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聖霊のバプテスマ

2014年08月05日 08:43

【使徒行伝19:1-6】
19:1 アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、
19:2 彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。
19:3 「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。
19:4 そこで、パウロが言った、「ヨハネは悔改めのバプテスマを授けたが、それによって、自分のあとに来るかた、すなわち、イエスを信じるように、人々に勧めたのである」。
19:5 人々はこれを聞いて、主イエスの名によるバプテスマを受けた。
19:6 そして、パウロが彼らの上に手をおくと、聖霊が彼らにくだり、それから彼らは異言を語ったり、預言をしたりし出した。

「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか(19:2)」
この質問はとても単刀直入に感じます。
しかし、だからこそこの質問の内容がとても重要なことであることがわかります。
聖霊のバプテスマを受けることをパウロがいかに重要なこととして捉えていたのかはその後の質問と、行動によって知ることができます。
その質問のやりとりは、誰の名によりバプテスマを受けたのかという言葉が続き、その違いを明確化するものでした。
つまりバプテスマのヨハネが授けたのは水により悔い改めのバプテスマを授けたのですが、主イエスの名により、水の洗礼を受ける必要があった。
それは意味が全く異なるバプテスマであったからなのです。

【ローマ】
6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。

この主イエスの名によるバプテスマとは、同じ水のバプテスマですが、主イエスキリストの死とよみがえりにあずかるバプテスマであるということがわかります。
つまり主により新しい命を授けられ、これまでとは異なる命(これまでの命とは生来の命であり、すでに死につけられている)により生きる、全く新しい者として生まれたことを現すものです。
しかし、パウロはそれだけにとどまらず、さらに彼らの上に手を置いて、結果彼らは聖霊のバプテスマを受けました。
パウロがそのような行動をとった理由は、バプテスマのヨハネ自身が語った言葉の中に明らかにされています。

【ルカ3:16】
「わたしは水でおまえたちにバプテスマを授けるが、わたしよりも力のあるかたが、おいでになる。わたしには、そのくつのひもを解く値うちもない。このかたは、聖霊と火とによっておまえたちにバプテスマをお授けになるであろう。」

バプテスマのヨハネは、主イエスについて証しをすると同時に、バプテスマのヨハネ自身が授けているバプテスマ(水)と、主イエスが授けるバプテスマ(聖霊と火)の性格が根底的に全く違うということを語っています。
そして、それは人によっては決して授けることのできない、神によらなければ授けることのできない性格の、ありえないバプテスマを語っているのです。
だからこそ、このバプテスマは天的なものであり、特殊で重要なものであることがわかるのです。
主イエスは天に上って行かれる直前にこのバプテスマの重要性を語りました。

【ルカ24:45-49】
24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて
24:46 言われた、「こう、しるしてある。キリストは苦しみを受けて、三日目に死人の中からよみがえる。
24:47 そして、その名によって罪のゆるしを得させる悔改めが、エルサレムからはじまって、もろもろの国民に宣べ伝えられる。
24:48 あなたがたは、これらの事の証人である。
24:49 見よ、わたしの父が約束されたものを、あなたがたに贈る。だから、上から力を授けられるまでは、あなたがたは都にとどまっていなさい」。

【使徒行伝1:8】
1:8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。

ここにこの聖霊のバプテスマを受ける者は天(上)から力を授けられるとあります。
この力は『デュナミス』という言葉であり、ダイナマイトの語源にもなった、爆発的な力を意味する言葉です。
つまり、天的な(神的な)絶大なる力を授けられるものそれが聖霊のバプテスマであり、その力により私達を地の果てにまで主イエスの証人とするものなのです。
いや、だからこそ、初代教会の兄弟姉妹が爆発的に世界宣教へと拡大していく力を与えられていたことは使徒行伝の記述を見れば明白なことでしょう。
またこの「証人」とは殉教者の意味を含む言葉でもありますので、自らの命をも顧みないということでもあります。
が言い換えるなら、自らの命よりもはるかに価値のあるもの、天の御国とその御座に居られる王なる方、主イエスという永遠に最も価値あるものを見させる力が私達の内に働くということがよくわかるのです。

【使徒行伝7:54-60】
7:54 人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。
7:55 しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。
7:56 そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、
7:58 彼を市外に引き出して、石で打った。これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。
7:59 こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。
7:60 そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。

パウロはこのステパノの死にゆく様を恐らく間近で見た者であったでしょう。そのステパノに主イエスが十字架の上で言われた言葉と同様の言葉を言わしめた力を。
天の御国を見た者が、喜びに満ちて神に命をささげる様を彼は間近で見たはずです。
いやそればかりでなく、後にクリスチャンの熱心な迫害者となったパウロは、多くのクリスチャンを迫害する中で、神から注がれた証人としてのこの絶大な力を、最も近く目の当たりにし続けたことでしょう。
だから、この聖霊のバプテスマを受ける重要性を最もよく知っていた。いや自分自身が後にこの著しい力に押し出されて宣教し続けたのです。
だからこそ彼は、今日の聖書の箇所で最初に彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか(19:2)」と尋ねたのです。

今この聖霊のバプテスマということが教義の分裂ということだけでタブー視されがちです。
しかし聖書にはこの聖霊のバプテスマは現代の時代には存在しなくなったとか、著しい聖霊の働きは今は見られないといったようなことは、聖書のどこを探しても語られていません。
確かに全ての霊の働きが神からのものとは限りませんから、よく吟味する必要はありますが、しかし全ての霊的に著しい働きが悪霊からのものということは神にゆるされていません。

【マタイ12:31,32】
12:31 だから、あなたがたに言っておく。人には、その犯すすべての罪も神を汚す言葉も、ゆるされる。しかし、聖霊を汚す言葉は、ゆるされることはない。
12:32 また人の子に対して言い逆らう者は、ゆるされるであろう。しかし、聖霊に対して言い逆らう者は、この世でも、きたるべき世でも、ゆるされることはない。

むしろ、聖霊のバプテスマを受け、さらに聖霊に満たされ続ける歩みの重要性の方がはるかに多く聖書には語られているのです。
聖書に語られている御言葉はそのまま信じるに価します。いやそこからしか、神を知り神に近づく道は存在しないのです。
むしろ終わりの時代主が再びこの地に来られる時に、主への信仰がなくなっていくことを「しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか(ルカ18:8)」と、主は気にかけられているのです。
ですから、私達は今一度この聖書に書かれている御言葉を、そのまま信じるという立場に立ちましょう。
そして、主イエスがこの地を去られ天に上られる時、私達に託した主の願い大宣教命令と共に、そのために「上から力を授けられる(ルカ24:49)」よう主が語られた御言葉をそのまま受け止めたいと思います。
さあ共に、主のご計画が地になり、この地を、この国を、主が勝ち取られるために、大いなる主の絶大なる力が注がれる必要があることを主に訴えましょう。
主より聖霊のバプテスマ、上よりの力を授けられるよう、共に祈ろうではありませんか。

心砕かれる

2014年08月01日 11:46

【詩篇34:18】
34:18 主は心の砕けた者に近く、たましいの悔いくずおれた者を救われる。

私達の性質は根本が高慢です。
全てが神により与えられたもの、全てを成したのは主であるのに、私達はそれを自分の何かのように、主の栄光を自らのものとして誇ります。
自分の経験、知識、力、信仰、自分の何ものかで成し遂げた、あるいはその何ものかがあるからこそ、今日をまた毎日を生きることができると考える。
残念なことに私達はそれに全く気づきません。私達は毎日自然にそのように生きている。
私達は人としての成り立ちの根本を忘れ、神に背中を向けて、自らを誇り、自らの力により生きていると勘違いして生きている、それが私達の姿です。

忘れてしまっているのです。知らないのです。
自分が一被造物に過ぎず、塵のような存在であり、創造主である神に生かされて生きているということを。
自分が自然に神を必要としないで、だからこそ神に背中を向けて生きているのだということを。

聖書にあるヨブという人物は、神が誇るほどに義人でありました。彼は自分の信仰により、罪を犯さないように生き、その正しい行いのゆえに神はサタンに彼の義人であることを「あなたはわたしのしもべヨブのように全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかる者の世にないことを気づいたか(ヨブ1:8)」と誇りました。
ですから、彼は子供たちも、持ち物も、自分の健康でさえ失い、全てを失ってても、「すべてこの事においてヨブはそのくちびるをもって罪を犯さなかった(ヨブ2:10)」のです。
彼は行いに於いても、言葉に於いても正しかった。
しかし、彼は彼を見舞いに訪ねた友人に罪を犯したからこの苦しみにあったかのように責められ苦しみます。そして苦しんだからこそヨブは、その言い分に於いて自らを正しい(義)として語り続け、神よりも自らを正しいかのように主張し、神に罪を犯すのです。

【ヨブ33:9-11】
33:9 あなたは言う、『わたしはいさぎよく、とがはない。わたしは清く、不義はない。
33:10 見よ、彼はわたしを攻める口実を見つけ、わたしを自分の敵とみなし、
33:11 わたしの足をかせにはめ、わたしのすべての行いに目をとめられる』と。

しかし、彼の全ての行いも、全ての信仰を守ることができる生活を与えられていたのも、その生きる全てのことが、その毎日一刻一秒が神により与えられたもので生きていたことを、むしろ神に与えられないで生きれるものなど何もなかったことを、神ご自身がヨブの前に現れ、そのことを現されるのです(ヨブ38-41章)。
そうです。私が何を自ら誇って生きていたのかを知る。
神ご自身が私達に臨まれ、私の全てが神の前に光の内に全てさらされたなら、私達はひとかけらも自らの何ものかによって生きてきたなどと言うことはできないほど、全ての全てが神によって与えられていたことを知るでしょう。
神はどれほど私達を愛してやまないのでしょうか。
さらに神の前に自らが義人として生きてきたことが、神の義によるものであったことを知るでしょう。
つまり、神よりも正しいと自らを主張するほどに罪深い(神よりも自らを誇り、神に敵対するサタンの性質に満ちた)私達を、その罪をも、神は主イエスの贖いによって赦され、永遠に滅ぶべき私達の命を救われた。
その十字架の代価がなければ、私達は、その罪のゆえに、永遠に滅びなければならない存在でしかなかったことを知るでしょう(ヨブ33:19-30)。
だから、その信仰でさえ神から与えられたものであることを知る。
私の中に生きるキリストが持つ信仰が、内から働く聖霊により働くからこそ、日々信仰が保たれているということを知るでしょう。

【1ペテロ1:3】
1:3 いのちと信心とにかかわるすべてのことは、主イエスの神聖な力によって、わたしたちに与えられている。

だから、全てが主から与えられていなければ私達には何もないのです。
この方がいなければ、私達は一秒たりとも生きることができないのです。
私達はそのことを忘れているから、みずからを、誇ることができるという、どこまでも愚かな罪深い生き物なのです。

それを知るためには、私達は主の前に砕かれなければならないかも知れません。
積み重ねた罪が高く、自らを高く誇らせるなら、私達は主の前に砕かれなければならないでしょう。
でなければ、私達はどこまでも自らを高くして神に対立するサタンと同じ運命をたどり、永遠に滅びる存在となるしかない。
けれども、打ち砕かれ、自分自身が本来の塵に過ぎない存在であることを、心砕かれ知った者に主は近づくことができる(罪は神を遠ざけるため)のです。
だから、たましいが悔いくずおれて初めて、主は私達を救うことができるのです。

それでも、主に自らを主張する自分がどこかにいるでしょうか。
主のあわれみにすがりましょう。
主が私を造り変えてくださるように。

主が居られる

2014年07月31日 10:48

【創世記】
28:16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。

私達はともすると、主がこの場所に、自分のすぐそばに居られるのに、気づかないときがあります。
私達自身の現状や問題、目に見える現実が厳しければ、なおさらそうでしょう。
心は不安で覆われ、自分の考え得る方法で、いかに現状から脱出するか、最善の問題打開策は何かと考えあぐねる。
そのとき、不安に心と共に、信仰も覆われ、信仰を働かすことができなくなる。だから、愛する主でさえ見えなくなってしまうときがあるのでしょう。

【マルコ6:48-51】
6:48 ところが逆風が吹いていたために、弟子たちがこぎ悩んでいるのをごらんになって、夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らに近づき、そのそばを通り過ぎようとされた。
6:49 彼らはイエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。
6:50 みんなの者がそれを見て、おじ恐れたからである。しかし、イエスはすぐ彼らに声をかけ、「しっかりするのだ。わたしである。恐れることはない」と言われた。
6:51 そして、彼らの舟に乗り込まれると、風はやんだ。彼らは心の中で、非常に驚いた。

自分の力ではどうにもできない現実を前に、心静めて、もう一度、頼るべき方は誰なのかを思い出してください。
そこにこそ主が居られる。
私達が寄る辺ないときこそ、主がそばに居られ、
私達の力が尽きるときこそ、主の御業が現れるときなのです。
そこに十字架にかかられた主イエスが、天から地にかけられた梯子となられ、居られるのがわかるでしょう。
それは天が開かれ、天と地がつながり、私の地上のすべての悩みを超えて、私が主の御側に引き上げられ、天の御座のすぐ近く、主と直接天の御国にある交わりに入れられる、天の祝福が地上に溢れる瞬間。

【創世記28:12】
28:12 時に彼は夢をみた。一つのはしごが地の上に立っていて、その頂は天に達し、神の使たちがそれを上り下りしているのを見た。

【ヨハネ1:51】
1:51 「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。

そして、私の死につける全てのものが、主の十字架にあって、よみがえりに、勝利に飲み込まれる瞬間。

【1コリント15:55】
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。

【2コリント4:8-11】
4:8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
4:9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
4:11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。

そうです。そこに、よみがえりの主が溢れる愛をもって両手を広げ、あなたのすぐそばで、あなたを恵もうと、待ちかまえて居られるのを、あなたは知るでしょう。
だから、現実に目を閉じ、いや主への信仰によって目を開き、霊の目をさましてください。

ここからが主の働かれるとき、主との至高の交わりを知るときです。

主と心一つとする信仰

2014年07月30日 11:08

【マタイ12:1-8】
12:1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。
12:2 パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。
12:3 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。
12:4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。
12:5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。
12:6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。
12:7 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
12:8 人の子は安息日の主である」。

「安息日の主」はイエスキリストです。
ですから礼拝の中心、礼拝の主はイエスキリストです。同様に教会の主はイエスキリストです。
全ての信仰の中心も、そして私達の全ての全てに於いて、私達の主はイエスキリストです。
それは当たり前のことのようですが、この主イエスキリストは今生きておられる主なのであり、この方は私達の作り上げた信仰の形式や、蓄積した知識や経験、つまりは宗教としてのキリスト教の中に、生きている方ではありません。
私達の狭い知識や経験、その中で狭められた人の心の中に、命を失い、閉じこめられる方ではありません。
今まさに全世界の主権者として、主として生きておられる方です。
そして、この方への愛と、この方から向けられている多くの隣人への愛。律法の中心はここに集約されています。

【マタイ22:37-40】
22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
22:38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。
22:39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
22:40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

このように今生きておられる主との「愛によって働く信仰(ガラテヤ5:6)」によって、私達の毎日は生きたものとなるのです。これが、御霊に導かれ(ガラテヤ5:16-18)、キリストの律法(1コリント9:21)を生きる私達の歩みです。
そこには主との愛による命の交わりが存在しています。
これが人間の作り上げた命の失われた信仰と、主との愛によって生きて働く信仰の違いです。
この違いを主は 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない(マタイ12:7)』と語っています。
いけにえをささげることは当時の礼拝においても中心的内容であり、それが信仰の中心であったということができます。
しかしそれはここではただ形式だけのものとなっていることがわかります。
なぜなら、主のあわれみ、主の愛が今どこに注がれているのかという、主との愛に基づく交わり、「愛によって働く信仰」が消え失せていたからです。
このパリサイ人は主の愛を知らず、形式だけの命のない(実のない)、神の心から離れた信仰により、律法の解釈とそれを厳守することだけに心奪われていました。
だから、罪のない者(空腹で困っていた弟子達)への主のあわれみを理解できず、彼らを罪にとがめたのです。

【マタイ15:7-9】
15:7 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、
15:8 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
15:9 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。

そしてそのことは安息日の主であるイエスキリストが目の前にいたのに、つまりは「人の子」として来る預言され待ち望んできた救い主(ダニエル7:13)が目の前に生きて立たれ、自分と語っているのに、気づかないという致命的なミスを犯してしまうのです。

このことは今の私達にも言えることです。
私達は今生きておられる主に本当に気づいているでしょうか?
この方との愛の交わりの中に本当に生きているでしょうか?
本当に今生きておられるイエスキリストをあなたの人生の全てにおける主として、受け入れているでしょうか?
誰かの信仰、誰かの知恵、教会の信仰、信仰者の常識と言われているもの、それらに心奪われて、今生きておられる主との信仰によって生きることを退けてはいないでしょうか?
今神は何をあわれみ、何に愛を注ごうとされているのか、もう一度、生きておられる主との関係の中で、知る必要があるのではないでしょうか?
主よ。あなたは何を思い、何を望んでおられますか?
私がどのように生きることをあなたは喜ばれますか?
愛する主よ。あなたの心と私の心を一つとしてください。あなたの願いこそが私の生きるべき道なのですから。

【歴代志16:9(新改訳)】
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご 自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。

進むべき時

2014年07月29日 11:36

【申命記1:6-8】
「われわれの神、主はホレブにおいて、われわれに言われた、『あなたがたはすでに久しく、この山にとどまっていたが、
身をめぐらして道に進み、アモリびとの山地に行き、その近隣のすべての所、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海べ、カナンびとの地、またレバノンに行き、大川ユフラテにまで行きなさい。
見よ、わたしはこの地をあなたがたの前に置いた。この地にはいって、それを自分のものとしなさい。これは主が、あなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた所である』。

主は私達のとりなしを、流した汗を、涙を、決して見過ごしにされる方ではありません。
誰かが罪のために滅びるのを、私達は黙しておられましょうか。
主が悲しんでおられるのに、それを無視して自らを喜ばすことなどできましょうか。
そのような思いで涙を持って主に、とりなし祈るならば、主はその滅びから人々を救うために、どれほどの代価を払っても、御業を現されることでしょう。
神の御子を贖いの供え物としてささげられた程に、その愛は深く、それは天地を動かしてでも成し遂げられる。
主の切なる願いが、主の熱情がそこにあるのです。
ですから、主の心と、思いを一つに重ねとりなす祈りを、今まで主はどれほど待ち望んで来られ、またその祈りが私達の唇から語り出されることをどれほど喜ばれることでしょう。
ダニエルが、罪を犯し続けたイスラエルのために、切なる思いでささげたとりなしの祈りに(ダニエル9:1-19)主は答えられ(ダニエル9:22,23)、その後の主の大いなる計画を、つまりは秘めたる主の胸の内を親しく語られ示されたしたように。
またネヘミヤの涙の祈り(ネヘミヤ1章)に、主が答えられ、火に焼かれたまま荒廃し荒れ地となった、エルサレムの再建を、ネヘミヤに託されたように。
主は必ず私達のとりなしの祈りに、答えられるのです。
いやですから今日、神が御言葉をもって、私達にこのように語ってくださっていることはとても大きなことです。
主はその御言葉の通り、私達の目の前に広がる地、この国を、この地を、私達に与えてくださると語られているのです。
もちろん、この国を、この地を、私達に与えてくださるとは、この旧約聖書の時代のように、物理的な、目に見えるような形での意味で語られているわけではありません。

【使徒26:17,18】
わたしは、この国民と異邦人との中から、あなたを救い出し、あらためてあなたを彼らにつかわすが、
それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』。

それは霊的な意味で語られているものであり、悪魔の支配から神の支配へ、やみから光へ、永遠の死と滅びから命へと、多くの人々が救われることを意味しており、その救いへと導く大きな役割を私達に担わせてくださるということを意味しているのです。
そして、私達一人一人が、この国を、この地を、霊的な意味において、主の統治の内に治めるための一翼を担うということを言われているのです。
つまり、この国のリバイバル、本当にこの国が神に立ち返り、死とのろいから解放され、命に溢れる国となる、その一端を私達は担わせていただく、そのような恐れ多い特権に預からせていただけるということを、今主は語られているのです。
そして、さらに今主は、もう同じ所にとどまる時ではないと、進むべき時が来たと語られています。
確かにこの国の宣教はこれまで遅々として進まず、長い年月膠着状態のまま、久しく同じ所にとどまり、いやすでにこの国がリバイバルし神に立ち返ることなど、夢のように思えているかも知れません。
むしろ、このままで平穏な教会生活を細々とでも送ることに、安住さえ感じていたかも知れません。
だからこそ、この国が今大きく変わろうとし、その選択が日々刻一刻と滅びに向かっているこの時に、目を覚ますよう私達は警告され、そのために悔い改め、とりなしを祈ったのです。
そして、その祈りを主は聞かれたのです。

もう時は動いています。
立ち上がって、主と共に進んでいきましょう。

【ヨハネ4:35-38】
あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。
刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。
そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる。
わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。

神の義の現れるとき

2014年07月28日 10:23

【ハバクク2:4】
見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。

主の眼差しはこの地上の全てのものの上に注がれています。この方の目を盗み、隠れおおせることは何一つありません。
神から背ける今の時代では「主は見ない、ヤコブの神は悟らない(詩篇94:7)」と、悪人と同じ見解を一般のごく普通の人々が持ちます。
闇に隠れ主の目を盗み、自分が何をしているのか神にわかろうはずがないと、必要悪を正当な理由とし、悪いと知りながら罪を重ね、あるいはそれは法律、道徳でさえ罪と現されないものかも知れません。
いや、主の目を意識するどころか、神が存在することすら否定し、届くなら自らが神にさえなろうと考えます。

【エゼキエル28:2】
主なる神はこう言われる、あなたは心に高ぶって言う、『わたしは神である、神々の座にすわって、海の中にいる』と。しかし、あなたは自分を神のように賢いと思っても、人であって、神ではない。

自らを正しいとし、自らの基準と判断で生きる。自らの賢さがこの正しさを支えていると考え、自らが得た、地位、名誉、お金、それらの自らの行いによって得た結果をもって、自らが正かったからそれを得たと、自らを誇ります。

【エゼキエル28:4-9】
あなたは知恵と悟りとによって富を得、金銀を倉にたくわえた。
あなたは大いなる貿易の知恵によってあなたの富を増し、その富によってあなたの心は高ぶった。
それゆえ、主なる神はこう言われる、あなたは自分を神のように賢いと思っているゆえ、
見よ、わたしは、もろもろの国民の最も恐れている異邦人をあなたに攻めこさせる。彼らはつるぎを抜いて、あなたが知恵をもって得た麗しいものに向かい、あなたの輝きを汚し、
あなたを穴に投げ入れる。あなたは海の中で殺された者のような死を遂げる。
それでもなおあなたは、『自分は神である』と、あなたを殺す人々の前で言うことができるか。あなたは自分を傷つける者の手にかかっては、人であって、神ではないではないか。

自らが義(正しさ)を主張し、自らの利益のために生きる者達は、やがて互いに騙し合い、食い合い、自らが生きるために奪い合い争い合います。
今抱えている日本の山積みの問題を前に、私達人間の義は何一つ役に立つどころか、人の力を主張するほど滅びにしか至りません。
なぜならそれは、自己利益のために自己の義を主張する私達人間の、根本的な罪が生み出す結果だからです。
しかし、主はこの地を、この滅びを、そのままにされることはありません。
神はこれまで、私達の重ね続けた罪に忍耐されていたに過ぎません。決して主は侮られる方ではありません。
主はご自身の公義により、この地を裁かれます。
この地が不条理と不義と偽りで覆われ、滅びてしまわないために。
主はこの地に、この国に来られるのです。

【詩篇96:13】
主は来られる、地をさばくために来られる。主は義をもって世界をさばき、まことをもってもろもろの民をさばかれる。

私達はこのことを今一度真剣に受け止めなければなりません。主がこの地に来られ、ご自身の義によりこの地を裁くということは、クリスチャンであったとしても、その裁きを免れるということはないのです。

【1ペテロ4:17-18】
さばきが神の家から始められる時がきた。それが、わたしたちからまず始められるとしたら、神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。
また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。

主は、私達が何を考え、何を思い、何を言い、何を行ったのか、その全てをご存知です。
そして、それによって、私達は主の裁きを受けることになるのです。

【ヘブル4:13】
そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。

神はすでにこの国の滅びを幾度も警告されています。
この国にこれまで現れた問題の一つ一つから、私達はその警告を受け取ることができたはずです。
しかし、それに耳を傾けず、自らに都合良く解釈し、自らの生活のことにのみ没頭し、この国が滅ることに真剣に向き合い、とりなして来なかった。
破れ口に命をかけて立ってこなかったことへの責任を問われる時が来ている。それによって、私達は主の前にこれから裁きを受けることとなるでしょう。

【エゼキエル22:23-31】
主の言葉がまたわたしに臨んだ、
「人の子よ、これに言え、あなたは怒りの日に清められず、また雨の降らない地である。
その中の君たちは、獲物を裂くほえるししのような者で、彼らは人々を滅ぼし、宝と尊い物とを取り、そのうちに、やもめの数をふやす。
その祭司たちはわが律法を犯し、聖なる物を汚した。彼らは聖なる物と汚れた物とを区別せず、清くない物と清い物との違いを教えず、わが安息日を無視し、こうしてわたしは彼らの間に汚されている。
その中にいる君たちは、獲物を裂くおおかみのようで、血を流し、不正の利を得るために人々を滅ぼす。
その預言者たちは、水しっくいでこれを塗り、偽りの幻を見、彼らに偽りを占い、主が語らないのに『主なる神はこう言われる』と言う。
国の民はしえたげを行い、奪うことをなし、乏しい者と貧しい者とをかすめ、不法に他国人をしえたぐ。
わたしは、国のために石がきを築き、わたしの前にあって、破れ口に立ち、わたしにこれを滅ぼさせないようにする者を、彼らのうちに尋ねたが得られなかった。
それゆえ、わたしはわが怒りを彼らの上に注ぎ、わが憤りの火をもって彼らを滅ぼし、彼らのおこないを、そのこうべに報いたと、主なる神は言われる」。

主がこの地に来られ、主の義によりこの地が裁かれるとき、主を信じる信仰による神の義しか、私達を生かすものはありません。
クリスチャンである私達がこの神の義をなおざりにして、この世の生き方のように、自己の義によって自分のために生きる道などは存在しないのです。
増してや神の義そのものを知らない者達が、神の裁きの前に滅びを免れることはないのです。
それだけが、この裁きの厳しい境界線です。
今日の御言葉【ハバクク2:4】を真剣に受け止めましょう。
そうすれば、私達が何をすべきかがわかるはずです。
悔い改めて、この国の救いのために、真剣に共にとりなしてまいりましょう。

朽ちないものを見続ける

2014年07月25日 21:02

【1ペテロ1:23-25】
1:23 あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。
1:24 「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。
1:25 しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。

私達が「朽ちる種からではなく、朽ちない種(1ペテロ1:23)」である神の「生ける御言(1ペテロ1:23)」によって新たに生まれたのは、朽ちることのない神の御国、神の「天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ(1ペテロ1:4)」ためです。

【1ペテロ1:3-5】
1:3 ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神は、その豊かなあわれみにより、イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、
1:4 あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。
1:5 あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、信仰により神の御力に守られているのである。

朽ちるもの、やがてはかなく消え去るものによっては、朽ちないものを受け継ぐことはできません。永遠に変わることのない、朽ちないものによらなければ、朽ちないものを受け継ぐことはできないのです。
朽ちることのない永遠の命、受け継ぐべき神の国、そして父の相続と言われる天の資産。
私達が新たに生まれたのは、この朽ちない絶大なる価値を持つ宝を受け取るためなのです。
そして、そのことが完成するのは「終りの時に啓示さるべき救にあずかる」時、私達の「からだのあがなわれ(ローマ8:23)」る時に、成就するのです。それは私達がよみがえりの栄光のからだを受ける時です。

【1コリント15:50-55】
15:50 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。
15:51 ここで、あなたがたに奥義を告げよう。わたしたちすべては、眠り続けるのではない。終りのラッパの響きと共に、またたく間に、一瞬にして変えられる。
15:52 というのは、ラッパが響いて、死人は朽ちない者によみがえらされ、わたしたちは変えられるのである。
15:53 なぜなら、この朽ちるものは必ず朽ちないものを着、この死ぬものは必ず死なないものを着ることになるからである。
15:54 この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが死なないものを着るとき、聖書に書いてある言葉が成就するのである。
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。

多くの人達がこの朽ちないもののために生きるのではなく、朽ちるもののために生きています。

【ヨハネ6:27】
6:27 朽ちる食物のためではなく、永遠の命に至る朽ちない食物のために働くがよい。

この地上で生きるために、朽ちる食べ物を得ようとして生きる。しかしこのことは決して朽ちないものを受け継ぐための生き方ではありません。むしろ、朽ちるものに目を奪われ、朽ちないものを見失い、受け継ぐべき大いなるものを失うための歩みであるということができます。
なぜなら、その心はすでに終わりの日の希望から離れ、神の完全なる救いによって、朽ちないものを受け取るという、大いなる喜びから、興味を失ってしまっているからです。
また、神の驚くべき計画に無感動となり、「自分の欲情のままに生活し、(2ペテロ3:3)」神の計画を「あざける者(2ペテロ3:3)」となり、また人々にその誤った常識を吹聴する者とさえなるからです。

【2ペテロ3:3,4】
3:3 まず次のことを知るべきである。終りの時にあざける者たちが、あざけりながら出てきて、自分の欲情のままに生活し、
3:4 「主の来臨の約束はどうなったのか。先祖たちが眠りについてから、すべてのものは天地創造の初めからそのままであって、変ってはいない」と言うであろう。

しかし私達を新しく生まれさせた「朽ちることのない」神の御言は、朽ちるもの全てが火に焼き尽くされる裁きの日を明確に語り、いやむしろ「今の天と地とは、同じ御言によって保存され(2ペテロ3:7)」、裁きの日が神のあわれみにより待たれているのです。

【1ペテロ3:5-7】
3:5 すなわち、彼らはこのことを認めようとはしない。古い昔に天が存在し、地は神の言によって、水がもとになり、また、水によって成ったのであるが、
3:6 その時の世界は、御言により水でおおわれて滅んでしまった。
3:7 しかし、今の天と地とは、同じ御言によって保存され、不信仰な人々がさばかれ、滅ぼさるべき日に火で焼かれる時まで、そのまま保たれているのである。

だからこの神のあわれみの時を、朽ちるものに心奪われ無駄にすることがあってはなりません。私達の歩みは刻一刻この終わりの時に向かっており、クリスチャンの見るべき視点も、生きる目的もこのためにあるのです。

【1ペテロ3:8-13】
3:8 愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである。
3:9 ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。
3:10 しかし、主の日は盗人のように襲って来る。その日には、天は大音響をたてて消え去り、天体は焼けてくずれ、地とその上に造り出されたものも、みな焼きつくされるであろう。
3:11 このように、これらはみなくずれ落ちていくものであるから、神の日の到来を熱心に待ち望んでいるあなたがたは、
3:12 極力、きよく信心深い行いをしていなければならない。その日には、天は燃えくずれ、天体は焼けうせてしまう。
3:13 しかし、わたしたちは、神の約束に従って、義の住む新しい天と新しい地とを待ち望んでいる。

多くの教会が、そして兄弟姉妹が朽ちるものを中心に、その視点から全てを見つめ、信仰生活を歩むことを、常識としているように思われます。
しかし、これらは私達が与えられているもののごく一部分であり、添えて与えられているもので、私達の受け取るべき絶大なる資産そのものではありません。

【マタイ6:31-33】
6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

クリスチャンの本当の目的に目を覚ましましょう。
神が私達に何を与え、どのように歩むことを望んでおられるのか。
神は溢れるほど私達を愛すればこそ、
その計画は滅びではなく、言葉に言い尽くせない大いなる喜びと、輝く栄光の歩みなのです。

ですから、あなたに伺います。
あなたは、まだ朽ちるものを見続けて歩みますか?
それとも、朽ちないものを見続けて歩みますか?

主の救いを見よ

2014年07月24日 11:40

【出エジプト14:13,14】
モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。
主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。

主が私達のために用意している計画は、私達の思考では到底及ばないような驚くべきものばかりです。
それは私達のために主が用意された圧倒的な愛に基づく計画であり、同時に主の圧倒的な栄光が現されるためのものです。
言い換えれば、主がご自身の愛する者のためにどれほど驚くべき御業をなされるのか、その絶大な栄光を全地に、そして「天上にあるもろもろの支配や権威(エペソ3:10)」(サタン)に、また「この世ばかりでなく来るべき世々(エペソ1:21,2:7)」に至るまで、見せつけるために用意された計画なのです。
そのような壮大な計画の前に、その計画がどこから来てどこへ行くのか、つまりはその計画が用意された理由や、その計画がどのような結果になるのか、あまりに主の思いが高すぎて私達には到底理解することができません。
ですから、主の大いなる御業が現されるときその直前には、私達はその目の前に迫る状況に死を予感するほど、私達の力ではどうにもできない現実が迫って来ることがあります。
それはこれから現される主の御業が圧倒的だからこそ、あまりに非力で何もできない私達には、迫る現実がいかに私達に何もできないかしか理解できないのです。
ここでイスラエルが主に叫んだように主への不信に、心を奪われてはなりません。
そこで出て来る言葉は主をのろう言葉でしかなく、その言葉には何一つ希望が存在しないからです。

【出エジプト14:10-12】
パロが近寄った時、イスラエルの人々は目を上げてエジプトびとが彼らのあとに進んできているのを見て、非常に恐れた。そしてイスラエルの人々は主にむかって叫び、
かつモーセに言った、「エジプトに墓がないので、荒野で死なせるために、わたしたちを携え出したのですか。なぜわたしたちをエジプトから導き出して、こんなにするのですか。
わたしたちがエジプトであなたに告げて、『わたしたちを捨てておいて、エジプトびとに仕えさせてください』と言ったのは、このことではありませんか。荒野で死ぬよりもエジプトびとに仕える方が、わたしたちにはよかったのです」。

そのときこそ、心静め主の御声に耳を傾けましょう。現実を見る目を閉じ、信仰の目を開いて、神に用意された真の状況を見る必要があります。
主は何をご用意され、私達がどのようにあることを、何をすることを望んでおられるのか。
これまで私達にあらゆる良きことをしてくださった主に、この時こそ深い信頼を寄せ、心静め主に祈り尋ねるのです。
そう、そのとき今日の御言葉のように、主は語られるでしょう。
「かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。(出エジプト14:13)」
あなたはそこに、主の救いを見るのです。それは永久に、二度とそこに死を見ることがないために、主ご自身が戦われるのを見るでしょう。
主は永遠にあなたの勝利者です。
あなたが無力なときこそ、あなたの全てを主にゆだねましょう。
主がその全てに勝利を現してくださいますから。

自信という名の高慢

2014年07月23日 11:44

【2サムエル24:18】
その日ガデはダビデのところにきて彼に言った、「上って行ってエブスびとアラウナの打ち場で主に祭壇を建てなさい」。

人はいつまで経っても自分の力に頼り、誇ります。
特に、自分に経験が豊かになり、自信がつき、自分の力でいろいろなことができるようになると、そのような人間の本質が見え隠れします。
しかし、これは神の前に何の意味もないことです。
全能なる方、絶大な力を持つ神の前にそれは塵のようなものに過ぎず、私達の力は自分の「髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない」微弱な存在です。
だからこそ、私達が神により頼まずに生きることのできる日など、ただの一日、いや一刻一秒もないでしょう。
しかし、そうであるにも関わらず、その事実を自己過信のうちに忘れ、自らの力を頼り、誇る者は、神により頼む存在どころか、知らずにいても、神を必要とせず、自力で生き、やがて神を退け、神に対抗する存在となるのです。
これは潜在的でありながら、全ての人が持っている罪の根幹に関わる、人間の本質と言うことができます。
「 神のように(創世記3:5)」なる。神無しで「わたしは有る」という存在に、人はなりたいのです。そしてそれが人の最初の罪です。
今日の箇所ではそれに続く聖書の遡る箇所に

【2サムエル24:1】
主は再びイスラエルに向かって怒りを発し、ダビデを感動して彼らに逆らわせ、「行ってイスラエルとユダとを数えよ」と言われた。

とあります。そこから推察されることは、イスラエルの民も同様に自らの力を誇った。そして、また同様にダビデも自らを誇り、その結果として自らの力を誇るため民の人数を数えようとしたのでしょう。
このダビデの強制的な人口調査はその罪のゆえに神を怒らせました。
ダビデは自ら気づき神の前に罪を悔いますが、裁きはイスラエルの民に及びます。ことは「七万人(歴代志24:15)」の人々が死ぬほどの大惨事に至りました。
この時、ダビデが主の前に悔いても、この人の(本質的)罪に対する贖いの命の代価が、まだ支払われていなかったのです。
そこで、今日の箇所にあるように、主は罪の贖いについて語られたのです。
真の悔い改めは十字架の贖いなしに存在することはありません。
自らに高ぶる私達は、肝心なものが何一つ見えず、しかしその目には自らの栄光(神から奪った栄光)しか目に入らず、とてつもないかけ違いをしでかします。
それは信仰経験が長く、豊かになればなるほど、その危険があるのです。
私達はしっかり自分で何でもできる、『できる信仰者』ではなく、神がいなければ『何もできない信仰者』であるべきなのです。
これほど高ぶった私達に、だから自らを最も卑しめられ、侮られ、痛めつけられ、神にも見捨てられ、永遠に裁かれた、最も低き者となり十字架にかけられた、主イエスの命の代価が必要なのです。
私達はこの十字架の前に、心砕かれ、低められ、悔い崩おれて、悔い改めなければ、サタンへと自らを変え、滅びへと自らを進めていく道から逃れることはできないのです。
しかし、この十字架に自らを低める神への謙遜の道が開かれる時、そこにこそ自らが果たすべき自らの使命、神に与えられた召し、自らの生きる道が見えて来るのです。

【1歴代志21:27,28-22:1,2】
21:27 また主がみ使に命じられたので、彼はつるぎをさやにおさめた。
21:28 その時ダビデは主がエブスびとオルナンの打ち場で自分に答えられたのを見たので、その所で犠牲をささげた。
 [中略]
22:1 それでダビデは言った、「主なる神の家はこれである、イスラエルのための燔祭の祭壇はこれである」と。
22:2 ダビデは命じてイスラエルの地にいる他国人を集めさせ、また神の家を建てるのに用いる石を切るために石工を定めた。・・・

ダビデは神の家を建てる悲願を抱えていましたが、それはその子ソロモンに於いて成就することとして、神から約束を与えられていました。
けれども、ダビデの心はこの主の家のために何が自分自身にできるのか。何を主にこの地上でささげることができるのかということでいっぱいだったのでしょう(1歴代志28,29章より)。
だからこそ、この贖いの代価をささげるアラウナ(オルナン)の祭壇を建てたとき、この場所が「主なる神の家はこれである、イスラエルのための燔祭の祭壇はこれである(22:1)」と、神殿を建てるのに最もふさしい場所であることがわかったのです。
驚くべきことに、父なる神が私達に御子をさえ惜しまずに与え贖いの供え物とされる十字架の型となる出来事、アブラハムがイサクを主にささげようとしたモリヤの山はこの場所であったのです。

【2歴代志3:1】
ソロモンはエルサレムのモリアの山に主の宮を建てることを始めた。そこは父ダビデに主が現れられた所、すなわちエブスびとオルナンの打ち場にダビデが備えた所である。

ここに真の贖いの恵みをダビデは受け取ったことがわかると思います。
私達の歩みは十字架の御足の跡をたどることであり、しかしそれは決して自らを誇り自らを喜ばせる道ではありません。しかし、そこに溢れる十字架の愛と恵みを受け取り、主と共にこの地では低められるけれど、天に於いては高きにまで引き上げられる、栄光の道を歩むことなのです。

【ピリピ2:6-11】
2:6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
2:7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
2:8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
2:9 それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
2:10 それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
2:11 また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである。

今はごくわずか見えても、主は全てをご存じです。自らの高慢を省み、主の十字架の前に、この恐ろしき罪を悔い改め、溢るる神の恵みを今受け取りましょう。

命の川の音

2014年07月22日 07:13

【エゼキエル47:8-10】
47:8 彼はわたしに言った、「この水は東の境に流れて行き、アラバに落ち下り、その水が、よどんだ海にはいると、それは清くなる。
47:9 おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きている。
47:10 すなどる者が、海のかたわらに立ち、エンゲデからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。

神の命が川となって、流れ溢れる出る時が来ました。
かつて、サマリアの女に主イエスは言われました。

【ヨハネ4:10】
イエスは答えて言われた、「もしあなたが神の賜物のことを知り、また、『水を飲ませてくれ』と言った者が、だれであるか知っていたならば、あなたの方から願い出て、その人から生ける水をもらったことであろう」。

また、仮庵の祭の終わりの大事な日に主イエスは叫ばれました。

【ヨハネ7:37-39】
7:37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
7:39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。

この2つのことは同じことを指し、今の恵みの時代に注がれた私達の内の聖霊について語られています。そして驚くべきことにこの奇跡は、今あなたの中に成就しているのです。
このことをあなたは信じ実感しておられるでしょうか?
この「生ける水」は私達の命の渇きを永遠に潤し、そればかりか私達の腹から川々(文語訳)となって溢れ出るものです。
そして「この川は、神と小羊との御座から出て、(黙示録22:1,2)」、私達の内側から溢れ出るものであり、それは私達クリスチャンの一人一人が個々の中で完結するものではなく、一度私達の中から勢いを持って溢れ出た川は、合わさってさらに一つの川となり勢いを増して行くのです(エゼキエル47:1-6)。
「死ぬべきからだをも、生か(ローマ8:11)」す絶大な力をもって、溢れる「この川の流れる所では、すべてのものが生き(エゼキエル47:9)」るのです。
教会から溢れ出る、よみがえりの命の絶大なる力をもって流れる、一つの川の流れは、やがて全地に満ちるでしょう。
「ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔改めに至ることを望(2ペテロ3:9)」む主の御心がそれを成し遂げる。
今滅びに向かってひた走るこの国を生かすために、主はこのことをご自身の熱心をもって成し遂げるでしょう。
これは夢幻の話でも、偽りでもありません。現実に起こることです。
なぜなら、この国の中に有り余る問題は私達の危機を感じる感覚を麻痺させる程に多く、すでに未来を支える若者達の唇から将来について語ることができないほどの無力感や絶望感を与えています。
「しかし、罪の増し加わったところには、恵みもますます満ちあふれた。(ローマ5:20)」とあるように、この滅びが見えるほどに現実化したこの国だからこそ、主の恵みは溢れ、その熱心がこの国を生かすのです。
主はこの国を神の元に立ち返らせようと、主ご自身の命の川で溢れさせ、滅ぶべき者を「この川の流れる所では、すべてのものが生き」るようにされるでしょう。
この川の溢れる音が(信仰によってのみ聞こえる霊的な耳をもって、)あなたに聞こえるでしょうか?
あなたの内から溢れようとするこの川の流れを、あなたはとどめていないでしょうか?

【ルカ18:8】
しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか。

不信仰を語り合い、現実に振り回されことはもう終わりにしましょう。
主の御座を見上げる時、そこから命の川はあなたに溢れ始めます。

主の恵みがまずあなたから、豊かに溢れますように。

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