主と心一つとする信仰

2014年07月30日 11:08

【マタイ12:1-8】
12:1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。
12:2 パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。
12:3 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。
12:4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。
12:5 また、安息日に宮仕えをしている祭司たちは安息日を破っても罪にはならないことを、律法で読んだことがないのか。
12:6 あなたがたに言っておく。宮よりも大いなる者がここにいる。
12:7 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
12:8 人の子は安息日の主である」。

「安息日の主」はイエスキリストです。
ですから礼拝の中心、礼拝の主はイエスキリストです。同様に教会の主はイエスキリストです。
全ての信仰の中心も、そして私達の全ての全てに於いて、私達の主はイエスキリストです。
それは当たり前のことのようですが、この主イエスキリストは今生きておられる主なのであり、この方は私達の作り上げた信仰の形式や、蓄積した知識や経験、つまりは宗教としてのキリスト教の中に、生きている方ではありません。
私達の狭い知識や経験、その中で狭められた人の心の中に、命を失い、閉じこめられる方ではありません。
今まさに全世界の主権者として、主として生きておられる方です。
そして、この方への愛と、この方から向けられている多くの隣人への愛。律法の中心はここに集約されています。

【マタイ22:37-40】
22:37 イエスは言われた、「『心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。
22:38 これがいちばん大切な、第一のいましめである。
22:39 第二もこれと同様である、『自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ』。
22:40 これらの二つのいましめに、律法全体と預言者とが、かかっている」。

このように今生きておられる主との「愛によって働く信仰(ガラテヤ5:6)」によって、私達の毎日は生きたものとなるのです。これが、御霊に導かれ(ガラテヤ5:16-18)、キリストの律法(1コリント9:21)を生きる私達の歩みです。
そこには主との愛による命の交わりが存在しています。
これが人間の作り上げた命の失われた信仰と、主との愛によって生きて働く信仰の違いです。
この違いを主は 『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない(マタイ12:7)』と語っています。
いけにえをささげることは当時の礼拝においても中心的内容であり、それが信仰の中心であったということができます。
しかしそれはここではただ形式だけのものとなっていることがわかります。
なぜなら、主のあわれみ、主の愛が今どこに注がれているのかという、主との愛に基づく交わり、「愛によって働く信仰」が消え失せていたからです。
このパリサイ人は主の愛を知らず、形式だけの命のない(実のない)、神の心から離れた信仰により、律法の解釈とそれを厳守することだけに心奪われていました。
だから、罪のない者(空腹で困っていた弟子達)への主のあわれみを理解できず、彼らを罪にとがめたのです。

【マタイ15:7-9】
15:7 偽善者たちよ、イザヤがあなたがたについて、こういう適切な預言をしている、
15:8 『この民は、口さきではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。
15:9 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』」。

そしてそのことは安息日の主であるイエスキリストが目の前にいたのに、つまりは「人の子」として来る預言され待ち望んできた救い主(ダニエル7:13)が目の前に生きて立たれ、自分と語っているのに、気づかないという致命的なミスを犯してしまうのです。

このことは今の私達にも言えることです。
私達は今生きておられる主に本当に気づいているでしょうか?
この方との愛の交わりの中に本当に生きているでしょうか?
本当に今生きておられるイエスキリストをあなたの人生の全てにおける主として、受け入れているでしょうか?
誰かの信仰、誰かの知恵、教会の信仰、信仰者の常識と言われているもの、それらに心奪われて、今生きておられる主との信仰によって生きることを退けてはいないでしょうか?
今神は何をあわれみ、何に愛を注ごうとされているのか、もう一度、生きておられる主との関係の中で、知る必要があるのではないでしょうか?
主よ。あなたは何を思い、何を望んでおられますか?
私がどのように生きることをあなたは喜ばれますか?
愛する主よ。あなたの心と私の心を一つとしてください。あなたの願いこそが私の生きるべき道なのですから。

【歴代志16:9(新改訳)】
16:9 主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご 自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。