神をただ神とする

2015年02月25日 12:26

【出エジプト20:3-6】
20:3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それにひれ伏してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

この言葉はイスラエルの民がモーセと共にエジプトを出た、その後シナイ山で主から授かった十戒の中の一節です。
この十戒は主イエスご自身が「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。これがいちばん大切な、第一のいましめである。第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている(マタイ22:37-40)」と語られているように、十戒の前半は神に対する愛について、後半は隣人に対する愛について、そしてその中間には神の権威を現し、また隣人としての側面も持つ、親に対する愛についてが語られています。
つまり、十戒は戒めでありますが、同時にその二つの愛によって、律法は全うされると語られているのです。

さて、今日の箇所はその中で神に対する愛について語られている戒め。
「どんな形をも造ってはならない。(4節)」ということは、神を偶像として造ってはならないという意味でもありますが、私達の具体的な信仰生活においてはもう一歩踏み込んだ意味を見ることができます。

自分は確かに神を形にした彫像や絵などそれら一切のものを、飾ったり崇めたりはしていない。
プロテスタントのキリスト教徒の皆さんは特にそのようなことに気をつけているという方も多くおられるでしょう。
だから自分は大丈夫だと、この戒めを思いながらそのように考えられる。
しかし聖書は、もう少し人の心を深い意味で照らし、偶像というものについて語っています。

「そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。(サムエル上15:23)」と語られるように、主に従い生きることを主は喜ばれます
が、私達が自分の判断や思いから、主を越えて自分を主張し、主に従わず、結果主に背くことは、占い、偶像礼拝と同様の罪であるとはっきり指摘しています。
また、「だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。(コロサイ3:5)」とも語られているように、自らの欲望を満たすことを望み続ける生活は、神の思いから離れるばかりか、神に敵対し、自分を満たすための祭壇を築くようになります。
これが主の祭壇とは異なる偶像を祭る祭壇となるのです。
しかし、「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生み出す。(ヤコブ1:15)」とあるように、その行き着く先は罪であり、死に他なりません。
古来から、人はその生来の罪の性質から、「肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。(ローマ8:6,7)」とあるように、神に従い主のために生きるということに逆らいます。
神の計画のために自分が居るのではなく、自分のために神が居ると、神を自分に従う神としようとします。
このとき、人は神を自分に都合の良い神像に刷り換え、本来の神を見ようとしません。
ここに神を自分の思いの中に閉じ込めようとする、「どんな形をも造ってはならない。(4節)」ということが崩されていくのです。

【士師記6:12-14】
6:12 主の使は彼に現れて言った、「大勇士よ、主はあなたと共におられます」。
6:13 ギデオンは言った、「ああ、君よ、主がわたしたちと共におられるならば、どうしてこれらの事がわたしたちに臨んだのでしょう。わたしたちの先祖が『主はわれわれをエジプトから導き上られたではないか』といって、わたしたちに告げたそのすべての不思議なみわざはどこにありますか。今、主はわたしたちを捨てて、ミデアンびとの手にわたされました」。
6:14 主はふり向いて彼に言われた、「あなたはこのあなたの力をもって行って、ミデアンびとの手からイスラエルを救い出しなさい。わたしがあなたをつかわすのではありませんか」。

ある人は神の御業は今はない。主は今私と共に生きておられるというのは喩えのようなもの私達にはわからない。
主は積極的にまた具体的に私達の人生に何かをなされることはない。
とまるでおとぎ話の世界のように信仰を捉え、神をそして神の絶大なる力をまた私達を愛して止まず今生きて私達と共に居られ生きて働かれる無限の神を、自分の理解や常識の中に、不信仰の内に小さく小さく閉じ込めてしまっていないでしょうか。

【マタイ25:24-30】
25:24 一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。
25:25 そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。
25:26 すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。
25:27 それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。
25:28 さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。
25:29 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
25:30 この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。

ある人は愛なる神を裁く神としか見ず、あるいは恐怖し、あるいは心離れて、神をまるでサタンと同様な糾弾者のように思っていないでしょうか。
生きること、信仰の全てを裁きから逃れるために何をするかであるように生涯を歩み、そのように信仰を正しく守り続けることに神経を注ぎ力を注いで、主に安息することなしに生き続ける。
愛なる神はどれほど私達を愛し、どれほど素晴らしいものを分かち、また主のご計画のために共にそれを成すために生きることをどれほど望み、共に喜びたいと願って居られることでしょうか。

【マラキ1:2】
1:2 主は言われる、「わたしはあなたがたを愛した」と。ところがあなたがたは言う、「あなたはどんなふうに、われわれを愛されたか」。

【マラキ3:13-15】
3:13 主は言われる、あなたがたは言葉を激しくして、わたしに逆らった。しかもあなたがたは『われわれはあなたに逆らって、どんな事を言ったか』と言う。
3:14 あなたがたは言った、『神に仕える事はつまらない。われわれがその命令を守り、かつ万軍の主の前に、悲しんで歩いたからといって、なんの益があるか。
3:15 今われわれは高ぶる者を、祝福された者と思う。悪を行う者は栄えるばかりでなく、神を試みても罰せられない』」。

ある人は神を目に見えないからこそ、侮るべきものとして、自らの罪を重ね、忍耐と愛をもって裁きを遅らせ、神に悔い改めて立ち返ることを望まれていることを全く知らずあるいは見ないようにして生きているかも知れません。
どこまでならゆるされるのかを試みることが信仰でも、神の愛を知ることでもありません。
自らを神のように欲望のままに生きていても信仰者である自分はゆるされると、十字架の贖いをその愛を無益なものとして退け捨てた、神を侮る者を、義なる神は裁かずそのまま捨て置かれることはされないでしょう。

私達は、聖書に書かれ、また今も生きて働き、天地万物を創造され今もその全てを一刻一秒休むことなく保たれて居られる、無限の神と相対しているのです。
この方を私達の尺度で曲げ、形におさめ、都合の良い信仰のための対象とすることがあってはなりません。
それは私達自身を神とすることです。
主は「わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである(黙示録21:6)」という方、全ての始まりであり結論である方、この方が私達の先に居られるのであり、私達がこの方のために、この方により造り変えられるべきなのです。
この方こそ唯一の神、全地の主権者なのです。

【ダニエル7:13,14】
7:13 わたしはまた夜の幻のうちに見ていると、見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。
7:14 彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国は滅びることがない。

この地上にあるいかなるものにも、形おさまらない、無限なる神を恐れ、ひれ伏します。
そしてこのような方が、ご自身の命を賜うほどに私を愛してくださったという驚くべき事実に、ひれ伏します。

主よ。私達はただあなただけのものです。あなたを愛します。
あなたの御心のみがこの身になりますように。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【マタイ22:236-40】
22:36 「先生、律法の中で、どのいましめがいちばん大切なのですか」。
22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
22:38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。
22:39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
22:40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

【サムエル上15:22,23】
15:22 サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。
15:23 そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。

【コロサイ3:5-11】
3:5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
3:6 これらのことのために、神の怒りが下るのである。
3:7 あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。
3:8 しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。
3:9 互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
3:10 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。
3:11 そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。

【ローマ8:5-8】
8:5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
8:6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
8:8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
※「肉の思い」=生来の神から離れ自分のために生きようとする罪深い人の性質から来る思い
※「霊の思い」=内に住む新しい命としての聖霊なる神に導かれる、主のために生きようという思い。