愛と信仰の原点

2015年02月20日 12:50

【マルコ14:3-9】
14:3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家にいて、食卓についておられたとき、ひとりの女が、非常に高価で純粋なナルドの香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、それをこわし、香油をイエスの頭に注ぎかけた。
14:4 すると、ある人々が憤って互に言った、「なんのために香油をこんなにむだにするのか。
14:5 この香油を三百デナリ以上にでも売って、貧しい人たちに施すことができたのに」。そして女をきびしくとがめた。
14:6 するとイエスは言われた、「するままにさせておきなさい。なぜ女を困らせるのか。わたしによい事をしてくれたのだ。
14:7 貧しい人たちはいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときにはいつでも、よい事をしてやれる。しかし、わたしはあなたがたといつも一緒にいるわけではない。
14:8 この女はできる限りの事をしたのだ。すなわち、わたしのからだに油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのである。
14:9 よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう」。

すべての状況を越え、また人々にどのように思われるかと考えることを置き、常識も人の思うすべてを越えて、主を愛すること、そしてそれを行動に現していくことは非常に難しいことです。
いや人によって、それが本当に信仰的な行動かどうかと疑うことすらあるでしょう。
周りを見比べ、常識に照らし合わせ、信仰を律法的に判断し、行動を決めるのであれば、確かに誤りのない信仰生活を送ることができるように思えるかも知れません。
しかし、ここに語られていることは「ひとりの女(マルコ14:3)」が正しかったどうかではなく、主を喜ばせたかどうかという基準です。
主は彼女の心の内の全てをご存知でした。
だから彼女が主をどれほどに愛しているかを主は知っておられたし、だからこそ主が「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう(マルコ9:31)」とご自身が十字架の死を迎えることを語った時、弟子達の誰一人そのことを悟った者はいなかったのに、彼女ただ一人が主の「葬りの用意(マルコ14:8)」をしてくれたことを喜んだのです。
「よく聞きなさい。全世界のどこででも、福音が宣べ伝えられる所では、この女のした事も記念として語られるであろう(マルコ14:9)」と主が語られるほどに、今も主の御言葉としていつまでも彼女のことが語り継がれるほどに、主はこのことを喜ばれました。

確かにこのことは人の目にはたいそう愚かなことに映ったでしょう。
三百デナリ以上と言われる香油とは「彼は労働者たちと、一日一デナリの約束をして、彼らをぶどう園に送った。(マタイ20:2)」とあるように、一日の労働賃金を一デナリとするのであれば、仮にこれが現在の一万円相当と見積もっても、三百万円相当のものであったと想像されます。
当時、女性はこのように香油を貯めて財産として蓄えておく習慣があったようですので、それを突然すべて注いでしまうということは誰をも驚かす、常識を越えた行動であったでしょう。
それがこの聖句の中に描かれた、人々が彼女を厳しくとがめた姿に現れているのです。
それも、「貧しい人たちに施すこと(マルコ14:5)」ということを主ご自身がこれまで父に喜ばれる信仰として語られてきたのですから、これは律法的な判断においても人々の言うことの方が正しいように思われます。
しかし、彼らには主の十字架の事実を悟ることができなかった。彼女だけがこの重要な事実を悟った。
そしてそのためにできる限りのことをし、全てを注ぎ出し、主に最上のささげものをささげることを彼女はゆるされたのです。
それは主を愛するがゆえに、人の常識においては知ることのできない主の大いなる計画を悟らせ、主を愛するがゆえに、人々の思惑や常識を超えて、主を最も喜ばせる行動へと身をゆだねさせたのです。

【ルカ7:47】
7:47 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。

私達の罪がどれほどに汚れきったもの
であったのかをどうか思い出してください。
それは神の子イエスキリストの命の代価でなければ贖えないほどに汚れたものであり、だから主は父なる神の御怒りを一身に受けて裁かれ、永遠の滅びに身を焼かれたのです。
だから、あなたがどれほどに主に愛されたのか、今愛されているのかを思い出してください。
そのとき、愛する方を私はどのように愛することができるのか。どのように喜ばせることができるのか。という「愛によって働く信仰(ガラテヤ5:6)」の原点が見えてくるでしょう。

【1コリント13:1-3】
13:1 たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。
13:2 たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。
13:3 たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

「わたしによい事をしてくれたのだ。(マルコ14:6)」と主から一言を頂けるだけでいい。愛する方が喜ばれるために、十字架に全てをささげられた方のために、私の全てをささげて愛したい。
この全身全霊、この命、この生涯を主に最も喜ばれるささげものをささげるためにささげ尽くしたい。
私はそのために造られ、そのために生き、そのために主から永遠に離れず、主を愛しているのです。
私達全てのものはそのように造られたのです。そのように生きることが最も幸せなのです。
キリスト者の本当の幸いはこの永遠の愛に基づく歩みなのです。

【ローマ14:7-9】
14:7 すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。
14:8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。
14:9 なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。

あなたはどのように主を愛して、今日この一日を重ねていきますか?

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。
【マルコ9:31,32】
9:31 それは、イエスが弟子たちに教えて、「人の子は人々の手にわたされ、彼らに殺され、殺されてから三日の後によみがえるであろう」と言っておられたからである。
9:32 しかし、彼らはイエスの言われたことを悟らず、また尋ねるのを恐れていた。」

【ルカ7:36-50】
7:36 あるパリサイ人がイエスに、食事を共にしたいと申し出たので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。
7:37 するとそのとき、その町で罪の女であったものが、パリサイ人の家で食卓に着いておられることを聞いて、香油が入れてある石膏のつぼを持ってきて、
7:38 泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。
7:39 イエスを招いたパリサイ人がそれを見て、心の中で言った、「もしこの人が預言者であるなら、自分にさわっている女がだれだか、どんな女かわかるはずだ。それは罪の女なのだから」。
7:40 そこでイエスは彼にむかって言われた、「シモン、あなたに言うことがある」。彼は「先生、おっしゃってください」と言った。
7:41 イエスが言われた、「ある金貸しに金をかりた人がふたりいたが、ひとりは五百デナリ、もうひとりは五十デナリを借りていた。
7:42 ところが、返すことができなかったので、彼はふたり共ゆるしてやった。このふたりのうちで、どちらが彼を多く愛するだろうか」。
7:43 シモンが答えて言った、「多くゆるしてもらったほうだと思います」。イエスが言われた、「あなたの判断は正しい」。
7:44 それから女の方に振り向いて、シモンに言われた、「この女を見ないか。わたしがあなたの家にはいってきた時に、あなたは足を洗う水をくれなかった。ところが、この女は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でふいてくれた。
7:45 あなたはわたしに接吻をしてくれなかったが、彼女はわたしが家にはいった時から、わたしの足に接吻をしてやまなかった。
7:46 あなたはわたしの頭に油を塗ってくれなかったが、彼女はわたしの足に香油を塗ってくれた。
7:47 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。
7:48 そして女に、「あなたの罪はゆるされた」と言われた。
7:49 すると同席の者たちが心の中で言いはじめた、「罪をゆるすことさえするこの人は、いったい、何者だろう」。
7:50 しかし、イエスは女にむかって言われた、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安心して行きなさい」。

【ガラテヤ5:5,6】
5:5 わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。
5:6 キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。尊いのは、愛によって働く信仰だけである。