まなTime
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御言葉に生きる
2014年08月06日 08:16
【詩篇119:111,112】
119:111 あなたのあかしはとこしえにわが嗣業です。まことに、そのあかしはわが心の喜びです。
119:112...
聖霊のバプテスマ
2014年08月05日 08:43
【使徒行伝19:1-6】
19:1 アポロがコリントにいた時、パウロは奥地をとおってエペソにきた。そして、ある弟子たちに出会って、
19:2 彼らに「あなたがたは、信仰にはいった時に、聖霊を受けたのか」と尋ねたところ、「いいえ、聖霊なるものがあることさえ、聞いたことがありません」と答えた。
19:3 「では、だれの名によってバプテスマを受けたのか」と彼がきくと、彼らは「ヨハネの名によるバプテスマを受けました」と答えた。
19:4...
心砕かれる
2014年08月01日 11:46
【詩篇34:18】
34:18...
主が居られる
2014年07月31日 10:48
【創世記】
28:16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。
私達はともすると、主がこの場所に、自分のすぐそばに居られるのに、気づかないときがあります。
私達自身の現状や問題、目に見える現実が厳しければ、なおさらそうでしょう。
心は不安で覆われ、自分の考え得る方法で、いかに現状から脱出するか、最善の問題打開策は何かと考えあぐねる。
そのとき、不安に心と共に、信仰も覆われ、信仰を働かすことができなくなる。だから、愛する主でさえ見えなくなってしまうときがあるのでしょう。
【マルコ6:48-51】
6:48...
主と心一つとする信仰
2014年07月30日 11:08
【マタイ12:1-8】
12:1 そのころ、ある安息日に、イエスは麦畑の中を通られた。すると弟子たちは、空腹であったので、穂を摘んで食べはじめた。
12:2 パリサイ人たちがこれを見て、イエスに言った、「ごらんなさい、あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています」。
12:3 そこでイエスは彼らに言われた、「あなたがたは、ダビデとその供の者たちとが飢えたとき、ダビデが何をしたか読んだことがないのか。
12:4 すなわち、神の家にはいって、祭司たちのほか、自分も供の者たちも食べてはならぬ供えのパンを食べたのである。
12:5...
進むべき時
2014年07月29日 11:36
【申命記1:6-8】
「われわれの神、主はホレブにおいて、われわれに言われた、『あなたがたはすでに久しく、この山にとどまっていたが、
身をめぐらして道に進み、アモリびとの山地に行き、その近隣のすべての所、アラバ、山地、低地、ネゲブ、海べ、カナンびとの地、またレバノンに行き、大川ユフラテにまで行きなさい。
見よ、わたしはこの地をあなたがたの前に置いた。この地にはいって、それを自分のものとしなさい。これは主が、あなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた所である』。
主は私達のとりなしを、流した汗を、涙を、決して見過ごしにされる方ではありません。
神の義の現れるとき
2014年07月28日 10:23
【ハバクク2:4】
見よ、その魂の正しくない者は衰える。しかし義人はその信仰によって生きる。
主の眼差しはこの地上の全てのものの上に注がれています。この方の目を盗み、隠れおおせることは何一つありません。
神から背ける今の時代では「主は見ない、ヤコブの神は悟らない(詩篇94:7)」と、悪人と同じ見解を一般のごく普通の人々が持ちます。
闇に隠れ主の目を盗み、自分が何をしているのか神にわかろうはずがないと、必要悪を正当な理由とし、悪いと知りながら罪を重ね、あるいはそれは法律、道徳でさえ罪と現されないものかも知れません。
いや、主の目を意識するどころか、神が存在することすら否定し、届くなら自らが
朽ちないものを見続ける
2014年07月25日 21:02
【1ペテロ1:23-25】
1:23 あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。
1:24 「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。
1:25...
主の救いを見よ
2014年07月24日 11:40
【出エジプト14:13,14】
モーセは民に言った、「あなたがたは恐れてはならない。かたく立って、主がきょう、あなたがたのためになされる救を見なさい。きょう、あなたがたはエジプトびとを見るが、もはや永久に、二度と彼らを見ないであろう。
主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」。
主が私達のために用意している計画は、私達の思考では到底及ばないような驚くべきものばかりです。
それは私達のために主が用意された圧倒的な愛に基づく計画であり、同時に主の圧倒的な栄光が現されるためのものです。
言い換えれば、主がご自身の愛する者のためにどれほど驚くべき御業をなされるのか、その絶
自信という名の高慢
2014年07月23日 11:44
【2サムエル24:18】
その日ガデはダビデのところにきて彼に言った、「上って行ってエブスびとアラウナの打ち場で主に祭壇を建てなさい」。
人はいつまで経っても自分の力に頼り、誇ります。
特に、自分に経験が豊かになり、自信がつき、自分の力でいろいろなことができるようになると、そのような人間の本質が見え隠れします。
しかし、これは神の前に何の意味もないことです。
全能なる方、絶大な力を持つ神の前にそれは塵のようなものに過ぎず、私達の力は自分の「髪の毛一すじさえ、白くも黒くもすることができない」微弱な存在です。
だからこそ、私達が神により頼まずに生きることのできる日など、ただの一日、いや一刻一