はるかな約束を信じて

2014年08月20日 10:39

【創世記】
15:1 これらの事の後、主の言葉が幻のうちにアブラムに臨んだ、「アブラムよ恐れてはならない、わたしはあなたの盾である。あなたの受ける報いは、はなはだ大きいであろう」。
15:2 アブラムは言った、「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか」。
15:3 アブラムはまた言った、「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう」。
15:4 この時、主の言葉が彼に臨んだ、「この者はあなたのあとつぎとなるべきではありません。あなたの身から出る者があとつぎとなるべきです」。
15:5 そして主は彼を外に連れ出して言われた、「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみなさい」。また彼に言われた、「あなたの子孫はあのようになるでしょう」。
15:6 アブラムは主を信じた。主はこれを彼の義と認められた。

アブラハムは一人の小さな人でした。
ただ主からの約束だけを握りしめ、全く知らないまだ見ぬ地へ行くことに全てを捧げた(創世記12:1-4)人です。
誰が住み慣れた故郷を離れ、何の理由もわからず、見えない神の約束という、人の目や耳には見えない、不確かに見えるものだけを信じて、はるか離れた地に旅立つことができるでしょう。
そのためにどれほど多くのものを捨て、神だけを信じ、頼りとして生きたでしょうか?
しかし彼は私達と何ら変わりのない普通の人だったのです。
「主なる神よ、わたしには子がなく、わたしの家を継ぐ者はダマスコのエリエゼルであるのに、あなたはわたしに何をくださろうとするのですか(創世記15:2)」
「あなたはわたしに子を賜わらないので、わたしの家に生れたしもべが、あとつぎとなるでしょう(創世記15:3)」
この二つのアブラハムの言葉から、彼も一人の弱さを持つ人であることを伺い知ることができるでしょう。
確かにアブラハムは神を信じ、その約束だけを信じて、長い旅に出て、そして約束の地に着きました。
主はアブラハムを祝福され、多くの持ち物も得て、豊かで力のある民になっていきました。
しかし、彼はその約束、大いなる国民どころか、一人の子、跡継ぎすらいませんでした。だから彼にとっては何を持っていても、何も意味もないことに見えたのです。
だからロトが住む、ソドムとゴモラの地が襲われ、ロトとその財産が奪われたのを、アブラハムたちが戦い、全てを取り戻し、ソドムの王から何の報いも受けず、サレムの王メルキゼデクに全ての物の十分の一を捧げ、ただメルキゼデクから祝福を受けたにとどまった。
その報いを主が大きく報いようとされた事でさえも、(このメルキゼデクこそ主イエスの型である人物であり、このささげたささげ物と受けた祝福とがどれほど大きいものであったかということをアブラハムはどれほど知っていたかは不明ですが)彼には意味がなかった。
すべては全く他人のものとなってしまう。
主はそこで、再びアブラハムに大いなる約束を語られました。
ただひたすらに主を信じ、主を愛し生きようとするアブラハムを、主はこの上なく愛したから、主はその思いの如何に大きいかを語られた。
彼の子孫は星の如くに数えられないほど大きな民族となると。

アブラハムのしたことは、ただひたすら一身に主を信じたことでした。
主はこれを彼の義と認められたのです(創世記15:6)。
このとき、アブラハムの目には人としては何も見えていませんでした。
約束の地を全て得たわけでも、ただ一人の子でさえもいませんでした。
しかし、主の約束を、その約束を語られる主を信じたのです。
彼ははるかに見えないものを信仰の目によって見て、信じたのです。
それは主をひたすら信じることによって開かれる信仰の目。

【ヘブル11:1-3】
11:1 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。
11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

この目はアブラハムにのみ与えられているものではありません。
もしもあなたが主をただ一身に信じるのであれば、主が語られる約束をはるかかなたにあろうとも見て、今あるかのように確信することができるのです。
そして、そのことはアブラハムとその子孫との間に証しされているように、必ず成就するのです。
いや、図らずも選民イスラエルを通して世界中に現された救いの壮大な計画は、このアブラハムというごく普通の一人の人の、小さなしかしひたむきな主への信仰によって、現実のものとなっているのです。

【ヘブル】
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。

「私はある」という方を信じ、この方を求めるのであれば必ず報いて下さると信じる生き方に、主は私達の信仰を見、そしてその信仰を主はこの上なく喜ばれるのです。
だから、私達も生きる全ての道で主を認め、主をただ信じて、ゆだねて、すがって、主と共に歩いてまいりましょう。
はるかに広がる主の栄光の輝きを目指して。

※今日の引用箇所です。

【創世記12:1-4】
12:1 時に主はアブラムに言われた、「あなたは国を出て、親族に別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。
12:2 わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大きくしよう。あなたは祝福の基となるであろう。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地のすべてのやからは、あなたによって祝福される」。
12:4 アブラムは主が言われたようにいで立った。ロトも彼と共に行った。アブラムはハランを出たとき七十五歳であった。