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お花見礼拝

2014年04月08日 09:25

今週は初めてのチャレンジで教会をあげてお花見に行って参りました。それも、礼拝もそこでささげるというもの。よく学校ではオープンキャンパスなるものがあり、どんなことを学べるか一般の人にキャンパスを公開することがありますが、教会もそういったことできるのではないかという発想からチャレンジすることに致しました。
つまり、さしずめオープンチャーチといった感じ。
通常のお花見と同様、楽しくお話ししながらお弁当を食べ、一通り満足したところで、いざ礼拝。
途中雨混じりでしたが、予定は8割がた成功といったところでしょうか。
雨が止まなそうになったのと、少しこの日は気温が上がらず、皆さん寒くなってきたので、予定より早めに礼拝終了。
でも、思っていた以上の主にある充実感を感じています。
みんなで移動して、帰り最寄り駅近くのカフェで暖まりながら、いつものごとく楽しい交わりの時間を持ちました。
主にある交わりは何と楽しいことか。あっという間に時間が過ぎてしまいました。こんな当たり前の平安。主の深い安息と恵みを噛みしめていました。少しなごり惜しかったりもしますが、それがまたよし。
愛する兄弟姉妹、また来週お会いするのが楽しみですね。
感謝!ハレルヤ!

目を離せない真実

2014年03月30日 19:58

【ヨハネ1:29】
見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

全ての人の生涯はこの方を知るために存在します。この神の小羊を見るために。
それはイエスキリストを知らず、また信じるに至らない人々においてもそうですが、私達イエスを信じる者達においてもなおさらそうです。
私達のためにほふられた神の小羊たる主イエスキリスト、ここから生涯目を離さないために私達は生きているのです。
全ての生きとし生けるもの、息のある全ての物はこの方に注目しています。
なぜなら、この方にあって全てのものが完成する、全ての終局、結論はこの方にあるのです。
いやすでにその結論は十字架の上で完成したのです。
神の全ての計画は既に十字架の上で価払われた贖いの御業により、完成したのです。
神の子の血のあまりの価高さは、新しい契約、新しい天と新しい地が完成するための全ての代価を払い切ったのです。そして今やその完成した約束を受け取る時を、待ち望むのみにより確実に私達に与えられるのです。
だから、このアルファでありオメガである方、始めであり終わりである方に、全てのものは注目し、その目を離さないのです。

【黙示録5:9-14】
彼らは新しい歌を歌って言った、「あなたこそは、その巻物を受けとり、封印を解くにふさわしいかたであります。あなたはほふられ、その血によって、神のために、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から人々をあがない、
わたしたちの神のために、彼らを御国の民とし、祭司となさいました。彼らは地上を支配するに至るでしょう」。
さらに見ていると、御座と生き物と長老たちとのまわりに、多くの御使たちの声が上がるのを聞いた。その数は万の幾万倍、千の幾千倍もあって、
大声で叫んでいた、「ほふられた小羊こそは、力と、富と、知恵と、勢いと、ほまれと、栄光と、さんびとを受けるにふさわしい」。
またわたしは、天と地、地の下と海の中にあるすべての造られたもの、そして、それらの中にあるすべてのものの言う声を聞いた、「御座にいますかたと小羊とに、さんびと、ほまれと、栄光と、権力とが、世々限りなくあるように」。
四つの生き物はアァメンと唱え、長老たちはひれ伏して礼拝した。

永遠の天の礼拝の中心で、「ほふられた小羊」にその目は集中し、その大いなる御業の故に、この方に全ての者達の賛美は集中します。
あなたはこの大いなる意味を本当に知っているでしょうか?
いや私達はこの大いなる意味を知るために生きているのです。
ですから、私達の生涯はイエスキリストの十字架のあまりに大きな愛と、その大いなる意味を、生涯を通して知るためにあるのです。
私達の罪が如何に深く、また弱く小さく悩み、あるいは病み、あるいは傷つき、悲しみ、人生にはいろいろな場面があるでしょう。
しかし、私達はそのたびに主イエスの十字架を見上げるとき、その全てを十字架に背負い死につけられた方の姿を見て、全ての重荷は取り去られ、彼のよみがえりを見て、私達は全てのことに勝利をするのです。
私達の生涯に十字架の死とよみがえりが繰り返し現れ、それを私達が繰り返し体験する中で、私達は永遠に渡って世界の中心である、重要なこのことを見つめ、知り続けるのです。
ほふられた小羊という、驚くべき神の御業を。

【ヘブル12:2】
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。

だからこの方から永遠に目を離すことなく、愛する兄弟姉妹、共にこの価値ある道を歩んでいこうではありませんか。

日々新しくされる

2014年02月22日 18:23

【1コリント 1:22-24】
ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。

多くのクリスチャンがわかりやすい形での信仰の刷新を求めます。
信仰者として、何かに飢え渇き、求めている。そのことは悪いことではありません。むしろその飢え渇きがなければ、神から離れた命の通わない信仰生活を歩むことになるでしょう。
しかし、これを何によって得ようとするかによって、得るものは大きく異なります。
ある人はそれを、癒しや奇跡、不思議な業などに求め、それがなければ、信仰が今一つ生まれ変わらない、それさえ見れば、体験すれば、何かが変わるのではないかと考える。
神の神秘的体験、それを見ることが、神をさらに信じるためのしるしとなるのでしょうか。
またある人は、聖書を学び、信仰、神学を学ぶことによって、それを得ようとする。
それがどこまで積み上げればよいのかわからないけれど、いずれ学びを重ねた先に主を深く知ることができると考える。
また新しい真理、まだ解き明かされていない、あるいはあまり語られていない真理を得ることによって信仰が、目が開けたかのように刷新する。そう考える人もあるでしょう。

けれども、今御言葉は何と語っているでしょうか?
キリストの十字架の前には、あるいはつまずきとなるか、またこのことが愚かなことのように感じるか。それとも神の力、知恵たるキリストを見るのかしか、私達には結論がありません。
十字架は語り尽くされ、真新しさのない、ただの信仰の出発点でしょうか。
十字架を卒業し、新しい何かによらなければ、信仰は新たに生まれないものでしょうか。
十字架と真っ直ぐ向き合うことを心のどこかで避けていないでしょうか。
これはイエスを信じる者も、まだ信じていない者も、いずれも同様のことです。
人は神と真っ直ぐに向き合い、主に近づこうとするとき、人はむしろ自らのうちに神を避けたい、自分の都合のいい距離で神と向き合いたいという、神に背を向ける人の本質、「肉」というものに突き当たり、そして自らの力ではどうしても拭えない罪の源泉(原罪)を見るのです。
同時に、人はそこに神に裁かれるしかない存在である自らの姿を見る。
そこに立ち、十字架を選ぶか、退けるか。そこにはいついかなる時も厳粛な、神の救いと裁きしか存在しません。
十字架を選ぶ者には主の完成した救いの永遠の計画が与えられます。
全てのことは、全世界は、十字架を中心に、神の永遠の計画の中で、完了しています。十字架の御業が完成したとき、主の永遠の計画は完成したのです。
だからこそ十字架には、神の力、知恵、その全てがあり、その十字架の上にキリストが存在しているのです。
私達はこのキリストを、この十字架を私のものとして受け入れたときからつまり始めの愛を知ったときから、受け取っているのです。
このキリストは私達の新しい命として、私達の内に生きているのです。
ここに神の完全なる力と知恵が存在するのです。
この十字架の死と復活を日常の中に繰り返す営みの中に、日々私達は新しくされ続け、たとえ外見が衰えても、その内は新しい命で満ち溢れて行くのです。いや、この新しさを知れば知るほど、人は永遠という計り知れない基軸の上に、新しさを重ねていくのです。

今私達は始めの愛に立ち返りましょう。この十字架の他に完成された道は存在しないのです。キリストから目を逸らさず真っ直ぐに向き合いましょう。
そこにわき上がる新しい命が溢れるのです。
永遠の救いの恵みがあなたの内に溢れますように。

人の知恵と神の知恵

2014年02月13日 20:26

【1コリント 1:19-21】
すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」 と書いてある。
知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。
それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。

人はいつまで経っても自らの知恵を誇ります。
多くのクリスチャンでさえ、自らの救いと信仰の歩みが勤勉さとその上に重ねられた知恵によるかのように、人の知恵に依存しています。自らの愚かさを知り、神のあわれみに依り頼む(依存する)人は本当に少ないようです。
わかりやすく言うのであれば、宣教の方法や語られる内容、また信仰告白に至るまでの有効な学びなど、あらゆる人の作り出した知恵により、救いに到達されるかのような錯覚と、そこを原点とするからこそ、信仰を自らの勤勉さ、努力、意志により、打ち立てて行くものと勘違いしていく。信仰者として学び、それを実行する意志と行動を重ねる毎日の上に、はじめて信仰は守られ、信仰のある種の到達に至ると誤解している人が多いようです。
しかし、神はこの人の知恵を「神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。」とあるように信仰の最初の段階からその全段階、全域に渡るまで無意味なものとされました。
人の知恵はイエスが神の子であることを知るに至らせず、イエスが神の子キリストであることを告白したことを元に主イエスを十字架にかけました。
十字架は人の知恵をも打ち砕いたのです。
神の知恵はこの十字架に出会い、その十字架に自らを捧げた救い主イエスとその深い愛にあって交わり、主を知ることにより、与えられるものです。つまりは主がご自分の命をもって私達に与えられた、私達の内に住まわれる神、聖霊によって初めて知ることができる、受け取ることができるものとされたのです。
この内なるキリストに全ての知恵と知識があるのです。この霊、キリストの命が私の内に生きていないのであれば、全ては何の意味も力も持たない、役に立たない塵土のような知恵、知識なのであり、人を誇らせ死に至らせることはあっても、命に至ることのないものなのです。
そして、効率的な方法ではなく、愚かと思われる、宣教という、直接人と触れ合うことによって、信じる者を救うこととしたのです。
つまり、クリスチャンの内に住まうキリストの命を、直接分かち合い、そのことによって、まだ主を知らぬ人がこの十字架の主に出会うという、宣教の愚かさを、救いへの近道としたのです。
現在は出版物やあらゆるメディア、メールやインターネット、SNSなど、あらゆる方法を通して、いかに効率的に大量に宣教がなされていると錯覚する人はたくさんいるでしょう。
でも、間違わないで下さい。それらはキリストの命を伝えるのに何の力もありません。そのようなことがいくらできても、誰も救いには至らないのです。
むしろ、あなたが、十字架にかかられるほどのキリストの愛を、その内なる命にあって携えて、大切に目の前の一人一人に福音を伝えていくこと。あなたの主があなたにどれほど善くして下さったのか、どのように命をあなたに与えて下さったのかを語ることが、どれほどの力を持つかを知って下さい。
あなたの証には悪魔を引きずり落とし、キリストの勝利の内に、人々を永遠の滅びから永遠の命に導く、絶大な力があるのです。
だから、日々この絶大なる神の知恵を、主と愛をもって交わる生活の中で、豊かに受け取って下さい。そして、その素晴らしさを分かち合いましょう。そこに命が溢れるのですから。

命を与える十字架の言

2014年01月31日 23:44

【1コリント 1:18-25】
18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
19 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」 と書いてある。
20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。
それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

深遠なる神の知恵について、何回かに渡り1コリント1:18-25から、分かち合いたいと思います。
今日は18節から

【1コリント1:18】
十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。

人は十字架を前にした時、二つの行動しか取ることができません。
それは神を選び神に従うか、神を退け逆らうか。その行き着く先は永遠の命と滅び、命か死か、祝福かのろいか。
そこには、私達がよく知る聖書の中の十字架の光景と全く変わらず、中庸という選択肢は存在しないのです。
私達が語り出す言葉も同様に、そこに十字架が本当に現される時、それを耳にする人達の反応はやはりこの二通りしか存在しません。
ある人は神を受け入れるからこそ、私達を受け入れ、あるいはある人達は神に逆らうからこそ、私達を迫害するのです。それは時に相手がクリスチャンであったとしても同様です。
ですから、私達自身が人から受け入れられるために、十字架の言を曲げることは意味がありません。
そうするのであれば、その時こそ私達自身が神を恥とする者、神に背を向ける者、逆らう者となっているのです。

まず、この十字架の言を自分自身に語りましょう。そのことにより、自らがどの位置に立っているか知ることができるでしょう。神に逆らう思いがあるのであれば、今一度十字架の前に悔い改め、主イエスの愛を受け取りましょう。
もしも、神を受け入れているのであれば、自らに語った十字架の言は神の力となって、あなた自身に力強く働くでしょう。
今日もあなたが十字架の言を持って、生きるにも死ぬにも全てにおいて主イエスキリストを証する一日を歩めますように。

福音を恥とはしない

2014年01月23日 19:13

【ローマ人への手紙 1:16】
わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギ リシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。

主は私のために十字架にかかり、私の罪のため、罪を知らない方であるのに罪となられ、死を身に負い、私の贖いの生け贄となってくださいました。そして、死に打ち勝たれ、よみがえり、私を共によみがえらせて、ご自身は命として我が内に住まわれているのです。

そうです。この主イエスの十字架は私のものです。
そうです。この方に私は命を与えられたのです。

この地で渇き切り、罪で汚れ、どうしようもないかけ違いをし、死にしか向かうことのない私の古い命を、主はご自身と共に十字架につけ、新しい命を、永遠の命を私に下さったのです。
この方は今も私の内に生きておられます。絶えることのない愛を注ぎ続けて、私を生かして下さっています。

そうです。私はこの方の愛を恥とはしません。
そうです。だから、私はこの命を得させる福音を恥とはしません。
この方を愛することの他に価値のあることは存在しないのですから。この命はもはや私のためのものではなく、私を愛して下さって自分の命を与えて下さった主のものです。

やがて、この方が再びこの地に来られる時、この方は裁き主として地に来られます。
彼に立ち返ることなく彼に逆らい続け、彼の愛を受け入れなかった人々を、裁くために。彼の愛を受け入れない者は彼に必ず逆らう者となる。永遠に神に逆らう存在となった者を裁くために。
この方の足が愛する彼らを踏み、その衣を血に染め、断腸の悲しみの内に裁きをなされるのです。
この主の御怒りの裁きから、この方が愛する者が一人でも多く救われるために、私達は福音を与えられているのです。
この方が少しでも悲しまないために。

あなたが主からどのようにして命を与えられたのか。主があなたにどのように善くして下さったのか。語って下さい。それが誰かに救いを得させる力となる、あなたに与えられている福音なのです。

主の問いかけに答える

2014年01月17日 17:20

【イザヤ書 6:8】
わたしはまた主の言われる声を聞いた、「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。その時わたしは言った、「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください」。

アダムとエバの時代、人が最初に罪を犯した時代から、神は私達(人)に「あなたはどこにいるのか?(創世記3:9)」と呼びかけ、私達を探し続けておられます。
主から自らを隠し、背を向け、神の思いを無視して、自らの思い(欲求)のために生きる。そんな私達に主はこのように語りかけておられます。そして、ご自身のこの思いを共に担う者を探しておられるのです。
神が今も罪にさ迷える魂(人々)を、ご自身の元に導くために、自らの思い(欲求、肉)を退け、神のために生き、神のこの問いかけ(福音)を携えて、出て行く者達を求めておられるのです。
この地が罪に満ちれば満ちるほど、神は滅び行く人々に切実に語りかけようと、罪人達の破れ口に立つ者を探しておられます。
だから、主を愛する兄弟姉妹。
「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか。」という主のこの真剣な問いかけに、今手を止め、足を止めて、自分がどう答えるべきか、考えて欲しいのです。
なぜなら、この地がこの国が、主の忍耐を越えて裁かれるほどに、いつ罪を重ねてしまっているのか、つまり、いつまで主がご忍耐続けてくださるのか私達にはわからないのですから。
自らの平和を誇る前に、主の痛みを見つめて欲しいのです。
今日も共に「ここにわたしがおります。わたしをおつかわしください。」と告白を重ねましょう。

上よりの力を受ける

2014年01月16日 18:17

【使徒の働き 1:8】
ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

神が私達に与える、担うべき神の計画はあまりに大き過ぎて、私達にはとても信じられないものばかり、とても負い切れないものばかりです。
それは聖書において、一個人に語られた主の計画の壮大さから見ても、とてもよくわかることでしょう。そして、その真理は今も昔も、聖書の時代も現代も、変わることは何一つありません。
この壮大な計画を人間の力でどうにかしようとするのであれば、とてつもない過ちを犯すこととなるでしょう。
神の力でしか実現することのできないことだからこそ、それが成就したとき神だけの栄光となるのですから。
主はこのように、主に自らの人生を捧げ、主に生涯仕えることを選んだ者達に、ご自身の大いなるご計画を担わせて下さいます。
それは、国を建て上げること、歴史を作ること、時代を作ること、世界を支えること。
大それたことを聞いているように感じますか?
しかしこのように神の計画は、主が再びこの地に臨まれ、この地を治める日が一日も早められるよう、私達教会を通じて、クリスチャンを通じて、押し進められていくのです。
そしてこれまでも、そのようにしてごく普通の人々が、世界を神の元に勝ち取って来た(世界宣教)のです。
もしもあなたが主から担わされているこの壮大な計画が、あまりに大きく感じられるのであれば、今日の聖句をそのまま自分のものとして受け取りましょう。この聖句は聖霊によるバプテスマを表す聖句です。
主イエスはご自身の名にあるように聖霊によりバプテスマを与えられる方です。
この「力を受ける」と言われる「力」は絶大な力を指します。無限の神が私達の内から爆発的に現れる力なのです。
聖書に語られた御言葉をそのまま信じる者、それが主イエス(ロゴス=神の御言葉であられる方)をそのまま信じる者です。そして、その現れを事実として著されているのが聖書の使徒行伝(使徒の働き)なのです。それは驚くべき姿ですが、それが変わることのない主の真実なのです。
疑うことなくこの聖句の約束を、欲しいと主に願い、そのまま受け取りましょう。

人生の嵐にも

2014年01月15日 21:35

【聖書】
彼らはその悩みのうちに主に呼ばわったので、主は彼らをその悩みから救い出された。
主があらしを静められると、海の波は穏やかになった。
こうして彼らは波の静まったのを喜び、主は彼らをその望む港へ導かれた。
どうか、彼らが主のいつくしみと、人の子らになされたくすしきみわざとのために、主に感謝するように。

私達の人生という航海に、嵐という一文字さえなければ、どんなに不安がないことでしょう。誰もが、人生を平穏に過ごせるならと願う、それが人情というものでしょう。
しかし一度自分の力ではどうにもしようのない、嵐のような現実に巻き込まれた時、あなたは誰に助けを呼び求めるでしょうか?
声枯れ果てるまで叫び続けても、人の力ではどうしようのない現実。
けれど、そこに手を伸べ、唯一助けを与えることのできる方がいます。その名は救い主イエスキリスト。
この神の名を叫び、人生を新たにされた人達は世界中で数え切れないほどいます。その名を呼ぶ者は皆救われる、それが何千年も重ねられた時間の中で、変わることのない聖書の語る真実です。
人生の究極の場面は神に出会うチャンスとなり、人生のかけ違いをかけ直す大きな機会となる。
あなたはそんな救いの手を求めていませんか?

有楽町火災に直撃

2014年01月03日 13:55

今日の有楽町の火事には参りました。
JR線路沿線火災と言うことで、山手線、京浜東北線、東海道新幹線が軒並み運転見合わせ。
ちょうど、秋葉原でPC関連グッズでも見たいと思っていたところに直撃でした。
結局、私は何とか電車を乗り継いで意外と早く目的地に着け、今日の予定にはそれほど支障ありませんでした。主に感謝。
ただ、Uターンラッシュの皆さんには大変なアクシデントとなったようです。
またあとでニュースで知ったのですが、あの懐かしい有楽町の町並みに煙が上っており、私が目的地に到着してもまだ消火できておらず、思っていたより大きな火災だったことを知って、驚いてしまいました。
この火災で被害に遭われた皆さんには主のあわれみを心よりお祈りいたします。

皆さんは大丈夫でしたか?

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