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栄光の歩み

2014年09月12日 10:07

【ローマ12:11,12】
12:11 熱心で、うむことなく、霊に燃え、主に仕え、
12:12 望みをいだいて喜び、患難に耐え、常に祈りなさい。

この地にあって、教会がまずすべき事は何であるのか。それがここに表されているように思います。
それはいかなる時代においても、いかなる場所においても変わることはありません。
ローマ人への手紙に、この後に多く語られている具体的な教会として聖徒としての歩みに先立ち、パウロが聖徒達に語ったこと。
だから、この地に遣わされた教会として、主イエスに救われたすべての聖徒達は、これを始めとしなければ何の力も得ないでしょう。
すべき事、やりたいこと、主の計画と思わしきこと、私達が教会として、することはたくさんあるように思われます。
でもどこから始めるのかが重要なのです。その行く末が大きく変わってしまうからです。

主の霊にあって立ち、主の霊により、神の熱心を私達はすべての日にまとう必要があります。
主の熱情は私達を常に霊に満たし続けさせ、霊に燃え、その炎が私達自身を燃やし続け、私達の「からだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげ(ローマ12:1)」させ続けるでしょう。
こうして私達は主に仕えるという、自らのささげものを主にささげ続けるのです。

私達の望みはこの地上で消えゆくような望みではありません。

【エペソ1:14】
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

私達の望みは神の国をつぐことの望みであり、私達のために「天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ(1ペテロ1:4)」望みなのです。

【ローマ8:24,25】
8:24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
8:25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

この目に見えない望みを、聖霊は私達に信仰によって見させるものであり、「聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか(エペソ1:18)」を知らしめるものです。
そして、この望みを待ち望ませ、それこそが、神の計画(みこころ)に生きることであり、私達がこの地上に生きる理由、またこの地上で生きるための大きな力ともなるのです。
私達はこの栄光を見て喜びます。

【ヘブル11:13,16】
11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
 [中略]
11:16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

だから私達はこの地上でいかなることがあっても屈することがありません。
絶望することはありません。
たとえ、この地上で、苦しみや悲しみ、あるいは世から思わぬ迫害を受けることがあったとしても、この永遠の栄光にすべての歩みは繋がっていることを知り、あらゆる状況を越えて、神の霊に満たされ、この世で得ることのできない喜びに満ち、神の力に満ちるのです。
こうして、私達は絶えることなく、満ち溢れて常に祈り続け、満ちた祈りは神の国をこの地に顕現させ、この地に神の栄光が満ちるのです。

【2コリント4:17,18】
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

私達の歩みは永遠です。
私達は永遠の命を得ているのです。
私達は永遠にすべき事をこの地上でし続けながら、今この地の生活でしかできないことをすべきなのです。
永遠の主の栄光を見ながら。
主イエスがそのようにこの地上を歩まれたように。

ただ主の望むこと

2014年09月11日 10:54

【申命記10:12-16】
10:12 イスラエルよ、今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。すなわちあなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、
10:13 また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。
10:14 見よ、天と、もろもろの天の天、および地と、地にあるものとはみな、あなたの神、主のものである。
10:15 そうであるのに、主はただあなたの先祖たちを喜び愛し、その後の子孫であるあなたがたを万民のうちから選ばれた。今日見るとおりである。
10:16 それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。

私達がなぜ主に選ばれ、救われたのか、その理由は全くわかりません。
おそらく、その理由は永遠にわからないでしょう。
私達に何らかの理由があって、神が救う価値があるとして救われた。
そのようなものは、私には何も見当たりません。
私には主を喜ばせるものは何もなく、むしろ生来の性質は、常に主に逆らい、甚だしく悪しき罪に汚れた罪人。主から離れ、自分の事のみに没頭して生きてきました。
神に愛されることなど知りもしませんでしたから、神を愛することなど到底考えもしませんでした。
私の迎えるこの一日がすべて自分の力で支えられていると信じ、そのすべてが神の恵みによって支えられていたことなど露も知りませんでした。

そんな私を主は愛してくださいました。
それは主からの一方的な愛でした。
主はそんな主も知らず逆らうだけの何の価値もない者を、何の得もないであろうに救ってくださったのです。
天地万物のすべては主のものです。
この方がすべてを造り、そのすべてを今も、また永遠に統べ治めておられます。
そんな壮大な想像すらつかない方が、その持ちゆるすべてのものを置いて、あたかも私が主のものでなければ、それらのものが何の意味もなく、何の価値もないかのように、私のために地に下られ、ご自身のすべてを私にくださいました。
その命までも。
神の御子である方の命という絶大なる価値ある犠牲(十字架)に、私など見合うものではありません。
なのに主は、「今、あなたの神、主があなたに求められる事はなんであるか。ただこれだけである。(申命記10:12)」と言われるのです。
「ただこれだけ」です。
私が主を愛さなければ何の意味もないかのように、主は「あなたの神、主を恐れ、そのすべての道に歩んで、彼を愛し、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に仕え、また、わたしがきょうあなたに命じる主の命令と定めとを守って、さいわいを得ることである。(申命記10:12,13)」と言われるのです。
それも、私が「さいわいを得る」ために、なのです。
どうして、そんな主を愛さずにおれましょう。
ただ一方的にこれほど愛してくださった方に答えずにおられましょう。

【申命記10:16】
10:16 それゆえ、あなたがたは心に割礼をおこない、もはや強情であってはならない。

私のすべては、そしてこの命は主のものです。
私は永遠に主よ、あなたを愛します。

戸をたたく音

2014年09月09日 09:25

【黙示録3:20】
3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

この御言葉は驚くべき事に、神を信じない者にではなく、クリスチャンである、七つの教会の一つに語られています。
「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。(ヨハネ14:23)」と言われる主イエスが、私達の内に住まうのではなく、「戸の外に立って、たたいている(黙示録3:20)」のだとしたらどのような状況だというのでしょうか。
私達は救われた時、救い主であるイエスキリストを信じ、受け入れたはずです。つまり、私達の内に主をお迎えし、主は私達の内に住んでくださっている。また同時に教会の内にご臨在される方のはずです。
その方が戸の外に立つと言うことは、すでに主イエスが私達の内から、また教会の内から、外に出されてしまっているということです。
何と悲しむべき事でしょうか。
「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない。(ピリピ2:21)」とある通り、私達の各々の事情は主イエスを私達の心の内から閉め出すのです。

【創世記3:6-11】
3:6 女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。
3:7 すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。
3:8 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。
3:9 主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。
3:10 彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。
3:11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。

このことは、アダムとエバがサタンの誘惑に会い、「食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われ(創世記3:6)」る実を食べたのと同様に、
「肉の欲、目の欲、持ち物の誇(1ヨハネ2:16)」に惑わされて、「世と世にあるものとを、愛して(1ヨハネ2:15)」、主から身を隠し、父(神)の愛を退ける(ヨハネ2:15)ことであり、
アダムとエバがエデンの園に住まいながら、主を退けたために、自らをエデンの園から退けてしまったのと同じ過ちを繰り返すこととなるのです。

【ルカ14:16-24】
14:16 そこでイエスが言われた、「ある人が盛大な晩餐会を催して、大ぜいの人を招いた。
14:17 晩餐の時刻になったので、招いておいた人たちのもとに僕を送って、『さあ、おいでください。もう準備ができましたから』と言わせた。
14:18 ところが、みんな一様に断りはじめた。最初の人は、『わたしは土地を買いましたので、行って見なければなりません。どうぞ、おゆるしください』と言った。
14:19 ほかの人は、『わたしは五対の牛を買いましたので、それをしらべに行くところです。どうぞ、おゆるしください』、
14:20 もうひとりの人は、『わたしは妻をめとりましたので、参ることができません』と言った。
14:21 僕は帰ってきて、以上の事を主人に報告した。すると家の主人はおこって僕に言った、『いますぐに、町の大通りや小道へ行って、貧乏人、不具者、盲人、足なえなどを、ここへ連れてきなさい』。
14:22 僕は言った、『ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席がございます』。
14:23 主人が僕に言った、『道やかきねのあたりに出て行って、この家がいっぱいになるように、人々を無理やりにひっぱってきなさい。
14:24 あなたがたに言って置くが、招かれた人で、わたしの晩餐にあずかる者はひとりもないであろう』」。

主が再び来られる終わりの時は、その反対に神への愛が冷め、各々自分の事に心を奪われ、神を閉め出し、せっかく招かれた婚宴にあずからないという、教会の本来の目的を完全に見失い、世の友となり、またサタンの友ともなり、神の敵となりさがった(ヤコブ4:4)教会の姿をここに見ることができます。
何と恐ろしく愚かなことでしょうか。
しかし、彼らは主が来られる直前まで世を謳歌し、「自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っている(黙示録3:17)」者達となるでしょう。

【ルカ17:28-30】
17:28 ロトの時にも同じようなことが起った。人々は食い、飲み、買い、売り、植え、建てなどしていたが、
17:29 ロトがソドムから出て行った日に、天から火と硫黄とが降ってきて、彼らをことごとく滅ぼした。
17:30 人の子が現れる日も、ちょうどそれと同様であろう。

しかし、主が来られる日はその婚宴に入れられる者には最も幸いの日となるとしても、それを退ける者には裁きの火の中で、主に退けられ絶望の内に投げ出される日(ルカ13:24-27)となることでしょう。
残念なことに、多くのそのようなクリスチャンは主が来られる日ははるか先の事のように認識(1ペテロ3:3,4)し、自分の生きている間にはそのようなことはないであろうと考えます。
しかし、私達は明日生きているのかどうかもわからない「消え行く霧にすぎない(ヤコブ4:14)」存在です。
もし、明日にでも私達が死を迎え地上を離れるようなことがあれば、主イエスに再びお会いするのは明日ということになるではありませんか。
携挙を明日来るかも知れぬと待ち望むことは、個人においては明日にでも主にお会いすることになるやも知れぬと、備えを今するように生きるということでもあります。
主への愛が冷め、主を退けることがいかに主が悲しむ事であり、また愚かで恐ろしいことであるのか、私達は認識を新たにし、目を覚ます必要があるのです。

【雅歌5:2-8】
5:2 わたしは眠っていたが、心はさめていた。聞きなさい、わが愛する者が戸をたたいている。「わが妹、わが愛する者、わがはと、わが全き者よ、あけてください。わたしの頭は露でぬれ、わたしの髪の毛は夜露でぬれている」と言う。
5:3 わたしはすでに着物を脱いだ、どうしてまた着られようか。すでに足を洗った、どうしてまた、よごせようか。
5:4 わが愛する者が掛けがねに手をかけたので、わが心は内におどった。
5:5 わたしが起きて、わが愛する者のためにあけようとしたとき、わたしの手から没薬がしたたり、わたしの指から没薬の液が流れて、貫の木の取手の上に落ちた。
5:6 わたしはわが愛する者のために開いたが、わが愛する者はすでに帰り去った。彼が帰り去ったとき、わが心は力を失った。わたしは尋ねたけれども見つからず、呼んだけれども答がなかった。
5:7 町をまわり歩く夜回りらはわたしを見ると、撃って傷つけ、城壁を守る者らは、わたしの上着をはぎ取った。
5:8 エルサレムの娘たちよ、わたしはあなたがたに誓って、お願いする。もしわが愛する者を見たなら、わたしが愛のために病みわずらっていると、彼に告げてください。

愛する主があなたの元にその溢れるほどの愛を持ってあなたを迎えに来られる時、あなたを呼び戸をたたく音がしても、この世で生きることに馴染んで、戸を開けることに躊躇し、この世への未練と、この世の教える常識の中に眠り続けることを望むならば、主は悲しみと共に去っていくことでしょう。
そこに残されるのは、あなたのために、十字架に自らの命をささげた主の死(没薬)の事実とそこに主がどれほどにあなたを愛したのか、注ぎ続けた主の愛のみであり、それを退けてしまった自らの愚かさへの言いようのない絶望感でしょう。
そして、残されたこの世では迫害の波の中、主を選んで殉教するか、主を捨てて背教し、永遠の滅びを選ぶかしか存在しない時代に生きることとなるのです。
だから、主はここに私達に対して警告し、主の再臨を退ける前に、主の愛に目覚めるよう勧めています。
主への愛のために病みわずらうほどに、主にお会いすることをこい慕い、この地で離れていようとも主を待ち望む。
あなたの愛は目覚めているでしょうか。
この地の生活に埋もれ、
主があなたに注いだ初めの愛から離れてはいませんか?

【黙示録2:4,5】
2:4 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 そこで、あなたはどこから落ちたかを思い起し、悔い改めて初めのわざを行いなさい。もし、そうしないで悔い改めなければ、わたしはあなたのところにきて、あなたの燭台をその場所から取りのけよう。

※今回の聖書の引用箇所です。ご一緒にご参照ください。

【1ヨハネ2:15-17】
2:15 世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。
2:16 すべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、持ち物の誇は、父から出たものではなく、世から出たものである。
2:17 世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。

【黙示録3:14-22】
3:14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。
3:15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
3:16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。
3:18 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。
3:19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。
3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。
3:21 勝利を得る者には、わたしと共にわたしの座につかせよう。それはちょうど、わたしが勝利を得てわたしの父と共にその御座についたのと同様である。
3:22 耳のある者は、御霊が諸教会に言うことを聞くがよい』」。

【ヤコブ4:4】
4:4 不貞のやからよ。世を友とするのは、神への敵対であることを、知らないか。おおよそ世の友となろうと思う者は、自らを神の敵とするのである。

【ルカ13:24-27】
13:24 そこでイエスは人々にむかって言われた、「狭い戸口からはいるように努めなさい。事実、はいろうとしても、はいれない人が多いのだから。
13:25 家の主人が立って戸を閉じてしまってから、あなたがたが外に立ち戸をたたき始めて、『ご主人様、どうぞあけてください』と言っても、主人はそれに答えて、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない』と言うであろう。
13:26 そのとき、『わたしたちはあなたとご一緒に飲み食いしました。また、あなたはわたしたちの大通りで教えてくださいました』と言い出しても、
13:27 彼は、『あなたがたがどこからきた人なのか、わたしは知らない。悪事を働く者どもよ、みんな行ってしまえ』と言うであろう。

【1ペテロ3:3-10】
3:3 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、
3:4 「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。
3:5 すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、
3:6 その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。
3:7 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。
3:8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
3:9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
3:10 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。

【ヤコブ4:14】
4:14 あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。

小さく賢いもの

2014年09月04日 16:04

【箴言30:21-28】
30:21 地は三つのことによって震う、いや、四つのことによって、耐えることができない。
30:22 すなわち奴隷たる者が王となり、愚かな者が食物に飽き、
30:23 忌みきらわれた女が嫁に行き、はしためが女主人のあとにすわることである。
30:24 この地上に、小さいけれども、非常に賢いものが四つある。
30:25 ありは力のない種類だが、その食糧を夏のうちに備える。
30:26 岩だぬきは強くない種類だが、その家を岩につくる。
30:27 いなごは王がないけれども、みな隊を組んでいで立つ。
30:28 やもりは手でつかまえられるが、王の宮殿におる。

この地にあるこの世の国は、人の知恵と力により、治めようとするものであり、その全ては己の心から発するものを形とするもの、どれほど人が理想を求めても、そこに善は存在しません。
「心はよろずの物よりも偽るもので、はなはだしく悪に染まっている。だれがこれを、よく知ることができようか。(エレミヤ17:9)」とある通り、人の心が偽りであるので、はなはだしく悪に染まった社会しか作り出すことができません。
「主を恐れることは知識のはじめである、愚かな者は知恵と教訓を軽んじる。(箴言1:7)」「主を恐れることは知恵のもとである、聖なる者を知ることは、悟りである。(箴言9:10)」からこそ、神を恐れないこの世は神の知恵がなく、愚かなことを繰り返すしかありません。
国を統治するのはその国の主権を持つ者ですが、最初に権力を持つニムロデの時代(創世記10:8-12)から、人は同じ構造を繰り返しています。
権力により支配をする構造。
それにより人は一つになろうとするため、自らの力と知恵で高い塔を作り、高みを望む者達が心一つにして、その支配の塔を作ろうとするのです。

【創世記11:3,4】
11:3 彼らは互に言った、「さあ、れんがを造って、よく焼こう」。こうして彼らは石の代りに、れんがを得、しっくいの代りに、アスファルトを得た。
11:4 彼らはまた言った、「さあ、町と塔とを建てて、その頂を天に届かせよう。そしてわれわれは名を上げて、全地のおもてに散るのを免れよう」。

これこそがバベルの塔であり、このように人がひとつになって、神を離れ、自らの知恵と力により、神に逆らってこの地を治めようとする者達の集大成。
この高き塔こそ、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう(ルカ4:6,7)」というサタンの誘惑のささやきを聞く場所なのです。
主はこの人の力に「彼らがしようとする事は、もはや何事もとどめ得ないであろう。(創世記11:6)」と語り、神ご自身が人に自らの似姿(創世記1:27)の内に与えた人の力を打ち砕くため、「彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」と心を一つにできなくし、力を分散させようとしました。
神に逆らって、自らの欲求の満足とそこに至る自己達成のために発揮する人の力は神が危惧するほどに、これほどに強いものなのです。
これがバビロンの起こりです。
そして、これがイスラエルを捕囚することとなる大帝国バビロンに繋がるものであり、やがて大淫婦と言われる「大いなるバビロン、淫婦どもと地の憎むべきものらとの母(黙示録17:5)」の姿、「大いなる都、不落の都、バビロン(黙示録18:10)」となるものなのです。
つまり人の世の歴史には、連綿とこの人の作り出した、人の知恵と力の支配の結晶であるバビロンが存在するのです。
そしてこのバビロンを神は忌み嫌われ、幾度もその歴史の中で打ち砕かれているのです。
さらに神は、その支配と権威の構造ごと、十字架により打ち砕き、全てを主イエスキリストの足の下に置かれました。

【エペソ】
1:20 神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
1:21 彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。
1:22 そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。

【コロサイ】
2:14 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。
2:15 そして、もろもろの支配と権威との武装を解除し、キリストにあって凱旋し、彼らをその行列に加えて、さらしものとされたのである。

このように、人の世は支配と権力を奪い合い、こうしてこれまで多くの国々が歴史の中に生まれてきたのです。
神は初めから人の愚かさではなく、神ご自身の知恵によりこの地を治めることを望んでおられたのに。

【箴言8:5-17】
8:5 思慮のない者よ、悟りを得よ、愚かな者よ、知恵を得よ。
8:6 聞け、わたしは高貴な事を語り、わがくちびるは正しい事を語り出す。
8:7 わが口は真実を述べ、わがくちびるは悪しき事を憎む。
8:8 わが口の言葉はみな正しい、そのうちに偽りと、よこしまはない。
8:9 これはみな、さとき者の明らかにするところ、知識を得る者の正しとするところである。
8:10 あなたがたは銀を受けるよりも、わたしの教を受けよ、精金よりも、むしろ知識を得よ。
8:11 知恵は宝石にまさり、あなたがたの望むすべての物は、これと比べるにたりない。
8:12 知恵であるわたしは悟りをすみかとし、知識と慎みとをもつ。
8:13 主を恐れるとは悪を憎むことである。わたしは高ぶりと、おごりと、悪しき道と、偽りの言葉とを憎む。
8:14 計りごとと、確かな知恵とは、わたしにある、わたしには悟りがあり、わたしには力がある。
8:15 わたしによって、王たる者は世を治め、君たる者は正しい定めを立てる。
8:16 わたしによって、主たる者は支配し、つかさたる者は地を治める。
8:17 わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。

だから、今日の御言葉のごとく、罪の奴隷たる者が王となり、神の知恵を持たない愚かな者が自らの欲望を満足させるために生きる世を、神は耐えることができないと語り、地は震うと言うのです。

【箴言30:21-23】
30:21 地は三つのことによって震う、いや、四つのことによって、耐えることができない。
30:22 すなわち奴隷たる者が王となり、愚かな者が食物に飽き、
30:23 忌みきらわれた女が嫁に行き、はしためが女主人のあとにすわることである。

そして、バビロンに属するもの大淫婦たるものが、「地の王たちは彼女と姦淫を行い、地上の商人たちは、彼女の極度のぜいたくによって富を得(黙示録18:3)」て、「彼女が自ら高ぶり、ぜいたくをほしいままにし(黙示録18:7)」て、「心の中で『わたしは女王の位についている者であって、やもめではないのだから、悲しみを知らない』と言(黙示録18:7)」うことを忌み嫌うのです。

神はこのようなこの世の歴史に、明確な区切りをつけられることを語られました。
神の国がこの地の国々を打ち砕いて、全地を支配するという計画です。
それがダニエルが解き明かしたネブカデネザル王の夢の内容(ダニエル2:31-45)です。
歴史を動かす大きな中心的国家、バビロン、ペルシャ、ギリシャ、ローマ、そしてローマの影響を大きく残した現代。
その全ての国々の支配を超えて神の国は全地を統べ治め、やがてこれらの国々を打ち破って完全なる神の永遠の統治がこの地に到来することを預言したのがこの夢でした。

【ダニエル2:44】
2:44 それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです。

つまりこれこそが神の壮大な歴史における神の計画であり、私達はこの神の国に国籍を持ち、この地にこの計画を成就するために遣わされた者達なのです。
ですから、私達がこの地に染まり、この世の支配にひざをかがめ、大淫婦の仲間として、生きることはサタンに属し神の選びから自ら出て滅びに向かうことであり、愚かな生き方なのです。
私達はそのようなことをする必要は全くなく、救われた時から、キリストと共にこの地を統べ治める者として、始めからキリストの花嫁とされているのです。
大バビロンという都ではなく、私達こそ神の住まう神の国の永遠の都、新エルサレムなのです。
だからこそ、私達はそれにふさわしい賢い歩みをこの地上でもすべきなのです。
それが今日の御言葉の後半部分です。

【箴言30:24-28】
30:24 この地上に、小さいけれども、非常に賢いものが四つある。
30:25 ありは力のない種類だが、その食糧を夏のうちに備える。
30:26 岩だぬきは強くない種類だが、その家を岩につくる。
30:27 いなごは王がないけれども、みな隊を組んでいで立つ。
30:28 やもりは手でつかまえられるが、王の宮殿におる。

私達にこの地上では力はなくとも、神の国の到来を望んで今からそれに備え(25節)、決して揺るぐことのない信仰の岩(マタイ16:18)の上、御言葉の岩(ルカ6:48)の上、キリストの土台(1コリント3:11)の上に家を建てる(26節)。
王なるキリストはこの地上にはおられず天に居られるけれども、 私達はキリストの体、教会として一つとなってこの地上で生き、またこの世に出て行き(27節)、地には居るけれど、その霊において、常に王なるキリストの御前、天の御座のある王の宮殿に永遠に住まう。
そのような生き方を主は小さいけれども、非常に賢いものの生き方として語られているのです。

愛する兄弟姉妹。私達も世に惑わされてすでに得ている神の祝福を失うことなく、たゆむことなく、「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めて(ピリピ3:13,14)」いこうではありませんか。

※今日の引用箇所です。ご参照ください。

【創世記10:8-12】
10:8 クシの子はニムロデであって、このニムロデは世の権力者となった最初の人である。
10:9 彼は主の前に力ある狩猟者であった。これから「主の前に力ある狩猟者ニムロデのごとし」ということわざが起った。
10:10 彼の国は最初シナルの地にあるバベル、エレク、アカデ、カルネであった。
10:11 彼はその地からアッスリヤに出て、ニネベ、レホボテイリ、カラ、
10:12 およびニネベとカラとの間にある大いなる町レセンを建てた。

【マタイ16:15-18】
16:15 そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
16:16 シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。
16:17 すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。
16:18 そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。

【ルカ6:47,48】
6:47 わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、あなたがたに教えよう。
6:48 それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである。

【1コリント3:11】
3:11 なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。

【ダニエル】
2:31 王よ、あなたは一つの大いなる像が、あなたの前に立っているのを見られました。その像は大きく、非常に光り輝いて、恐ろしい外観をもっていました。
2:32 その像の頭は純金、胸と両腕とは銀、腹と、ももとは青銅、
2:33 すねは鉄、足の一部は鉄、一部は粘土です。
2:34 あなたが見ておられたとき、一つの石が人手によらずに切り出されて、その像の鉄と粘土との足を撃ち、これを砕きました。
2:35 こうして鉄と、粘土と、青銅と、銀と、金とはみな共に砕けて、夏の打ち場のもみがらのようになり、風に吹き払われて、あとかたもなくなりました。ところがその像を撃った石は、大きな山となって全地に満ちました。
2:36 これがその夢です。今わたしたちはその解き明かしを、王の前に申しあげましょう。
2:37 王よ、あなたは諸王の王であって、天の神はあなたに国と力と勢いと栄えとを賜い、
2:38 また人の子ら、野の獣、空の鳥はどこにいるものでも、皆これをあなたの手に与えて、ことごとく治めさせられました。あなたはあの金の頭です。
2:39 あなたの後にあなたに劣る一つの国が起ります。また第三に青銅の国が起って、全世界を治めるようになります。
2:40 第四の国は鉄のように強いでしょう。鉄はよくすべての物をこわし砕くからです。鉄がこれらをことごとく打ち砕くように、その国はこわし砕くでしょう。
2:41 あなたはその足と足の指を見られましたが、その一部は陶器師の粘土、一部は鉄であったので、それは分裂した国をさします。しかしあなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、その国には鉄の強さがあるでしょう。
2:42 その足の指の一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。
2:43 あなたが鉄と粘土との混じったのを見られたように、それらは婚姻によって、互に混ざるでしょう。しかし鉄と粘土とは相混じらないように、かれとこれと相合することはありません。
2:44 それらの王たちの世に、天の神は一つの国を立てられます。これはいつまでも滅びることがなく、その主権は他の民にわたされず、かえってこれらのもろもろの国を打ち破って滅ぼすでしょう。そしてこの国は立って永遠に至るのです。
2:45 一つの石が人手によらずに山から切り出され、その石が鉄と、青銅と、粘土と、銀と、金とを打ち砕いたのを、あなたが見られたのはこの事です。大いなる神がこの後に起るべきことを、王に知らされたのです。その夢はまことであって、この解き明かしは確かです」。

偶像にひざをかがめない

2014年09月03日 18:38

【出エジプト20:4-6】
20:4 あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それにひれ伏
してはならない。それに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、
20:6 わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。

人の生来の性質は偶像を求めます。
まさしくこの偶像というものは非常にやっかいなもので、主がモーセに授けた十戒と言われる律法の中の一つが今日の御言葉になるのですが、この御言葉を与えられ、律法を守ることをイスラエルは誓ったすぐ後に、彼らは金の子牛という偶像を作り、神ならぬ神に祭壇を作り、供え物をささげ、崇めてしまうのです。
彼らはこの偶像に「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である(出エジプト32:4)」とさえ言っています。
しかし彼らは明確に「さあ、わたしたちに先立って行く神を、わたしたちのために造ってください。わたしたちをエジプトの国から導きのぼった人、あのモーセはどうなったのかわからないからです(出エジプト32:1)」と、天地万物を創造された、人の手によって造ることなど到底できようはずのない栄光の神を、自らのために造れと、ありえない冒涜を犯し、「 不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたので(ローマ1:23)」す。
私達に造れる神に一体何の意味が有るのでしょうか。
「10:19 すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。
10:20 そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。(1コリント10:19,20)」とあるように、自らの手で造った神という名のいかなる偶像も、それは何の意味もないものであり、それを崇めることは悪霊どもにひざをかがめ、悪霊の仲間となる、サタンを崇め、サタンと契約を結ぶ行為に他なりません。何と恐ろしいことでしょうか。
しかし、人はその結果がどれほど恐ろしいものであるのかを知らずに、この恐ろしい行為を当たり前に犯してしまうのです。
サタンの仲間となった者の行く末は、神に敵対する者であり、その結果は当然永遠の滅びなのです。それは神に選ばれた民であっても同様。
神ならぬ神に仕え、神に敵対する者となる以上、その定めから逃れうることはできません。

偶像が作り出されるのは、人間が自らの欲望をかなえる都合のいい神を造り上げようというところから発生するものであることが、このイスラエルの反逆からよくわかると思います。
ですから、いかなる人の貪欲も、「貪欲は偶像礼拝にほかならない(コロサイ3:5)」のです。
この世と言われる場所はこの貪欲が生み出す偶像礼拝に満ちた場所です。
それは神を退け、自らの欲望を満たすことを何の躊躇もすることなく、むしろ自分のために、自分の力で生きる者を賞賛さえされる場所であるからです。
この数限りない偶像に、世(サタン)は巧妙にクリスチャンのひざをかがめさせようとします。
それはサタンの甘い誘惑を伴うものですが、私達はここに明確な決別を宣言しなければなりません。

【ルカ4:5-8】
4:5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて
4:6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。
4:7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。
4:8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

主イエスがこの世に公に姿を現され宣教の働きを始められるとき、サタンはこのように主イエスを誘惑しましたが、私達も主イエスに遣わされている世というものに一歩でも足を踏み入れるのであれば、主イエスの答えられたサタンに対する宣言を常にその内側に携えていなければなりません。
でないなら、人は容易にその誘惑に惹かれ偶像の元に姦淫を行い、サタンとの契約を結び、二度と戻ることのない永遠の滅びに落とされてしまうからです。

【民数記25:1-3,9】
25:1 イスラエルはシッテムにとどまっていたが、民はモアブの娘たちと、みだらな事をし始めた。
25:2 その娘たちが神々に犠牲をささげる時に民を招くと、民は一緒にそれを食べ、娘たちの神々を拝んだ。
25:3 イスラエルはこうしてペオルのバアルにつきしたがったので、主はイスラエルにむかって怒りを発せられた。
 [中略]
25:9 しかし、その疫病で死んだ者は二万四千人であった。

このような世の戦いにどれほど多くの兄弟姉妹が飲み込まれ、本来与えられている命を失っていることでしょうか。
クリスチャン自らが自分の貪欲を制することができず、自ら作り出した偶像(自らの都合のいい恵みを与えてくれる都合のいい神やそこに導く数々の教え)に捕らえられる状況ですから、そこに聖別無くして、どうして世に立ち向かうことなどできるでしょうか。
しかし、時代は刻一刻と反キリストを迎える準備を整え、この反キリストにひざをかがめよと社会が要求するときが近づいているのです。
時代は信仰を失うか、信仰を守るため命をささげるかを問うほどに厳しさを増していく、それがこれから私達が向かおうとしている未来の姿です。
ですから、今ここに主にある信仰をしっかり持つ必要があるのです。

【ダニエル3:14-18】
3:14 ネブカデネザルは彼らに言った、「シャデラク、メシャク、アベデネゴよ、あなたがたがわが神々に仕えず、またわたしの立てた金の像を拝まないとは、ほんとうなのか。
3:15 あなたがたがもし、角笛、横笛、琴、三角琴、立琴、風笛などの、もろもろの楽器の音を聞くときにひれ伏して、わたしが立てた像を、ただちに拝むならば、それでよろしい。しかし、拝むことをしないならば、ただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。いったい、どの神が、わたしの手からあなたがたを救うことができようか」。
3:16 シャデラク、メシャクおよびアベデネゴは王に答えて言った、「ネブカデネザルよ、この事について、お答えする必要はありません。
3:17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。
3:18 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません」。

私達は今生きている社会においてでさえ、信仰に於いて妥協を要求されることがあるでしょう。
しかし、今社会常識という言葉や、生活のため、立場のためと、神に背く一抹の罪を責められる気持ちを持ちながらも理由をつけ、巧妙な言い訳を通して、信仰を譲る者は反キリストの登場を待たずして、日々サタンに近づき、かけがえのない永遠の命を明け渡し続ける者となるのです。

【ルカ9:23-26】
9:23 それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
9:24 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。
9:25 人が全世界をもうけても、自分自身を失いまたは損したら、なんの得になろうか。
9:26 わたしとわたしの言葉とを恥じる者に対しては、人の子もまた、自分の栄光と、父と聖なる御使との栄光のうちに現れて来るとき、その者を恥じるであろう。

今日あなたはどのような面持ちで社会(世)に出て行かれるでしょうか?
しかし、一歩そこを出るとき、あなたは神を選ぶか、自分を選ぶかという選択肢の中に足を踏み入れます。
そしてその選択はあなたを滅びに導く偶像の元に引き出すか、栄光の神の絶大なる祝福の元に導くかを明確に分ける選択肢です。

そのとき私達は、信頼する主に私達の全てをゆだねつつも、私達のいのちを主にささげて、世に、サタンに宣言する必要があります。
「3:17 もしそんなことになれば、わたしたちの仕えている神は、その火の燃える炉から、わたしたちを救い出すことができます。また王よ、あなたの手から、わたしたちを救い出されます。
3:18 たといそうでなくても、王よ、ご承知ください。わたしたちはあなたの神々に仕えず、またあなたの立てた金の像を拝みません(ダニエル3:17,18)」

滅びに先立つ聖霊のささやき

2014年09月02日 17:36

【使徒行伝7:28-43,51-53】
7:38 この人が、シナイ山で、彼に語りかけた御使や先祖たちと共に、荒野における集会にいて、生ける御言葉を授かり、それをあなたがたに伝えたのである。
7:39 ところが、先祖たちは彼に従おうとはせず、かえって彼を退け、心の中でエジプトにあこがれて、
7:40 『わたしたちを導いてくれる神々を造って下さい。わたしたちをエジプトの地から導いてきたあのモーセがどうなったのか、わかりませんから』とアロンに言った。
7:41 そのころ、彼らは子牛の像を造り、その偶像に供え物をささげ、自分たちの手で造ったものを祭ってうち興じていた。
7:42 そこで、神は顔をそむけ、彼らを天の星を拝むままに任せられた。預言者の書にこう書いてあるとおりである、『イスラエルの家よ、四十年のあいだ荒野にいた時に、いけにえと供え物とを、わたしにささげたことがあったか。
7:43 あなたがたは、モロクの幕屋やロンパの星の神を、かつぎ回った。それらは、拝むために自分で造った偶像に過ぎぬ。だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう』。
 [中略]
7:51 ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。
7:52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。
7:53 あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。

この神に逆らい金の子牛の偶像を作り、エジプト(世の型)に帰ろうとしたのは、神の選びの民とされたイスラエルでした。
それは神を知らない者達ではなかったのです。
さらに民に誤り導かれてその先頭に立ち、率先してこの偶像礼拝にイスラエルを導いたのは大祭司アロンでした。
信仰においては、モーセに次いで指導者中の指導者であるアロンがこれを行ったのです。
まさにこの時こそ、神がイスラエルの民を愛し、この律法に従えばあなたは神の宝の民となると言われる神の言葉を、モーセが神から授かっている真っ直中にいる時でした。この律法を元に、イスラエルは一つの民として、選民として歩みを始めるところだったのです。
しかし、この金の子牛を神とした時からイスラエルの民の神への背信が始まったわけです。つまり初めからイスラエルの民は神に逆らうところから歩みを始めてしまった。
だからこそ、「イスラエルの家よ、四十年のあいだ荒野にいた時に、いけにえと供え物とを、わたしにささげたことがあったか。
あなたがたは、モロクの幕屋やロンパの星の神を、かつぎ回った。それらは、拝むために自分で造った偶像に過ぎぬ。(使徒行伝7:42,43)」と、預言をもって主から厳しい指摘を受けているのであり、その結果として「だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう(使徒行伝7:43)」と警告されているのです。

そして、この同様の警告を今度はそのはるか後の時代、ステパノを通して、イスラエルの民に、神が語られた。
この言葉を聞いていたのは「リベルテン」の会堂に属する人々、クレネ人、アレキサンドリヤ人、キリキヤやアジヤからきた人々など(使徒行伝6:9)であり、「その上、民衆や長老たちや律法学者たちを煽動し、彼を襲って捕えさせ、議会にひっぱってこさせた。(使徒行伝6:12)」とあるように、イスラエルの中心的指導者がここにまた含まれていました。
この議会の席でステパノが聖霊によって語ったのが、今日語られている警告だったのです。

これは今の時代に全く関係のないことでしょうか?
使徒行伝の時代から大幅に時が過ぎた今のクリスチャンには全く語られていないことでしょうか?
いいえ、私達こそ、この内側に聖霊をいただいている者であり、聖霊の語りかけは常に私達に与えられているのであり、だからこそ、この言葉、使徒行伝7:51-53から目を背けてはならないのです。
そして、今の時代にもまた語られているのです。
あなたがたはまた聖霊に逆らい、主の思いを退け、自らの生活のみに心を使い、自らの満足のためにのみ神への信仰を語り、主の御言葉を無にしようというのかと。
もしも私達が主の御心を背けて、自らのことばかりに心奪われ、エジプトに帰ろうと心を使い、またエジプトに帰してくれる、自らの生活を満足させくれる金の子牛たる神を掲げて、聖霊の語りかけを退け、預言者の言葉を退け続けるのであれば、私達は再び預言者たるイエスを十字架に追いやるのであり、「6:4 いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、
6:5 また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、
6:6 そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能(ヘブル6:4-6)」となるのです。
そこに待つのは、「だからわたしは、あなたがたをバビロンのかなたへ、移してしまうであろう(使徒行伝7:43)」となることでしょう。

これは冗談や喩えで語られていることではありません。
この国の国民をやがて外国の民々が引いていく。日本の国がこの外国の民に占拠される日というのも、今の日本の抱えている問題の未来像の中に見え隠れしています。
どのような未来が待つのかは、歴史の全てを司られる神に選ばれた民であり、この地上においてこの神の祭司とされた私達クリスチャンがいかに神に向き合うのかに関わっているのです。
多くのクリスチャンは今日明日のことを考え、語り、今日と同じように未来がやってくるであろうと高を括って、自らの都合のよい計画を自らの満足のために立てます。それは教会や教団、クリスチャンの全体の集まりにおいてもこれまで延々と変わることはありませんでした。
だとするならば、クリスチャンはかつてパウロが嘆いたように、この国においては、「人はみな、自分のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことは求めていない(ピリピ2:21)」と主に嘆かれても仕方ないのです。
しかし、神が私達をこの地に置かれた目的は「1:5 わたしたちを愛し、その血によってわたしたちを罪から解放し、
1:6 わたしたちを、その父なる神のために、御国の民とし、祭司として下さったかたに、世々限りなく栄光と権力とがあるように、アァメン。(黙示録1:5,6)」とあり、「5:9 あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
5:10 わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」とあるように、キリストと共に神の御心のままにこの地を統べ治めるためなのです。
そしてそのために、私達は救われ、天に国籍を持つ者(ピリピ3:20)でありながら、この地上に遣わされているのです。
なぜ主に選びの民として選ばれたのか、この本来の目的を私達が見失うのであれば、それはイスラエルが神の選民としての目的を失い、救い主イエスを自らの手で十字架にかけたのと同様に、私達も再び来られる主に逆らい、人の目にわかりやすく救世主に見える、私達の生活を満足させてくれる反キリストに従い、神の選びから自ら退けられた者になるということなのです。
これは恐ろしいことですが、現実にはすでに始まっていることなのです。
なぜなら、私達は変わらぬ信仰生活を送り、変わらぬ恵まれた日常を送るための言葉以外、つまりは私達が私達のためだけに生きることを語る言葉以外、受け入れることがすでにできなくなってきているからです。
それはすでに聖書に預言されていることに他なりません。

【2テモテ3:1-5,4:3-4】
3:1 しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。
3:2 その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、
3:3 無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、
3:4 裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、
3:5 信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。
 [中略]
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。

【1コリント10:5-12】
10:5 しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。
10:6 これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって、彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。
10:7 だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。
10:8 また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。
10:9 また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。
10:10 また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。
10:11 これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。
10:12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。

【ユダ1:16-19】
1:16 彼らは不平をならべ、不満を鳴らす者であり、自分の欲のままに生活し、その口は大言を吐き、利のために人にへつらう者である。
1:17 愛する者たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい。
1:18 彼らはあなたがたにこう言った、「終りの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう」。
1:19 彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たちである。

もしも今の時代にあなたの思うままに生きさせてくれるあなたのための神が出てきたら、あなたはそれに従うでしょうか?
そのように目に見えてあなたに都合良く恵まれる神に導く指導者を、あなたは容易に神から来た者として受け入れ、従って行きはしないでしょうか?
それがかつての金の子牛であり、終わりの日の反キリストなのです。
誰が神のためにのみ生きることを願い、神の御心に真剣に耳を傾けるでしょうか?
この国が、イスラエルが崩壊した時と同様に、滅びの警告を受け、まさにその現実が目に見える形で刻一刻と目の前に迫っているのに、どうしてこの滅びからこの国を救い出そうとする神の御心のために生きることを放棄していられるでしょうか?
ここに必要なのはこの国の破れ口に立つとりなしの祈りであり、語られるべき福音なのです。
神の知恵が無き者がどうして、この国を滅びから救い出すように導くことができるでしょうか。
祈り無くして、どうして誤り続ける人に、神のあわれみ深き全能の知恵が授けられるでしょうか。
福音が語り出されること無くして、どうして日常的にソドムとゴモラのような罪の中に生きるこの国にあって、ツロとシドンのような道を歩み続けるこの国にあって、滅びから一人でも救い出されることがありましょうか。
あなたの人生は今この時神に従うこと無くして、どうしてこの国の滅びから自分一人免れることができるでしょうか。

【エステル4:13,14】
4:13 モルデカイは命じてエステルに答えさせて言った、「あなたは王宮にいるゆえ、すべてのユダヤ人と異なり、難を免れるだろうと思ってはならない。
4:14 あなたがもし、このような時に黙っているならば、ほかの所から、助けと救がユダヤ人のために起るでしょう。しかし、あなたとあなたの父の家とは滅びるでしょう。あなたがこの国に迎えられたのは、このような時のためでなかったとだれが知りましょう」。

だから、愛する兄弟姉妹。共に祈りましょう。あなたが神の御心を受け取り、この国の滅びをとどめる一人となるために。

主の勝利が全地を飲み込む

2014年08月29日 18:01

【詩篇46:1-11】
聖歌隊の指揮者によって女の声のしらべにあわせてうたわせたコラの子の歌
46:1 神はわれらの避け所また力である。悩める時のいと近き助けである。
46:2 このゆえに、たとい地は変り、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない。
46:3 たといその水は鳴りとどろき、あわだつとも、そのさわぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない。[セラ
46:4 一つの川がある。その流れは神の都を喜ばせ、いと高き者の聖なるすまいを喜ばせる。
46:5 神がその中におられるので、都はゆるがない。神は朝はやく、これを助けられる。
46:6 もろもろの民は騒ぎたち、もろもろの国は揺れ動く、神がその声を出されると地は溶ける。
46:7 万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。[セラ
46:8 来て、主のみわざを見よ、主は驚くべきことを地に行われた。
46:9 主は地のはてまでも戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。
46:10 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。
46:11 万軍の主はわれらと共におられる、ヤコブの神はわれらの避け所である。[セラ

私達が悩めるとき、苦しみ、力尽き、どうしていいかわからないとき、そこに主が居られます。
私達が主の名を呼び、主の許に行くとき、そこに主の大能の力があり、こここそ我が避け所(全てのことからの避難所)であることがわかるのです。
ここから、主のわざが始まります。
実はここからが私達のスタートなのです。
自分の力が尽きなければ、私達はここにたどり着くことはないでしょう。
私達は生来の性格上、自分の力で生きることを常とし、自分で何とかしようと、自然にしてしまうのです。
だからかえって一人で悪戦苦闘してしまう。
主が私の唯一の避け所であり、私の力は主にしかないと知るためには、その悪戦苦闘にことごとく解決がなく、無駄となり、疲れ果て、いよいよ自分に絶望し、力を主にのみ求める以外にないところに行くしかありません。
そしてその間、常に心休めるところはなく、自分の安心して隠れている場所が主にしか見出せなくなって初めて、全てを置いて主の許に近づくことができるのです。
ここが、あなたのうちに神が働くスタート地点。決して絶望の場所などではないのです。
なぜか、ここには主の安息があり、ここに主の深い臨在があります。
主が共に居られ、そこに自分に向けてくださる主の愛とあわれみが溢れる。
周りの全てのことが、心煩わすその騒々しさと共に静まり、まるで別の時間と空間の中に居るかのように、深い安息の中に心静めて居られる。
たとえ天地が揺り動かされても、その全てが滅び、消え失せてしまっても、この避け所の中には何の影響もない。
そう、私達に確信させられる神の御腕の中のような場所。
この主の居られる場所こそ、神の国、天の御国。
あなたが知らずとも、実はあなたはその御国の中、神の都に主と共に居るのです。
そこには神の御座から命の川が流れ、その川はそこに住まう全てのものを喜ばせ都の中央を流れる。
その中心には主が居られ、「私は有る」という方が、都を絶対的に揺るがないものとされる。
この姿こそ、まさしく聖書の結論として描かれている天にある都、新しい聖なる都新エルサレム。私達の永遠に住まう天にある故郷の姿。

【黙示録22:1-5】
22:1 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。
22:3 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、
22:4 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。
22:5 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。

だから、ここでは時の流れは存在しない。
永遠という終わりのない、この世とは別の場所に、私達は入れられているのです。
この地で私達が神の御国に入れられるとき、神の国はこの地に顕現します。
神の絶大なるみわざがこの地を覆います。
私達を悩ます全てのものはこの神の前に無力な者とされ、神の御声に万物は振るえ、ひざをかがめます。
主との深い祈りの交わり、この地で神を避け所とする者が入る神の御国。
そしてこの神の御国が絶大なる神の臨在と共にこの地に影響を及ぼす。神の御業が全地を飲み込む。
その時主はご自身をこの地に顕し、その御声はこの地に響きわたる。
「静まって、わたしこそ神であることを知れ。(詩篇46:10)」と。
全地の者はこの主の御業とその御声にひれ伏し、主を拝します。
主の名を知らないものでさえ、その絶大なる顕れに主を恐れ、この天地万物の主なる方のものとなることを多くの者達が望むようになります。

一人のクリスチャンがいるということはそのような絶大なことです。
あなたがこの地に遣わされたということはこれほどの影響を地に与えます。
それは主の名を知る者だからです。
「主よ。今来て、助けてください。」と叫べるからです。
あなたが主の前に人の業を止め、静まり、ただひたすらに主の顕れを願うということは、このように主が天地を揺るがしてまで、あなたの全てを、この地と共に勝利に飲み込むということです。
あなた一人が主に真剣に向き合うということは、このようにしてこの地にリバイバルを呼ぶということです。
あなたは今悩んでますか?
問題に囲まれていますか?
自分の力つき、疲れ果ててますか?
ならば、主の御業が顕れ、リバイバルがこの地を飲み込むために、主の名を真剣に呼べるときです。
さあ、躊躇することなく、あなたの避け所、主の名を力の限り呼びましょう。
この国の全てが主の勝利に飲み込まれてしまうために。

主のやさしい眼差し

2014年08月28日 14:53

【ルカ22:31-34】
22:31 シモン、シモン、見よ、サタンはあなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って許された。
22:32 しかし、わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。それで、あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい」。
22:33 シモンが言った、「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です」。
22:34 するとイエスが言われた、「ペテロよ、あなたに言っておく。きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」。

この言葉を語られたのは、弟子達が最後の晩餐の席でありながら、「自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうか(ルカ22:24)」と争論をしていた後のことでした。
彼らはこの世の基準を元に、そのような争論を繰り広げていたのですが、主が語り出されたことは、神の眼差しという、「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる(マタイ23:12,ルカ14:11)」という全く異なる基準を元に、「しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。(ルカ22:26)」と、この世の常識とは全く正反対のことを話されたのです。
「それは、人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためであるのと、ちょうど同じである(マタイ20:28)」との言葉の通りに、主イエスは十字架で私達にご自身の命を与えてくださるほどに、ご自身を低くし仕えられました。
この主イエスの御足の跡をたどり、主と共に自分を低くすることにより、人々に仕え、そのことによりむしろこの地を治める者となる。
主イエスはそのような低く小さくあるけれど、壮大な神の御心を弟子達に語られました。(ルカ22:28-30)
それは主の弟子達に対する大きな願いだったのです。
しかし、誰が一番偉いかの争論はこのとき始まったものではなく、すでに幾度も繰り返されていたものでした。その都度神の国の基準について同様に主は語られてきましたが、もしもそこで弟子達が自らの高慢を自覚できたのであれば、このように主が十字架にかかられる前日、主が切に望まれた弟子達との最後の晩餐の時にまで、誰が偉いかなどと話してはいなかってでしょう。
そして弟子達はサタンにふるいをかけられることをゆるされました。
「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。(マタイ26:31)」とあるように、数日前には子ろばに乗りエルサレムに入城された主イエスを「ホザナ」と叫び、エルサレム中で主イエスを来たるべき救い主として迎えたのに、この数時間後には、弟子達は捕らえられるイエスを一人置き去りに、逃げて行くのです。
それも主イエスが救い主ではなかったかのように恐れ怯え絶望して。
ペテロも主イエスの預言通り、主イエスを三度も否むことになります。

【マタイの福音書 26:74】
74 すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めた。するとすぐに、鶏が鳴いた。

とあるように、ペテロは主イエスをのろってまで、「知らない」と言い、自分の命を守ろうとしたのです。
のろうほどの否定、それは主イエスへの信仰を捨てることと同等の重い意味を持ちます。
しかし、彼こそサタンがふるいにかけることを神に願い許されたことを主が語られたとき、真っ先に主の言葉を命をかけて否定した者だったのです。
「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません(マタイ26:33)」
「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは、決して申しません(マタイ26:35)」
「主よ、わたしは獄にでも、また死に至るまでも、あなたとご一緒に行く覚悟です(ルカ22:33)」
彼が「生ける神の子キリスト(マタイ16:16)」の言葉を、これほど力強く否定できたのには、彼自身の主を越えて自分で自分の信仰を誇れる高慢が、隠されているように思われます。

そうです。主イエスは弟子達に、ペテロに、忠告を与えたとき、その本質に、ただの漁師であったり、取税人であったり、取るに足らない者達であった弟子達が、いつの間にか高き者となっていた、この高慢の根強さを十分ご存知であったでしょう。
だからサタンのふるいでさえ、彼らの高慢を打ち砕く道具とされたのです。
なぜなら、弟子達に「わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせる(ルカ22:29,30)」ことが主の願いだったからです。
神の国における十二の部族をさばくほどの高き位を弟子達に与えるためには、彼らの高慢は致命的なものでした。
彼らはこの後、主イエスに続いて最も低められる者とならなければ、彼らにそれほどの高き位を神は与えることができなかったでしょう。
主イエスも従われた「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる(マタイ23:12,ルカ14:11)」という神の国の法則の前に。
だから、その全てが完全に打ち砕かれるほど決定的に、弟子達は主につまづかなければなりませんでした。
そして、主の預言の通り、弟子達は主イエスを一人捨て逃げたし、その自らの主張した信仰は完全に打ち砕かれました。
同様にペテロは主をのろい信仰を捨てるほどに主を否定しました。
鶏が鳴いたとき、彼への預言を思い出し、自らが何をしでかしたのか、その深刻な事態に打ち拉がれたのです。
彼もこれまでの主との歩み、その全てが完全に打ち砕かれたのです。
しかし、そのときペテロを見つめた主の目(「主は振りむいてペテロを見つめられた。(ルカ22:61)」)はどれほどあわれみに満ちたやさしいものだったでしょう。
そこに込められている思いこそ、「わたしはあなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈った。(ルカ22:32)」という深い愛ととりなしだったでしょう。
自らの全てを打ち砕くほどの彼自身の失敗がなければ、彼はこの後誰の痛みも弱さもわからない、指導者になったことでしょう。
しかし、信仰にこれほどのつまづきと痛みを持ったからこそ、主イエスが「あなたが立ち直ったときには、兄弟たちを力づけてやりなさい(ルカ22:32)」と願われた通り、兄弟姉妹の弱さが痛いほどわかる者として、彼らを力づける者となった。
彼はこれまでのユダヤ人の指導者のような、高慢な指導者ではなく、小さく弱い兄弟姉妹に、心底仕える者となったことでしょう。

確かに私達の根強い高慢は、私達に決定的なつまづきを引き起こさせてしまうこともあるかも知れません。
しかし、私達のその失敗の最中にさえ、主は「あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈っ(ルカ22:32)」て神にとりなしてくださる主であり、あなたが立ち直り、兄弟たちを力づけることを切に願い続けてくださる主なのです。
いや、そのような主であるからこそ、神の目からは失敗ばかりを繰り返す私達をも、兄弟を愛しまた仕え、主の御体たる教会を建て上げるに足る者としてくださるのです。
何たる不思議、何たる愛、何たる奇跡。
だから、私は主のみをほめたたえるのです。

どうか、あなたのつまづきにも、主の驚くべき愛とあわれみが満ちあふれますように。

※昨日のメッセージにも出てきた、今日の聖書箇所の前に語られている部分です。ご参照ください。

【ルカ】
22:24 それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。
22:25 そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。
22:26 しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。
22:27 食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。
22:28 あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。
22:29 それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、
22:30 わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。

小さい者を見つめる眼差し

2014年08月27日 13:46

【マタイ25:40】
25:40 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

私達の神に対する態度は、人に対する態度に現れるときがよくあります。
神に対して侮る態度をとる者は、人に対しても侮り、神に対して高慢な者は、人に対しても高慢であったりします。
それが一つの基準となり、自分が神に対してどのような者であるかを推し量ることもできるのです。
今日の御言葉は、まさしく私達の人に対する態度を、主が見ておられるのだということがはっきりとわかる箇所です。
それも最も小さな者達に対する態度を主が見ておられるのだとすれば、私達は神に対してどのような者としてその目に映るでしょうか。
人は見た目に惑わされ、重要視されているような、地位や名誉を持つ人や、才能や賜物、あるいは豊かさなど、目に見える何かを持っている人に、また身分の高い人、偉い人には丁寧であったり親切であったりするでしょう。
たとえば偉い先生や、全国的に活躍している奉仕者、歌手や、メッセンジャー、メディアにたびたび登場するような有名人、海外で有名な大きな教会の牧師やリバイバルの器と言われる先生方、そんな人達には黙っていても、人は集まり、また歓迎し親切にするでしょう。
しかし、身なりが貧しかったり、何も目を惹くものを持っていなかったり、卑しく見える人には、以外と適当な態度で接してしまう。
しかし、主イエスご自身貧しい大工のせがれとして生まれました。
ですから、彼を昔から知っていて、彼の人間としての姿しか目に入らなかった者達は、彼を軽んじ、彼こそが長い間イスラエルが待ち望んでいた救い主であることに気づきませんでした。

【マタイ13:54-58】
13:54 そして郷里に行き、会堂で人々を教えられたところ、彼らは驚いて言った、「この人は、この知恵とこれらの力あるわざとを、どこで習ってきたのか。
13:55 この人は大工の子ではないか。母はマリヤといい、兄弟たちは、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではないか。
13:56 またその姉妹たちもみな、わたしたちと一緒にいるではないか。こんな数々のことを、いったい、どこで習ってきたのか」。
13:57 こうして人々はイエスにつまずいた。しかし、イエスは言われた、「預言者は、自分の郷里や自分の家以外では、どこででも敬われないことはない」。
13:58 そして彼らの不信仰のゆえに、そこでは力あるわざを、あまりなさらなかった。

果たして今の時代に主イエスが同様に現れたら、私達には主ご自身のことがわかるのでしょうか。
いや、主は「これらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである(マタイ25:40)」とはっきり言われています。
主の基準はさらに明確で、私達の前に遣わされた小さい者達の内に主はご自身を投影されているのであり、まさしくその小さい者達の中に、卑しく小さい者とされこの地に来られた主イエスの姿を見出し、あるいは主イエスがこの目の前の小さな者をどれほどに愛しているかということを見ることができなければ、私達は主の御心を見出すことのできなかった高慢な者であったということが現わされてしまうのです。

【マタイ18:1-5】
18:1 そのとき、弟子たちがイエスのもとにきて言った、「いったい、天国ではだれがいちばん偉いのですか」。
18:2 すると、イエスは幼な子を呼び寄せ、彼らのまん中に立たせて言われた、
18:3 「よく聞きなさい。心をいれかえて幼な子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
18:4 この幼な子のように自分を低くする者が、天国でいちばん偉いのである。
18:5 また、だれでも、このようなひとりの幼な子を、わたしの名のゆえに受けいれる者は、わたしを受けいれるのである。

【マタイ23:11,12】
23:11 そこで、あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。
23:12 だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。

目に見えるものによらない、目に見えない、「わたしが見るところは人とは異なる。人は外の顔かたちを見、主は心を見る(1サムエル16:7)」と言われる神の国の基準。神の眼差しは低い者、小さい者に注がれています。
主はそのような者をこそ哀れまれる。
なぜならそれは、彼らこそ、神の恵みを心から喜べる者であり、また神の栄光を現すにふさわしい人々であるからなのです。

【ルカ14:11-14】
14:11 おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
14:12 また、イエスは自分を招いた人に言われた、「午餐または晩餐の席を設ける場合には、友人、兄弟、親族、金持の隣り人などは呼ばぬがよい。恐らく彼らもあなたを招きかえし、それであなたは返礼を受けることになるから。
14:13 むしろ、宴会を催す場合には、貧乏人、不具者、足なえ、盲人などを招くがよい。
14:14 そうすれば、彼らは返礼ができないから、あなたはさいわいになるであろう。正しい人々の復活の際には、あなたは報いられるであろう」。

【1コリント1:26-31】
1:26 兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、身分の高い者も多くはいない。
1:27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
1:28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
1:29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
1:30 あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、義と聖とあがないとになられたのである。
1:31 それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。

私達自身が低い者、小さい者であるのかどうかは、私達がどのような眼差しでまた心で、人(小さい、低い者達)に向き合っているのかで推し量ることができます。
多くの人々は自らが偉い者になろうと考えます。
それは弟子達が最後の晩餐の席でまで、論議し合っていたのと同じように、クリスチャンの私達の集まりの中でも、世と同じ基準において誰が偉いのかと心の中で人を見てしまっているということなのです。

【ルカ22:24-30】
22:24 それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。
22:25 そこでイエスが言われた、「異邦の王たちはその民の上に君臨し、また、権力をふるっている者たちは恩人と呼ばれる。
22:26 しかし、あなたがたは、そうであってはならない。かえって、あなたがたの中でいちばん偉い人はいちばん若い者のように、指導する人は仕える者のようになるべきである。
22:27 食卓につく人と給仕する者と、どちらが偉いのか。食卓につく人の方ではないか。しかし、わたしはあなたがたの中で、給仕をする者のようにしている。
22:28 あなたがたは、わたしの試錬のあいだ、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。
22:29 それで、わたしの父が国の支配をわたしにゆだねてくださったように、わたしもそれをあなたがたにゆだね、
22:30 わたしの国で食卓について飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族をさばかせるであろう。

しかし、主はそれとは別の神の国の基準で私達がこの地を治める者となるよう、私達に語られています。
それは自らを低くし、兄弟姉妹にそして神に仕えることにより、治める者となる。つまり「自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされる(マタイ23:12,ルカ14:11)」という神の国の法則に基づいて、この地を治めることを、主は私達に求めておられるのです。

【ピリピ2:5-9】
2:5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。
2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
2:9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。

いや、そのような神の思いを持って、地にまで下り、卑しめられ、自らの全てを無にしてまで、低きところに下られた主イエスと共に生涯を歩む者に、そのようにこの十字架に続く御足の跡を、命をささげてたどる者に、主は天においては高き座を与え、治める者としようと語られているのです。
この主イエスの思いをもって、この地を歩む者には、今にも消え入りそうなほど弱い者、小さい者、傷ついた者、貧しい者たちの姿が目に映り、そこに主に仕えるように仕え、主を愛するように愛する思いが芽生え溢れてくるでしょう。
どうか主が、私達を主イエスの思いにかなう低き小さな者としてくださいますように。

【マタイ12:18-21】
12:18 「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。
12:19 彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。
12:20 彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。
12:21 異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。

神から隠れる

2014年08月26日 12:56

【エレミヤ23:23,24】
23:23 「主は言われる、わたしはただ近くの神であって、遠くの神ではないのであるか。
23:24 主は言われる、人は、ひそかな所に身を隠して、わたしに見られないようにすることができようか。主は言われる、わたしは天と地とに満ちているではないか。

人は自らの思う人生を送りたいというのが生来の性質でしょう。
それを人の幸せと世では言います。
幸せになりますようにとは、自分の思うままの人生を送れますようにというもの。
あなたの思うままの人生を送れますように。
この言葉は一見すると、親切でやさしい思いやりのある言葉に思えるかも知れません。
しかし、聖書において神はこのことこそが、誤り、罪であることをはっきりと表しています。
各々が各々の思うままに良いと思うことをするということは恐ろしいことです。
各々が自分の基準で生きる。それに対立してしまう、その妨げになるような全く逆の価値観を持つ者が現れたらその時はどうするのでしょうか。
互いに正しさを主張するその行き着く先に何が残るでしょうか。
また、誰がそのように多くの者同士が関わり合いながら作られる社会や国と言ったものを正しく裁けるでしょうか。私利私欲のためにしか生きない者達なのに。

【創世記6:5-7】
6:5 主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。
6:6 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、
6:7 「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。

【士師記21:25】
21:25 そのころ、イスラエルには王がなかったので、おのおの自分の目に正しいと見るところをおこなった。

【使徒行伝7:51-54】
7:51 ああ、強情で、心にも耳にも割礼のない人たちよ。あなたがたは、いつも聖霊に逆らっている。それは、あなたがたの先祖たちと同じである。
7:52 いったい、あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が、ひとりでもいたか。彼らは正しいかたの来ることを予告した人たちを殺し、今やあなたがたは、その正しいかたを裏切る者、また殺す者となった。
7:53 あなたがたは、御使たちによって伝えられた律法を受けたのに、それを守ることをしなかった」。
7:54 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。

このように人々は自分の思いのままに生きようと繰り返し神に逆らい、過ちをまた罪を繰り返してきました。
神はご自身のご計画(御心)のままに天地万物を造り、私達人間を造りました。
それは私達一人一人各々に於いても変わることなく、一人一人が主のご計画の元、愛をもってこの地に造り出されました。
そこには祝福を注ごうと恵み溢れる道のりが用意され、また各々に、互いに愛し合いまた社会を、時代を、国を、神と共に治めるための壮大な計画が用意されているのですが、人は自分とそのごく近い周りのことしか見えない、非常に近視眼なので、そのため自らの思うままに生きようとするならば、神の思いを知らず、必ず逆らい罪を犯すのです。

【ローマ8:5-9】
8:5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
8:6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
8:8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
8:9 しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。

神によって救われたクリスチャンも全く同様のことが言えます。
救われて新しくされた喜び、この新しい命をご自身の命を差し出して与えてくださった方のために、ささげよう。
神のため、私を救ってくださった救い主イエスキリストのために生きていこう。
救われたばかりの時、救いの喜びに溢れているときには誰しもがそのような思いを少なからず持つものです。
しかし、やがて自分の生活も気になり始める。
神のために生きると自分のために生きる人生がなくなるような気がする。
図らずも人はそのような罠の中、生来の生活に戻っていくのです。
神に背を向け、神から隠れるようにして。
そこに語られているのが今日の御言葉です。
神はそのように生きる私達に今日のように、いやいつも絶え間なく語り続けています。

あなたの姿も、あなたが何をしているかも、あなたが何を言い、何を思っているのかも、私は全て知っている。私に隠れおおせるものはない。

私はここに主を恐れます。
同時にどれほど主が私達を愛しておられるのかを知り、感謝と共にまた主を畏れます。
あなたはどうでしょうか?

自ら思うままに自らの判断と力で生きることが神から喜ばれず、むしろ自らが神から背を向け逆らっていることが、どこか自分の中でわかっているから遠く離れ、神から隠れようとしているのではないでしょうか?
もしもそのようなら、神の本当の思いを誤解してしまったのです。
あなたの神はあなたの言うことを何でも聞く都合のいい神ではないかも知れません。いやむしろそのようなものが神に見えるのであれば、それはイエスを誘惑に来たサタン(マタイ4:1-11)と同じものです。
それに気づかず甘い誘惑に乗り、自分の欲しいものを手にしたなら、その結果はサタンに膝をかがめさせられ(マタイ4:8-10)、それによって得るものは、自らの滅びを刈り取ることになるのです。
そういう意味では、神の計画は飽くまでも神ご自身のためのご計画であり、それは普遍のものですが、同時にあなたのためのものであり、その計画にはあなたへの溢れるほどの愛が含まれているのだと言うことを、あなたは知らないのです。いや、忘れてしまったのです。
でなければ、なぜ神の大いなる計画の中に(その中心に)十字架があったのでしょうか?
あれはあなたのためのものだったのではないでしょうか?
そこにはあなたを愛して止まない神の御心が溢れているのではないでしょうか?
そのように神のご計画は愛溢れ、あなたの思うままではないかも知れませんが、神を愛し神の御心に従い生きる者に、あなたが思うよりもはるかに素晴らしく、また価値があり、恵みと祝福の溢れる人生を与えてくださるでしょう。

だから、今主があなたに語りかけている言葉に耳を傾けてみましょう。
最初の人間アダムとエバが罪を犯した時、神から隠れたあの時から、変わることなく神の愛は、今度は今あなたに注がれ、あなたに語りかけています。

「あなたはどこにいるのか(創世記3:9)」と。

【詩篇139:7-18】
139:7 わたしはどこへ行って、あなたのみたまを離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。
139:8 わたしが天にのぼっても、あなたはそこにおられます。わたしが陰府に床を設けても、あなたはそこにおられます。
139:9 わたしがあけぼのの翼をかって海のはてに住んでも、
139:10 あなたのみ手はその所でわたしを導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます。
139:11 「やみはわたしをおおい、わたしを囲む光は夜となれ」とわたしが言っても、
139:12 あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。あなたには、やみも光も異なることはありません。
139:13 あなたはわが内臓をつくり、わが母の胎内でわたしを組み立てられました。
139:14 わたしはあなたをほめたたえます。あなたは恐るべく、くすしき方だからです。あなたのみわざはくすしく、あなたは最もよくわたしを知っておられます。
139:15 わたしが隠れた所で造られ、地の深い所でつづり合わされたとき、わたしの骨はあなたに隠れることがなかった。
139:16 あなたの目は、まだできあがらないわたしのからだを見られた。わたしのためにつくられたわがよわいの日のまだ一日もなかったとき、その日はことごとくあなたの書にしるされた。
139:17 神よ、あなたのもろもろのみ思いは、なんとわたしに尊いことでしょう。その全体はなんと広大なことでしょう。
139:18 わたしがこれを数えようとすれば、その数は砂よりも多い。わたしが目ざめるとき、わたしはなおあなたと共にいます。

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