御言葉に親しむ

2014年07月16日 08:25

【詩篇119:14-16】
わたしは、もろもろのたからを喜ぶように、あなたのあかしの道を喜びます。
わたしは、あなたのさとしを思い、あなたの道に目をとめます。
わたしはあなたの定めを喜び、あなたのみ言葉を忘れません。

主の御言葉に親しむこと、これは命の言葉であるイエスキリストご自身を知り、交わることです。
多くの兄弟姉妹が御言葉を理解しようと学び、あるいは調べ、研究します。
そのことを否定はしません。
しかし、御言葉を知るには大原則があります。
聖書こそ神の御言葉であり、生ける御言葉(ロゴス)であられるキリストが文字として現されたものです。だからこの御言葉は私達の内に生きる聖霊によらなければ、何一つわからないということです。
つまりただ読解するように聖書を読んだとしても、そこでわかるのはただの律法としての規律であったり、道徳的な規範であったり、あるいは歴史書籍であったり、礼典のための参考書であったりするでしょう。
つまりは教会運営や信仰生活の手引書となることはあっても、それ以上のものにはなりません。
しかし、この御言葉は主イエスキリストであり、生きているのです。

【ヨハネ1:1-4,14】
初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
この言は初めに神と共にあった。
すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
 [中略]
そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。わたしたちはその栄光を見た。それは父のひとり子としての栄光であって、めぐみとまこととに満ちていた。

主イエスはこの地で涙を流され、憤り、また真理を語り、多くの人々と食事をし、交わり、父なる神に祈り、父に仕え、従い、十字架の道へと進まれました。
そこには知性も感情も意志もある。まさに人(「人の子」)であり、神(「神の御子」)でした。
つまり、主イエスはちゃんと、生きてパーソナリティー(「位格」)があり、私達はだからこそ、人と人が交わるように、主イエスと交わることができるのです。
この方は今も生きて私達の内に聖霊として住まわれ、また聖書を通して私達に語りかけられます。まさに今私達は生きておられる主と交わることがゆるされているのです。
これは驚くべきことです。
そこには愛が溢れ、命に満ち、生きて触れ交わるように主を知り、主ご自身の御心の奥深くを教えてくださる。そして主に愛をもって従うように、御言葉を喜び、御言葉を忘れず、御言葉に従い生きていく。主と私だけの、他の人では代わりになることのできない、深い交わりがそこに存在するのです。
もしそのように、つまりは主と愛にある深い交わりを持つように、御言葉を読み触れるのであれば、聖書は今までとは全く異なった命の光を放つでしょう。

今日も主イエスを愛し、御言葉と共に歩んでまいりましょう。