祈りの究極の喜び

2014年10月15日 12:17

【マタイ6:6】
6:6 あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

祈りは人に聞かせるためのものではありません。また、しなければならない義務でもありません。
祈りは主との交わりです。それはまさしく愛の交わりです。
ですから、誰にも聞かせる必要はありません。
でも声を出さずに祈ることを言っているわけではありません。神は私達に言葉を与え、神の言葉が天地を創造されたのと同様に人だけに言葉を与えられたのですから、祈りの言葉を発することは力を持って、主の創造の力を発することでもあります。そして、その言葉は真実になる、そういう祈りも存在しています。
しかし、ここで語られているのは誰にも見せない主との個人的な交わりとしての祈りのことを言います。
そういう意味においては、奥まった所にある祈りの小部屋は、決して物理的なある空間を指しているわけではないということがわかるでしょう。
つまりは、主と自分だけが交わる、誰も立ち入ることのできない親しい交わりとしての祈りの間をいうのです。
しかし、これはとても重要な空間です。
なぜなら、この親しい関係でしか、主に本当の自分の気持ちを、祈りに素直に表すことはできないでしょう。
また、主ご自身も、主の本当の深い御旨を、そう易々と公表されたりはしません。
むしろ、大切なことは私個人にだけそっと、親しい誰にも立ち入らせない交わりの中でしか言わないのは、人間の関係においても同じことでしょう。

さらにこの祈りの空間は祈りが深まれば深まるほど、この部屋があらゆる現実から隔絶された聖なる部屋ということがわかるでしょう。
聖の究極の聖、最も全てのものから別たれ、奥まった部屋、至聖所(幕屋、神殿の最深部)であるということを。

【詩篇27:4-8】
27:4 わたしは一つの事を主に願った、わたしはそれを求める。わたしの生きるかぎり、主の家に住んで、主のうるわしきを見、その宮で尋ねきわめることを。
27:5 それは主が悩みの日に、その仮屋のうちにわたしを潜ませ、その幕屋の奥にわたしを隠し、岩の上にわたしを高く置かれるからである。
27:6 今わたしのこうべはわたしをめぐる敵の上に高くあげられる。それゆえ、わたしは主の幕屋で喜びの声をあげて、いけにえをささげ、歌って、主をほめたたえるであろう。
27:7 主よ、わたしが声をあげて呼ばわるとき、聞いて、わたしをあわれみ、わたしに答えてください。
27:8 あなたは仰せられました、「わが顔をたずね求めよ」と。あなたにむかって、わたしの心は言います、「主よ、わたしはみ顔をたずね求めます」と。

【ヘブル4:14-16】
4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。

【ヘブル10:19-22】
10:19 兄弟たちよ。こういうわけで、わたしたちはイエスの血によって、はばかることなく聖所にはいることができ、
10:20 彼の肉体なる幕をとおり、わたしたちのために開いて下さった新しい生きた道をとおって、はいって行くことができるのであり、
10:21 さらに、神の家を治める大いなる祭司があるのだから、
10:22 心はすすがれて良心のとがめを去り、からだは清い水で洗われ、まごころをもって信仰の確信に満たされつつ、みまえに近づこうではないか。

そこには、主ご自身の臨在そのものがあり、永遠の贖いがあり、永遠の命があり、神の深い愛があり、溢れる恵みがあり、感動があり、つまりは言葉に尽くせない主の豊かさがここに満ち溢れているのです。
これを知らずして、クリスチャンである理由は存在しないでしょう。
むしろここで知る豊かさこそ、永遠の豊かさであり、天地万物の全てを主が動かして、主が祈りに答え、また全くの無から有を生み出す創造の御業を見る。全てはこの場所から始まるのです。
つまり、私達はこのような主との祈りにおける深い交わりを、祈れば祈るほど持つことができるようになり、その祈りの空間は日々豊かさを増していくのです。
何と素晴らしいことでしょうか。

この祈りの空間こそは、この現実の全ての時間軸から外れたところに存在し、その全ては永遠という中に存在するのです。
たとえば、祈るうちに時間を忘れ、あっと言う間に時間が過ぎていることもあれば、ほんの少しの時間でも祈ることによって満ち溢れる。しかし、その間の時間はどれほどにも長く感じるほど、満ち足りた時間となることもある。
そうです。この祈りの空間は永遠の神の御国に、そして主の御座のすぐそばに位置するものなのです。

【詩篇84:10】
84:10 あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。

【コロサイ3:1】
3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。

【ヘブル12:22-24】
12:22 しかしあなたがたが近づいているのは、シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、無数の天使の祝会、
12:23 天に登録されている長子たちの教会、万民の審判者なる神、全うされた義人の霊、
12:24 新しい契約の仲保者イエス、ならびに、アベルの血よりも力強く語るそそがれた血である。

そして、この祈りの小部屋がもしも神の国に通じるものであるということがわかり、また主との親しい交わりの場所だとわかるのであれば、この場所こそが天における私達の住まいであるということがわかるでしょう。

【ヨハネ14:1-4】
14:1 「あなたがたは、心を騒がせないがよい。神を信じ、またわたしを信じなさい。
14:2 わたしの父の家には、すまいがたくさんある。もしなかったならば、わたしはそう言っておいたであろう。あなたがたのために、場所を用意しに行くのだから。
14:3 そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたをわたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである。
14:4 わたしがどこへ行くのか、その道はあなたがたにわかっている」。

ですから、今この地上で主に祈るということは、天における主と過ごす家を、今この地上で用意していることと関わると言うことがわかると思います。
この地上での主との祈りの時が、その交わりが豊かであれば豊かであるほど、私達が天において主と住まう家は、豊かなものとなるでしょう。
そう、天に帰ったときの我が家は、主と何日も何年も何時間も親しく過ごした、なじみ深い、あの豊かな部屋であるということになるのです。
だとするならば、この地上で主との親しい祈りにおける交わりを持たないということは、天において、どれほど寂しく、みすぼらしい家に帰らなければならないことでしょうか。
主との祈りの醍醐味を知るクリスチャンは、このことを知っているはずであり、だとするのであれば、自らの生活の全てをここから始めることでしょう。
そして、祈ることを無視して生活に没頭することがいかに無鉄砲で、無味乾燥なもので、無防備なものであるかと思っていることでしょう。
残念なことですが、多くの兄弟姉妹はこのような祈りが存在することを知ることもなく、まただからこそ興味をいだくことも少ないようです。
しかし今あなたはその素晴らしさを知ったのです。
それはあなたの人生の全ての源になるものです。
あなたの人生を永遠の豊かさに導くものです。
あなたを主のすぐ御側に招くものです。
そして、あなたへの主の愛が人の理解を超えるほど、いかに絶大なものであるか、その受け止めきれないほどの溢れる愛を体感しつつ、知ることとなるのです。
この豊かな時を知らずに過ごすことはもったいないことだとは思いませんか?

ですから、さあ、共に主との祈りの深みに漕ぎ出しましょう。主があなたを待っています。
祈りに時間は関係ありません。
どれほど時間が無くとも、どれほど時間をかけてもいいのです。
ただそこに、主と過ごす永遠が待っているのですから。

さあ、愛する兄弟姉妹。
共に主の前に出て、今祈り始めましょう。