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新年のご挨拶

2014年01月01日 14:44

新春のお慶びを申し上げます。
いよいよ2014年の幕開けです。
昨年12月よりすでに礼拝は始まっていますが、ネット上でもこの新年の時をもって、Bride of Christ Churchの活動の始めることとなりました。
新年からのスタートというのは非常に気分がいいですね。クリスチャンは日々新しくされ、日々新たな歩みをする者ではありますが、やはり新しい年という区切りは何かを始めるのにふさわしいのかも知れません。
聖書も新年に合わせて歩み始める箇所がいくつもありますしね。

ということで、主の造られるこの新しい年に期待して。
どうぞ、これからもよろしくお願いいたします。

クリスマスのともしび

2013年12月16日 12:06

イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。(聖書)

クリスマスの街角には輝く光が溢れているけれど、心満たす温もりも、希望への輝きに見える灯(ともしび)も、時がくれば消えてしまう。
やがて行き過ぎる輝きならば、あるだけ寂しさを感じる。
あなたはあなたの未来に希望を灯す本当の「命の光」というものを知っているだろうか。
このクリスマスの主人公は二千年以上も前にこの地に生まれた。自らの命を私達に与えることで、私達を救うというとても不思議な救い主として。
その名はイエスキリスト。
しかし命を与えるほどの愛を私達に注ぐからこそ、そこに私達は本当の希望の光を見ることができる。
私達の足元を照らし、歩むべき未来へと続く道のりを照らす「命の光」。薄暗い自分の心の中を、暖かく照らす「命の光」。
今この光はあなたの元に届いている。
永遠の神の愛をたずさえて。

あなたも教会に来ませんか。
教会は「命の光」に満ちて、あなたのお越しを待っています。

 

初ブログ

2013年10月03日 09:03

本日よりブログを始めました。いろいろな情報をアップデートしていくのでお見逃しなく。RSS フィード でブログのアップデート状況を確認できます。

神の国の福音 私達の本当の姿~王族として~

2013年09月13日 13:47

【2コリント 3:17】
主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。

多くのクリスチャンが救いを受けていながら、閉塞感を感じることは多くとも、自由を感じることが少ない。そのような話をよく伺います。
確かに救われている者は御言葉にあるように、主の霊がその内に住まわり自由をもたらす筈です。
しかし一向にその様子を味わうことなく、むしろクリスチャンであるからこその制約があり、その中でいつ終わるとも知れない閉塞感を感じている。そんな実情を抱えている人が多いのではないでしょうか。
その自由とは如何なるものなのか?どうすれば得られるのか?
考える暇もなく、日常の生活や教会奉仕などの教会活動に追われる。
でも少し待ってください。そのままでは、あなたは疲れ果ててしまうまで、その状態を考えることなく続け、やがて何もなくなり擦り切れるまで、あるいは何も得られることなくとも、小さな喜びを信仰の中に無理に見つけるようにして生き続けなければなりません。
聖書は別の個所で自由についてこのようにも語っています。

【ヨハネ 8:32】
そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう。

そのような人は、自由を得させるという真理を知っていない。
その内には御霊が住んでいるので、全てはすでに与えられたものであり、自由はすでに得ているはずなのですが、自由を得させるはずの真理が覆われているため、得ているはずの自由が偽られているのです。

【エレミヤ 52:31-34】
ユダの王エホヤキンが捕え移されて後三十七年の十二月二十五日に、バビロンの王エビルメロダクはその即位の年に、ユダの王エホヤキンを獄屋から出し、そのこうべを挙げさせ、
親切に彼を慰め、その位を、バビロンで共にいる王たちの位よりも高くした。
こうしてエホヤキンは獄屋の服を脱いだ。そして生きている間は毎日王の食卓で食事し、
彼の給与としては、その死ぬ日まで一生の間、たえず日々の必要にしたがって、バビロンの王から給与を賜わった。

ここには神から救いを受けた者、解放された者の本当の自由な姿の型が描かれています。
罪を犯し続け、神から背を向け続けたイスラエルは、神の計画の一端を担う神に選ばれた民でありますが、その重ねた罪、除き難い罪深さ故に、かつて神に背く 異教の民バビロンに捕囚されました。多くの民はバビロンの剣に倒れ、疫病と飢饉に命を落としましたが、それらはそれまでの罪の裁きの故に起こったこと、神 はモーセの時代からイスラエルの民がそのように神に背くことと、それに伴う裁きについてを再三語られたのですが、それを軽んじる程、神を侮った民に預言通 りの現実が迫ったのです。
しかし、当時素直にバビロンに捕囚された者には、やがて主を見出だし主により救われ解放されることを預言されていました。

【エレミヤ 24:4-7】
主の言葉がまたわたしに臨んだ、
「イスラエルの神、主はこう仰せられる、この所からカルデヤびとの地に追いやったユダの捕われ人を、わたしはこの良いいちじくのように顧みて恵もう。
わたしは彼らに目をかけてこれを恵み、彼らをこの地に返し、彼らを建てて倒さず、植えて抜かない。
わたしは彼らにわたしが主であることを知る心を与えよう。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らは一心にわたしのもとに帰ってくる。

その結果として、解放された者の姿が、預言に基づき【エレミヤ 52:31-34】に語られているのです。
同時に、ここには後の時代の私達、救い主イエスキリストに救われた者達の、解放の真の意味が型として預言的に語られています。

【エレミヤ 52:31-34について】
それでは、その解放された者の姿とはどのような姿なのか。
私達救われた者達の本当の姿をここで共に見ていきましょう。

「獄屋から出し、そのこうべを挙げさせ、(31節)」

まさしく、救いを受ける前の私達は、自分自身が生まれながらに持つ、罪から来る結果としての死の判決を受けた生まれながらの死刑囚でした。
しかし、イエスキリストはご自身が罪となられ私達を義とされたのです。

【2コリント 5:21】
神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

義とされるとは、罪無しとされる、無罪とされたということです。
イエスキリストが私達の罪を負われ死を負われたことにより、私達は死刑囚としての身分を解放され獄屋から出されました。
イエスキリスト、神の子です。
神の子という方の考えられない程の絶大な価値ある犠牲により、その想像を超える程の大いなる命の代価により初めて、私達は無罪とされたのです。
もはや私達が罪に繋がれ罪の奴隷としてこうべを垂れ続けることはないのです。

「親切に彼を慰め、(32節)」

主は罪に捉われていた私達の過去そのものをも贖われる方、だからこそ、主が真に私達の慰めとなり得るのです。
罪にまみれ傷つき、傷つけて来た、どうにもならない過去はここで終止符を打ち、主による回復の道を、たとえそれが難しい道に思えたとしても備えてくださる神。
彼こそが自ら代価を払われた真の慰め主です。

「その位を、バビロンで共にいる王たちの位よりも高くした。(32節)」

そして、驚くべきことに私達を、全地にいる全ての王、また支配者よりも高い地位に着かせて下さったのです。
なぜなら、私達はキリストの花嫁として、その花婿キリストに贖われたのですから、私達の地位は救いを受けた時から、全地の王イエスキリストの花嫁としての王族の位置に着かせられるのです。
何と言う壮大な愛を受けていることでしょうか。
私達は救われたその時から、全地の王達の地位を遥かに超えた神の王国の王のロイヤルファミリーとなっていたのです。

「獄屋の服を脱いだ。(33節)」

私達はキリストと共に葬られ、また共によみがえったことにより、古き人を脱ぎ、新しい人を着たのです。そのことにより、罪人の服である獄屋の服を脱ぎ、私達は新しくされたのです。

【コロサイ 2:11-13】
あなたがたはまた、彼にあって、手によらない割礼、すなわち、キリストの割礼を受けて、肉のからだを脱ぎ捨てたのである。
あなたがたはバプテスマを受けて彼と共に葬られ、同時に、彼を死人の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、彼と共によみがえらされたのである。
あなたがたは、先には罪の中にあり、かつ肉の割礼がないままで死んでいた者であるが、神は、あなたがたをキリストと共に生かし、わたしたちのいっさいの罪をゆるして下さった。
【コロサイ 3:9,10】
あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。

この新しい人を着たとは、イエスキリストを着たということです。

【ガラテヤ 3:26-28】
あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。
キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、皆キリストを着たのである。
もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。

このことにより私達は王である方を着て、王族にふさわしい姿となりました。
いかに偉大な計画を主は私達一人一人に成し遂げたことでしょうか。
ただの罪人が王族とされる。イエスキリストの十字架の代価は私達を神の国において、考えられない地位の者として、私達を変えたのです。これが新生です。これこそが古い人から新しい人とされたということなのです。

「そして生きている間は毎日王の食卓で食事し、(33節)」

王と同じ食卓で食事をするとは、それほどの深い親しい交わりを意味します。
そして、私達は主ご自身との親しい交わりを回復しました。主に背を向けて生まれ、生き続けてきた者が、これほどの親しい交わりを与えられているのです。
この親しさの中で、私達の祈りを主は一言も漏らさず親しく聞き、御言葉を通し、また私達生きる時間の中のあらゆることを通して主はご自身の御心を親しく語られるのです。

「彼の給与としては、その死ぬ日まで一生の間、たえず日々の必要にしたがって、バビロンの王から給与を賜わった。(34節)」

私達は神の国においてのみ新生を受けたのではありません。この地上においても、私達は神との親しい交わりを回復しているのであり、そのことによって、この地上に生きるための私達の必要をも、主は当たり前のこととして心に止めておられるのです。
そこで、ここに主は私達の日々の必要にしたがって、その全てを主ご自身が満たされるという約束を表されています。

そうです。
これがあなた自身の本当の姿であり、これこそが本当の解放です。
自由とはただ罪が赦されて心が軽くなったとか、主を信じるのであれば、主に頼るのであれば、あるいは主が時により条件により祈りを聞いてくださるかも知れない、何となく幸運な人ではありません。
また信仰深く清く正しい品行方正な行動を重ねて生きることによって初めて、教会の仲間とされ、神の子とされるのでもありません。
私達はイエスキリストの一方的な愛に基づく犠牲のみによって、罪人から神の王国の王族とされ、それにふさわしい者となるべく罪の服を脱ぎ、キリストを着 て、王族の姿となり、王なる主とこの地上で親しく交わることをゆるされ、地上における日々の必要の全てを主に満たされて生きる者とされた、有り得ない程の 特権を与えられた者なのです。
これが救い、これが解放です。
もしも、神の王国を知らず、また自らの本当の姿を知らずに、不自由に生きるのであれば、それは既にこれらの特権を与えられているのにも関わらず、それを偽 られて、獄屋に自ら戻ってその中に閉じこもり、さらに罪の手枷足枷の鎖を自ら握り締めて、不自由な中に閉じこもって、「自由がない」と叫んでいるに過ぎま せん。
これは非常に残念な偽りです。
さらにその偽りが放置されるのであれば、キリスト教会の中でも互いを縛り苦しめ、閉塞感の中に眠る民とさせられてしまうのです。
主にある自由を得てください。
「真理は、あなたがたに自由を得させる(ヨハネ8:32)」のですから。

 

神の国の福音 私達の本当の姿~花嫁として~

2013年07月31日 15:27

【イザヤ 43:4】
わたしの目には、あなたは高価で尊い。

この御言葉の本当の意味を知っているでしょうか?
「わたしの目」=「神の目」に私達がどのように映っているのかを知る時、私達はこの言葉の真価を受け取ることになります。
つまり、ここには私達の本当の姿が投影されているのであり、その驚くべき私達の姿に、圧倒的な神の恵みが私達に注がれていることを知ることができるのです。

【エゼキエル 16:4-14】
あなたの生れについていえば、その生れた日に、へその緒は切られず、水で洗い清められず、塩でこすられず、また布で包まれなかった。
ひとりもあなたをあわれみ見る者なく、情をもってこれらのことの一つをも、あなたにしてやる者もなく、あなたの生れた日に、あなたはきらわれて、野原に捨てられた。
わたしはあなたのかたわらを通り、あなたが血の中にころがりまわっているのを見た時、わたしは血の中にいるあなたに言った、『生きよ、
野の木のように育て』と。すなわちあなたは成長して大きくなり、一人前の女になり、その乳ぶさは形が整い、髪は長くなったが、着物がなく、裸であった。
わたしは再びあなたのかたわらをとおって、あなたを見たが、見よ、あなたは愛せられる年齢に達していたので、わたしは着物のすそであなたをおおい、あなたの裸をかくし、そしてあなたに誓い、あなたと契約を結んだ。そしてあなたはわたしのものとなったと、主なる神は言われる。
そこでわたしは水であなたを洗い、あなたの血を洗い落して油を塗り、
縫い取りした着物を着せ、皮のくつをはかせ、細布をかぶらせ、絹のきれであなたをおおった。
また飾り物であなたを飾り、腕輪をあなたの手にはめ、鎖をあなたの首にかけ、
鼻には鼻輪、耳には耳輪、頭には美しい冠を与えた。
このようにあなたは金銀で飾られ、細布、絹、縫い取りの服をあなたの衣とし、麦粉と、蜜と、油とを食べた。あなたは非常に美しくなって王の地位に進み、
あなたの美しさのために、あなたの名声は国々に広まった。これはわたしが、あなたに施した飾りによって全うされたからであると、主なる神は言われる。

神を知らず、罪の中に転げまわり、助ける者もなく、掛け違えた人生を歩み続けていた私達を主イエスは救ってくださいました。それは私達をご自身の花嫁とするためです。
聖書の結論、神のご計画の結論は主イエスと、彼を愛する者である救いを受けた私達、花嫁との結婚です。
そしてその計画は聖書の最初から描かれています。それは最初の人、アダムとエバの結婚。
全ての人はこの二人の結婚を根源としてます。人は結婚という事実の上に神の祝福を受け、子孫を増やし続けます。今日もその事実は何ら変わることはありません。全ての人が漏れることなくこの結婚という事実の上に生まれ、結婚の奥義はここに受け継がれています。
言い方をかえるのであれば、神は全ての人の根源である結婚の中に、この聖書の結論を重ねて語り続けておられるのであり、この結婚は聖書の最初から最後までを貫く、神の奥義であると言うができるのです。
事実、神が私達を救われた花嫁としての神の選びは、万物が造られる以前にあったことが聖書に語られているのです。

【エペソ 1:3-7】
ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。
わたしたちは、御子にあって、神の豊かな恵みのゆえに、その血によるあがない、すなわち、罪過のゆるしを受けたのである。

つまり、主イエスは私達が生まれる(天地が造られる)前から、私達を花嫁として選んでおられたが、生まれ持って罪を持ち、神を退け、罪の中に転がる私達をご自身の血(命)の代価により買い取られた。
そして、ご自身の血で罪に汚れ果てた私達を洗い、救いの衣を着せられたのです。
花嫁にふさわしい者として、主ご自身がその全ての飾りを与え、私達にまとわせたその飾り物が完全であったからこそ、その美しさのために、私達の名は諸国の民の間に広まるのです。
私達が与えられた救いとはいかなる壮大なものでしょうか。
この恵みの大きさにあなたの想像と理解は追いつけないかも知れません。
何せ主はご自身にふさわしい花嫁とするために、主の栄光の内に、主と同じかたちに姿が変えられて行くまで、私達をご自身で飾って下さるのです。

【2コリント 3:18】
わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

そして、それは救いを受けたその時から、すでに全てが私達の内に住まう御霊なる主によって与えられているのです。
主イエスの花嫁としての主の栄光に輝くあなたの姿が本当のあなたの姿、それこそが主によって新しく生まれたあなたの真のアイデンティティーです。
あなたはここに注がれている花婿主イエスの愛がわかるでしょうか?
花婿は花嫁を美しく飾らないではいられないのです。その栄光の輝きは全て花婿のため。全ては花婿が栄光を受け、その喜びを共にするためなのです。
花婿の愛を知らない花嫁を、主は何と悲しまれることでしょう。

【エペソ 3:17-21】
また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、
教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

神の目に映る本当のあなたの姿の価値をあなた自身が知る必要があります。
なぜなら、それを知らないではあなたは救いを受けるまでの惨めな姿と何も変わらないままで、神があなたを高価で尊いと言っているように勘違いをするでしょう。
しかし、主は私達を花嫁にふさわしい者にされようとしているのです。そして全てはすでに与えられている。何も知らないままでそこに至ることはありません。その姿のまま生涯を歩まなければならないという惨めな歩みを主は望んでいないのです。
花婿の愛を知らない花嫁を、主はどれほど悲しまれるでしょうか?
だからこそ、この愛を知るために、またさらには花嫁が花婿を愛するように、主を愛するということを知るために、私達はこの生涯を歩むのです。

あなたが主に在る本当のアイデンティティーを知り、想像を超えた豊かな歩みを始めることができますように。

神の国の福音 イエスの語られた福音

2013年07月17日 19:21

福音の本質が初代教会の時代に語られていた内容と、今現在語られている内容とでは大きく異なってしまっている。
この事実に突き当たった時、私は大きなショックを受けました。
というのは初代教会時代の教会と現存している多くの教会とでは、その力を全く失ってしまったと言っても過言でないほど、別のものとなってしまっています。
初代教会の時代に語られていた福音の力強さは、まさしくイエスがこの地を歩まれ宣教をされていた当時、また使徒行伝の時代に多くのクリスチャンを通して宣教がなされていた当時に起こっていた事実を聖書の中から忠実に読むのであれば、それは一目瞭然、現代とは比較にならないものであるということは言うまでもないことでしょう。
病が癒され、死人がよみがえり、悪霊が出ていき、毒を飲んでも害されることがない。
今の時代にはこれは絵空事のように思えるでしょうか?
あるいは詐欺紛いのもの、あるいは神の霊の働きとは一概に言えない危険のものとでも思えるでしょうか?
いいえ、違います。ここには神の確かで圧倒的な臨在があり、神の国がそこにあったのです。
手に取るように確かな形で、神の国が顕れているからこそ、現実は神の国の性質に従ったのです。
必ず死が訪れる呪われてしまったこの地の法則に従うのではなく、永遠の命溢れる天の法則に従ったのに過ぎないのです。
では長い時代の経過の中で大きく異なってしまった、福音の本質、その内容とは如何なるものでしょうか?

【マルコ1:15】
「時は満ちた、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信ぜよ」。

イエスはこの宣教の始めにこのように語り始めました。神の国の訪れをまず最初に伝えたのです。
そしてそのために、悔い改めて福音を信ぜよと。
さらに宣教が進められるとイエスは驚くべきことを語り始めました。

【ルカ 11:19,20】
もしわたしがベルゼブルによって悪霊を追い出すとすれば、あなたがたの仲間はだれによって追い出すのであろうか。だから、彼らがあなたがたをさばく者となるであろう。
しかし、わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。

ここでは神の国は来たという過去形で、事実が語られています。神の国が近づいたところから、来たという過去にすでになされた事実となっているのです。
そして神の国がどこにきているのか、さらに所在が明確に語られます。

【ルカ 17:20,21】
神の国はいつ来るのかと、パリサイ人が尋ねたので、イエスは答えて言われた、「神の国は、見られるかたちで来るものではない。
また『見よ、ここにある』『あそこにある』などとも言えない。神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」。

つまり、神の国はどこそこにあるのではなく、私達のただ中にあるという大胆な宣言をしているのです。
神の国はすでに来たものであり、それが私達のただ中にある。これがいかに衝撃的な事実かわかるでしょうか。
本来神の国は天に存在しているものであり、私達には全く関係のないものと思っているでしょうか?
それとも教会を総称して、そこに神の国が来ているとだけ考えるているでしょうか?
しかしここで語られている神の国の顕れは人の目で見てはっきりとわかる、力を持って天の性質が顕現するものであり、雰囲気的に平安な、聖なる印象の、愛のある共同体として、と言ったイメージ的な天国的雰囲気を醸し出しているということとは全く異なります。
この地上の法則、秩序を超越した神の国が今私達の中、ここに来ており、それが現実の世界に力を持って現れて出ているということなのです。
ここに私達が入ることを、イエスは招いているのです。

【ルカ 16:16】
律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。

ここに突入するようにと神の国が宣べ伝えられた、これが福音の本質です。
さらにイエスの語られたことが、神の国についての説明に大半を費やされているという事実を、もしもあなたが福音書をそのような視点で読むのであれば、新鮮な驚きと共にその目で見出すことができるでしょう。
イエスは神の国について力強く語り、すでに来ているこの神の国に入るよう私達を招き、さらにその神の国の性質と、神の国の完成に向けての神の計画とを語ることに宣教の時間の大半を費やされたということなのです。
いかに神の国の福音が重要であるのか。
当時語られていた福音は神の国の福音であったのです。
「御国の福音」(マタイ4:23,マタイ9:35,マタイ24:14)
「神の国の福音」(ルカ4:43,ルカ8:1)
「神の国のことを語り聞かせ、」(ルカ9:11)
「神の国を告げひろめなさい」(ルカ9:60)
「神の国とイエス・キリストの名について宣べ伝える」(使徒8:12)
「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストのことを教えつづけた。」(使徒28:31)

救いという事実の中には、これほどの絶大な計画と主の御心が注がれています。いかに私達は救いという事実を表層的にしか受け取って来なかったことでしょうか。
十字架により罪を贖われ罪なき者とされた。
その事実は、罪人は決して神の国に入ることができないからこそ、この神の国に入るために主がなされた御業であり、まさに主のご計画の入口に立ったに過ぎません。
確かに主が払われた贖いの代価は、あの万物を創造され、万物を保っておられる神の、その比類なきひとり子の血です。それは私達の創造をはるかに超えた絶大なる価値あるものを主は私達のために流されました。その事実の重さを、その厳粛な事実を前に私達はひれ伏さざるを得ません。
ここにすべての約束が集約し、すべてがあるのであり、救いを受けた私達はすでにすべてを与えられているのです。
が、その全容を私達は知らな過ぎるのです。
そのために多くの人がこの入口から先に入ることを知らず、神の国に入るよりも、これまで歩んできた生き方を元に信仰を建て上げようとするのです。その結果、世の宗教活動と何ら変わることのない力のない宗教が誕生するのです。
それは世に戻ってから信仰を世の上に建てようとする行為であり、主イエスが語られた福音とは全く異なった教えに過ぎません。
なぜなら、主は神の国に入れと言われているのです。
それは世の法則とは全く異なる性質を持つ、神(天)の性質に基づく、神の国に入れというのです。
この神の国において信仰生活を始めるのでないなら、どのようなことをしても、何も意味をなしません。

【マタイ 6:19-21】
あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
あなたの宝のある所には、心もあるからである。

ではどのようにすれば、この神の国に生きることができるというのでしょうか。
それはあなたがすでにキリストにあって新しく生まれた、新生経験を持つクリスチャンであるのであれば、誰もが既に受け取っている、内に住まわれる神、聖霊の働きによります。

【エペソ 1:13,14】
あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

この「保証」という言葉には、前金という意味が含まれています。前金とは、先に一部代金を支払うことによって、その品物自体を受け取ることができるというもの。
つまり、私達が聖霊を受け取っているということは、神の国をやがて私達は確かに受け取ることであるけれども、その前味として、本来やがて受け取るべき神の国を今受け取っているということなのです。
やがて受け取るのは神の国の全体像、完全なる実体、神の国そのものですが、今はそれを部分的に受け取るということです。
とは言え、これが一部分を前味的に受けると言っても、神の国が私達の生活する現実に溢れ出てくるわけですから、そのスケールは私達の想像できないレベルのものです。
そしてこれこそが、イエスが地上を歩まれ宣教をされていた時代、また使徒行伝の時代に力強い伝道がなされた、その源となった真理です。
つまりエクレシア(私達)を通して、神の国をこの地上に来たらしめる、これが今の時代の私達に対する神の計画なのです。
私達が神の国に生きることにより、神の国を地上に来たらせ、神の計画を押し進める。
このことによって、やがて神の国は(ヨハネの黙示録の中にその全体像が語られていますが)完全なる形で完成します。神はその計画を突然完成させるのではなく、このように私達を通して徐々に段階的にその計画を、すでに進ませているのです。
あなた自身が本来いかに神の計画の中で重要な位置にいるのかということがわかったでしょうか。
そして、これは人の知恵によっては決して辿り着くことができない、神の知恵、聖書が直接あなたに語りかけている事実なのです。
いかなる聖書的・信仰的学問も、神の計画を捕らえることはできません。かつて聖書に関する学問の専門家であった律法学者や、パリサイ人、そして神の計画を担うために神に選ばれた選民イスラエルでさえ、人の知恵によっては神の計画を知るに至らなかったのですから。

【1コリント 2:6-8】
しかしわたしたちは、円熟している者の間では、知恵を語る。この知恵は、この世の者の知恵ではなく、この世の滅び行く支配者たちの知恵でもない。
むしろ、わたしたちが語るのは、隠された奥義としての神の知恵である。それは神が、わたしたちの受ける栄光のために、世の始まらぬ先から、あらかじめ定めておかれたものである。
この世の支配者たちのうちで、この知恵を知っていた者は、ひとりもいなかった。もし知っていたなら、栄光の主を十字架につけはしなかったであろう。

神の国の福音 よみがえりの力

2013年03月06日 13:45

【1コリント15:17-20】
もしキリストがよみがえらなかったとすれば、あなたがたの信仰は空虚なものとなり、あなたがたは、いまなお罪の中にいることになろう。
そうだとすると、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったのである。
もしわたしたちが、この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけだとすれば、わたしたちは、すべての人の中で最もあわれむべき存在となる。
しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。

あなたはよみがえりを信じているでしょうか?
イエスキリストがよみがえられた事実と、あなた自身がよみがえったという事実。これをあなたの主観的事実として、受け取っているでしょうか?
全てイエスを救い主として受け入れ信じたクリスチャンは、キリストにあるバプテスマ、つまり洗礼を原則として受けているはずです。
これはキリストの死に預かることと、それにより同時にキリストのよみがえりに預かるということであり、クリスチャンとなった者には共通の経験です。

【ローマ6:3-5】
それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。

しかし、この洗礼が信仰入門、あるいは教会会員として入会するための通過儀礼的な宗教儀式として、形骸化した経験しか持たないのであれば、それは最も望みのないものです。
この十字架の死とよみがえりの事実を自分の主観的現実(経験)として受け入れられず、またよみがえりの絶大かつ圧倒的な恵みを、その本質的な意味を全く知ることなく、クリスチャンとして生涯を送る人達は、「この世の生活でキリストにあって単なる望みをいだいているだけ」の虚しい人、「すべての人の中で最もあわれむべき存在」であると言えるのです。
そしてその事実に基づきあなた自身の持っている信仰の真価が問われるように、時代は厳しい現実を世界中に突き付けるものとなってきました。
ある人はこの厳しい現実を見ないように生きているかも知れません。確かにそのような傾向は社会全体の流れにおいても、あるいはクリスチャンであっても、信仰者の集まりである教会や教団といったものの中でも、見受けられるのですが、だからといって心の奥底を言い知れない不安で覆ってしまうような厳しい現実が、個人個人の生活を襲って来ているのは紛れも無い事実です。
確かにここに不安を抱えて生きているのは不信仰のように思われ、口にするのをはばかり、あるいは信仰を奮い起こすように何事もないかように生きることもできるでしょう。
しかし、この現実が加速度的に力を持ってあなた個人の生活に襲うようになるのであれば、「キリストにあって単なる望みをいだいているだけ」の命のない信仰は絶望に砕かれ、「すべての人の中で最もあわれむべき」人となることでしょう。
見ないように生きてさえいれば、現実はそのようにならないよう手をゆるめてくれるでしょうか。
いいえ、むしろ一人一人の信仰を篩(ふるい)にかけるような時が来るとさえ聖書は語っているはずです。

【ヘブル12:26,27】
あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。
この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。

あなたの抱えている信仰にある望みは一時的で、消え去る類いのものでしょうか?あるいは永遠に残るものとしての望みでしょうか?
死を経てよみがえりに至る、よみがえりの命を持つ者、永遠の命を持つ、つまり永遠の時間に既に生きている者は、ここに永遠の望みを持っており、その望みは天地が揺らいでも揺るぐことのない絶対的なものなのです。

【ヨハネ11:25,26】
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。

この主イエスの御言葉は福音の中核に位置する言葉です。
あなたはここに確信を得ているでしょうか?
あなたは本当にあなたの内側で起こっているこの絶大な意味を知り、また受け取っているでしょうか?

万物は全て同じ定めの元に伏しています。それは死という結論を誰も免れることができないということです。そして、すべての人は死んだ後裁きを受けることが定まっているのです。

【ヘブル9:27】
そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、

しかし、我らの主イエスキリストは、この死を経てなおそれを覆し、よみがえられた方、死を無力なものとされた方なのです。そしてそのよみがえりを私達の内にも成就され、同様に私達に対して、死の恐怖をもって力を行使するあらゆるもの一切を無効化された方なのです。
そして、全てはこのよみがえりの内に、死は圧倒的な勝利に飲み込まれてしまったのです。

【1コリント15:5】
「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。

つまり、私達がイエスキリストと共によみがえりの命を生きる時、私達を取り囲み悩ましていた全てのものはその死と共に勝利の内に飲み込まれるのです。
そしてさらに驚くべきことに、私達はやがて完成する神の計画を、今私達の内に先取りして受け取る者となるのです。
これを今現在に受け取らせるものこそ、イエスが私達に与えたよみがえりの命なのです。

【黙示録21:3,4】
「見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、
人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」。

このよみがえりの命(聖霊)こそ、主が私達に与えた栄光の望みであり、永遠に変わることのない宝として与えられたもの。そして、これがやがて与えられる天の御国において私達が完全に受け取るべきものを、今この地において前味として先に受け取らせる絶大なものなのです。

【エペソ1:13,14】
あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

このよみがえりの命に潜在する絶大な力がいかなるものかを、私達がその本質を本当に知った時、私達はいかなる状況や時代に生きたとしても、それらのこと一切が私達には何の意味もなく、何一つ私達に力を及ぼすことができないものであることを知り、死から本当の意味で解放されることでしょう。
そして、むしろ私達の内に既に与えられているよみがえりの力のあまりに絶大であるがために、世界や歴史でさえ動かされる神の圧倒的な働きを目の当たりに見ることになるです。

【エペソ1:19-23】
また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。
神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。
そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。
この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

どうか、あなたがこのよみがえりの命にあって生きますように。
どうか、あなたが今現在与えられている恵みばかりでなく、やがて与えられる天の御国を継ぐ保証として与えられている、永遠の命たる聖霊の絶大なる力と恵みを知り、神の知恵と啓示の霊をもって、神の永遠のご計画を知るに至りますように。

神の国の福音 はじめに

2013年02月12日 09:34

「神の国の福音」を分かち合うにあたり

多くの神を信じた兄弟姉妹が、救いというあまりにも大きな主からの恵みを受けていながら、その本質を知らないために、この地で受け取れるべき祝福をほとんど受け取らないで生きているという事実を聞いたとしたら驚かれるでしょうか。
救いに含まれる恵みのただ一部分を受け取るのみで、その全体を受け取らずに生涯を歩んでいる。
それは現代のキリスト教会で語られている福音が、いつの間にかその本質的意味合いから、ごく一部分の狭い意味合いにのみ重点を置くようになったことによります。
長きに渡り、人間の知性のみによって理解しやすい聖書解釈、あるいは生活に実際的な側面だけを着目する信仰姿勢により、永遠の命を与えられた者にだけ理解することができる、神にある永遠不変の価値観および視点というものを軽視して教会の歴史が進んできたためと言えるでしょう。
それはまさに福音の本質から目を閉ざした教会が眠りについている姿(たとえばマタイ25:1-13の居眠りをする十人のおとめの話)。
聖書は何度も私達に目を覚ましていなさいと語りかけていますが、それは後の時代に教会がこのように寝てしまっている姿を、主イエスはすでに見ていたからだと言えるのです。
福音をもしも、日常の諸問題の解決法や人生訓を信仰から得ているといったような、あるいは個々の教会の運営を信仰的生活と考えているのであれば、たとえ主イエスキリストの十字架の死と復活が福音の中心だと言ったとしても、やはりかなり狭い意味でしか福音を捉えていないということになるでしょう。
地上における諸々の日常的祝福が私達に与えられている祝福の全てではありません。
いや、地上の祝福を全て受け取ったとしてもそれでさえ、私達に与えられている祝福の全体ではないのです。
主は天上における祝福を既に天地万物が創造される以前から、あなたが地上に生まれる遥か以前から与えておられるのです。

【エペソ1:3-5】
神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。

つまり、地上の祝福のみならず、天上における祝福も本来すでにあなたには与えられているというのです。天上の祝福とはいかに絶大なものでしょうか。これに比べれば、地上の祝福すべてを受け取ってさえ、遥かにその一部分に過ぎません。想像もつかないような絶大なものが私達にすでに与えられているとしたら、私達はいかにその宝を土に埋めたまま受け取らずに人生を歩んで行くことでしょうか。
まだピンと来られていない方もいらっしゃるでしょうか。
例えていうなら、救いを受けて、とても綺麗な部屋が与えられた。部屋は日常生活を送るには支障のない大きさであり、とても綺麗にされていたので、その中を綺麗に保つように生活を続けていた。日常に不便となるようなことはなく、すべてはその中に揃えられていた。
しかし、その人は自分が与えられているものがその部屋のさらに向こう側へと続く扉の向こうにあるとは考えていなかった。
この扉の向こうには王宮があり、それがその人に与えられているものであった。
つまり、その人が救いを受けて与えられていると思い込んでいたあの綺麗な部屋は、その人が与えられている王宮自体の玄関の間に過ぎなかったのである。
その人は王宮で受け取るべき生活も、またそこで与えられている王族としての身分も、だからこそ与えられている王族としての使命たる働きも、何も受け取って来なかったのである。

【1ペテロ2:9,10】※新改訳
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。

私達にはこの王宮に進み入り、受け取るべきものがあるばかりか、"選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民"として、すべきことが地上にあります。
どのようにあなたの人生を全うすべきかは自由です。
しかし、まだあなたが与えられているものがいかなるものかを全く知らずに歩んでおられるのであれば、その扉を開けて王宮を見る必要があります。
そして、これから皆さんと分かち合うことが、その扉を開ける手助けとなることを、私は心から願います。

【エペソ1:17-19】
どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、
あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

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