善悪の基準

2015年05月06日 20:37

【1テサロニケ5:22】
5:22 あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。

あらゆる悪から遠ざかって歩むこと。
クリスチャンとして歩み始めた私達、神から離れ自分の掛け違えた生き方、罪から贖われ新しい者となった私達が、もちろんこのことを考えないはずはありません。
悪から離れるのはとても当たり前のこと、むしろ罪に戻るような生き方をしたいと思う人など居ようはずがありません。
ですから、なるべく善い生き方をこれからしていきたいと思うのが当然なのです。
ここで問題となるのが何が善い事なのか。何が悪い事なのか。その基準をどこに置くのかということです。
そしてよくあることが、この善悪の基準を自分で線引きすることです。
人の目に善く見えること、それが実は最善であるとどうして言うことができるでしょうか。

【箴言21:2】
21:2 人の道は自分の目には正しく見える、しかし主は人の心をはかられる。

なぜなら、人の視野は非常に狭く個人的な価値観や、経験、常識など、個人によってその正しさは千差万別です。

【エレミヤ17:9】
17:9 心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。

増してや、人の心の中がどうしていつもきれいだと言えるでしょう。しかし安定した一定の基準がなくてどうして善い事と悪い事の区別がつくでしょうか。

イエス様はこのことを簡略に教えてくださいました。

【マルコ10:17,18】
10:17 イエスが道に出て行かれると、ひとりの人が走り寄り、みまえにひざまずいて尋ねた、「よき師よ、永遠の生命を受けるために、何をしたらよいでしょうか」。
10:18 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。

イエス様は「神ひとりのほかによい者はいない。(18節)」と答えられたのです。
ご自身が神の御子でありながら、父なる神の他にはよい者はいないと教えられたのです。
そうです。天地万物を造られた、この父なる神が善なのです。
もしも神が善でないなら、この天地にある全てのものがすでに滅びていることでしょう。
一日たりともこの全世界は維持されることはありません。神の善が全ての根底の基準として存在しているからこそ、全てのものの生き、存在する営みが神によって全て麗しく、この善なる方の秩序、律法により全てのものがなりたっているのです。

【マタイ5:18】
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。

これこそ善である神の愛そのもの。私達は気づいてないかも知れませんが、天文学的奇跡の上に毎日生きている、いやこの神によって生かされているのです。
ですから、神が善であるという基準を明確に持つと私達は不安定な自分の善悪で生きることに恐ろしさすら感じるでしょう。
なぜなら神は私達の善悪の基準ではなく、神ご自身の存在をもって私達を行いを見て居られるからです。

【エレミヤ17:10】
17:10 「主であるわたしは心を探り、思いを試みる。おのおのに、その道にしたがい、その行いの実によって報いをするためである」。

では私達は毎日の生き方の中でそれをどのように知るのでしょうか。
聖書こそ、この神の言葉であり、ここにこそ神の善悪の基準が書かれているものなのです。

【詩篇18:30-32】
18:30 この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は真実です。主はすべて寄り頼む者の盾です。
18:31 主のほかに、だれが神でしょうか。われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。
18:32 神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を安全にされました。

この御言葉に従い生きることこそ、私達があらゆる悪から離れることとなるのです。
そして何より神ご自身に寄り頼み、神を自ら生きる全ての基とすることこそ、何があっても揺るがない岩の上に生きることとなるのです。
まずは神に信頼し、神の一歩でも近くに生きたいと願うこと。
そしてそのために神の御言葉、聖書を読み、神ご自身を知ることを、願うこと。
それこそが悪から離れ、主に喜ばれる最善の道を歩むこととなるでしょう。

今日あなたはどのように過ごされているでしょうか。
あなたの最善の人生を歩むために、さあ祈りと賛美にあって主と交わり、信頼を深め、聖書を読んで、新しい一日を豊かに過ごして参りましょう。