小さい者への大きな望み

2015年05月13日 21:52

【マタイ12:15-22】
12:14 パリサイ人たちは出て行って、なんとかしてイエスを殺そうと相談した。
12:15 イエスはこれを知って、そこを去って行かれた。ところが多くの人々がついてきたので、彼らを皆いやし、
12:16 そして自分のことを人々にあらわさないようにと、彼らを戒められた。
12:17 これは預言者イザヤの言った言葉が、成就するためである、
12:18 「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。
12:19 彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。
12:20 彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。
12:21 異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。
12:22 そのとき、人々が悪霊につかれた盲人のおしを連れてきたので、イエスは彼をいやして、物を言い、また目が見えるようにされた。

私達のイエス様は何ともあわれみ深くいつくしみ豊かな方。
私達が苦しみ悩む姿を見て、それを決して見捨てるようなことはなさいません。
世は弱き者を見捨て、小さい者を踏みにじるかも知れません。
しかしイエス様は人知れない所で苦しむ者に自ら近づかれ、病の者を癒し、悪霊に憑かれる者から悪霊を退け、光を失い闇の中に居る盲人に光を与え、しかしそのいずれをも、この弱き者達を傷つけることのないように、心挫けることのないように、「いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない(20節)」ように、何よりも私達を愛するゆえに御業を成し、静かに私達に寄り添い、立ち上がらせてくださるのです。
主の正義はすでに十字架にあって私達の内に完全なる勝利を得させてくださいましたが、私達がその勝利を確信し、主の正義にあって力強く立てるようになるまで、弱い私達に寄り添ってくださるのです。
自らの力や知恵を誇り、強く大きな者達が、奪い取るように得る勝利などそこにはなく、むしろそのような者には、この世の最も低い場所、小さき場所、暗い場所、醜い場所、汚い場所、罪深き場所、この世においては決して日の目を見ないような場所を歩まれた、心優しき救い主に出会うことはないでしょう。
だからこそ、この小さき弱い者にご自身の完全なる勝利を現そうとされるのです。
自ら完全なる者あるいは完全になろうとする者には十字架は必要ありません。
いやむしろ欠けだらけの私達に、その弱さの中に主はご自身の栄光を現されるのです。

【2コリント12:9,10】
12:9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

だから、今主の前に、自らの力で、知恵で、強い者、賢い者、優れた者のように立つ必要がないことを知りましょう。
失敗のない、傷のない、欠けのない者のように、優等生の信仰者でなければならないような幻想に捕らわれ、自らの罪を、弱さを、傷を、悩みを、主に隠して御前に立つことを脇に置きましょう。
主の前に私達は自らを飾るのではなく、裸で(聖書においては「全き者として」と表現されています。その全てを最も正直にさらけ出し神の御前に出る者として)私達の欠けを弱さを持って、主の前に出ましょう。
主はそこにご自身のあわれみといつしみを注ぎ、果てしなく愛して、ご自身の栄光を現し、この主によって私達は強い者、完全なる勝利者とされるでしょう。

さあ、主は今弱いあなたに近づき寄り添われます。主の愛なる御手に安心して身をゆだねましょう。