救い主を見る

2015年05月12日 21:02

【哀歌3:18-33】
3:18 そこでわたしは言った、「わが栄えはうせ去り、わたしが主に望むところのものもうせ去った」と。
3:19 どうか、わが悩みと苦しみ、にがよもぎと胆汁とを心に留めてください。
3:20 わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる。
3:21 しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。
3:22 主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。
3:23 これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。
3:24 わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。
3:25 主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
3:26 主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。
3:27 人が若い時にくびきを負うことは、良いことである。
3:28 主がこれを負わせられるとき、ひとりすわって黙しているがよい。
3:29 口をちりにつけよ、あるいはなお望みがあるであろう。
3:30 おのれを撃つ者にほおを向け、満ち足りるまでに、はずかしめを受けよ。
3:31 主はとこしえにこのような人を捨てられないからである。
3:32 彼は悩みを与えられるが、そのいつくしみが豊かなので、またあわれみをたれられる。
3:33 彼は心から人の子を苦しめ悩ますことをされないからである。

人生が順境の時、毎日が平穏なときに、心に平安を得ることは容易いことでしょう。
しかし、逆境の中で平安を得るからこそ、主の与えてくださる平安はこの世が与えるものとは根底的に異なる(ヨハネ14:27)のです。
人は苦しみの中で、多くのことを考えます(18-20節)。
絶望的な未来、神への疑問、不平、自らの手でいかにその苦しみから這い出るかなどなど、数え上げたら切りがない程、自問自答や神への言葉を並べるでしょう。
もちろん祈ることを退けていなかったとしても。
しかし、それらのことが私達に何か役に立つような答えをもたらすことはないでしょう。
人は神を信じられないなら、偽りの言葉に翻弄され、本当の絶望からの出口、主への希望を見失ってしまうからです。
いや、逆の意味で言うのであれば、主を信じる者にはいついかなる時にも希望がある(21節)のです。

「主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。(22節)」

神の愛なる方であることを忘れないことは、私達の原点です。
この主の愛が私達にご自身の命をも与えてくださるほどに注がれていることを思い出してください。そのことを信じる者には、主は愛をもって今私達に臨んでくださること知るでしょう。

「これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。(23節)」

神は真実なる神です。神はご自身の義によって、全世界を治め、保ち、さばかれる方(申命記32:4、詩篇96:10-13)。この方の義がなければ全世界は跡形もなく一瞬にして滅びるでしょう。
だからこそ、神はその義を決して曲げることはなく、ですからこの方の大いなる真実によって立つ者は、この方により日々新しくされ、よみがえりを得るのです。
まさにその神の義こそ、主の十字架にあって私達に現されたもの(2コリント5:21)。
その神の義による、十字架の死とよみがえりによって、私達は全てが新しくなった(なり続けている)のです(2コリント5:17)。

そして、この苦しみは、この悩みは、この逆境は決して無駄なものではありません(27-30節)。私達はここにおいて重要なことを知るのです。

【哀歌3:24-26】
3:24 わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。
3:25 主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
3:26 主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。

この苦しみにおいて、私達は主の他に何一つ与えられているもの(私のもの)はなく、しかしこの方こそ私の全てであられる方、つまり私の唯一となられる方(申命記6:4,5)、全てを満たされる方であることを知り(ローマ8:32)、この方を、この方の救いを待ち望むのです。

決して主に救いが遅くなることも、見捨てられることもありません(31-33節)。
なぜなら、この方は私達が神に見捨てられる者とならないために、ご自身が神に見捨てられた者となったのだからです。

【マタイ27:45,46】
27:45 さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。
27:46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

この哀歌はバビロンに捕囚され、エルサレムが飢饉と疫病の中、バビロンの兵に虐殺され、焼き尽くされていく、絶望的な苦しみの中で、歌われたものです。
そして、その中でさえ、いやその中だからこそ、この歌の筆者(多くは預言者エレミヤと言われていますが)は、後の日の救い主イエスキリストの真の救いを祈りの内に見ることができたと言えるでしょう。
苦しみは我らの主がただ真実に唯一なる救い主であることを深く知らしめ、そこに根ざす、いかなる状況においても揺るぐことのない、真の希望を私達に得させるのです。
そうです。私達にはすでに与えられているのです。
私達の呼ぶべき唯一の、私達に救いを得させる方の名を。

【使徒行伝4:11,12】
4:11 このイエスこそは『あなたがた家造りらに捨てられたが、隅のかしら石となった石』なのである。
4:12 この人による以外に救はない。わたしたちを救いうる名は、これを別にしては、天下のだれにも与えられていないからである」。

今苦しみの中にあるなら、この方の名を呼びましょう。
この方の救いのいかに愛に満ちているかを、その祈りの内に、そしてこの後あなた自身の上に現される主のあわれみ深い御業の内に、深く知るために。

【エペソ3:16-21】
3:16 どうか父が、その栄光の富にしたがい、御霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強くして下さるように、
3:17 また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
3:18 すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
3:19 また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。
3:20 どうか、わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求めまた思うところのいっさいを、はるかに越えてかなえて下さることができるかたに、
3:21 教会により、また、キリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくあるように、アァメン。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヨハネ14:27】
14:27 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。

【申命記32:4】
32:4 主は岩であって、そのみわざは全く、その道はみな正しい。主は真実なる神であって、偽りなく、義であって、正である。

【詩篇96:10-13】
96:10 もろもろの国民の中に言え、「主は王となられた。世界は堅く立って、動かされることはない。主は公平をもってもろもろの民をさばかれる」と。
96:11 天は喜び、地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき、
96:12 田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。そのとき、林のもろもろの木も主のみ前に喜び歌うであろう。
96:13 主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。

【2コリント5:21】
5:21 神はわたしたちの罪のために、罪を知らないかたを罪とされた。それは、わたしたちが、彼にあって神の義となるためなのである。

【2コリント5:17】
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

【申命記6:4,5】
6:4 イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。
6:5 あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。

【ローマ8:32】
8:32 ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。