ブログ

神に富む者として

2014年08月23日 11:20

【ルカ12:15-21】
12:15 それから人々にむかって言われた、「あらゆる貪欲に対してよくよく警戒しなさい。たといたくさんの物を持っていても、人のいのちは、持ち物にはよらないのである」。
12:16 そこで一つの譬を語られた、「ある金持の畑が豊作であった。
12:17 そこで彼は心の中で、『どうしようか、わたしの作物をしまっておく所がないのだが』と思いめぐらして
12:18 言った、『こうしよう。わたしの倉を取りこわし、もっと大きいのを建てて、そこに穀物や食糧を全部しまい込もう。
12:19 そして自分の魂に言おう。たましいよ、おまえには長年分の食糧がたくさんたくわえてある。さあ安心せよ、食え、飲め、楽しめ』。
12:20 すると神が彼に言われた、『愚かな者よ、あなたの魂は今夜のうちにも取り去られるであろう。そしたら、あなたが用意した物は、だれのものになるのか』。
12:21 自分のために宝を積んで神に対して富まない者は、これと同じである」。

多くの兄弟姉妹がこの地上の生活に固執し、本来神から与えられている召しと言われる、神の計画から離れて生活しています。
それは同時にその人に与えられている神の恵み、祝福と言ったものを退けて生活していると言っても過言ではないでしょう。
なぜなら神が私達に与えようとされている祝福の大部分は天における祝福(エペソ1:3)であり、この地上では受け取りきれないほどのあふれるほどの恵みに他ならないからです。
つまり、天における祝福に添えて与えられる程度のものでも、私達は地上の生活はすべて満ちみちてしまう程のものなのです。

【マタイ6:31-33】
6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

この天(神の国)における祝福を、退けて地上のことだけに心を奪われて生きるのであれば、その人はこの地上で望むものを手に入れたかのように、一時的には豊かなように見えるかも知れません。
しかし、彼が手に入れたのは朽ちてしまう宝(マタイ6:19)なのです。
ましてや、明日の命でさえ私達にはどうすることもできない、どのようなものなのかわからない(ヤコブ4:14)ものなのですから、この朽ちていく宝さえ実は自分のものとはならない(ルカ12:12)のです。
ではどうしてこのような地上のものばかりに人々は心奪われて生きてしまうのでしょうか。
それは、この地上に心奪われてしまえば、その人は救われる前の生活(「異邦人(マタイ6:32)」の生活)と何ら変わることなく、むしろそこに逆戻りさせ、あるいは世に戻って帰ってこないことにさえさせようとする、サタンの巧妙な策略の中に人は簡単に陥るからです。
そして、その巧妙な策略さえ見えないように、世の常識の中に隠され、人々は容易に救いによって与えられている、天においても地においても与えられている絶大な祝福を手放すこととなるのです。

【1コリント15:50】
15:50 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。

むしろ、私達は「自分のために宝を積んで神に対して富まない者(ルカ12:21)」とはならず、神の計画を見つめ、神の御心のままに、神のために生き、神に対して富む者となろうではありませんか。
そうするなら、私達の体は地上にあっても、心は天にあり(マタイ6:21)、そして主が再びこの地に来られる時には、私達はこの主と共に栄光の内に地上に現れることでしょう。

【コロサイ3:1-4】
3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
3:2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3:3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
3:4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。

あなたの望むものは地上のものでしょうか?
天のものでしょうか?
目に見えるものでしょうか?
目に見えないものでしょうか?

【2コリント4:16-5:10】
4:16 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。
5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
5:6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
5:7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
5:8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。

※今日のメッセージで引用した聖書箇所です。ご参照下さい。
また、聖書はその前後の文脈も重要なものとなります。願わくば、聖書を開き、メッセージをご覧いただくことをお薦めいたします。
今日も神様からの祝福が豊かにありますように。

【エペソ1:3-6】
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し、
1:4 みまえにきよく傷のない者となるようにと、天地の造られる前から、キリストにあってわたしたちを選び、
1:5 わたしたちに、イエス・キリストによって神の子たる身分を授けるようにと、御旨のよしとするところに従い、愛のうちにあらかじめ定めて下さったのである。
1:6 これは、その愛する御子によって賜わった栄光ある恵みを、わたしたちがほめたたえるためである。

【マタイ6:19-21】
6:19 あなたがたは自分のために、虫が食い、さびがつき、また、盗人らが押し入って盗み出すような地上に、宝をたくわえてはならない。
6:20 むしろ自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい。
6:21 あなたの宝のある所には、心もあるからである。

【ヤコブ4:14】
4:14 あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。

主の約束を待ち望む

2014年08月22日 08:10

【ヘブル11:8-16】
11:8 信仰によって、アブラハムは、受け継ぐべき地に出て行けとの召しをこうむった時、それに従い、行く先を知らないで出て行った。
11:9 信仰によって、他国にいるようにして約束の地に宿り、同じ約束を継ぐイサク、ヤコブと共に、幕屋に住んだ。
11:10 彼は、ゆるがぬ土台の上に建てられた都を、待ち望んでいたのである。その都をもくろみ、また建てたのは、神である。
11:11 信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。
11:12 このようにして、ひとりの死んだと同様な人から、天の星のように、海べの数えがたい砂のように、おびただしい人が生れてきたのである。
11:13 これらの人はみな、信仰をいだいて死んだ。まだ約束のものは受けていなかったが、はるかにそれを望み見て喜び、そして、地上では旅人であり寄留者であることを、自ら言いあらわした。
11:14 そう言いあらわすことによって、彼らがふるさとを求めていることを示している。
11:15 もしその出てきた所のことを考えていたなら、帰る機会はあったであろう。
11:16 しかし実際、彼らが望んでいたのは、もっと良い、天にあるふるさとであった。だから神は、彼らの神と呼ばれても、それを恥とはされなかった。事実、神は彼らのために、都を用意されていたのである。

アブラハムは一般に信仰の父と呼ばれるほど、ただひたすらに主を信じ歩み続けた人でした。
「受け継ぐべき地に出て行(ヘブル11:8)」くという彼の召しは何を犠牲としても、何も知らずとも、アブラハムを約束の地へ導きました。
ただ約束だけを持って、ただ主だけを信じ続けて、アブラハムはその召しにすべてをささげて生きたのです。

【使徒行伝7:2-5】
7:2 わたしたちの父祖アブラハムが、カランに住む前、まだメソポタミヤにいたとき、栄光の神が彼に現れて
7:3 仰せになった、『あなたの土地と親族から離れて、あなたにさし示す地に行きなさい』。
7:4 そこで、アブラハムはカルデヤ人の地を出て、カランに住んだ。そして、彼の父が死んだのち、神は彼をそこから、今あなたがたの住んでいるこの地に移住させたが、
7:5 そこでは、遺産となるものは何一つ、一歩の幅の土地すらも、与えられなかった。ただ、その地を所領として授けようとの約束を、彼と、そして彼にはまだ子がなかったのに、その子孫とに与えられたのである。

たどり着いた約束の地において、アブラハムは幕屋に住み寄留者のように生活をし、実際にはまだその地は与えられませんでした。
また、数え切れぬほどの彼の子孫がこの地を受け継ぐことを約束されましたが、彼にはそれらのものは何一つ彼自身の肉体の目に於いては見えませんでした。
しかし、ただ一身に主を信じ続けたことにより、彼の信仰によって見えないものを見せる信仰の(霊の)目は、彼にはるかに大いなるものを見せていたのです。
「ゆるがぬ土台の上に建てられた都(11:10)」。
それは聖書の結論、「新しい天と新しい地(黙示録21:1)」の「聖なる都、新しいエルサレム(黙示録21:2)」であり、「天にあるふるさと(ヘブル11:16)」と言われる、私達が永遠のはじめそこから来て、とこしえの果てまでも主と共に住まう永遠の都。

ただ約束だけを握りしめ、主だけを信じ歩み続ける道のりは、時にあまりに遠く、待ち望むとはいかなることかと、途方に暮れることもあるかも知れません。
それほどに神の計画は壮大で、その受け取る約束をこの地上では見ることさえかなわないかも知れませんが、しかしただ一身に主のみを信じる信仰は、私達をこの永遠の都を望み見るまでに至らせるのです。
そして、そのあまりに壮大で完全、美しく輝き溢れ、いや筆舌しがたいほどの、この地では見ることのできない、地にあるものよりもはるかに良い天にある都を見た者は、この地上でどのように生きたとしても寄留者に過ぎないことを知るのです。
いや、この都を来たらしめる主の計画の一旦は私達の人生の歩みの中にあり、主が私達に与えて下さった壮大な約束は、この都を来たらしめるためのものであることを知るでしょう。
それが待ち望むということなのです。

【黙示録22:20】
22:20 「しかり、わたしはすぐに来る」。アァメン、主イエスよ、きたりませ。

私達をこの永遠の都に招き入れて下さる方が、この地に再び来られるのを待ち望む祈りは、こうして私達の約束の地への歩みの中に、いつも主にささげ続けられるものとなるのです。
それが私達の主への変わることのない祈りなのです。

【黙示録22:1-5】
22:1 御使はまた、水晶のように輝いているいのちの水の川をわたしに見せてくれた。この川は、神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れている。川の両側にはいのちの木があって、十二種の実を結び、その実は毎月みのり、その木の葉は諸国民をいやす。
22:3 のろわるべきものは、もはや何ひとつない。神と小羊との御座は都の中にあり、その僕たちは彼を礼拝し、
22:4 御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている。
22:5 夜は、もはやない。あかりも太陽の光も、いらない。主なる神が彼らを照し、そして、彼らは世々限りなく支配する。

はるかな約束を信じて

2014年08月20日 10:39

【創世記】
15:1 これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。
15:2 アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。
15:3 アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。
15:4 この時、主の言葉が彼に臨んだ、「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。
15:5 そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。
15:6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

アブラハムは一人の小さな人でした。
ただ主からの約束だけを握りしめ、全く知らないまだ見ぬ地へ行くことに全てを捧げた(創世記12:1-4)人です。
誰が住み慣れた故郷を離れ、何の理由もわからず、見えない神の約束という、人の目や耳には見えない、不確かに見えるものだけを信じて、はるか離れた地に旅立つことができるでしょう。
そのためにどれほど多くのものを捨て、神だけを信じ、頼りとして生きたでしょうか?
しかし彼は私達と何ら変わりのない普通の人だったのです。
「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか(創世記15:2)」
「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう(創世記15:3)」
この二つのアブラハムの言葉から、彼も一人の弱さを持つ人であることを伺い知ることができるでしょう。
確かにアブラハムは神を信じ、その約束だけを信じて、長い旅に出て、そして約束の地に着きました。
主はアブラハムを祝福され、多くの持ち物も得て、豊かで力のある民になっていきました。
しかし、彼はその約束、大いなる国民どころか、一人の子、跡継ぎすらいませんでした。だから彼にとっては何を持っていても、何も意味もないことに見えたのです。
だからロトが住む、ソドムとゴモラの地が襲われ、ロトとその財産が奪われたのを、アブラハムたちが戦い、全てを取り戻し、ソドムの王から何の報いも受けず、サレムの王メルキゼデクに全ての物の十分の一を捧げ、ただメルキゼデクから祝福を受けたにとどまった。
その報いを主が大きく報いようとされた事でさえも、(このメルキゼデクこそ主イエスの型である人物であり、このささげたささげ物と受けた祝福とがどれほど大きいものであったかということをアブラハムはどれほど知っていたかは不明ですが)彼には意味がなかった。
すべては全く他人のものとなってしまう。
主はそこで、再びアブラハムに大いなる約束を語られました。
ただひたすらに主を信じ、主を愛し生きようとするアブラハムを、主はこの上なく愛したから、主はその思いの如何に大きいかを語られた。
彼の子孫は星の如くに数えられないほど大きな民族となると。

アブラハムのしたことは、ただひたすら一身に主を信じたことでした。
主はこれを彼の義と認められたのです(創世記15:6)。
このとき、アブラハムの目には人としては何も見えていませんでした。
約束の地を全て得たわけでも、ただ一人の子でさえもいませんでした。
しかし、主の約束を、その約束を語られる主を信じたのです。
彼ははるかに見えないものを信仰の目によって見て、信じたのです。
それは主をひたすら信じることによって開かれる信仰の目。

【ヘブル11:1-3】
11:1 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。
11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

この目はアブラハムにのみ与えられているものではありません。
もしもあなたが主をただ一身に信じるのであれば、主が語られる約束をはるかかなたにあろうとも見て、今あるかのように確信することができるのです。
そして、そのことはアブラハムとその子孫との間に証しされているように、必ず成就するのです。
いや、図らずも選民イスラエルを通して世界中に現された救いの壮大な計画は、このアブラハムというごく普通の一人の人の、小さなしかしひたむきな主への信仰によって、現実のものとなっているのです。

【ヘブル】
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

「私はある」という方を信じ、この方を求めるのであれば必ず報いて下さると信じる生き方に、主は私達の信仰を見、そしてその信仰を主はこの上なく喜ばれるのです。
だから、私達も生きる全ての道で主を認め、主をただ信じて、ゆだねて、すがって、主と共に歩いてまいりましょう。
はるかに広がる主の栄光の輝きを目指して。

※今日の引用箇所です。

【創世記12:1-4】
12:1 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。
12:4 アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。

いつもキリストを主とする

2014年08月19日 11:37

【1ペテロ3:13-15】
3:13 そこで、もしあなたがたが善に熱心であれば、だれが、あなたがたに危害を加えようか。
3:14 しかし、万一義のために苦しむようなことがあっても、あなたがたはさいわいである。彼らを恐れたり、心を乱したりしてはならない。
3:15 ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。

万物を統べ治める方、全てのものの主はイエスキリストです。
全ての主権はこのイエスキリストにあります。
この事実は世界中のどこにおいてでも、いつでも、変わることはありません。
これは全ての歴史を貫き、世界中を貫いて変わらない事実なのです。
それはどの国に住み、誰が王であっても、誰に主権がある(この国日本においては国民に主権がある)と言われていても、その事実は変わりません。

しかし、この世は主権を人に与えます。
これは空中の権を持つ者の支配下(エペソ2:2)の元に与えられた統治と主権であり、この主権を主張する者はこの空中の権を持つ者の支配下に自らがあることを主張している(マタイ4:9)ことになります。
それがこの世と言われているものです。

【サムエル上2:1-10】
2:1 ハンナは祈って言った、「わたしの心は主によって喜び、わたしの力は主によって強められた、わたしの口は敵をあざ笑う、あなたの救によってわたしは楽しむからである。
2:2 主のように聖なるものはない、あなたのほかには、だれもない、われわれの神のような岩はない。
2:3 あなたがたは重ねて高慢に語ってはならない、たかぶりの言葉を口にすることをやめよ。主はすべてを知る神であって、もろもろのおこないは主によって量られる。
2:4 勇士の弓は折れ、弱き者は力を帯びる。
2:5 飽き足りた者は食のために雇われ、飢えたものは、もはや飢えることがない。うまずめは七人の子を産み、多くの子をもつ女は孤独となる。
2:6 主は殺し、また生かし、陰府にくだし、また上げられる。
2:7 主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くされる。
2:8 貧しい者を、ちりのなかから立ちあがらせ、乏しい者を、あくたのなかから引き上げて、王侯と共にすわらせ、栄誉の位を継がせられる。地の柱は主のものであって、その柱の上に、世界をすえられたからである。
2:9 主はその聖徒たちの足を守られる、しかし悪いものどもは暗黒のうちに滅びる。人は力をもって勝つことができないからである。
2:10 主と争うものは粉々に砕かれるであろう、主は彼らにむかって天から雷をとどろかし、地のはてまでもさばき、王に力を与え、油そそがれた者の力を強くされるであろう」。

【ダニエル4:34,35】
4:34 こうしてその期間が満ちた後、われネブカデネザルは、目をあげて天を仰ぎ見ると、わたしの理性が自分に帰ったので、わたしはいと高き者をほめ、その永遠に生ける者をさんびし、かつあがめた。その主権は永遠の主権、その国は世々かぎりなく、
4:35 地に住む民はすべて無き者のように思われ、天の衆群にも、地に住む民にも、彼はその意のままに事を行われる。だれも彼の手をおさえて「あなたは何をするのか」と言いうる者はない。

主イエスを真の主権者として私達が認めるとき、この神の支配の中に私達は生きています。つまり、神の国の者としてあなたは生きていることになるのです。
「ただ、心の中でキリストを主とあがめ(1ペテロ3:15)」るとき、それがあなたの中に成るのです。
私達はあらゆるときに、神の国に生きる者として、神から出て神から遣わされた者として、この地において善を行うよう生かされています。
この世は神に敵対します。だからあなたの善に悪をもって報いられることも多々あるでしょう。
それは私達が世の者でないからであり、世の支配にある者は、私達がどのようであっても、神のものであるから敵対するのです。

【ヨハネ15:18,19】
15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。

その時こそ、「ただ、心の中でキリストを主とあがめ(1ペテロ3:15)」ましょう。
そこに主の臨在が満ち始め、そこは神の支配の内に治められ、神の国がその場所に現れます。
あなたが遣わされたその場所はそのようにして神のものとして、神が勝ち取って下さるでしょう。
これは血肉による戦いではありません。
この戦いは王である方、万軍の主である方が戦われる主の戦いなのです。
そして、あなたの主は永遠に全地の主、イエスキリストなのです。
全ての現実は、全ての歴史は、万物は、この主イエスキリストの前に膝をかがめます。
この方に敵対する者は全て粉々に打ち砕かれます。

ただ、主を恐れ。ただ、心の中でキリストを主とあがめましょう。

※今日引用した箇所をまとめておきます。ご参照ください。

【エペソ2:1-2】
2:1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、
2:2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。

【マタイ4:8-10】
4:8 次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
4:9 言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
4:10 するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

新しい歩み

2014年08月15日 08:18

【エペソ4:20-24】
4:20 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。
4:21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。
4:22 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、
4:23 心の深みまで新たにされて、
4:24 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

ひとたび私達の内に「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになり、私達の心を照して(2コリント4:6)下さった聖霊は今も私達の内に住まい、私達の心を照らしてキリストにある真理のそのままを私達に直接語り続けて下さいます。
なぜなら、この聖霊こそ我が内に住まうキリストであり、この方こそ真理そのものであり(ヨハネ14:6)、この方の内に神にある知恵と知識のいっさいがあって(コロサイ2:3)、むしろそれ以外に私達は真理を知る術がなく、その聖霊によるからこそ、聖書から真理を知ることができ、語られたメッセージに心よりもさらに深く霊の内からアーメンと言うことができるのです。
そのように霊とまこと(真理、御言葉)によって私達は、この内に与えられた新しい命にふさわしい生き方に導かれるのです。

【ローマ6:4】
6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。

確かに私達は救われた当初、その救いの喜びの内に、これまで私達自身を捕らえる何かから解放され、何か新しくされたことへの希望を自然に感じていたことと思います。
これは私達がその時は何をも知らずとも、キリストにあって新生した感覚を聖霊が知っていたからでした。
この新生こそ、キリストと共に十字架につけられ私自身が死に、そのことにより古き人を脱ぎ捨て、主と共によみがえって、キリストにあって生きる、新しき人を着ることであり、それは私達の生き方そのものを根底から新しくするものです。
なぜなら私達はこの新しい命にあって生きるならば、私達のこれまでの、どのようにしても「情欲に迷って滅び行(エペソ4:22)」ってしまう生き方ではなく、その根底的性質ごと新たにされ、「真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着る」生き方をするようになるからです。(義と聖とは神にしかない性質であり、神の性質そのものです。)
つまり、この新しい命、聖霊なる神の性質にあずかって生きる、私達は聖霊により全く新しい者とされるのです。

【2ペテロ1:3,4】
1:3 いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。それは、ご自身の栄光と徳とによって、わたしたちを召されたかたを知る知識によるのである。
1:4 また、それらのものによって、尊く、大いなる約束が、わたしたちに与えられている。それは、あなたがたが、世にある欲のために滅びることを免れ、神の性質にあずかる者となるためである。

私達自身が元の生活に戻ってしまうのであればそれは何も意味を成しません。
これまで自らの思いで生き、自らの力で、自らの知恵と経験と判断で生き、自らに導かれるまま、自らのために生きる生き方を、そのまま続けるのであればせっかく救われ新しい命にあずかったとしても、古き人としての生活があなたを救われる前の生き方へと導くでしょう。
逆に新しき人を着て生きるとは、この新しい命に導かれて、神に全てをゆだねて、神を信じて、神のために生きる生き方であり、それは私達自身の力や生来持ってものでは到底及ばない、神の命の持つ神の性質にふさわしい生き方をすることなのです。
これまでの生き方は、内に生きる命が完全に変わってしまっているので、全く通用しないのですから、思い切った心の変革が必要です。
だから、「心の深みまで新た(エペソ4:23)」にし、その根底から自らを新しくする歩みに立ちましょう。
新しく生まれた者は古い生き方は不必要なのです。その全てを捨て、これまでの私では全く知らない、新しい生き方を聖霊に導かれて生きていきましょう。
また、これまで古き人としての歩みを続けてきたのであれば、これまでの生活を省み、悔い改めて、十字架の元に再び新しき者とされて、今日から新しき人としての歩みを始めてまいりましょう。

【2コリント5:17】
5:17 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

※今日の引用箇所です。ご参照下さい。

【2コリント4:6】
4:6 「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。

【ヨハネ14:6】
14:6 わたしは道であり、真理であり、命である。

【コロサイ2:3】
2:3 キリストのうちには、知恵と知識との宝が、いっさい隠されている。

【ヨハネ16:13-14】
16:13 けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。
16:14 御霊はわたしに栄光を得させるであろう。わたしのものを受けて、それをあなたがたに知らせるからである。

神のもとへ光のもとへ

2014年08月14日 08:25

【エペソ4:17-24】
4:17 そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。
4:18 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、
4:19 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。
4:20 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。
4:21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。

私達は「命(ヨハネ8:12)」を与える「まことの光(ヨハネ1:9)」である方が、「やみの中から光が照りいでよ(2コリント4:6)」と「わたしたちの心を照して(2コリント4:6)」、私達を、キリストを知る者としてくださいました。
神はこの方を信じた私達を「やみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ(使徒行伝26:18)」と「救い出し移して下さ(コロサイ1:13)」いました。
今や私達は「光の子(エペソ5:8)」とされているのです。
これが救いを受けた者、クリスチャンです。
しかし、それを逆戻りするように、「異邦人(エペソ4:17)」、つまりキリスト知らない者、信じない者のように「むなしい(何もない、命もない)心(エペソ4:17)」で生きるのであれば、私達はその光を失い、命を失い、死んだ者のように生きることとなります。

【ルカ11:34-36】
11:34 あなたの目は、からだのあかりである。あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいが、目がわるければ、からだも暗い。
11:35 だから、あなたの内なる光が暗くならないように注意しなさい。
11:36 もし、あなたのからだ全体が明るくて、暗い部分が少しもなければ、ちょうど、あかりが輝いてあなたを照す時のように、全身が明るくなるであろう」。

私達の目が神から逸れ、「み言葉(詩篇119:105)」を離れる生き方を続けるのであれば、私達はその内なる命の光を覆い隠し、全身は希望なく、命なく、やみに覆われ、恐れに心覆われ虚しく、歩むべき道を掛け違えた歩みを続けていきます。
それは神の祝福から離れた道、神の支配を離れ、悪魔の支配の中を行く道。もと来た道を戻る道。

【エペソ2:1-3】
2:1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、
2:2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
2:3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。

さらに、恐ろしいことに、その時には「知力は暗くなり(エペソ4:18)」、内側には神の知恵を失って「無知(エペソ4:18)」となり、「心」は「硬化(エペソ4:18)」して、とうとう「無感覚(エペソ4:19)」になっていまう。
神から離れることを何とも思わず、罪を犯し続けても無感覚となってしまうのです。
こうなると、もはや神へ帰る道を忘れて、いつでも神へ帰れると思っていた道すらわからなくなってしまうのです。
私達の良心に働きかける聖霊を退け続けた結果、罪すらわからなくなっている者に、神に悔い改めて立ち返る道は遠く離れてしまっているのです。

【マルコ3:28,29】
3:28 よく言い聞かせておくが、人の子らには、その犯すすべての罪も神をけがす言葉も、ゆるされる。
3:29 しかし、聖霊をけがす者は、いつまでもゆるされず、永遠の罪に定められる」。

これは非常に恐ろしいことです。
それは神から離れていることも、悪魔の支配の元で人生の全てが何をしてものろわれたものとなっていても、神に立ち返るための悔い改めの道を見失ってしまっていても、その一切がわからないのです。
もはやその生活が「ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねてい(エペソ4:19)」ても、ごく普通に毎日を過ごしているようにしか思わない。
少しの良心の呵責もすでに神に立ち返らせるには力なく、いつか帰ればいいと神の永遠の裁きが自らに日々一刻一刻近づいていても、それがどれほど恐ろしいことかすらわからなくなっている。
もはやそれは救われる前より悪い状態なのです。

【2ペテロ2:20-22】
2:20 彼らが、主また救主なるイエス・キリストを知ることにより、この世の汚れからのがれた後、またそれに巻き込まれて征服されるならば、彼らの後の状態は初めよりも、もっと悪くなる。
2:21 義の道を心得ていながら、自分に授けられた聖なる戒めにそむくよりは、むしろ義の道を知らなかった方がよい。
2:22 ことわざに、「犬は自分の吐いた物に帰り、豚は洗われても、また、どろの中にころがって行く」とあるが、彼らの身に起ったことは、そのとおりである。

あなたの生活は今どうでしょうか。
私はまだ大丈夫と思っていませんか?
少しずつでも神から日々離れていく道を歩いていないでしょうか。
あるいはもう神から離れたあなたを、神がどれほど悲しみご自身の元に引き戻そうと切望されているのかさえも、もはやわからなくなってしまっているでしょうか。
「しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。(エペソ4:20)」と主は今はっきりとそのようなあなたに語りかけています。

【イザヤ55:6-9】
55:6 あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主を尋ねよ。近くおられるうちに呼び求めよ。
55:7 悪しき者はその道を捨て、正しからぬ人はその思いを捨てて、主に帰れ。そうすれば、主は彼にあわれみを施される。われわれの神に帰れ、主は豊かにゆるしを与えられる。
55:8 わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なっていると主は言われる。
55:9 天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い。

神に立ち返れる日は今だけかも知れません。
私達の命は私達自身の力でどうにもできないもの。私達の思いに関わらず、私達は明日の命をもわからない存在なのですから。
だから、「主にお会いすることのできるうちに」主の名を全力で呼び求め、主の元に引き戻してもらいましょう。
主の力は全能、その絶大なる力をもって、そしてご自分の命さえ惜しまずにあなたに与えて下さる神が、あなたを元の光の子としての場所に帰らせて下さいるでしょう。

※今日の聖書の引用箇所を参照できるようまとめました。一緒にご覧下さい。

【ヨハネ8:12】
8:12 イエスは、また人々に語ってこう言われた、「わたしは世の光である。わたしに従って来る者は、やみのうちを歩くことがなく、命の光をもつであろう」。

【ヨハネ1:9-13】
1:9 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。
1:10 彼は世にいた。そして、世は彼によってできたのであるが、世は彼を知らずにいた。
1:11 彼は自分のところにきたのに、自分の民は彼を受けいれなかった。
1:12 しかし、彼を受けいれた者、すなわち、その名を信じた人々には、彼は神の子となる力を与えたのである。
1:13 それらの人は、血すじによらず、肉の欲によらず、また、人の欲にもよらず、ただ神によって生れたのである。

【2コリント4:6】
4:6 「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。

【使徒行伝26:18】
26:18 それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』。

【コロサイ1:13,14】
1:13 神は、わたしたちをやみの力から救い出して、その愛する御子の支配下に移して下さった。
1:14 わたしたちは、この御子によってあがない、すなわち、罪のゆるしを受けているのである。

【エペソ5:8,9】
5:8 あなたがたは、以前はやみであったが、今は主にあって光となっている。光の子らしく歩きなさいー
5:9 光はあらゆる善意と正義と真実との実を結ばせるものであるー

【詩篇119:105】
119:105 あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。

生きた励まし

2014年08月12日 08:14

【2テモテ4:5-8】
4:5 しかし、あなたは、何事にも慎み、苦難を忍び、伝道者のわざをなし、自分の務を全うしなさい。
4:6 わたしは、すでに自身を犠牲としてささげている。わたしが世を去るべき時はきた。
4:7 わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした。
4:8 今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。かの日には、公平な審判者である主が、それを授けて下さるであろう。わたしばかりではなく、主の出現を心から待ち望んでいたすべての人にも授けて下さるであろう。

この言葉は、主を一身に見つめ信仰の道を歩んだ先人パウロから、まだ若い牧者テモテに宛てた手紙の言葉です。
信仰者として、伝道者として、いかに歩むべきかを二度の手紙の中に、励まし、勧め、証しし、そしてここで自らの最後を感じて語りかけている言葉です。
それは彼がどのように歩んできたのかを現す言葉でもありました。

【ピリピ3:8-14】
3:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
3:9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
3:10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
3:11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
3:12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
3:13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
3:14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。

パウロのこれまでの歩みは、まさしくキリストを知る歩みであり、自らの生きる日々が十字架の死のさまとひとしくなり、そこから復活に達するための歩みであり(2コリント4:7-11,6:1-10)、主の永遠の計画を一日でも早く来たらせることを願い一身に前へと進む歩み(エペソ1:7-14,ローマ9:1-3,11:11-15)であり、上へ天へと望み見て生きる歩み(コロサイ3:1-4)であり、神の賞与を得るための歩み(1コリント3:11-15,2コリント5:9-10)、そして義の冠を受けるための歩みであったのです。

【1コリント9:24-25】
9:24 あなたがたは知らないのか。競技場で走る者は、みな走りはするが、賞を得る者はひとりだけである。あなたがたも、賞を得るように走りなさい。
9:25 しかし、すべて競技をする者は、何ごとにも節制をする。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするが、わたしたちは朽ちない冠を得るためにそうするのである。

この冠こそ主イエスがパウロのために被られたいばらの冠であり、パウロはキリストの御足の跡をたどり歩み続けた(ガラテヤ4.19,ピリピ2:17,コロサイ1:24,2コリント11:22-30)のです。
そして彼は、神から与えられた彼の召し(使徒8:15-16,23:11,26:15-18,27:24)を全て終えたことを、その召しと約束だけを握りしめ日々歩み続けたからこそわかったのです。

【2コリント4:16-18】
4:16 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

彼が何を見て、何を求めて、何を望み、何を喜び歩んだのか、その全ての歩みを通して、神はテモテを励ますパウロの言葉をもって、今私達を励ましています。

私達もパウロがその全てをささげ主イエスを見て、求めて、望んで、喜んで、愛して歩んだように共に歩みましょう。
そして、私達がこの地上の歩みをいつか終えて天に帰ることを知るとき、「今や、義の冠がわたしを待っているばかりである。(2テモテ4:8)」と確信と尽きせぬ喜びと主への賛美をもって、天への凱旋へと旅立ちたいと願います。
またこの小さな私達の信仰の歩みをその生きてきた証しを通して、続く信仰者を励ます者となろうではありませんか。

主への負債

2014年08月08日 12:28

【ローマ1:14,15】
1:14 わたしには、ギリシヤ人にも未開の人にも、賢い者にも無知な者にも、果すべき責任がある。
1:15 そこで、わたしとしての切なる願いは、ローマにいるあなたがたにも、福音を宣べ伝えることなのである。

「果すべき責任がある。」という言葉は、「返さなければならない負債を負っています。(新改訳)」という言葉です。
パウロは主イエスに対してこの思い持っているのです。
私の罪のために払われた、御子の命というとてつもない代価。
この御子の命の計り知れない価値を私達は本当に知っているでしょうか。
私達の罪は、どれほどに小さいものに見えても、その罪というもの自体が神に敵対するサタンの性質、サタンから受け継いだもの(ヨハネ8:44)です。
それゆえに、神の御子の命という途方もない価値を持つ代価でしか贖うことのできないほどの、恐ろしいもの(詩篇49:7-9)なのです。それは永遠の滅びに価するもの。

【エペソ2:1-3,11-13】
2:1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、
2:2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
2:3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。
 [中略]
2:11 だから、記憶しておきなさい。あなたがたは以前には、肉によれば異邦人であって、手で行った肉の割礼ある者と称せられる人々からは、無割礼の者と呼ばれており、
2:12 またその当時は、キリストを知らず、イスラエルの国籍がなく、約束されたいろいろの契約に縁がなく、この世の中で希望もなく神もない者であった。
2:13 ところが、あなたがたは、このように以前は遠く離れていたが、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近いものとなったのである。

あまりに罪深くおよそ救われるはずのない者。
言葉に尽くせないほどの神の大いなる恵みなどには、とてもとてもあずかるはずのない者。
それが私達です。
私達が主イエスに負っている負債はあまりに大きいのです。
そのことを知る者は、多く主イエスを愛し、その負債を主イエスにこの人生をもって、この命をもって、いかに返すことができるのかということを考えるようになるのです。

【ルカ7:47】
7:47 それであなたに言うが、この女は多く愛したから、その多くの罪はゆるされているのである。少しだけゆるされた者は、少しだけしか愛さない」。

あなたはどれほど主に愛されているのかを知っていますか?

この方の愛を知っている者は、この方の渇きを知っているはずです。
救われるべき多くの魂が、死に、滅びに向かうことを悲しみ、断腸の思いで渇いておられるのを。

【ローマ1:16】
1:16 わたしは福音を恥としない。それは、ユダヤ人をはじめ、ギリシヤ人にも、すべて信じる者に、救を得させる神の力である。

だからパウロは続く御言葉にあるように、福音を恥とはせず、誰の前にもその福音を隠すことなく証しし、ローマで鎖につながれたままでも福音を語り続け、やがてその福音に命をささげたのです。
それが主イエスに負債を返そうと、その愛に答えようと、パウロがささげた最高の主へのささげもの。
そのために彼は生まれ、そのために彼は生きたのです。
最高の主へのささげもの、そのために私達は新しく生まれたのです。

あなたはどのように主を愛しますか?
その与えられた新しい命をもって。

とりなしの手をあげる

2014年08月07日 09:19

【創世記18:17-33】
18:17 時に主は言われた、「わたしのしようとする事をアブラハムに隠してよいであろうか。
18:18 アブラハムは必ず大きな強い国民となって、地のすべての民がみな、彼によって祝福を受けるのではないか。
18:19 わたしは彼が後の子らと家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公道とを行わせるために彼を知ったのである。これは主がかつてアブラハムについて言った事を彼の上に臨ませるためである」。
18:20 主はまた言われた、「ソドムとゴモラの叫びは大きく、またその罪は非常に重いので、
18:21 わたしはいま下って、わたしに届いた叫びのとおりに、すべて彼らがおこなっているかどうかを見て、それを知ろう」。
18:22 その人々はそこから身を巡らしてソドムの方に行ったが、アブラハムはなお、主の前に立っていた。
18:23 アブラハムは近寄って言った、「まことにあなたは正しい者を、悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。
18:24 たとい、あの町に五十人の正しい者があっても、あなたはなお、その所を滅ぼし、その中にいる五十人の正しい者のためにこれをゆるされないのですか。
18:25 正しい者と悪い者とを一緒に殺すようなことを、あなたは決してなさらないでしょう。正しい者と悪い者とを同じようにすることも、あなたは決してなさらないでしょう。全地をさばく者は公義を行うべきではありませんか」。
18:26 主は言われた、「もしソドムで町の中に五十人の正しい者があったら、その人々のためにその所をすべてゆるそう」。
18:27 アブラハムは答えて言った、「わたしはちり灰に過ぎませんが、あえてわが主に申します。
18:28 もし五十人の正しい者のうち五人欠けたなら、その五人欠けたために町を全く滅ぼされますか」。主は言われた、「もしそこに四十五人いたら、滅ぼさないであろう」。
18:29 アブラハムはまた重ねて主に言った、「もしそこに四十人いたら」。主は言われた、「その四十人のために、これをしないであろう」。
18:30 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしは申します。もしそこに三十人いたら」。主は言われた、「そこに三十人いたら、これをしないであろう」。
18:31 アブラハムは言った、「いまわたしはあえてわが主に申します。もしそこに二十人いたら」。主は言われた、「わたしはその二十人のために滅ぼさないであろう」。
18:32 アブラハムは言った、「わが主よ、どうかお怒りにならぬよう。わたしはいま一度申します、もしそこに十人いたら」。主は言われた、「わたしはその十人のために滅ぼさないであろう」。
18:33 主はアブラハムと語り終り、去って行かれた。アブラハムは自分の所に帰った。

主を知らない民が、知らないがゆえに、いや知らないと言えども主を退け主の思いに逆らい、罪を重ね続け、その重なる罪のあまりの大きさ(酷さ)のため、滅びに至ろうとしているのを見た時、私達は何をすべきでしょうか。
そこに自らの家族が居るとするならば、どうでしょうか。
これがアブラハムがこの時置かれていた状況です。
そして今私達の置かれている状況はどうなのでしょうか。

【ユダ7節】
1:7ソドム、ゴモラも、まわりの町々も、同様であって、同じように淫行にふけり、不自然な肉欲に走ったので、永遠の火の刑罰を受け、人々の見せしめにされている。

この国の罪深き状況はすでにソドムとゴモラと同様であり、さらにそれ以上の罪を重ねようとさえしている姿を見て、神はこの国をこのままで放置されることはないでしょう。
刻一刻と自らの選択で滅びに向かう国に、私達も住まいまた家族や大切な人々がそこに生きている。

【マタイ】
26:52 そこで、イエスは彼に言われた、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる。

だからこそ、主はこの国の滅びの日が遠くないことをあなたに教えられていないでしょうか?
アブラハムは祝福を受ける者として、また主の正義と公道が彼を通して現されるために、主に立てられた者であり(創世記18:17-19)、私達も救われてアブラハムの祝福にあずかる者となった以上、同様に主の正義と公道が私達を通して現されることを主は願っているでしょう。
つまり、アブラハムと同様に私達はこの国を主から与えられており、この国を主の正義と公道によって治める者としての責任を負っているのです。
だからこそ、主はご自身の計画を私達に隠されることはない。

【アモス3:7,8】
3:7 まことに主なる神はそのしもべである預言者にその隠れた事を示さないでは、何事をもなされない。
3:8 ししがほえる、だれが恐れないでいられよう。主なる神が語られる、だれが預言しないでいられよう」。

だから、今なおさら主の前に、この国の滅びのために、私達はこのアブラハムのようにとりなす必要があるのです。
この国が神に立ち返るように。
アブラハムは何度も何度も主に食い下がり、とりなしを止めることなく、五十人の正しい人から始まり、たった十人の義人さえ居れば、主の裁きがとどめられるようにまで、引き下がることなく、あきらめることなく、とりなしました。
それは主の前に、なりふり構わない必死のとりなしであったと言えるでしょう。
おそらくは、ロトの家族だけで六人はいたのですから、ただあと四人の義人が居れば、ソドムとゴモラの土地は滅ぼされないで済むと、アブラハムはそこまでとりなした。
しかし、結果はその十人にさえ到底至らず、この裁きを免れ生き残ることができたのはロトとその二人の娘のたった三人でした。
ですから、主にとりなしを祈る時、自らのことのように主にとりなし、最後の一歩に至るまで予断をゆるさず、自らの命さえ投げ出して、とりなす必要があるのです。

【出エジプト】
32:32 今もしあなたが、彼らの罪をゆるされますならば--。しかし、もしかなわなければ、どうぞあなたが書きしるされたふみから、わたしの名を消し去ってください」。

いや、このとりなしはそもそもは神ご自身の心なのです。だから主イエスご自身が命を十字架にささげ、究極のとりなしをなされた。
神は私達が滅びることを願ってなどいないのです。
むしろ罪から立ち返り、救われることを切望しておられるのです。

【エゼキエル】
33:11 あなたは彼らに言え、主なる神は言われる、わたしは生きている。わたしは悪人の死を喜ばない。むしろ悪人が、その道を離れて生きるのを喜ぶ。あなたがたは心を翻せ、心を翻してその悪しき道を離れよ。イスラエルの家よ、あなたはどうして死んでよかろうか。

主はこの滅びへの破れ口に立ちとりなす者を待っておられるのです。
そうです。主はご自身と心一つにして、自らのことをかえりみず、その命をささげとりなしの祈りを祈るのを。あなたの祈りを待っているのです。

【歴代志16:9(新改訳)】
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご 自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

あなたとあなたの大切な人々の住むこの国が、神の前に立ち返り滅びを免れるように共に祈ってまいりましょう。

御言葉に生きる

2014年08月06日 08:16

【詩篇119:111,112】
119:111 あなたのあかしはとこしえにわが嗣業です。まことに、そのあかしはわが心の喜びです。
119:112 わたしはあなたの定めを終りまで、とこしえに守ろうと心を傾けます。

詩篇119篇は御言葉について、ヘブル語のアルファベット順に並ぶ詩篇の集まりで、一つ一つの詩篇はそのアルファベットを最初の一文字とした、とても美しいヘブル文学の形式で語られています。
その中にある、「さとし」「戒め」「おきて」「定め」「知恵」「約束」「あかし」などの一言一言が御言葉を表す言葉であり、御言葉のあらゆる側面を知ることのできる詩篇です。
御言葉は主イエスそのものであり、私達の内に住まわれる聖霊(キリストの御霊)が御言葉を照らし出すとき、私達は主イエスご自身と交わるように親しく御言葉を知ることができる。
それが御言葉であり、この詩篇の中で作者があらゆる人生の場面において、この御言葉をいかに愛し、いかに深く交わり、いかにその人生を支えられ、導かれ、御言葉を生涯守って生きることがいかに幸いか、喜びなのかを、生き生きとした御言葉との交わりを通して語っているのです。
まさしく、それが生ける御言葉なる主イエスとの交わり。

【ヨハネ10:2-5】
10:2 門からはいる者は、羊の羊飼である。
10:3 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。
10:4 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。
10:5 ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。

聖書を読んでも最初はわからないことも多いでしょう。しかし、この御言葉との交わりをあきらめずに主が語りかけられることのみ、今心に響きわかることのみに静かに耳を傾けて行くのであれば、その意味はやがて理解することができます。
まさしく、羊は羊飼いの「声を知っているので」必ず少しずつでも聖書から主が語られる声を私達は聞くことができ、それに導かれて生涯を歩むことができる。「彼について行く」ことができるのです。
そのようにして私達は、律法主義的ではなく愛の関係において、この御言葉を守ることができるのです。

【イザヤ29:13】
29:13 主は言われた、「この民は口をもってわたしに近づき、くちびるをもってわたしを敬うけれども、その心はわたしから遠く離れ、彼らのわたしをかしこみ恐れるのは、そらで覚えた人の戒めによるのである。

もしも、私達に主イエスとの交わりを抜きに聖書を守ることだけを、または聖書を、そのために知ることだけを目的とする、宗教的な生き方だけを信仰と言うのであれば、それは主から心離れ、形だけのものとなるでしょう。
主から心離れて御言葉を知ることはできませんから、人からの知識や学び、メッセージなどを通してしか主を知ることができない。
それでは、それが主イエスからの声なのか、別の者の声なのかを知る術はないでしょう。
聖書の御言葉のみが偽ることのない真理ですから、この声を聞かずして、羊飼いの声を聞き分けているということはできないのです。
ましてや聖書を読まずに信仰生活を送ろうとすることなど、なおさら同様のことが言えます。

【2テモテ4:3,4】
4:3 人々が健全な教に耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとして、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、
4:4 そして、真理からは耳をそむけて、作り話の方にそれていく時が来るであろう。

終わりの日に向けパウロがテモテに書いた警告は、今主の御言葉との直接的な深い交わりを避けて歩む者達に、強く語られています。
つまりその警告は、まことの羊飼いではない者の声を聞き分け、滅びに惑わす道から立ち戻り、私達のために命をも捨てる真の羊飼いの声のみを聞き、導かれて歩むよう勧めているのです。

【ヨハネ10:10,11】
10:10 わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。

さあ、今日も聖書を開け、あなたに語りかける主の愛をしっかり受け取りましょう。
この御言葉があなたの生涯を支え、最良の歩みへと導くのですから。

<< 10 | 11 | 12 | 13 | 14 >>