自分という偶像

2014年10月30日 11:55

【申命記4:23-31】
4:23 あなたがたは慎み、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れて、あなたの神、主が禁じられたどんな形の刻んだ像をも造ってはならない。
4:24 あなたの神、主は焼きつくす火、ねたむ神である。
4:25 あなたがたが子を生み、孫を得、長くその地におるうちに、道を誤って、すべて何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪をなして、その憤りを引き起すことがあれば、
4:26 わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対してあかしとする。あなたがたはヨルダンを渡って行って獲る地から、たちまち全滅するであろう。あなたがたはその所で長く命を保つことができず、全く滅ぼされるであろう。
4:27 主はあなたがたを国々に散らされるであろう。そして主があなたがたを追いやられる国民のうちに、あなたがたの残る者の数は少ないであろう。
4:28 その所であなたがたは人が手で作った、見ることも、聞くことも、食べることも、かぐこともない木や石の神々に仕えるであろう。
4:29 しかし、その所からあなたの神、主を求め、もし心をつくし、精神をつくして、主を求めるならば、あなたは主に会うであろう。
4:30 後の日になって、あなたがなやみにあい、これらのすべての事が、あなたに臨むとき、もしあなたの神、主に立ち帰ってその声に聞きしたがうならば、
4:31 あなたの神、主はいつくしみの深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、またあなたの先祖に誓った契約を忘れられないであろう。

偶像は人の手で造り出すものです。
何か自然に存在しているもので、それが勝手に人に影響を及ぼしてくるというものではありません。
この偶像を礼拝するようになるにはこの偶像を自らが受け入れるために、すでに心の中に神ではないものを慕う心が存在します。
つまり心の中にすでに偶像が存在している。

【1コリント8:4-6】
8:4 わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。
8:5 というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、多くの主があるようではあるが、
8:6 わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。

私達が神を愛し、神に常に心を向け生活しているのであれば、偶像は全く私達にとって何の意味もないものです。
しかし、その目が自分を愛し、自分のために生活を守るということに、心が占められるなら、そこに偶像が造り出される。

【コロサイ3:5,6】
3:5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
3:6 これらのことのために、神の怒りが下るのである。

それも、偶像と言われているものは、それを礼拝している者には神として認識されることが最も厄介なところです。
つまり、偶像礼拝者は神以外のものを礼拝していると思っておらず、神を礼拝していると思い込んでいる。
でもそれを放置するのであれば、どこまででも神と異なるものを神とあがめるようになる。それでも自分は神を信じていると思い何の疑いも起こらないところが恐ろしいところです(エレミヤ44:16-23)。
しかし、その偶像はもちろん神ではないものですから、根本的にその性質が異なります。
つまり自分を目的にし、自分の思い通りに生きるため、自分の力で生きることを認め、自分の手の業を栄えさせる神を、自分の手の業によって造る。
この自分の栄光、自己礼拝のために造り出されるものが偶像です。
そして、これは人には全く認識できないほど小さく見えるところから生まれるのです。

【出エジプト32:1-10】
32:1 民はモーセが山を下ることのおそいのを見て、アロンのもとに集まって彼に言った、「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです」。
32:2 アロンは彼らに言った、「あなたがたの妻、むすこ、娘らの金の耳輪をはずしてわたしに持ってきなさい」。
32:3 そこで民は皆その金の耳輪をはずしてアロンのもとに持ってきた。
32:4 アロンがこれを彼らの手から受け取り、工具で型を造り、鋳て子牛としたので、彼らは言った、「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」。
32:5 アロンはこれを見て、その前に祭壇を築いた。そしてアロンは布告して言った、「あすは主の祭である」。
32:6 そこで人々はあくる朝早く起きて燔祭をささげ、酬恩祭を供えた。民は座して食い飲みし、立って戯れた。
32:7 主はモーセに言われた、「急いで下りなさい。あなたがエジプトの国から導きのぼったあなたの民は悪いことをした。
32:8 彼らは早くもわたしが命じた道を離れ、自分のために鋳物の子牛を造り、これを拝み、これに犠牲をささげて、『イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である』と言っている」。
32:9 主はまたモーセに言われた、「わたしはこの民を見た。これはかたくなな民である。
32:10 それで、わたしをとめるな。わたしの怒りは彼らにむかって燃え、彼らを滅ぼしつくすであろう。しかし、わたしはあなたを大いなる国民とするであろう」。

神の目にはこれは立派な偶像礼拝です。人がどのように言い訳をしても、神の怒りを引き起こす充分な理由です。
根本は神を愛するより、自分を愛する、神を見るより、自分を見る、というところから発生するもの。
自分を神のようにする恐ろしい罪から生まれているのです。
それは自分を神に対して、サタンと同じ立ち位置に置くものであり、神から離れ、やがて自分の力、自分の栄光を認めない神を憎み、神に敵対する者となるのです。

【創世記3:4-10】
3:4 へびは女に言った、「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。
3:5 それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。
3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
3:7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
3:9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
3:10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。

神を誤解し、憎み、神に逆らうようになる、人の心の構造はこのように生まれるのですが、多くの人が自分の思う通りならない神に、自分が敵対するようになっているとは気づきません。
しかし、自分のために神が存在しているのではありません。天地万物は神の目的のために造られたのです。
それは神を愛し、神に愛されることにより全てが神と一つされるためです。

【エペソ1:8-12】
1:8 神はその恵みをさらに増し加えて、あらゆる知恵と悟りとをわたしたちに賜わり、
1:9 御旨の奥義を、自らあらかじめ定められた計画に従って、わたしたちに示して下さったのである。
1:10 それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。
1:11 わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。
1:12 それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。

もしも、私達が自らを愛することから心を離し、神に愛され、神を愛することから生きるのであれば、どれほど解放されることでしょう。
それはエデンの園における神との関係の回復。
自分を捕らえているのは自分自身なのです。
神はそこから心を離し、神を愛し、その心が神のためにあるように生きることにより、私達を自分から解放するばかりか、そのこと自体が神ご自身の御心を成すこととなり、またこの御心の中に私達への愛が溢れ、私達が主と共に永遠に生きる者となることを望んでおられるのです。

【マタイ16:24-26】
16:24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
16:25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
16:26 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。

【ヨハネ12:24,25】
12:24 よくよくあなたがたに言っておく。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それはただ一粒のままである。しかし、もし死んだなら、豊かに実を結ぶようになる。
12:25 自分の命を愛する者はそれを失い、この世で自分の命を憎む者は、それを保って永遠の命に至るであろう。

神は私達が自己礼拝を捨て、偶像を打ち砕き、自分が自分を捕らえ続ける自分地獄から解放され、神の祭壇のみを建て、神のみを愛し、永遠の命に至るよう私達が歩むことを望んでおられます(1コリント10:16-22,2コリント6:14-18)。
解放の時を叫ぶなら、今がその時です。
自分自身から解放されましょう。
それがサタンの呪縛からの解放となります。
自分を否むことには痛みが伴うように思うでしょう。
けれどもその道すら主がすでに用意されています。
私達はすでに自分自身を主イエスと共に十字架につけ、死んだのです。今生きているのはよみがえられたキリストの命による(ガラテヤ2:19,20)のです。
自分とはすでに一切関係がありません。
痛みを訴えるのは自分を握りしめる自分の心だけなのです。
主の十字架に心を向けましょう。
主に心を向けましょう。
そこに自分を手放しても痛くない、溢れるほどの主の愛があなたに注がれているのがわかるでしょう。
その無限に注ぎ続けられる愛を受けて、主を愛し、主のために生きましょう。
その時、あなたの本当の主にある歩みが始まります。
共に祈りましょう。

※今日の引用箇所です。

【エレミヤ44:16-23】
44:16 「あなたが主の名によってわたしたちに述べられた言葉は、わたしたちは聞くことができません。
44:17 わたしたちは誓ったことをみな行い、わたしたちが、もと行っていたように香を天后にたき、また酒をその前に注ぎます。すなわち、ユダの町々とエルサレムのちまたで、わたしたちとわたしたちの先祖たちおよびわたしたちの王たちと、わたしたちのつかさたちが行ったようにいたします。その時には、わたしたちは糧食には飽き、しあわせで、災に会いませんでした。
44:18 ところが、わたしたちが、天后に香をたくことをやめ、酒をその前に注がなくなった時から、すべての物に乏しくなり、つるぎとききんに滅ぼされました」。
44:19 また女たちは言った、「わたしたちが天后に香をたき、酒をその前に注ぐに当って、これにかたどってパンを造り、酒を注いだのは、わたしたちの夫が許したことではありませんか」。
44:20 そこでエレミヤは男女のすべての人、およびこの答をしたすべての民に言った、
44:21 「ユダの町々とエルサレムのちまたで、あなたがたとあなたがたの先祖たち、およびあなたがたの王たちとあなたがたのつかさたち、およびその地の民が香をたいたことは、主がこれを忘れず、また、心にとどめておられることではないか。
44:22 主はあなたがたの悪しきわざのため、あなたがたの憎むべき行いのために、もはや忍ぶことができなくなられた。それゆえ、あなたがたの地は今日のごとく荒れ地となり、驚きとなり、のろいとなり、住む人のない地となった。
44:23 あなたがたが香をたき、主に罪を犯し、主の声に聞き従わず、その律法と、定めと、あかしに従って歩まなかったので、今日のようにこの災があなたがたに臨んだのである」。

【1コリント10:16-22】
10:16 わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。
10:17 パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。
10:18 肉によるイスラエルを見るがよい。供え物を食べる人たちは、祭壇にあずかるのではないか。
10:19 すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。
10:20 そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。
10:21 主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。
10:22 それとも、わたしたちは主のねたみを起そうとするのか。わたしたちは、主よりも強いのだろうか。

【2コリント6:14-18】
6:14 不信者と、つり合わないくびきを共にするな。義と不義となんの係わりがあるか。光とやみとなんの交わりがあるか。
6:15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。
6:16 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」。
6:17 だから、「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
6:18 そしてわたしは、あなたがたの父となり、あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。

【ガラテヤ2:19,20】
2:19 わたしはキリストと共に十字架につけられた。
2:20 生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。