石ころでも

2015年05月07日 13:32

自分の人生をふと振り返ると、パッとするわけでもなく、ごく当たり前に、しかし良いところもなく、代わり映えもなく、まるで石ころのような人生だなと、大人として歩んできた自分に昔ほどの可能性も未来の輝きもなくなり、そんなことを考えるときがあるかも知れません。
ところが聖書にはその石について、全く違う視点からこう語られています。

【ルカ19:35-40】
19:35 そしてそれをイエスのところに引いてきて、その子ろばの上に自分たちの上着をかけてイエスをお乗せした。
19:36 そして進んで行かれると、人々は自分たちの上着を道に敷いた。
19:37 いよいよオリブ山の下り道あたりに近づかれると、大ぜいの弟子たちはみな喜んで、彼らが見たすべての力あるみわざについて、声高らかに神をさんびして言いはじめた、
19:38 「主の御名によってきたる王に、祝福あれ。天には平和、いと高きところには栄光あれ」。
19:39 ところが、群衆の中にいたあるパリサイ人たちがイエスに言った、「先生、あなたの弟子たちをおしかり下さい」。
19:40 答えて言われた、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう」。

イエス様がこの地に来られ、いにしえの預言を成就する形(ろばの子に乗って)でエルサレムに入城された時、この栄光の姿に人々は救い主として、神に賛美をささげました。
そのイエス様を救い主と受け入れられなかった当時の聖書に精通する知識人(パリサイ人)が、それを止めるようイエス様にいうと、「あなたがたに言うが、もしこの人たちが黙れば、石が叫ぶであろう(40節)」と言ったのです。
石ころのような自分でも、今はこのイエス様が私の内に来てくれた。こんな私でもイエス様を賛美することをゆるされている。
かつて私はこのことがうれしくて仕方ありませんでした。

驚くべき事にさらに聖書はその石が天国、永遠の都の中で宝石となって輝く私達の姿を語っています。

【黙示録2:19-21】
21:9 最後の七つの災害が満ちている七つの鉢を持っていた七人の御使のひとりがきて、わたしに語って言った、「さあ、きなさい。小羊の妻なる花嫁を見せよう」。
21:10 この御使は、わたしを御霊に感じたまま、大きな高い山に連れて行き、聖都エルサレムが、神の栄光のうちに、神のみもとを出て天から下って来るのを見せてくれた。
21:11 その都の輝きは、高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようであった。
21:12 それには大きな、高い城壁があって、十二の門があり、それらの門には、十二の御使がおり、イスラエルの子らの十二部族の名が、それに書いてあった。
21:13 東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。
21:14 また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。
21:15 わたしに語っていた者は、都とその門と城壁とを測るために、金の測りざおを持っていた。
21:16 都は方形であって、その長さと幅とは同じである。彼がその測りざおで都を測ると、一万二千丁であった。長さと幅と高さとは、いずれも同じである。
21:17 また城壁を測ると、百四十四キュビトであった。これは人間の、すなわち、御使の尺度によるのである。
21:18 城壁は碧玉で築かれ、都はすきとおったガラスのような純金で造られていた。
21:19 都の城壁の土台は、さまざまな宝石で飾られていた。第一の土台は碧玉、第二はサファイヤ、第三はめのう、第四は緑玉、
21:20 第五は縞めのう、第六は赤めのう、第七はかんらん石、第八は緑柱石、第九は黄玉石、第十はひすい、第十一は青玉、第十二は紫水晶であった。
21:21 十二の門は十二の真珠であり、門はそれぞれ一つの真珠で造られ、都の大通りは、すきとおったガラスのような純金であった。

キリストの花嫁とされた私達は新しい永遠の都エルサレムそのものであり、それの輝きは「高価な宝石のようであり、透明な碧玉のようで」あるのです。
さらに「また都の城壁には十二の土台があり、それには小羊の十二使徒の十二の名が書いてあった。(14節)」は「十二使徒の十二の名」というところからクリスチャンを意味することを示し、その城壁は宝石で飾られている(18-20節)とは私達が輝く宝石として城壁を建て上げている様を見ることができる。
つまり私達はたとえこの地で石ころであっても、やがてこの地で主と共に歩み行く内に変えられて、輝く宝石として天国に住まうということがわかるのです。

【2コリント3:18】
3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

何と素晴らしいことでしょうか。
そんな情景に思いを馳せながら、主にお会いでき救われたことのあまりに大きな幸せに、今日も胸を踊らせるのでした。