進むべき時

2014年07月29日 11:36

【申命記1:6-8】
「われわれの神、主はホレブにおいて、われわれに言われた、『あなたがたはすでに久しく、この山にとどまっていたが、
身をめぐらして道に進み、アモリびとの山地に行き、その近隣のすべての所、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海べ、カナンびとの地、またレバノンに行き、大川ユフラテにまで行きなさい。
見よ、わたしはこの地をあなたがたの前に置いた。この地にはいって、それを自分のものとしなさい。これは主が、あなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた所である』。

主は私達のとりなしを、流した汗を、涙を、決して見過ごしにされる方ではありません。
誰かが罪のために滅びるのを、私達は黙しておられましょうか。
主が悲しんでおられるのに、それを無視して自らを喜ばすことなどできましょうか。
そのような思いで涙を持って主に、とりなし祈るならば、主はその滅びから人々を救うために、どれほどの代価を払っても、御業を現されることでしょう。
神の御子を贖いの供え物としてささげられた程に、その愛は深く、それは天地を動かしてでも成し遂げられる。
主の切なる願いが、主の熱情がそこにあるのです。
ですから、主の心と、思いを一つに重ねとりなす祈りを、今まで主はどれほど待ち望んで来られ、またその祈りが私達の唇から語り出されることをどれほど喜ばれることでしょう。
ダニエルが、罪を犯し続けたイスラエルのために、切なる思いでささげたとりなしの祈りに(ダニエル9:1-19)主は答えられ(ダニエル9:22,23)、その後の主の大いなる計画を、つまりは秘めたる主の胸の内を親しく語られ示されたしたように。
またネヘミヤの涙の祈り(ネヘミヤ1章)に、主が答えられ、火に焼かれたまま荒廃し荒れ地となった、エルサレムの再建を、ネヘミヤに託されたように。
主は必ず私達のとりなしの祈りに、答えられるのです。
いやですから今日、神が御言葉をもって、私達にこのように語ってくださっていることはとても大きなことです。
主はその御言葉の通り、私達の目の前に広がる地、この国を、この地を、私達に与えてくださると語られているのです。
もちろん、この国を、この地を、私達に与えてくださるとは、この旧約聖書の時代のように、物理的な、目に見えるような形での意味で語られているわけではありません。

【使徒26:17,18】
わたしは、この国民と異邦人との中から、あなたを救い出し、あらためてあなたを彼らにつかわすが、
それは、彼らの目を開き、彼らをやみから光へ、悪魔の支配から神のみもとへ帰らせ、また、彼らが罪のゆるしを得、わたしを信じる信仰によって、聖別された人々に加わるためである』。

それは霊的な意味で語られているものであり、悪魔の支配から神の支配へ、やみから光へ、永遠の死と滅びから命へと、多くの人々が救われることを意味しており、その救いへと導く大きな役割を私達に担わせてくださるということを意味しているのです。
そして、私達一人一人が、この国を、この地を、霊的な意味において、主の統治の内に治めるための一翼を担うということを言われているのです。
つまり、この国のリバイバル、本当にこの国が神に立ち返り、死とのろいから解放され、命に溢れる国となる、その一端を私達は担わせていただく、そのような恐れ多い特権に預からせていただけるということを、今主は語られているのです。
そして、さらに今主は、もう同じ所にとどまる時ではないと、進むべき時が来たと語られています。
確かにこの国の宣教はこれまで遅々として進まず、長い年月膠着状態のまま、久しく同じ所にとどまり、いやすでにこの国がリバイバルし神に立ち返ることなど、夢のように思えているかも知れません。
むしろ、このままで平穏な教会生活を細々とでも送ることに、安住さえ感じていたかも知れません。
だからこそ、この国が今大きく変わろうとし、その選択が日々刻一刻と滅びに向かっているこの時に、目を覚ますよう私達は警告され、そのために悔い改め、とりなしを祈ったのです。
そして、その祈りを主は聞かれたのです。

もう時は動いています。
立ち上がって、主と共に進んでいきましょう。

【ヨハネ4:35-38】
あなたがたは、刈入れ時が来るまでには、まだ四か月あると、言っているではないか。しかし、わたしはあなたがたに言う。目をあげて畑を見なさい。はや色づいて刈入れを待っている。
刈る者は報酬を受けて、永遠の命に至る実を集めている。まく者も刈る者も、共々に喜ぶためである。
そこで、『ひとりがまき、ひとりが刈る』ということわざが、ほんとうのこととなる。
わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人々が労苦し、あなたがたは、彼らの労苦の実にあずかっているのである」。