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あなたへの良き知らせ

2014年07月18日 10:13

【2列王記25:27-30】
25:27 ユダの王エホヤキンが捕え移されて後三十七年の十二月二十七日、すなわちバビロンの王エビルメロダクの治世の第一年に、王はユダの王エホヤキンを獄屋から出して
25:28 ねんごろに彼を慰め、その位を彼と共にバビロンにいる王たちの位よりも高くした。
25:29 こうしてエホヤキンはその獄屋の衣を脱ぎ、一生の間、常に王の前で食事した。
25:30 彼は一生の間、たえず日々の分を王から賜わって、その食物とした。

私達が救われクリスチャンになったということは本当はすごいことです。
しかし、時々私達はそのことを忘れさせられいつの間にか意気消沈させられ、希望もなく、未来も見えず、あるいは今日と変わらない明日を求めるだけで、やっとのような信仰生活を歩む日もあるでしょう。
でも、騙されてはいけません。それはあなたが主から与えられた救いの絶大な意味を見えないようにされ、その喜びを奪おうとされているだけです。
だから、もう一度そこに立ち返って、主の驚くべき御業がいかに恵みに富んだものなのかを見つめ返したいと思うのです。
もしも、救いにより私達が与えられた立場が本当にわかったら、あなたはその中に主にある永遠の深い安らぎ、平安を得ることでしょう。
今日のこの箇所には救われたということがどのようなことを意味するのか、その型となることが語られています。

【ルカ4:17-21】
すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、
主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。
そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。

主イエスご自身がイザヤの預言からこのように語られたように、これが人々に与えられている良い知らせ、福音の本質であり、主が来られた時からあなたの中に成就するもの、主を受け入れ救われた時からあなたはその恵みの中に入れたのです。
「囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、(18節)」とあるように私達はそれまで罪捕らえられ、永遠の滅びと受けるべき、死刑囚でした。
その罪の暗闇に神を見ることもゆるされず光はなく、罪の奴隷として売り渡されたもの、この罪の前に成す術のない自由のないものでした。
それは、エホヤキンに現された姿も同様です。
しかし、主はそこから私達を解放しました。ご自身の命を十字架に差し出し、この死刑囚という立場から私達を贖い出して、その「獄屋から出して(27節)」くださったのです。
そして罪に打ちひしがれ傷ついた私達を、主ご自身がいやし、慰め(28節)てくださいました。
私達は「獄屋(囚人)の服を脱ぎ(29節)」、キリストを着て(ガラテヤ3:27)、さらに驚くべきことに、この地上のどの王よりも高い神の王国の王族としての地位を与えられたのです(28節)。
私達は、一生の間、常に王なるキリストの前で、やがて朽ちるような食物でなく永遠のいのちを与える「神の口から出る一つ一つの言で生きるもの(マタイ4:4)」として食事し(29節)、主との深い交わりを与えられています。
もう私達は何を食べようか何を着ようかと思い悩む必要はありません(マタイ6:31,32)。主ご自身がその全ての必要をご存じで、たまにではなく、また一時的、あるいは気まぐれでもなく、「一生の間、たえず日々の分を王(なるキリスト)から賜わって、(30節)」生きる者とされたのです。
私達に与えられていないものは何一つありません。
エデンの園で神との間に与えられていたもの、その全てが神との和解により主との愛と永遠におけるいのちの交わりのうちに、回復した。
それが救われた私達の本来の姿です。これが私達の希望です。
そしてこの恵みは主との間に永遠に与えられているものなのです。もうここから私達を引き離すものなど存在していないのです(ローマ8:35-39)。
さあ、元気を出してください。
いつまでも偽りに捕らわれずに、本来のあなたの姿を見つめてください。
そしてあなたの主に与えられている今日を喜び、主をほめたたえつつ、一日を過ごしてまいりましょう。
今日もあなたの上に、主の恵みと愛と交わりがとこしえにとどまりますように。

主を喜ばせる行い

2014年07月17日 13:21

【2サムエル2:4-7】
時にユダの人々がきて、その所でダビデに油を注ぎ、ユダの家の王とした。人々がダビデに告げて、「サウルを葬ったのはヤベシ・ギレアデの人々である」と言ったので、
ダビデは使者をヤベシ・ギレアデの人々につかわして彼らに言った、「あなたがたは、主君サウルにこの忠誠をあらわして彼を葬った。どうぞ主があなたがたを祝福されるように。
どうぞ主がいまあなたがたに、いつくしみと真実を示されるように。あなたがたが、この事をしたので、わたしもまたあなたがたに好意を示すであろう。
今あなたがたは手を強くし、雄々しくあれ。あなたがたの主君サウルは死に、ユダの家がわたしに油を注いで、彼らの王としたからである」。

人に対する態度は、自分の神に対する態度に通じるところがあります。
神を愛し、神に仕え、神のために生きると口で言うことはとても簡単です。
しかし日々の生活の中で、そのことを思い、いついかなるときも全ての行動の基盤をそこに置いているのであれば、それは自然に日々の行動に現れます。

【エペソ6:6-8】
人にへつらおうとして目先だけの勤めをするのでなく、キリストの僕として心から神の御旨を行い、
人にではなく主に仕えるように、快く仕えなさい。
あなたがたが知っているとおり、だれでも良いことを行えば、僕であれ、自由人であれ、それに相当する報いを、それぞれ主から受けるであろう。

そして、全ての行動の根底に何があるのか、人にはわからなくても、神はその心の奥底をご存じです。
やがて主イエスが再びこの地に来られ、このダビデ(王である主イエスキリストの型としてここでも見ることができます)のように、全地の王としてこの地を治める時には、主はこれまでの私達の心からの行いをもって、私達に報いてくださるでしょう。

【2コリント5:9,10】
そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。

なぜなら、主ご自身のために私達がしてきたことを、主が喜ばないはずがないからです。
そして、その喜びは今私達がどのように行動すべきかを決め、行う段階から私達は味わうことができるのです。
なぜなら、主を愛し、主を思い、主のために主の御心を行なおうと行動を選択する段階から、私達は聖霊を通じて、私達の心の中に主の喜びが満ち溢れ始め、いかなることにも心揺れることのない平安で心が満たされるからです。
逆に言うならば、この平安と喜びによって、私達は今何をすべきか、何が神を喜ばせることなのかをはかり知ることができるのです。

今日あなたの一日はどのような一日でしょうか。
主に喜ばれる日々が重ねられますよう心からお祈り申し上げます。

御言葉に親しむ

2014年07月16日 08:25

【詩篇119:14-16】
わたしは、もろもろのたからを喜ぶように、あなたのあかしの道を喜びます。
わたしは、あなたのさとしを思い、あなたの道に目をとめます。
わたしはあなたの定めを喜び、あなたのみ言葉を忘れません。

主の御言葉に親しむこと、これは命の言葉であるイエスキリストご自身を知り、交わることです。
多くの兄弟姉妹が御言葉を理解しようと学び、あるいは調べ、研究します。
そのことを否定はしません。
しかし、御言葉を知るには大原則があります。
聖書こそ神の御言葉であり、生ける御言葉(ロゴス)であられるキリストが文字として現されたものです。だからこの御言葉は私達の内に生きる聖霊によらなければ、何一つわからないということです。
つまりただ読解するように聖書を読んだとしても、そこでわかるのはただの律法としての規律であったり、道徳的な規範であったり、あるいは歴史書籍であったり、礼典のための参考書であったりするでしょう。
つまりは教会運営や信仰生活の手引書となることはあっても、それ以上のものにはなりません。
しかし、この御言葉は主イエスキリストであり、生きているのです。

【ヨハネ1:1-4,14】
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
 [中略]
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

主イエスはこの地で涙を流され、憤り、また真理を語り、多くの人々と食事をし、交わり、父なる神に祈り、父に仕え、従い、十字架の道へと進まれました。
そこには知性も感情も意志もある。まさに人(「人の子」)であり、神(「神の御子」)でした。
つまり、主イエスはちゃんと、生きてパーソナリティー(「位格」)があり、私達はだからこそ、人と人が交わるように、主イエスと交わることができるのです。
この方は今も生きて私達の内に聖霊として住まわれ、また聖書を通して私達に語りかけられます。まさに今私達は生きておられる主と交わることがゆるされているのです。
これは驚くべきことです。
そこには愛が溢れ、命に満ち、生きて触れ交わるように主を知り、主ご自身の御心の奥深くを教えてくださる。そして主に愛をもって従うように、御言葉を喜び、御言葉を忘れず、御言葉に従い生きていく。主と私だけの、他の人では代わりになることのできない、深い交わりがそこに存在するのです。
もしそのように、つまりは主と愛にある深い交わりを持つように、御言葉を読み触れるのであれば、聖書は今までとは全く異なった命の光を放つでしょう。

今日も主イエスを愛し、御言葉と共に歩んでまいりましょう。

主にある不動の歩み

2014年07月12日 07:11

【1ペテロ5:8-11】
身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食いつくすべきものを求めて歩き回っている。
この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、同じような苦しみの数々に会っているのである。
あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さるであろう。
どうか、力が世々限りなく、神にあるように、アァメン。

クリスチャンとなった者、主に救われた者は決して苦しみに会わないのではありません。むしろ、世から移されて神の者とされ、暗闇とサタンの支配からイエスキリストの支配の中に入れられたからこそ、世は私達を憎みます。私達は世のものではないからです。
この世の支配者であるサタンは主から格別の恵みに預かる、祝福された主に選ばれた民、クリスチャンを、大きな妬みをもって戦いに巻き込んできます。
つまり、私達が救われ新しく生まれたその日から、信仰の戦いは始まるのです。
しかし、主はこの戦いはすでに結果が出ているものであり、主を信じたその時から、私達は永遠の十字架の勝利にあって主に勝ち取られたものであり、常に、いついかなる時も、私達は全てのものに勝利している者であると語っているのです。
この最初から、何ものにも揺るがされることのない勝利の中にいるからこそ、むしろ神はこの地を勝ち取る者として、私達をこの地上に遣わされました。
それが私達の本来の姿です。

【1ヨハネ5:4,5】
なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。

このことを私達クリスチャンはもっと知る必要があります。
この世の何ものにも揺るがされることのない、不動のものとされるために、私達はこの事実を知るために、戦い、苦しみに会うときもあるかも知れません。
しかし、そこにいつも十字架にあって、主は私達をいやし、絶大なるそのよみがえりの力により強められ、力づけられ、永遠に変わることのない完成した十字架の御業を、我が内に不動のものとして知るのです。
まさしく私達が勝利者として、十字架に一つのものとされ、不動のものとなる。私達自身が揺るがされることのなく、むしろ世を揺るがす者となるのです。
パウロを「この男は、疫病のような人間で、世界中のすべてのユダヤ人の中に騒ぎを起している者であり、(使徒24:5)」と言わしめた主の絶大なる神の力はあなたにも働いて、世から多くの命を神の国へと、そして永遠の命へと勝ち取る者となり、あなたも世を揺るがす者となることでしょう。
神はあなたを永遠に勝利者として、勝利の道を歩むように招き、また導きます。

神の全能の力に全てをゆだねて。主の圧倒的な勝利が、あなたの人生を覆い尽くしていることを、あなたが知るに至り、その勝利を目の当たりにする全ての人々によって、神の御名が高らかにほめたたえられますように。

主と永遠に共に歩む

2014年07月11日 07:20

【マタイ4:18-20】
さて、イエスがガリラヤの海べを歩いておられると、ふたりの兄弟、すなわち、ペテロと呼ばれたシモンとその兄弟アンデレとが、海に網を打っているのをごらんになった。彼らは漁師であった。
イエスは彼らに言われた、「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」。
すると、彼らはすぐに網を捨てて、イエスに従った。

人生を変える出会いがあります。それは主イエスとの出会いです。
人生を変えるべき一言があります。それは主イエスから召されたときです。
主に出会った者は人生が変わります。
新しい命を与えられ、新しい人生を歩むからであり、それは私達が本来どのような目的で主により造られたのか、その本来の目的に沿った人生を歩むからです。
そこには、こんなはずではなかったと言う、人生を掛け違えるようなことはなく、主に従って行くならば、後悔の必要は決してありません。
そして、主の召しに躊躇する必要もありません。
主は私達の人生の全てを見ておられ、私達のこれまでの歩みを何一つ無駄にすることなく、最善の道のりを備えてくださるからです。
確かに主と共に歩むためには、これまでから全く新しい歩みであるため、すべてを捨てて従って行かなければならないでしょう。
しかし、その歩みは全てに勝る価値のある歩みとなります。

【マタイ19:27-29】
そのとき、ペテロがイエスに答えて言った、「ごらんなさい、わたしたちはいっさいを捨てて、あなたに従いました。ついては、何がいただけるでしょうか」。
イエスは彼らに言われた、「よく聞いておくがよい。世が改まって、人の子がその栄光の座につく時には、わたしに従ってきたあなたがたもまた、十二の位に座してイスラエルの十二の部族をさばくであろう。
おおよそ、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、また永遠の生命を受けつぐであろう。

主に従って行くかどうかを決めることは一瞬かも知れません。しかし、そのことはあなた自身の永遠の歩みの価値を大きく決定することになるでしょう。
それはこの地上において、たとえイエスと同じ道を歩むことになったとしても、命よりもはるかに価値のある、神の喜びを一身に受ける恵まれた人生を歩むこととなります。
なぜなら、主に従い歩む道はいずれにしても、主の御足の跡をたどるという、唯一父なる神を満足させる道のりを、主と共に歩むからです。
そして主からの召しを大切に担って歩む歩みは、やがて主の秘めたる胸のうちをうかがい、その御思いを共有しながら歩むという、主と最も親しい交わりを持つ歩みとなるでしょう。
やがて天において主と顔と顔とを合わせてお会いするとき、その主との親しい交わりは何も変わることなく、いや驚くほどの親しさをもって、この地上での主との共なる歩みを、主と語り合えることでしょう。
それはどれほどの喜びであり、どれほど価値のあることでしょうか。
そうです。私達の人生は主にどれほど満足していただけるかであり、その喜びを主と共にどれほど共有できるかであり、そのことにより、主の栄光が私の人生にどれほどに輝きあらわれいでるかであるのです。私達の人生そのものは主への最上のささげものであり、主を喜ばせる最上の麗しい香りを放つものとなることができるのです。
主に従い歩む道のりは、どこまでも深く、底知れない価値を見いだせる道のりなのです。
それは主と出会った瞬間から始まる、主に従い行くかどうかという選択。あなたが主に向かい、まず一歩を踏み出すかどうかから始まるのです。

さあ、恐れずに、共に主に従ってまいりましょう。

主の訪れに気づく

2014年07月10日 07:48

【ルカ4:16-21】
4:16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。
4:17 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を出された、
4:18 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、
4:19 主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。
4:20 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。
4:21 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。

主イエスが語られたこの御言葉は【イザヤ61:1,2】の預言です。
それはイエスがこの地上に誕生されるはるか昔に預言者イザヤによって語られた預言。
そして、その預言が「この日に成就した(21節)」と、大いなる希望をもって主が自らの唇で語られています。
はるか未来の預言と思われていたもの、それがこの日成就したと語られたのです。
今、この言葉は同様に私達にとってははるか昔に語られた言葉に思われるかも知れませんが、今の私達に語られています。
主が今生きておられる。私達のうちに。
この事実はこの御言葉が、今のあなた自身に、そして今向き合っているあなたの現状に、明らかに光を差し入れる希望の言葉であり、これはただの慰め、ただの気休めの言葉ではないのです。
この時代、主イエスに出会った多くの人達がいました。しかし、この時まで多くの預言者を通して語られた、救い主に関する預言(メシア預言)の言葉の一つ一つが、自分に何ら関係のない、ただの気休めの言葉として、あるいは自分から遠い場所で起こるおとぎ話のように捉えていたのであれば、どれほど近くでイエスに出会えたとしても、この方が自分の救い主であることに気づくことはありませんでした。
そのように多くのイスラエルの民はイエスにつまづきました。目の前に居る救い主に気づかず、やがてはその救い主自身を自分たちの手で十字架につけてしまったのです。
そのことは今の私達にも同じことが言えます。
今あなたに語られているこの御言葉があなた自身にあまり関係のないことのように、日常の生活に追われるままに日々を過ごしているのであれば、あなたのうちに居られる方がどれほど絶大な方で、あなたの人生を全く変えるほどの神の大いなる御手があなたに伸べられていたとしても、あなたはそれらには全く関係なく、つまり救い主はあなたの人生に直接的には何も関わることなく、あなたは人生の大切な時間の大半を過ごしてしまうでしょう。
でも、この方は今生きてあなたを救う救い主なのです。
あなたを罪に捕らえられた生活から解放し、だからこそあなたを囚人のように捕らえる全てのものから解放すると、今主は言われます。
そして、問題だらけ、悩みだらけ、苦しみだらけ、悲しみだらけ、死とのろいの満ちる地上で、希望の光を、いずこともなく盲人のように探し求める、あなたの目に光を与え、その目を開かせて真の希望が如何に絶大なものなのかを知る者としてくださると主は今語られているのです。
そして現実に打ちひしがれているあなたに主イエスにある真の自由を得させ、救い主のめぐみの年が今来ていることあなたに告げ知らせていると言っているのです。
なぜ、なおあなたは、何も与えられていない者のように、他の何かに希望を求めたり、自らの小さな小さな手でわずかな希望を握りしめるように、小さく背を丸めて、目の前にあるものだけを見ながら、ため息とあきらめだらけの人生を歩む必要があるでしょうか。
あなたの信仰の目を開くなら、そこにあなたの救い主は生きて居られるのです。

どうか、今生きてあなたに働く主の大いなる愛に、あなたが気づきますように。主の知恵と啓示の霊をもって、あなたの目が今開かれますように。

ただ主のみを恐れよ

2014年07月08日 17:38

【詩篇103:13-19】
父がその子供をあわれむように、主はおのれを恐れる者をあわれまれる。
主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである。
人は、そのよわいは草のごとく、その栄えは野の花にひとしい。
風がその上を過ぎると、うせて跡なく、その場所にきいても、もはやそれを知らない。
しかし主のいつくしみは、とこしえからとこしえまで、主を恐れる者の上にあり、その義は子らの子に及び、
その契約を守り、その命令を心にとめて行う者にまで及ぶ。
主はその玉座を天に堅くすえられ、そのまつりごとはすべての物を統べ治める。

心弱まるとき、自らには何もなく、力も、良い知恵も、頼れる人も、頼れる物も一切なく。ただ心許なく、神様すら遠くに思え、どうしたらよいのか途方に暮れるとき。
まさしく、聖書にある通り、私は何者でもなく、塵(ちり)に過ぎない者。それ以上でもそれ以下でもない。
そう感じるときが誰にでもあるでしょう。
しかしここで、主は私達が塵に過ぎないことを知っていると言われています。
主を我が主とし、神を我が神とし、王なる方を王とする者、主を恐れる者に、主は「わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。(黙示録21:7)」と語られます。
それが神に造られた者、そして主イエスの贖いにより神との和解を受け、神との本来の関係に戻された者のあるべき姿です。私達はここに平安を得ます。
この王なる神がご自身の玉座に着かれるなら、神が全てを統べ治め、とこしえに変わらない主の公義といつくしみが溢れ、万物は主の御言葉に従って行くのです。
現実が如何なる状況に見えたとしても、この現実が御言葉に従っていくのです。

【ヘブル11:3】
信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

この御言葉こそ、神の子とされた者には愛そのもの。そして命そのもの。主イエスそのもの。
神の子はこの御言葉の中に留まり生きるのです。
そうです。神はあなたの父のように、あなたを愛し、あなたに何もないことを十分に知っていると語りかけられ、だから主により頼み、主に従い、主を愛し、主を恐れ生きる者のために、主は万物を動かしてあわれむと言われるのです。
このとき、私達に何もないということは何の意味もなくなります。なぜなら、天地万物全てを統べ治める方が、あなたの全てとなるというのです。あなたには全てのものが主にあって与えられているというのです。
これがどれほど凄いことかわかるでしょうか。
あなたには何もなくとも、全てが満ち溢れ、問題は何一つ問題ではなくなり、全てが主の栄光となっているのです。
鍵はあなたが神を恐れ、あなたの王として玉座に迎え、主の御言葉のうちに留まることです。全てはあなたの何ものにもよらないのです。
全ての恐れを捨て、ただ主のみを恐れましょう。

砕かれた岩

2014年06月19日 18:20

【出エジプト17:1-7】
17:1 イスラエルの人々の全会衆は、主の命に従って、シンの荒野を出発し、旅路を重ねて、レピデムに宿営したが、そこには民の飲む水がなかった。
17:2 それで、民はモーセと争って言った、「わたしたちに飲む水をください」。モーセは彼らに言った、「あなたがたはなぜわたしと争うのか、なぜ主を試みるのか」。
17:3 民はその所で水にかわき、モーセにつぶやいて言った、「あなたはなぜわたしたちをエジプトから導き出して、わたしたちを、子供や家畜と一緒に、かわきによって死なせようとするのですか」。
17:4 このときモーセは主に叫んで言った、「わたしはこの民をどうすればよいのでしょう。彼らは、今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」。
17:5 主はモーセに言われた、「あなたは民の前に進み行き、イスラエルの長老たちを伴い、あなたがナイル川を打った、つえを手に取って行きなさい。
17:6 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。あなたは岩を打ちなさい。水がそれから出て、民はそれを飲むことができる」。モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのように行った。
17:7 そして彼はその所の名をマッサ、またメリバと呼んだ。これはイスラエルの人々が争ったゆえ、また彼らが「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って主を試みたからである。

ここに目の前にある岩に三つの意味を見いだします。
一つは私達の歩みに、問題として立ちはだかる大きな岩です。
ここは水がない沙漠の地であり、周りにあるのは岩。水が全く期待できるような場所ではありません。人がその現実を目にし、自らの考えにおいてどうにもならない状況であることを判断した時、「主はわたしたちのうちにおられるかどうか(7節)」と、神への小さな疑いが神への不信という罪へと人を導き、神を試みます。
つまりここにもう一つの岩が登場する。それは私達の心の、神に対する頑なさです。
心が岩のように硬化してしまうなら、もう人は信仰を働かせることはできません。

「なぜこわがるのか、信仰の薄い(信仰を働かせられない)者たちよ(マタイ8:26)」

問題は死の恐怖と共にさらに大きく見えてくる。この大岩を前にもう人はどうにもできません。惨めに勝手に絶望の内に神をさえのろう。その姿がこのイスラエルの人々に現されている私達の姿です。

「あなたは岩を打ちなさい。(6節)」

神はここに全く別の一つの岩を提示します。それは私達の救い主の姿です。

【1コリント10:1-4】
10:1 兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、
10:2 みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。
10:3 また、みな同じ霊の食物を食べ、
10:4 みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。

私達の主イエスキリストこそ、私達のために十字架にかかられ、砕かれた岩である方です。この方の死により私達はあらゆる状況の中によみがえりを見出すことができるのです。

【2コリント4:8-11】
4:8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
4:9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
4:11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。

いつでも、私達のために十字架の上に砕かれたイエスの姿を見るならば、私達はいかなる問題の前においても、永遠に尽きることのない命の水にあずかることができるのです。
そして、同時に私達の神への頑なな罪という岩は、この贖いの御業により砕かれます。
主イエスの十字架にすがる。
鍵になるのは「初めの愛(黙示録2:4)」です。
信仰年数が長くなり、信仰経験が多くなるほど、この「初めの愛」から遠ざかる傾向があります。成長したクリスチャンはスタートから遠ざかったところにいるのではありません。

あなたは今、目の前の問題に心奪われ、神が見えなくなり、十字架の愛を忘れていないでしょうか。
私達はこの初めの愛から離れたら何もできません。私達の神への頑なさ。何度も神を試みる神への不信。十字架の他に神に帰る道はありません。
もう一度十字架に立ち返りましょう。悔い改めは恵みです。神の愛です。
この十字架の元から死はよみがえりに変えられるのです。
すべての鍵は最初から十字架の元に与えられているのです。

よみがえりの主がおらる

2014年05月03日 11:44

【ルカ7:11-17】
そののち、間もなく、ナインという町へおいでになったが、弟子たちや大ぜいの群衆も一緒に行った。
町の門に近づかれると、ちょうど、あるやもめにとってひとりむすこであった者が死んだので、葬りに出すところであった。大ぜいの町の人たちが、その母につきそっていた。
主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。
そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいる者たちが立ち止まったので、「若者よ、さあ、起きなさい」と言われた。
すると、死人が起き上がって物を言い出した。イエスは彼をその母にお渡しになった。
人々はみな恐れをいだき、「大預言者がわたしたちの間に現れた」、また、「神はその民を顧みてくださった」と言って、神をほめたたえた。
イエスについてのこの話は、ユダヤ全土およびその附近のいたる所にひろまった。

これはナインという町で主イエスがなされたよみがえりの奇跡です。
しかしこの奇跡の御業のきっかけが、一人息子を亡くした母をあわれまれてというところに私達は深い慰めを受けます。
そして、そこで現された御業はひとりの若者をよみがえらせたばかりか、恐らくその母を含め、この御業を見た多くの者達をやがて神の前によみがえらせることとなったことでしょう。
なぜなら、この当時ユダヤの人々は、死んだ後人がよみがえることについて、信じる人と信じない人に分かれていましたが(参照 使徒23:6-10)、ここに主はよみがえりの御業を現されることにより、その論争に決定的な結論を証したからです。
もしも、よみがえりがないなら、人は死後よみに下り、そこに永遠に閉じこめられるだけで何の希望もありません。この地にいることのみが希望であり、死後にはひとかけらも希望がないことになります。
しかし、もしも死後よみがえりがあるのであれば、神(主イエス)を信じる者は永遠のいのちを持つことになるのです。

【コロサイ1;18】
そして自らは、そのからだなる教会のかしらである。彼は初めの者であり、死人の中から最初に生れたかたである。それは、ご自身がすべてのことにおいて第一の者となるためである。

【ヨハネ11:25,26】
イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」

そして、そのことは死後よみがえって、キリストと共に永遠に住まう、完成された神の国(天国)にある永遠の希望が与えられることとなるのです。(1コリント15:12-28)
何と驚くべきことでしょうか。このような奇跡をただ通りすがった名もない者のために、主はなされたのです。いや、主の内には実は明確な動機が存在しました。主は「深い同情を寄せられ(13節)」たのです。決して通りすがっただけではなく、主は愛してくださっていたのです。
神は私達の頭の毛の数さえご存知であり(ルカ12:7)、私達が生まれる前この世の日が一日もない時から私達を知り、愛してくださっているのです(詩篇139:13-17)。
そして、私達によみがえりの命を与え、永遠の命にあずかる絶大なる希望を与えたいと切望されたのです。だから、主イエスを救い主と信じる私達にこのことを与えてくださったのです。
あなたは主イエスのよみがえりを信じていますか?
あなた自身のよみがえりを本当に信じていますか?
あなたに与えられているこの永遠の命という絶大な希望を信じていますか?
主は今もあなたのそばにいて、この希望をあなたに本当の意味で与えたいと願い、深く愛しておられます。
あなたを愛するがゆえにその命を十字架にささげ、またよみがえってあなたにご自身のよみがえりの命を与えるほどに。
よみがえりの主に、命の主に、その御手に、永遠の愛にすがりましょう。

自らのはかり

2014年04月30日 20:39

【ルカ6:37,38】
人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることがないであろう。また人を罪に定めるな。そうすれば、自分も罪に定められることがないであろう。ゆるしてやれ。そうすれば、自分もゆるされるであろう。
与えよ。そうすれば、自分にも与えられるであろう。人々はおし入れ、ゆすり入れ、あふれ出るまでに量をよくして、あなたがたのふところに入れてくれるであろう。あなたがたの量るその量りで、自分にも量りかえされるであろうから」。

神の国の基準はこの地においては非常に不思議です。つまりこの世の常識とは反しているということです。
およそ、神の国の常識をもってこの世に歩むのであれば非常識で愚かな人と言われるでしょう。
なぜなら、この世の常識はこの世の君サタンの支配にある考えであり、最初から神に反するための考えだからです。そのサタンに欺かれ人が罪を犯したからこそこの地はのろわれ、常に不条理に占拠されています。その不条理にあって必要悪というサタンの偽りの考えを受け入れなければ、生きていけないと人は思い込まされしまうのです。それがこの世の常識です。
しかし、神の国における法則、真理はこれを真っ向から否定します。そして神の性質の溢れる神の国をこの地上に顕現するために、神の御言葉を預けられた者達がいかにこの地上で歩むべきかをはっきりと指し示します。
それは中庸という、どっちつかずの選択をゆるさず、世に生きるか、神にあって生きるかを明確に選択することを迫るのです。

測りなわは神にあります。人はそれを持っていないからこそ、神の測りなわでなければ善悪をはかることはできません。なぜなら善とは神のみにある性質であり、この神にないものの性質が全て悪だからです。
しかし善悪を知る木から実を食べてしまった人間には自らが神のようになろうとするため自らを善とし、善も悪も自らの基準をもってはかろうとするのです。
そしてそのはかりは他人をはかるとき、自らをもそれによってはかるのです。
自らが裁かれる定めにあるサタンが人間同士に植えた罪にあるジレンマがここに存在します。罪ある者が自らを正しいとして互いを裁きに定め、共に滅びに定めようとする。これこそサタンにあるこの世の常識です。
これに明確に逆らう神の国の法則は十字架にあるゆるしです。互いにこの十字架にあってゆるし合うなら、神の国はこの十字架の下に確かに現われるのです。

また、神の国は神の豊かさを分かち合いそれによって豊かさがさらに満ち溢れるという性質を持っています。それはイエスがこの地上で行われた五千人の給食を見れば一目瞭然でしょう。主が祝福されたわずか五つのパンと二匹の魚が、分かち合われて豊かになり、そこにいた五千人以上の人々を満たすという奇跡に至った。これこそが神の国の性質です。
なぜなら、私達は豊かさに満ちみちておられるイエスご自身の豊かさを分かち合うことで満ち溢れる。これが神の豊かさだからです。
そして私達はこの豊かさを分かち合うために弟子達が五千人の給食の際行ったように自らの手で自らに与えられたものを配る必要があるのです。これが神の国を与えられたに者達に神から授けられた役目です。
私達の持ちゆる物は全て神から与えられたものです。その豊かさは私個人を豊かにするためのものではなく、その豊かさをパンと魚を配るように、互いに与えて初めて豊かさが増し加わるのです。この豊かさを分かち合うのが教会です。
キリストの満ちみちた豊かさが満ち溢れており、それをキリストが自ら血と肉を分かち、ご自身の豊かさを分かち合うために、自らのからだとして教会を建てたのです。

【エペソ1:23】
この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。

【エペソ3:17-19】
また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛を基として生活することにより、
すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解することができ、
また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべてをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る。

これが神の性質に満ち溢れた神の国の現れです。
私達は自らのはかりを神の国の法則、真理の内に持つのか、世の常識に持つのか。思っている以上に真剣にこのことに向き合う必要があります。
なぜなら、そのことが私達の信仰者としての歩みを自らのはかりではかることとなるのですから。

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