、人の汚れた罪は神の光の前に照らし出される。神は罪人を裁かれざるを得ない。だから、人は神の前から隠れ離れようとしたのです。
この罪そのものを、本来なら神の前に出て、神のあわれみにあって赦しを請えばよかったのです。
しかし、残念ながらそれ以来人は神の目を盗もうと試みます。そうして神から背を向け離れたところで、人は罪を重ねます。
全てが神の前に明らかであるという事実を知らない愚かさを、罪を犯そうとする人は知りません。
この愚かさが罪を重ね続ける人には致命傷なのです。
なぜなら、この罪を重ねる者を主は忍耐されているに過ぎませんが、主はその罪をそのまま捨て置かれることはないからです。

【ヨブ34:19-30】
34:19 神は君たる者をもかたより見られることなく、富める者を貧しき者にまさって顧みられることはない。彼らは皆み手のわざだからである。
34:20 彼らはまたたく間に死に、民は夜の間に振われて、消えうせ、力ある者も人手によらずに除かれる。
34:21 神の目が人の道の上にあって、そのすべての歩みを見られるからだ。
34:22 悪を行う者には身を隠すべき暗やみもなく、暗黒もない。
34:23 人がさばきのために神の前に出るとき、神は人のために時を定めておかれない。
34:24 彼は力ある者をも調べることなく打ち滅ぼし、他の人々を立てて、これに替えられる。
34:25 このように、神は彼らのわざを知り、夜の間に彼らをくつがえされるので、彼らはやがて滅びる。
34:26 彼は人々の見る所で、彼らをその悪のために撃たれる。
34:27 これは彼らがそむいて彼に従わず、その道を全く顧みないからだ。
34:28 こうして彼らは貧しき者の叫びを彼のもとにいたらせ、悩める者の叫びを彼に聞かせる。
34:29 彼が黙っておられるとき、だれが非難することができようか。彼が顔を隠されるとき、だれが彼を見ることができようか。一国の上にも、一人の上にも同様だ。
34:30 これは神を信じない者が世を治めることがなく、民をわなにかける事のないようにするためである。

「主は見ない」「神は悟らない」(7節)と罪を重ね続ける者は神の忍耐を侮り、神を試み続け、燃える炭火を自らの頭に積み、神の怒りを自らの身に招いていることを知らないのです。
確かに生まれながらに神を知らない者なら、このような愚かなことを知らずに重ねていくことでしょう。
しかし、主を知り、主のものとされたクリスチャンが罪を重ね続けるのであれば、それは主の裁きを免れることはないのです。
勘違いをしてはなりません。
主に救われ一度その罪を赦された者は、罪を犯し続けることができないようになるのです。
なぜなら、その内から神の聖霊が働き、罪責感に罪を犯していることを知り、必ず罪を悔い改めて、続けて罪を犯し続ける歩みに進まないからです。
しかし、それを全て退け罪を犯し続ける者は神にあるものではなくなって行くことを、恐ろしい現実として知るべきなのです。
神はクリスチャンであるから何をしても赦してくれると、何をしても良いのだと、「主は見ない」「神は悟らない」(7節)と生きることは、自ら裁かれる者の道、滅びの道、サタンの道へと歩みを進めているのです。

【1ヨハネ3:1-10】
3:1 わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜わったことか、よく考えてみなさい。わたしたちは、すでに神の子なのである。世がわたしたちを知らないのは、父を知らなかったからである。
3:2 愛する者たちよ。わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。
3:3 彼についてこの望みをいだいている者は皆、彼がきよくあられるように、自らをきよくする。
3:4 すべて罪を犯す者は、不法を行う者である。罪は不法である。
3:5 あなたがたが知っているとおり、彼は罪をとり除くために現れたのであって、彼にはなんらの罪がない。
3:6 すべて彼におる者は、罪を犯さない。すべて罪を犯す者は彼を見たこともなく、知ったこともない者である。
3:7 子たちよ。だれにも惑わされてはならない。彼が義人であると同様に、義を行う者は義人である。
3:8 罪を犯す者は、悪魔から出た者である。悪魔は初めから罪を犯しているからである。神の子が現れたのは、悪魔のわざを滅ぼしてしまうためである。
3:9 すべて神から生れた者は、罪を犯さない。神の種が、その人のうちにとどまっているからである。また、その人は、神から生れた者であるから、罪を犯すことができない。
3:10 神の子と悪魔の子との区別は、これによって明らかである。すなわち、すべて義を行わない者は、神から出た者ではない。

主は義なる方です。
この神の義により、天地万物は保たれ、統べ治められているのです。
この義は全ての者に対して公正です。
同時に主は愛なる方です。
ですから、この義の前に私達の罪が照らし出されても、主にあわれみを請い、その罪を悔い改めるのであれば、神の愛と義の交点である十字架の愛と神の義により、私達は罪をゆるされ、また新たにされて、罪から離れ、神のものとしての歩みを新たにすることができるのです。

私達は愚かな者とならないためにこの神の義にある厳粛な事実を忘れてはなりません。

【箴言15:3】
15:3 主の目はどこにでもあって、悪人と善人とを見張っている。

そして、この主の目に、主を喜ばせる者として生きることを私達は望もうではありませんか。
主の目から隠れて行うことに何の得も存在しません。ただそこには滅びへの道が口を広げて待っているに過ぎないのですから。
主はいつでも私達が滅びに向かうことを望んでいません。
今なお神の前に罪を犯し続けている兄弟姉妹がいるのであれば、主の前に悔い改めて罪の赦しを受けようではありませんか。

【エゼキエル33:10】
33:10 それゆえ、人の子よ、イスラエルの家に言え、あなたがたはこう言った、『われわれのとがと、罪はわれわれの上にある。われわれはその中にあって衰えはてる。どうして生きることができようか』と。
33:11 あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。

【イザヤ55:6,7】
55:6 あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。
55:7 悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。

【1ヨハネ1:5-10】
1:5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
1:6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。
1:7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
1:10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。

わたしの神

2015年05月21日 21:35

【イザヤ41:10(新改訳)】
41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

私達が主に救われクリスチャンとして生きていく全ての過程が、全く平穏なものであったら確かにどれほど楽なことでしょう。
しかし、主は私達に「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。(ヨハネ15:18,19)」と語っておられるように、私達は世にあっては憎まれます。
世にあっては患難にあう(ヨハネ16:33)という、残念ながら私達には望ましくない環境の中に生きています。
ですから、私達は目の前の現実の厳しさに恐れ、私達に仇する敵の強さに震え、孤独に膝を抱え、言いようのない不安に襲われる日々もあるかも知れません。
しかし主は「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。」と、
もう恐れなくていい、全ての不安を捨て、力強く立ち上がるための理由の全てを、「わたしは有る(出エジプト3:14)」と言われる全ての被造物の根源であられる主ご自身の存在そのものを指して、ともにいるからと言われるのです。
天地万物を造られ、永遠にこの全てを統べ治められる、「わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。(黙示録21:6)」と言われる神であられる方が、ご自身をもって「あなたの神だから」という理由で、あらゆる現実に、もう心揺らし、心を奪われなくてもいいと、語られているのです。
私達の力で強くなれというのではありません。
「わたしはあなたを強め、あなたを助け、」と、神は弱き私達に、主ご自身の大能の力を注がれ、私達を圧倒的に強め、助けられるのです。
「わたしの義の右の手で、あなたを守る。」と、全地を支え、裁き、統べ治められる、神の義の、完全なる勝利者である方の右の手が動き、私達をあらゆることから絶対的に守られ、絶対的に支えると力強く宣言されているのです。

さあ、だから現実を嘆くのを止めましょう。
自分の小ささ、弱さを悲しむのではなく、この方を私の神であると誇れることを喜びましょう。
この信仰を与えられたことがどれほど大きく価値のあることなのか、どれほど得難い、ただ神のあわれみだけにより与えられた恵みであるのか、その奇跡に、主に感謝をささげましょう。
これほど私達に近く居られ、これほどに愛を注いでくださる神に、心からの信仰をもって寄り頼み、日々、ひとときひととき、祈りましょう。

そうです。主はそのように生きることを私達に求め、また心から喜ばれるのですから。

【1テサロニケ5:16-18】
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヨハネ16:33(新改訳)】
16:33 あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

【出エジプト3:13-15】
3:13 モーセは神に言った、「わたしがイスラエルの人々のところへ行って、彼らに『あなたがたの先祖の神が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と言うとき、彼らが『その名はなんというのですか』とわたしに聞くならば、なんと答えましょうか」。
3:14 神はモーセに言われた、「わたしは、有って有る者」。また言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい、『「わたしは有る」というかたが、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と」。
3:15 神はまたモーセに言われた、「イスラエルの人々にこう言いなさい『あなたがたの先祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である主が、わたしをあなたがたのところへつかわされました』と。これは永遠にわたしの名、これは世々のわたしの呼び名である。

バランス栄養食

2015年05月19日 18:54

食事をするにも、健康を考えてバランスの良い食事をするのは、ちょっと大変です。
炭水化物や糖質の量に気をつけたり、脂質や塩分を取りすぎないように気を配ったり、タンパク質もビタミン、ミネラルも、大切ですし、野菜も必要量を食べないとなどと考えると切りがない気がしてきます。
バランスの良い、完全な食事というのは一体どういうものなのか?

さて、私達を日々霊的に養う神の御言葉はまさに完全食です。

【詩編19:7-10】
19:7 主のおきては完全であって、魂を生きかえらせ、主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
19:8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。
19:9 主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。

私達を永遠に生かすのに完全なバランスを持っています。
信仰者はこの完全なる神の御言葉以上に信仰に必要なものは存在しません。

【2テモテ3:15-17】
3:15 また幼い時から、聖書に親しみ、それが、キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、あなたに与えうる書物であることを知っている。
3:16 聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。
3:17 それによって、神の人が、あらゆる良いわざに対して十分な準備ができて、完全にととのえられた者になるのである。

世の信仰書などの中には、確かに何か信仰の近道や抜け道があるようにあるいは何か特別な得する道があるかのように語られている教えも存在しています。
しかし聖書をそのまま真っ直ぐに読むのであれば、この御言葉こそ神の愛が注ぎ尽くされておりまさに命そのものであり、どこも除くことの出来ない、ショートカットなどの存在しないもの、余計に何かを付け足し、人の心を惑わすことのゆるされない神聖なる御言葉なのです。

【申命記4:1,2】
4:1 イスラエルよ、いま、わたしがあなたがたに教える定めと、おきてとを聞いて、これを行いなさい。そうすれば、あなたがたは生きることができ、あなたがたの先祖の神、主が賜わる地にはいって、それを自分のものとすることができよう。
4:2 わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、主の命令を守ることのできるためである。

【黙示録22:18,19】
22:18 この書の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれに書き加える者があれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる。
22:19 また、もしこの預言の書の言葉をとり除く者があれば、神はその人の受くべき分を、この書に書かれているいのちの木と聖なる都から、とり除かれる。

私達は何を内に入れるよりも、まずこの神の御言葉なる聖書そのものを読み、その御言葉を基に信仰生活を送る必要があります。
大切に大切に主との間に、この愛溢れる御言葉によって育まれる必要があるのです。

【1ペテロ1:23-2:2】
1:23 あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。
1:24 「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。
1:25 しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。
2:1 だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、
2:2 今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。

いかがでしょうか?
今日あなたはこの聖書を広げ、あなたの生活に最も必要な完全食を採りましたか?
今日の御言葉は今日生きるためのもの、昨日や一昨日の貯金では今日を生きれません。
さあ、一緒に聖書を読みましょう。

一人カラオケ

2015年05月18日 18:42

街中を歩いていると、ときどき一人で歩いているにも関わらず、「カラオケいかがですか」何て声をかけられることがあります。
一人でカラオケをするのが楽しいのかどうかということはさておき、音楽と文化の行く末がどちらに向かっていくのだろうと考えていました。

聖書において、音楽はどこから始まっているのかということを見ると、

【ヨブ38:4-7】
38:4 わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。
38:5 あなたがもし知っているなら、だれがその度量を定めたか。だれが測りなわを地の上に張ったか。
38:6 その土台は何の上に置かれたか。その隅の石はだれがすえたか。
38:7 かの時には明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわった。

と語られていることからわかるように、音楽は天地創造の時には天において存在し、それはまさしく賛美であったことがわかります。
黙示録に描かれる天の賛美は、天の御国が永遠のものであるからこそ永遠のものであり、つまりは永遠の始まりから、天地万物の創造の時にももちろん、神への賛美は天においては永遠に続いていたと言えますから、音楽の起源は神への賛美であるということができるのです。
わかりやすく言えば、音楽は神を賛美するために生まれたということがわかります。

ところが、同時に聖書は人間の音楽と文化の起源について、

【創世記】
4:16 カインは主の前を去って、エデンの東、ノドの地に住んだ。
4:17 カインはその妻を知った。彼女はみごもってエノクを産んだ。カインは町を建て、その町の名をその子の名にしたがって、エノクと名づけた。
4:18 エノクにはイラデが生れた。イラデの子はメホヤエル、メホヤエルの子はメトサエル、メトサエルの子はレメクである。
4:19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダといい、ひとりの名はチラといった。
4:20 アダはヤバルを産んだ。彼は天幕に住んで、家畜を飼う者の先祖となった。
4:21 その弟の名はユバルといった。彼は琴や笛を執るすべての者の先祖となった。
4:22 チラもまたトバルカインを産んだ。彼は青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者となった。トバルカインの妹をナアマといった。
4:23 レメクはその妻たちに言った、「アダとチラよ、わたしの声を聞け、レメクの妻たちよ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしは受ける傷のために、人を殺し、受ける打ち傷のために、わたしは若者を殺す。
4:24 カインのための復讐が七倍ならば、レメクのための復讐は七十七倍」。
4:25 アダムはまたその妻を知った。彼女は男の子を産み、その名をセツと名づけて言った、「カインがアベルを殺したので、神はアベルの代りに、ひとりの子をわたしに授けられました」。
4:26 セツにもまた男の子が生れた。彼はその名をエノスと名づけた。この時、人々は主の名を呼び始めた。

と語られ、カインの家系はその罪の性質の色濃さから、自らの力を誇る者達であり、神はこの家系を喜ばず、カインの代わりにセツの家系をアダムとエバから新しく生み出し、彼らの家系から始めて「この時、人々は主の名を呼び始めた(26節)」のであり、神を崇めほめたたえることがここまで人になかったことがわかるのです。
その経緯から考えれば、カインの家系には人間の文化の生まれていく姿が語られています(20-22節)が、この文化が人間の力により、人間のために生み出されたものであり、また同様にその音楽の起源が人の心を喜ばすものとして誕生したと思われます。
しかし、神から離れ人の自力によって生きることを選んだ彼らの末路は、

【創世記6:5-7】
6:5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
6:6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
6:7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。

とある通り、裁きへの道へと進み、ノアの時の洪水によって全て滅ばされてしまいました。
一説にはサタンは神への賛美を司っていた最も位の高かった天使が、自らを誇り(賛美し)、神に対決し、堕天したものであると言われていますから、音楽を自らを満足させるためのものとすることがいかに罪深いものであるかということが理解できるでしょう。

さて私達が今囲まれている文化はこのままどこに向かって進んでいくことでしょう。
小さなこの国の変化にも、神のあわれみを願い求めざるを得ない。
そんな思いで今日も人溢れる街中に足を止め祈らされるのです。

【エゼキエル28:1-19】
28:1 主の言葉がわたしに臨んだ、
28:2 「人の子よ、ツロの君に言え、主なる神はこう言われる、あなたは心に高ぶって言う、『わたしは神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と。しかし、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない。
28:3 見よ、あなたはダニエルよりも賢く、すべての秘密もあなたには隠れていない。
28:4 あなたは知恵と悟りとによって富を得、金銀を倉にたくわえた。
28:5 あなたは大いなる貿易の知恵によってあなたの富を増し、その富によってあなたの心は高ぶった。
28:6 それゆえ、主なる神はこう言われる、あなたは自分を神のように賢いと思っているゆえ、
28:7 見よ、わたしは、もろもろの国民の最も恐れている異邦人をあなたに攻めこさせる。彼らはつるぎを抜いて、あなたが知恵をもって得た麗しいものに向かい、あなたの輝きを汚し、
28:8 あなたを穴に投げ入れる。あなたは海の中で殺された者のような死を遂げる。
28:9 それでもなおあなたは、『自分は神である』と、あなたを殺す人々の前で言うことができるか。あなたは自分を傷つける者の手にかかっては、人であって、神ではないではないか。
28:10 あなたは異邦人の手によって割礼を受けない者の死を遂げる。これはわたしが言うのであると、主なる神は言われる」。
28:11 また主の言葉がわたしに臨んだ、
28:12 「人の子よ、ツロの王のために悲しみの歌をのべて、これに言え。主なる神はこう言われる、あなたは知恵に満ち、美のきわみである完全な印である。
28:13 あなたは神の園エデンにあって、もろもろの宝石が、あなたをおおっていた。すなわち赤めのう、黄玉、青玉、貴かんらん石、緑柱石、縞めのう、サファイヤ、ざくろ石、エメラルド。そしてあなたの象眼も彫刻も金でなされた。これらはあなたの造られた日に、あなたのために備えられた。
28:14 わたしはあなたを油そそがれた守護のケルブと一緒に置いた。あなたは神の聖なる山にいて、火の石の間を歩いた。
28:15 あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日まではそのおこないが完全であった。
28:16 あなたの商売が盛んになると、あなたの中に暴虐が満ちて、あなたは罪を犯した。それゆえ、わたしはあなたを神の山から汚れたものとして投げ出し、守護のケルブはあなたを火の石の間から追い出した。
28:17 あなたは自分の美しさのために心高ぶり、その輝きのために自分の知恵を汚したゆえに、わたしはあなたを地に投げうち、王たちの前に置いて見せ物とした。
28:18 あなたは不正な交易をして犯した多くの罪によってあなたの聖所を汚したゆえ、わたしはあなたの中から火を出してあなたを焼き、あなたを見るすべての者の前であなたを地の上の灰とした。
28:19 もろもろの民のうちであなたを知る者は皆あなたについて驚く。あなたは恐るべき終りを遂げ、永遠にうせはてる」。

日差しが強くて

2015年05月15日 20:11

ついこの間まで、「寒い。寒い。早く暖かくなって欲しい」と春を願い、やがて春が来て、もう暑さが来たと言う季節になって来ました。
人はわがままなものですね。
自分の都合でいろいろ思いが変わって、自分勝手な事情を振り回し始める。
みんなそのようなものですが、神の思いを置き去りにしてまで、自分の都合を申し上げていたりする自分の姿を見せられると、何と自分は自己中心的な罪深い者であろうかと、悔い改める次第です。
日々の生活、自分の思い、あるいは自分の考えや、自分勝手な正義感を振り回すことがあったり、以外と神よりも自分に埋没して生きている。
そんな生活を気がつかずに続けて、いかに神の深い思いを忘れ去って生きていることでしょうか。

【ヨナ4:5-11】
4:5 そこでヨナは町から出て、町の東の方に座し、そこに自分のために一つの小屋を造り、町のなりゆきを見きわめようと、その下の日陰にすわっていた。
4:6 時に主なる神は、ヨナを暑さの苦痛から救うために、とうごまを備えて、それを育て、ヨナの頭の上に日陰を設けた。ヨナはこのとうごまを非常に喜んだ。
4:7 ところが神は翌日の夜明けに虫を備えて、そのとうごまをかませられたので、それは枯れた。
4:8 やがて太陽が出たとき、神が暑い東風を備え、また太陽がヨナの頭を照したので、ヨナは弱りはて、死ぬことを願って言った、「生きるよりも死ぬ方がわたしにはましだ」。
4:9 しかし神はヨナに言われた、「とうごまのためにあなたの怒るのはよくない」。ヨナは言った、「わたしは怒りのあまり狂い死にそうです」。
4:10 主は言われた、「あなたは労せず、育てず、一夜に生じて、一夜に滅びたこのとうごまをさえ、惜しんでいる。
4:11 ましてわたしは十二万あまりの、右左をわきまえない人々と、あまたの家畜とのいるこの大きな町ニネベを、惜しまないでいられようか」。

神の思いは、私の自己都合で思いがいっぱいのこの瞬間にも、あわれみ深く、神を知らずに滅び行こうとする多くの人々に向けられているのです。
それは私達自身が神を知らず、罪に汚れ、滅びにまっしぐらに進んでいた私達に、ご自身の命の全てを注いでまで愛してくださった、それと何ら変わらぬ同じ思いで、今にも滅びに死に行こうとする者を、このときも刻一刻とあわれんでおられるのです。
私は主の渇きを、主の涙を、はらわた裂かれるほどに痛まれている主の思いを、置き去りにして来たのです。

だから、少しでも主と一つ心で、この思いを担いたいと願うのです。
確かに私達はこれほど小さく弱くはあるのですが。

小さい者への大きな望み

2015年05月13日 21:52

【マタイ12:15-22】
12:14 パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。
12:15 イエスはこれを知って、そこを去って行かれた。ところが多くの人々がついてきたので、彼らを皆いやし、
12:16 そして自分のことを人々にあらわさないようにと、彼らを戒められた。
12:17 これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、
12:18 「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。
12:19 彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。
12:20 彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。
12:21 異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。
12:22 そのとき、人々が悪霊につかれた盲人のおしを連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。

私達のイエス様は何ともあわれみ深くいつくしみ豊かな方。
私達が苦しみ悩む姿を見て、それを決して見捨てるようなことはなさいません。
世は弱き者を見捨て、小さい者を踏みにじるかも知れません。
しかしイエス様は人知れない所で苦しむ者に自ら近づかれ、病の者を癒し、悪霊に憑かれる者から悪霊を退け、光を失い闇の中に居る盲人に光を与え、しかしそのいずれをも、この弱き者達を傷つけることのないように、心挫けることのないように、「いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない(20節)」ように、何よりも私達を愛するゆえに御業を成し、静かに私達に寄り添い、立ち上がらせてくださるのです。
主の正義はすでに十字架にあって私達の内に完全なる勝利を得させてくださいましたが、私達がその勝利を確信し、主の正義にあって力強く立てるようになるまで、弱い私達に寄り添ってくださるのです。
自らの力や知恵を誇り、強く大きな者達が、奪い取るように得る勝利などそこにはなく、むしろそのような者には、この世の最も低い場所、小さき場所、暗い場所、醜い場所、汚い場所、罪深き場所、この世においては決して日の目を見ないような場所を歩まれた、心優しき救い主に出会うことはないでしょう。
だからこそ、この小さき弱い者にご自身の完全なる勝利を現そうとされるのです。
自ら完全なる者あるいは完全になろうとする者には十字架は必要ありません。
いやむしろ欠けだらけの私達に、その弱さの中に主はご自身の栄光を現されるのです。

【2コリント12:9,10】
12:9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

だから、今主の前に、自らの力で、知恵で、強い者、賢い者、優れた者のように立つ必要がないことを知りましょう。
失敗のない、傷のない、欠けのない者のように、優等生の信仰者でなければならないような幻想に捕らわれ、自らの罪を、弱さを、傷を、悩みを、主に隠して御前に立つことを脇に置きましょう。
主の前に私達は自らを飾るのではなく、裸で(聖書においては「全き者として」と表現されています。その全てを最も正直にさらけ出し神の御前に出る者として)私達の欠けを弱さを持って、主の前に出ましょう。
主はそこにご自身のあわれみといつしみを注ぎ、果てしなく愛して、ご自身の栄光を現し、この主によって私達は強い者、完全なる勝利者とされるでしょう。

さあ、主は今弱いあなたに近づき寄り添われます。主の愛なる御手に安心して身をゆだねましょう。

救い主を見る

2015年05月12日 21:02

【哀歌3:18-33】
3:18 そこでわたしは言った、「わが栄えはうせ去り、わたしが主に望むところのものもうせ去った」と。
3:19 どうか、わが悩みと苦しみ、にがよもぎと胆汁とを心に留めてください。
3:20 わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる。
3:21 しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。
3:22 主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。
3:23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。
3:24 わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。
3:25 主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
3:26 主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。
3:27 人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。
3:28 主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。
3:29 口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。
3:30 おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。
3:31 主はとこしえにこのような人を捨てられないからである。
3:32 彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。
3:33 彼は心から人の子を苦しめ悩ますことをされないからである。

人生が順境の時、毎日が平穏なときに、心に平安を得ることは容易いことでしょう。
しかし、逆境の中で平安を得るからこそ、主の与えてくださる平安はこの世が与えるものとは根底的に異なる(ヨハネ14:27)のです。
人は苦しみの中で、多くのことを考えます(18-20節)。
絶望的な未来、神への疑問、不平、自らの手でいかにその苦しみから這い出るかなどなど、数え上げたら切りがない程、自問自答や神への言葉を並べるでしょう。
もちろん祈ることを退けていなかったとしても。
しかし、それらのことが私達に何か役に立つような答えをもたらすことはないでしょう。
人は神を信じられないなら、偽りの言葉に翻弄され、本当の絶望からの出口、主への希望を見失ってしまうからです。
いや、逆の意味で言うのであれば、主を信じる者にはいついかなる時にも希望がある(21節)のです。

「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。(22節)」

神の愛なる方であることを忘れないことは、私達の原点です。
この主の愛が私達にご自身の命をも与えてくださるほどに注がれていることを思い出してください。そのことを信じる者には、主は愛をもって今私達に臨んでくださること知るでしょう。

「これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。(23節)」

神は真実なる神です。神はご自身の義によって、全世界を治め、保ち、さばかれる方(申命記32:4、詩篇96:10-13)。この方の義がなければ全世界は跡形もなく一瞬にして滅びるでしょう。
だからこそ、神はその義を決して曲げることはなく、ですからこの方の大いなる真実によって立つ者は、この方により日々新しくされ、よみがえりを得るのです。
まさにその神の義こそ、主の十字架にあって私達に現されたもの(2コリント5:21)。
その神の義による、十字架の死とよみがえりによって、私達は全てが新しくなった(なり続けている)のです(2コリント5:17)。

そして、この苦しみは、この悩みは、この逆境は決して無駄なものではありません(27-30節)。私達はここにおいて重要なことを知るのです。

【哀歌3:24-26】
3:24 わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。
3:25 主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
3:26 主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。

この苦しみにおいて、私達は主の他に何一つ与えられているもの(私のもの)はなく、しかしこの方こそ私の全てであられる方、つまり私の唯一となられる方(申命記6:4,5)、全てを満たされる方であることを知り(ローマ8:32)、この方を、この方の救いを待ち望むのです。

決して主に救いが遅くなることも、見捨てられることもありません(31-33節)。
なぜなら、この方は私達が神に見捨てられる者とならないために、ご自身が神に見捨てられた者となったのだからです。

【マタイ27:45,46】
27:45 さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。
27:46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

この哀歌はバビロンに捕囚され、エルサレムが飢饉と疫病の中、バビロンの兵に虐殺され、焼き尽くされていく、絶望的な苦しみの中で、歌われたものです。
そして、その中でさえ、いやその中だからこそ、この歌の筆者(多くは預言者エレミヤと言われていますが)は、後の日の救い主イエスキリストの真の救いを祈りの内に見ることができたと言えるでしょう。
苦しみは我らの主がただ真実に唯一なる救い主であることを深く知らしめ、そこに根ざす、いかなる状況においても揺るぐことのない、真の希望を私達に得させるのです。
そうです。私達にはすでに与えられているのです。
私達の呼ぶべき唯一の、私達に救いを得させる方の名を。

【使徒行伝4:11,12】
4:11 このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。
4:12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

今苦しみの中にあるなら、この方の名を呼びましょう。
この方の救いのいかに愛に満ちているかを、その祈りの内に、そしてこの後あなた自身の上に現される主のあわれみ深い御業の内に、深く知るために。

【エペソ3:16-21】
3:16 どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、
3:17 また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
3:18 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
3:19 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
3:20 どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、
3:21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヨハネ14:27】
14:27 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。

【申命記32:4】
32:4 主は岩であって、そのみわざは全く、その道はみな正しい。主は真実なる神であって、偽りなく、義であって、正である。

【詩篇96:10-13】
96:10 もろもろの国民の中に言え、「主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は公平をもってもろもろの民をさばかれる」と。
96:11 天は喜び、地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、
96:12 田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。そのとき、林のもろもろの木も主のみ前に喜び歌うであろう。
96:13 主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。

【2コリント5:21】
5:21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

【2コリント5:17】
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

【申命記6:4,5】
6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。

【ローマ8:32】
8:32 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。

嵐がやって来ると

2015年05月11日 20:06

まだ5月なのにもう台風が来るなんてと驚かれている方多いでしょうか。
思いもよらず、嵐に見舞われてしまう。
人生にもそんなことが時としてあるでしょう。
何が原因なのかそれすらわからないまま、でもこの嵐に向き合わなければならない。
明日すらわからない嵐。
まったく人生において、そういうことに出くわすことはないと言い切れる人は一人もいないでしょう。
ならば、その嵐の越え方を知っているか、知っていないかで、生き方が変わると言うものです。
さて、その問題に対しても聖書は明確に私達に答えを多くの箇所で与えています。
では、そんな中のある箇所を見てみましょう。

【詩篇107:23-31】
107:23 舟で海にくだり、大海で商売をする者は、
107:24 主のみわざを見、また深い所でそのくすしきみわざを見た。
107:25 主が命じられると暴風が起って、海の波をあげた。
107:26 彼らは天にのぼり、淵にくだり、悩みによってその勇気は溶け去り、
107:27 酔った人のようによろめき、よろめいて途方にくれる。
107:28 彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから救い出された。
107:29 主があらしを静められると、海の波は穏やかになった。
107:30 こうして彼らは波の静まったのを喜び、主は彼らをその望む港へ導かれた。
107:31 どうか、彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように。

その明確な答えは主に呼ばわる(28節)と主が救われるです。
この場合の主は、主イエスキリストであるということは言わずもがなでしょう。

【使徒行伝4:10,12】
4:10 あなたがたご一同も、またイスラエルの人々全体も、知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは、ひとえに、あなたがたが十字架につけて殺したのを、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである。
 [中略]
4:12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

聖書の答えはいつも簡潔であり、ストレートです。
そしてそのことを信じた通りに行うとそれが現実の中に答えとして返ってきます。
嵐は神の前ではすでに恐れるべきものではなくなったことを、あなたも人生の中でダイナミックに知ることが出来る。
ある意味それがクリスチャンの醍醐味でもあるのですが。

石ころでも

2015年05月07日 13:32

自分の人生をふと振り返ると、パッとするわけでもなく、ごく当たり前に、しかし良いところもなく、代わり映えもなく、まるで石ころのような人生だなと、大人として歩んできた自分に昔ほどの可能性も未来の輝きもなくなり、そんなことを考えるときがあるかも知れません。
ところが聖書にはその石について、全く違う視点からこう語られています。

【ルカ19:35-40】
19:35 そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした。
19:36 そして進んで行かれると、人々は自分たちの上着を道に敷いた。
19:37 いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、
19:38 「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。
19:39 ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。
19:40 答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。

イエス様がこの地に来られ、いにしえの預言を成就する形(ろばの子に乗って)でエルサレムに入城された時、この栄光の姿に人々は救い主として、神に賛美をささげました。
そのイエス様を救い主と受け入れられなかった当時の聖書に精通する知識人(パリサイ人)が、それを止めるようイエス様にいうと、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう(40節)」と言ったのです。
石ころのような自分でも、今はこのイエス様が私の内に来てくれた。こんな私でもイエス様を賛美することをゆるされている。
かつて私はこのことがうれしくて仕方ありませんでした。

驚くべき事にさらに聖書はその石が天国、永遠の都の中で宝石となって輝く私達の姿を語っています。

【黙示録2:19-21】
21:9 最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。
21:10 この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。
21:11 その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。
21:12 それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。
21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
21:14 また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
21:15 わたしに語っていた者は、都とその門と城壁とを測るために、金の測りざおを持っていた。
21:16 都は方形であって、その長さと幅とは同じである。彼がその測りざおで都を測ると、一万二千丁であった。長さと幅と高さとは、いずれも同じである。
21:17 また城壁を測ると、百四十四キュビトであった。これは人間の、すなわち、御使の尺度によるのである。
21:18 城壁は碧玉で築かれ、都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。
21:19 都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三はめのう、第四は緑玉、
21:20 第五は縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21:21 十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった。

キリストの花嫁とされた私達は新しい永遠の都エルサレムそのものであり、それの輝きは「高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようで」あるのです。
さらに「また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。(14節)」は「十二使徒の十二の名」というところからクリスチャンを意味することを示し、その城壁は宝石で飾られている(18-20節)とは私達が輝く宝石として城壁を建て上げている様を見ることができる。
つまり私達はたとえこの地で石ころであっても、やがてこの地で主と共に歩み行く内に変えられて、輝く宝石として天国に住まうということがわかるのです。

【2コリント3:18】
3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

何と素晴らしいことでしょうか。
そんな情景に思いを馳せながら、主にお会いでき救われたことのあまりに大きな幸せに、今日も胸を踊らせるのでした。

善悪の基準

2015年05月06日 20:37

【1テサロニケ5:22】
5:22 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。

あらゆる悪から遠ざかって歩むこと。
クリスチャンとして歩み始めた私達、神から離れ自分の掛け違えた生き方、罪から贖われ新しい者となった私達が、もちろんこのことを考えないはずはありません。
悪から離れるのはとても当たり前のこと、むしろ罪に戻るような生き方をしたいと思う人など居ようはずがありません。
ですから、なるべく善い生き方をこれからしていきたいと思うのが当然なのです。
ここで問題となるのが何が善い事なのか。何が悪い事なのか。その基準をどこに置くのかということです。
そしてよくあることが、この善悪の基準を自分で線引きすることです。
人の目に善く見えること、それが実は最善であるとどうして言うことができるでしょうか。

【箴言21:2】
21:2 人の道は自分の目には正しく見える、しかし主は人の心をはかられる。

なぜなら、人の視野は非常に狭く個人的な価値観や、経験、常識など、個人によってその正しさは千差万別です。

【エレミヤ17:9】
17:9 心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。

増してや、人の心の中がどうしていつもきれいだと言えるでしょう。しかし安定した一定の基準がなくてどうして善い事と悪い事の区別がつくでしょうか。

イエス様はこのことを簡略に教えてくださいました。

【マルコ10:17,18】
10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
10:18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。

イエス様は「神ひとりのほかによい者はいない。(18節)」と答えられたのです。
ご自身が神の御子でありながら、父なる神の他にはよい者はいないと教えられたのです。
そうです。天地万物を造られた、この父なる神が善なのです。
もしも神が善でないなら、この天地にある全てのものがすでに滅びていることでしょう。
一日たりともこの全世界は維持されることはありません。神の善が全ての根底の基準として存在しているからこそ、全てのものの生き、存在する営みが神によって全て麗しく、この善なる方の秩序、律法により全てのものがなりたっているのです。

【マタイ5:18】
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

これこそ善である神の愛そのもの。私達は気づいてないかも知れませんが、天文学的奇跡の上に毎日生きている、いやこの神によって生かされているのです。
ですから、神が善であるという基準を明確に持つと私達は不安定な自分の善悪で生きることに恐ろしさすら感じるでしょう。
なぜなら神は私達の善悪の基準ではなく、神ご自身の存在をもって私達を行いを見て居られるからです。

【エレミヤ17:10】
17:10 「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。

では私達は毎日の生き方の中でそれをどのように知るのでしょうか。
聖書こそ、この神の言葉であり、ここにこそ神の善悪の基準が書かれているものなのです。

【詩篇18:30-32】
18:30 この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は真実です。主はすべて寄り頼む者の盾です。
18:31 主のほかに、だれが神でしょうか。われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。
18:32 神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を安全にされました。

この御言葉に従い生きることこそ、私達があらゆる悪から離れることとなるのです。
そして何より神ご自身に寄り頼み、神を自ら生きる全ての基とすることこそ、何があっても揺るがない岩の上に生きることとなるのです。
まずは神に信頼し、神の一歩でも近くに生きたいと願うこと。
そしてそのために神の御言葉、聖書を読み、神ご自身を知ることを、願うこと。
それこそが悪から離れ、主に喜ばれる最善の道を歩むこととなるでしょう。

今日あなたはどのように過ごされているでしょうか。
あなたの最善の人生を歩むために、さあ祈りと賛美にあって主と交わり、信頼を深め、聖書を読んで、新しい一日を豊かに過ごして参りましょう。

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