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永遠の内に望み見るもの

2015年06月30日 19:36

【2コリント4:18】
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。

多くの人々は目に見えることにのみ興味を持ちます。
それは信仰を持たずに生きる生き方と何ら変わりはありません。
信仰によって見えないものを見る目は開かれます。(ヘブル11:1,3)
永遠のものを見ることができるのは永遠の命を持つ者とされたからです。その人にはすでに永遠が始まっているのです。
聖書において、主の望まれる生き方をした人々の人生は、全てそのような側面を持っています。
逆に目に見えるものだけを追い求めた者達の歩みは、滅びに近づいて行く生き方と言うことができるでしょう。
たとえば、アブラハムは信仰の目によって約束の地を祝福と共に受け取りましたが、ロトは目に見える繁栄を見つめて罪が溢れたため滅ぼされたソドムとゴモラの地を受け取りました。(創世記13:10ー18)
ヤコブは神の祝福を重視し神からの特別な祝福を受ける長子の権を求めましたが、エサウはその長子の権を、目に見える食物を求めて、軽んじ失いました。(創世記25:29ー34)
サウルは人の目に映るものを気遣い目に見えない神の言葉を軽んじ王の座を失い(サムエル上15:17ー26)、ダビデは見えない神の約束を信じ王の座に着き続け、エルサレムに神の家を建てる礎を築きました。(歴代志上28:1-10)
この信仰の父と言われるアブラハムは信仰によって主の約束に歩み、見えない道を見えるように歩きました。
だからこそ、この祝福の道を歩む者達は同様に、主の備えられた道を歩む時、主の目に映るしかし人の目には見えない信仰の道を歩んで、主の約束を受け取るのです。(ヘブル11章)
それは主の目的が私達に神の国を継がせ(神の国に入らせ住まわらせ)るために他なりません。
しかしこの神の国は、朽ちるものが受け継ぐことはできないのです。

【1コリント15:50】
15:50 兄弟たちよ。わたしはこの事を言っておく。肉と血とは神の国を継ぐことができないし、朽ちるものは朽ちないものを継ぐことがない。

そして私達が、この目に見えるしかし朽ちて行くものから目を離すことができず、それに頼り続け求め続けて生きるのであれば、つまり私達の心が朽ちるものに奪われ続けるのであれば、その人は神の国に入ることはできない(ルカ18:24)のです。

あまりにも多くの兄弟姉妹が目に見えるものから心離せないまま、信仰の歩みを進めています。
それはまるで金持ちの青年の信仰が標準的な信仰のように騙されているかのようです。
目に見えるところでの信仰の行いはいくら整っていても、主に近づき従い行くことに対しては、目に見える失いたくないもののために距離を置く。
主から離れようとすれば神の国からも遠ざかると言う当たり前で厳粛な事実を思わず、やがて目に見える朽ち行くものだけでできている、この世の支配の中に埋もれ、世の人々と共に滅びに向かって行く。
目に見える豊かさが主の祝福の証しとして、神に安息するのでなく、世での豊かさの中に安息し(黙示録3:17)、またその中でさらに信仰の高みに登ろうとするのであれば、そこで見るものはサタンが主イエスに高い所で見せた景色に違いありません。(ルカ4:5-8)
ですが、そこは高い所ではありますが、天とは程遠い所であり、滅びに繋がる偽りの道でしかないのです。
どれほど多くの人々が偽りに流されても、偽られてはなりません。
しかし主は天に繋がる唯一の道を十字架と定めました。
どこを探しても決して他にはありません。
そしてそれは主イエスご自身が全てを捨ててご自分を無とした道(ピリピ2:5-11)であり、私達はそこを通ること無しに天に上ることはありません。(エペソ2:4-6)
それは人が死に行くときに何も携えて行くことができないのと同様(詩篇49:16-20)で、何かを携えてそこを通ろうとすることができないのです。
すでにこの十字架の上で死んだ者(ローマ6:3-13)がどうしてこの地に何かを持ち得ることができるでしょうか。いや死んだ者は何も持てません。
むしろそれは、自ら天に上ったものを引きずり落とすようなものです。
しかし、天をのみ望み見るのであれば、この地で得るものは全て添えて与えられるようなものであることを知りながら、この地には何一つ心残さず、天には豊かに宝を見ることができる(ルカ12:28-34)でしょう。

あなたには何が目に見えるでしょうか。
しかし私達が見えるものによって私達はさばかれます。(ヨハネ9:39-41)

心をこの地のものに残さず、私達が今信仰の内に望み住まうことのできる、永遠の天の住まいに心を置いて、永遠の思いの内にこの地を歩んで行きましょう。
その時私達は、やがて主が再びこの地に来られる時、栄光の内に主と共に現れる自らの姿を見ることでしょう。

【コロサイ3:1-11】
3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
3:2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3:3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
3:4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。
3:5 だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
3:6 これらのことのために、神の怒りが下るのである。
3:7 あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。
3:8 しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。
3:9 互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
3:10 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。
3:11 そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヘブル11:1-6】
11:1 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。
11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。
11:4 信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。神が、彼の供え物をよしとされたからである。彼は死んだが、信仰によって今もなお語っている。
11:5 信仰によって、エノクは死を見ないように天に移された。神がお移しになったので、彼は見えなくなった。彼が移される前に、神に喜ばれた者と、あかしされていたからである。
11:6 信仰がなくては、神に喜ばれることはできない。なぜなら、神に来る者は、神のいますことと、ご自身を求める者に報いて下さることとを、必ず信じるはずだからである。
※ヘブル11章の続きは聖書を開けて読んでみましょう。

【創世記13:10ー18】
13:10 ロトが目を上げてヨルダンの低地をあまねく見わたすと、主がソドムとゴモラを滅ぼされる前であったから、ゾアルまで主の園のように、またエジプトの地のように、すみずみまでよく潤っていた。
13:11 そこでロトはヨルダンの低地をことごとく選びとって東に移った。こうして彼らは互に別れた。
13:12 アブラムはカナンの地に住んだが、ロトは低地の町々に住み、天幕をソドムに移した。
13:13 ソドムの人々はわるく、主に対して、はなはだしい罪びとであった。
13:14 ロトがアブラムに別れた後に、主はアブラムに言われた、「目をあげてあなたのいる所から北、南、東、西を見わたしなさい。
13:15 すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。
13:16 わたしはあなたの子孫を地のちりのように多くします。もし人が地のちりを数えることができるなら、あなたの子孫も数えられることができましょう。
13:17 あなたは立って、その地をたてよこに行き巡りなさい。わたしはそれをあなたに与えます」。
13:18 アブラムは天幕を移してヘブロンにあるマムレのテレビンの木のかたわらに住み、その所で主に祭壇を築いた。

【創世記25:29ー34】
25:29 ある日ヤコブが、あつものを煮ていた時、エサウは飢え疲れて野から帰ってきた。
25:30 エサウはヤコブに言った、「わたしは飢え疲れた。お願いだ。赤いもの、その赤いものをわたしに食べさせてくれ」。彼が名をエドムと呼ばれたのはこのためである。
25:31 ヤコブは言った、「まずあなたの長子の特権をわたしに売りなさい」。
25:32 エサウは言った、「わたしは死にそうだ。長子の特権などわたしに何になろう」。
25:33 ヤコブはまた言った、「まずわたしに誓いなさい」。彼は誓って長子の特権をヤコブに売った。
25:34 そこでヤコブはパンとレンズ豆のあつものとをエサウに与えたので、彼は飲み食いして、立ち去った。このようにしてエサウは長子の特権を軽んじた。

【サムエル上15:17ー26】
15:17 サムエルは言った、「たとい、自分では小さいと思っても、あなたはイスラエルの諸部族の長ではありませんか。主はあなたに油を注いでイスラエルの王とされた。
15:18 そして主はあなたに使命を授け、つかわして言われた、『行って、罪びとなるアマレクびとを滅ぼし尽せ。彼らを皆殺しにするまで戦え』。
15:19 それであるのに、どうしてあなたは主の声に聞き従わないで、ぶんどり物にとびかかり、主の目の前に悪をおこなったのですか」。
15:20 サウルはサムエルに言った、「わたしは主の声に聞き従い、主がつかわされた使命を帯びて行き、アマレクの王アガグを連れてきて、アマレクびとを滅ぼし尽しました。
15:21 しかし民は滅ぼし尽すべきもののうち最も良いものを、ギルガルで、あなたの神、主にささげるため、ぶんどり物のうちから羊と牛を取りました」。
15:22 サムエルは言った、「主はそのみ言葉に聞き従う事を喜ばれるように、燔祭や犠牲を喜ばれるであろうか。見よ、従うことは犠牲にまさり、聞くことは雄羊の脂肪にまさる。
15:23 そむくことは占いの罪に等しく、強情は偶像礼拝の罪に等しいからである。あなたが主のことばを捨てたので、主もまたあなたを捨てて、王の位から退けられた」。
15:24 サウルはサムエルに言った、「わたしは主の命令とあなたの言葉にそむいて罪を犯しました。民を恐れて、その声に聞き従ったからです。
15:25 どうぞ、今わたしの罪をゆるし、わたしと一緒に帰って、主を拝ませてください」。
15:26 サムエルはサウルに言った、「あなたと一緒に帰りません。あなたが主の言葉を捨てたので、主もあなたを捨てて、イスラエルの王位から退けられたからです」。

【歴代志上28:1-10】
28:1 ダビデはイスラエルのすべての長官、すなわち部族の長、王に仕えた組の長、千人の長、百人の長、王とその子たちのすべての財産および家畜のつかさ、宦官、有力者、勇士などをことごとくエルサレムに召し集めた。
28:2 そしてダビデ王はその足で立ち上がって言った、「わが兄弟たち、わが民よ、わたしに聞きなさい。わたしは主の契約の箱のため、われわれの神の足台のために安住の家を建てようとの志をもち、すでにこれを建てる準備をした。
28:3 しかし神はわたしに言われた、『おまえはわが名のために家を建ててはならない。おまえは軍人であって、多くの血を流したからである』と。
28:4 それにもかかわらず、イスラエルの神、主はわたしの父の全家のうちからわたしを選んで長くイスラエルの王とせられた。すなわちユダを選んでかしらとし、ユダの家のうちで、わたしの父の家を選び、わたしの父の子らのうちで、わたしを喜び、全イスラエルの王とせられた。
28:5 そして主はわたしに多くの子を賜わり、そのすべての子らのうちからわが子ソロモンを選び、これを主の国の位にすわらせて、イスラエルを治めさせようとせられた。
28:6 主はまたわたしに言われた、『おまえの子ソロモンがわが家およびわが庭を造るであろう。わたしは彼を選んでわが子となしたからである。わたしは彼の父となる。
28:7 彼がもし今日のように、わが戒めとわがおきてを固く守って行うならば、わたしはその国をいつまでも堅くするであろう』と。
28:8 それゆえいま、主の会衆なる全イスラエルの目の前およびわれわれの神の聞かれる所であなたがたに勧める。あなたがたはその神、主のすべての戒めを守り、これを求めなさい。そうすればあなたがたはこの良き地を所有し、これをあなたがたの後の子孫に長く嗣業として伝えることができる。
28:9 わが子ソロモンよ、あなたの父の神を知り、全き心をもって喜び勇んで彼に仕えなさい。主はすべての心を探り、すべての思いを悟られるからである。あなたがもし彼を求めるならば会うことができる。しかしあなたがもしかれを捨てるならば彼は長くあなたを捨てられるであろう。
28:10 それであなたは慎みなさい。主はあなたを選んで聖所とすべき家を建てさせようとされるのだから心を強くしてこれを行いなさい」。

【ルカ18:18-30】
18:18 また、ある役人がイエスに尋ねた、「よき師よ、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。
18:19 イエスは言われた、「なぜわたしをよき者と言うのか。神ひとりのほかによい者はいない。
18:20 いましめはあなたの知っているとおりである、『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証を立てるな、父と母とを敬え』」。
18:21 すると彼は言った、「それらのことはみな、小さい時から守っております」。
18:22 イエスはこれを聞いて言われた、「あなたのする事がまだ一つ残っている。持っているものをみな売り払って、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
18:23 彼はこの言葉を聞いて非常に悲しんだ。大金持であったからである。
18:24 イエスは彼の様子を見て言われた、「財産のある者が神の国にはいるのはなんとむずかしいことであろう。
18:25 富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい」。
18:26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われることができるのですか」と尋ねると、
18:27 イエスは言われた、「人にはできない事も、神にはできる」。
18:28 ペテロが言った、「ごらんなさい、わたしたちは自分のものを捨てて、あなたに従いました」。
18:29 イエスは言われた、「よく聞いておくがよい。だれでも神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子を捨てた者は、
18:30 必ずこの時代ではその幾倍もを受け、また、きたるべき世では永遠の生命を受けるのである」。

【黙示録3:15-20】
3:15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
3:16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。
3:18 そこで、あなたに勧める。富む者となるために、わたしから火で精錬された金を買い、また、あなたの裸の恥をさらさないため身に着けるように、白い衣を買いなさい。また、見えるようになるため、目にぬる目薬を買いなさい。
3:19 すべてわたしの愛している者を、わたしはしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって悔い改めなさい。
3:20 見よ、わたしは戸の外に立って、たたいている。だれでもわたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしはその中にはいって彼と食を共にし、彼もまたわたしと食を共にするであろう。

【ルカ4:5-8】
4:5 それから、悪魔はイエスを高い所へ連れて行き、またたくまに世界のすべての国々を見せて
4:6 言った、「これらの国々の権威と栄華とをみんな、あなたにあげましょう。それらはわたしに任せられていて、だれでも好きな人にあげてよいのですから。
4:7 それで、もしあなたがわたしの前にひざまずくなら、これを全部あなたのものにしてあげましょう」。
4:8 イエスは答えて言われた、「『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。

【エペソ2:4-6】
2:4 しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、
2:5 罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし__あなたがたの救われたのは、恵みによるのである__
2:6 キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。

【ピリピ2:5-11(新改訳)】
2:5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
2:9 それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
2:10 それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
2:11 すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

【詩篇49:16-20】
49:16 人が富を得るときも、その家の栄えが増し加わるときも、恐れてはならない。
49:17 彼が死ぬときは何ひとつ携え行くことができず、その栄えも彼に従って下って行くことはないからである。
49:18 たとい彼が生きながらえる間、自分を幸福と思っても、またみずから幸な時に、人々から称賛されても、
49:19 彼はついにおのれの先祖の仲間に連なる。彼らは絶えて光を見ることがない。
49:20 人は栄華のうちに長くとどまることはできない。滅びうせる獣にひとしい。

【ローマ6:3-13】
6:3 それとも、あなたがたは知らないのか。キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである。
6:4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
6:5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
6:8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
6:9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
6:10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
6:11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。
6:12 だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、
6:13 また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。

【ルカ12:28-34】
12:28 きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる草でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたに、それ以上よくしてくださらないはずがあろうか。ああ、信仰の薄い者たちよ。
12:29 あなたがたも、何を食べ、何を飲もうかと、あくせくするな、また気を使うな。
12:30 これらのものは皆、この世の異邦人が切に求めているものである。あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要であることを、ご存じである。
12:31 ただ、御国を求めなさい。そうすれば、これらのものは添えて与えられるであろう。
12:32 恐れるな、小さい群れよ。御国を下さることは、あなたがたの父のみこころなのである。
12:33 自分の持ち物を売って、施しなさい。自分のために古びることのない財布をつくり、盗人も近寄らず、虫も食い破らない天に、尽きることのない宝をたくわえなさい。
12:34 あなたがたの宝のある所には、心もあるからである。

【ヨハネ9:39-41】
9:39 そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。
9:40 そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲なのでしょうか」。
9:41 イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。

救いの目的

2015年06月26日 21:10

【テトス3:3-7】
3:3 わたしたちも以前には、無分別で、不従順な、迷っていた者であって、さまざまの情欲と快楽との奴隷になり、悪意とねたみとで日を過ごし、人に憎まれ、互に憎み合っていた。
3:4 ところが、わたしたちの救主なる神の慈悲と博愛とが現れたとき、
3:5 わたしたちの行った義のわざによってではなく、ただ神のあわれみによって、再生の洗いを受け、聖霊により新たにされて、わたしたちは救われたのである。
3:6 この聖霊は、わたしたちの救主イエス・キリストをとおして、わたしたちの上に豊かに注がれた。
3:7 これは、わたしたちが、キリストの恵みによって義とされ、永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである。

パウロがテトスに宛てた短い手紙。
だからこそ、ここにはパウロの信仰に於ける重要とするところがまとめて語られていると言うことができるでしょう。
パウロはここに救いの御業は神からの一方的な愛(あわれみ)によるものであり、神の御怒りの裁きから救われ神の義により義とされるという圧倒的な恵みの御業であるということを。
救いは人間的な改心とは全く異なる神による新生であり、それは救主イエス・キリストにより、天より注がれた聖霊にあってなされた御業であることを。
そして何より、この聖霊が私達を、御国をつぐ者とするために注がれたものであり、私達を導くために永遠のいのちを望ませ続けさせるものであるということを語っています。
そうです。その目的は私達が御国をつぐことにあるのです。
多くのクリスチャンはこれを、死んでも滅びるのではなく、天国に行くことができるということのみの希望として理解しています。
しかし、御言葉はそれだけの意味とは異なります。「永遠のいのちを望むことによって、御国をつぐ者となるためである(7節)」と語っているのです。
永遠のいのちはすでに始まっています。私達が永遠の中に生きるのは私達がこの肉体を離れてからではなく、救われた今からなのです。

【エペソ1:13,14】
1:13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。

この保証という言葉は前金という意味を含み、受け継ぐべき神の国を、先行してその一部分を今受け取り、やがてその全てを受け取ることの約束を、前味わい(前金として)としてを受け取ることを意味します。
つまり、私達はこれを聖霊によって、天国の前味わいという形(エペソ1:13,14)で、祈りの中で、賛美の中で、礼拝の中で、神と交わるあらゆる時間の中で、過去現在未来と流れる時間の流れつまり時間軸を超えて、神の御国にある永遠の中に生き(詩篇84:10)神の国の一部分を受け取るのです。
永遠のいのちを望むということは、今永遠の中に生きると言うこと、
そして永遠の思いの内に、朽ちていくものにではなく永遠に朽ちることのない真に価値あるものを望んで生きることです。(ローマ8:23-25、2コリント4:16-5:5)
神は私達がすでにこの世のものではなくなり(ヨハネ15:19、ピリピ3:20)、この世の価値観では生きられないことを私達に教えて(マタイ9:16,17)下さっています。
では私達はどのように生きればよいというのでしょうか。
だからこそ、主は私達をひとりにしないと、主ご自身が私達の内に聖霊なる神として生きて下さり、永遠に至るまで私達を導いて下さる(ヨハネ14:16-27)のです。
そして主は真理を私達に教え、御言葉の内にとどまって、神の御心に従い生きる、神の国に生きる者としてのふさわしい生き方を私達に語って下さるのです。
こうして私達はその地上の歩みを終えるとき、神の国に生きるにふさわしい者へと成長し(2コリント3:16-18)、神の国をつぎ、天に凱旋するのです。
主は私達に理解を超えた圧倒的な恵みをこの永遠の中に与えて下さっています。
この地上での限られた時間は私達が永遠に生きる神の国に入るための成熟のために用意されたものです。
この地上に煩わされるための時間ではありません。
救われる以前の、世の人と何ら変わらないような、この地上での生き方を続けていると、つまりは世の思い煩い(マルコ4:19)に、あるいは世の誘惑(マルコ4:19)に、サタンの偽り(の言葉や教え)に(マルコ4:15)、自らの頑なさ(マルコ4:17)に、身をゆだね生き続けるのであれば、人生はあっと言う間に無駄に浪費され、何も成熟することなく、実ることなく、天に帰ることとなるでしょう。
そのとき私達に用意されたはずの天の永遠の恵みを得られなければ(1コリント3:10-15)、私達はそれこそ歯がみすることとなる(マタイ25:28-30)でしょう。
人生の目的を見誤ってはなりません。
これはとても重要なことです。
この地上で何かを得ても、永遠に過ごす神の国において何も得ないのあれば、私達は何のために救われてこの地上を歩んだというのでしょうか。

目を覚まして、信仰者としての本当の目的のために生きましょう。
聖霊はそのために今日もあなたを導きます。
聖霊に満たされ、聖霊の導きに従い、真に神の国をつぐ者となりましょう。

【ローマ8:14-18】
8:14 すべて神の御霊に導かれている者は、すなわち、神の子である。
8:15 あなたがたは再び恐れをいだかせる奴隷の霊を受けたのではなく、子たる身分を授ける霊を受けたのである。その霊によって、わたしたちは「アバ、父よ」と呼ぶのである。
8:16 御霊みずから、わたしたちの霊と共に、わたしたちが神の子であることをあかしして下さる。
8:17 もし子であれば、相続人でもある。神の相続人であって、キリストと栄光を共にするために苦難をも共にしている以上、キリストと共同の相続人なのである。
8:18 わたしは思う。今のこの時の苦しみは、やがてわたしたちに現されようとする栄光に比べると、言うに足りない。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【詩篇84:10】
84:10 あなたの大庭にいる一日は、よそにいる千日にもまさるのです。わたしは悪の天幕にいるよりは、むしろ、わが神の家の門守となることを願います。

【ローマ8:23-25】
8:23 それだけではなく、御霊の最初の実を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、からだのあがなわれることを待ち望んでいる。
8:24 わたしたちは、この望みによって救われているのである。しかし、目に見える望みは望みではない。なぜなら、現に見ている事を、どうして、なお望む人があろうか。
8:25 もし、わたしたちが見ないことを望むなら、わたしたちは忍耐して、それを待ち望むのである。

【2コリント4:16-5:5】
4:16 だから、わたしたちは落胆しない。たといわたしたちの外なる人は滅びても、内なる人は日ごとに新しくされていく。
4:17 なぜなら、このしばらくの軽い患難は働いて、永遠の重い栄光を、あふれるばかりにわたしたちに得させるからである。
4:18 わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。
5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。

【ピリピ3:20】
3:20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。

【ヨハネ15:19】
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。

【マタイ9:16,17】
9:16 だれも、真新しい布ぎれで、古い着物につぎを当てはしない。そのつぎきれは着物を引き破り、そして、破れがもっとひどくなるから。
9:17 だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。

【ヨハネ14:16-31】
14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
14:17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。
14:18 わたしはあなたがたを捨てて孤児とはしない。あなたがたのところに帰って来る。
14:19 もうしばらくしたら、世はもはやわたしを見なくなるだろう。しかし、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからである。
14:20 その日には、わたしはわたしの父におり、あなたがたはわたしにおり、また、わたしがあなたがたにおることが、わかるであろう。
14:21 わたしのいましめを心にいだいてこれを守る者は、わたしを愛する者である。わたしを愛する者は、わたしの父に愛されるであろう。わたしもその人を愛し、その人にわたし自身をあらわすであろう」。
14:22 イスカリオテでない方のユダがイエスに言った、「主よ、あなたご自身をわたしたちにあらわそうとして、世にはあらわそうとされないのはなぜですか」。
14:23 イエスは彼に答えて言われた、「もしだれでもわたしを愛するならば、わたしの言葉を守るであろう。そして、わたしの父はその人を愛し、また、わたしたちはその人のところに行って、その人と一緒に住むであろう。
14:24 わたしを愛さない者はわたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉は、わたしの言葉ではなく、わたしをつかわされた父の言葉である。
14:25 これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。
14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
14:27 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
14:28 『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。
14:29 今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。
14:30 わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。
14:31 しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう。

【2コリント3:16-18】
3:16 しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。
3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
3:18 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。

【マルコ4:14-20】
4:14 種まきは御言をまくのである。
4:15 道ばたに御言がまかれたとは、こういう人たちのことである。すなわち、御言を聞くと、すぐにサタンがきて、彼らの中にまかれた御言を、奪って行くのである。
4:16 同じように、石地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くと、すぐに喜んで受けるが、
4:17 自分の中に根がないので、しばらく続くだけである。そののち、御言のために困難や迫害が起ってくると、すぐつまずいてしまう。
4:18 また、いばらの中にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞くが、
4:19 世の心づかいと、富の惑わしと、その他いろいろな欲とがはいってきて、御言をふさぐので、実を結ばなくなる。
4:20 また、良い地にまかれたものとは、こういう人たちのことである。御言を聞いて受けいれ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶのである」。

【1コリント3:10-15】
3:10 神から賜わった恵みによって、わたしは熟練した建築師のように、土台をすえた。そして他の人がその上に家を建てるのである。しかし、どういうふうに建てるか、それぞれ気をつけるがよい。
3:11 なぜなら、すでにすえられている土台以外のものをすえることは、だれにもできない。そして、この土台はイエス・キリストである。
3:12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、または、わらを用いて建てるならば、
3:13 それぞれの仕事は、はっきりとわかってくる。すなわち、かの日は火の中に現れて、それを明らかにし、またその火は、それぞれの仕事がどんなものであるかを、ためすであろう。
3:14 もしある人の建てた仕事がそのまま残れば、その人は報酬を受けるが、
3:15 その仕事が焼けてしまえば、損失を被るであろう。しかし彼自身は、火の中をくぐってきた者のようにではあるが、救われるであろう。

【マタイ25:28-30】
25:28 さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。
25:29 おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。
25:30 この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。

主が戦われる時

2015年06月25日 21:00

【使徒行伝5:17-32】
5:17 そこで、大祭司とその仲間の者、すなわち、サドカイ派の人たちが、みな嫉妬の念に満たされて立ちあがり、
5:18 使徒たちに手をかけて捕え、公共の留置場に入れた。
5:19 ところが夜、主の使が獄の戸を開き、彼らを連れ出して言った、
5:20 「さあ行きなさい。そして、宮の庭に立ち、この命の言葉を漏れなく、人々に語りなさい」。
5:21 彼らはこれを聞き、夜明けごろ宮にはいって教えはじめた。一方では、大祭司とその仲間の者とが、集まってきて、議会とイスラエル人の長老一同とを召集し、使徒たちを引き出してこさせるために、人を獄につかわした。
5:22 そこで、下役どもが行って見ると、使徒たちが獄にいないので、引き返して報告した、
5:23 「獄には、しっかりと錠がかけてあり、戸口には、番人が立っていました。ところが、あけて見たら、中にはだれもいませんでした」。
5:24 宮守がしらと祭司長たちとは、この報告を聞いて、これは、いったい、どんな事になるのだろうと、あわて惑っていた。
5:25 そこへ、ある人がきて知らせた、「行ってごらんなさい。あなたがたが獄に入れたあの人たちが、宮の庭に立って、民衆を教えています」。
5:26 そこで宮守がしらが、下役どもと一緒に出かけて行って、使徒たちを連れてきた。しかし、人々に石で打ち殺されるのを恐れて、手荒なことはせず、
5:27 彼らを連れてきて、議会の中に立たせた。すると、大祭司が問うて
5:28 言った、「あの名を使って教えてはならないと、きびしく命じておいたではないか。それだのに、なんという事だ。エルサレム中にあなたがたの教を、はんらんさせている。あなたがたは確かに、あの人の血の責任をわたしたちに負わせようと、たくらんでいるのだ」。
5:29 これに対して、ペテロをはじめ使徒たちは言った、「人間に従うよりは、神に従うべきである。
5:30 わたしたちの先祖の神は、あなたがたが木にかけて殺したイエスをよみがえらせ、
5:31 そして、イスラエルを悔い改めさせてこれに罪のゆるしを与えるために、このイエスを導き手とし救主として、ご自身の右に上げられたのである。
5:32 わたしたちはこれらの事の証人である。神がご自身に従う者に賜わった聖霊もまた、その証人である」。

主はご自身のご計画を私達クリスチャンに託されました。
この地上を歩まれた主イエスは天に上られ、今は私達に、この地上を主イエスが歩まれたように歩み、ご自身の御心を成すことを、託されたのです。
主ご自身が十字架の上で神を満足させる最上のささげ物をささげたように、私達の人生そのものも神への最上のささげ物をささげるためにあり、その十字架への御足の跡(1ペテロ2:21-25)をたどるように私達はこの地上を歩むのです。
しかし私達が遣わされた地上(この世)はサタンの支配に落ちている(エペソ2:2)ため、神に逆らう世の人々は私達を憎み(ヨハネ15:18-25)、私達に逆らい、私達は苦しむこともある(ヨハネ16:33)でしょう。
まさに今日の聖書の箇所がそうであるように、御言葉を語り出す時はもちろんですが、私達が社会に関わるそれだけで摩擦が生じ、私達は望まなくとも霊的な戦い(エペソ6:12)の中に入れられてしまうのです。
ですが、主はそのように主の御心に従いご計画を進めようとこの地上を歩む者を、絶対的に守られます。
主ご自身が私達に敵する者達と戦い(ローマ8:31、イザヤ41:10-13)、御使を送ってでも私達をあらゆる困難から助け出される(詩篇91:9ー11)のです。

さらに付け加えるのであれば、この使徒達を迫害したのは神の言葉をゆだねられ全世界を神の下に立ち返らせるために選ばれた選民イスラエルでした。
彼らは、自らの満足を求めるがゆえに、神の御心を成すという本来の目的を見失い、彼らが待ち望んでいた救い主を自らの手で殺し(マタイ21:33-44)、なおかつその救いの訪れを伝え続けた使徒達をも迫害し続けたのです。
同様に自らの満足を目的とし、神の御心を成すことこそが教会の本来の目的であることを忘れる者達は、神の計画を進める者達に逆らうでしょう。
神の思いは人の肉の思いと異なる(ローマ8:5-8)からこそ、彼らは自らに不都合を生じさせる、神の計画を止めようと、主イエスをこの地上から取り除こうとしたように、迫害の手を伸ばしてくる(2テモテ3:1ー9、マタイ24:4ー14)ことでしょう。
もちろん神はそのように神の目的を見失い、迫害者となった者とも戦われますから、私達は恐れることはありません。
いやむしろ、私達自身がそのような者とならないよう、自らの生きる目的が神の満足を求めるのか、自らの満足を求めているのかを、注意して吟味する必要があるでしょう。
もしも、自らを守るために兄弟姉妹を迫害し苦しめるような者となるのであれば、神が敵となるという恐ろしい立場に立つのだと言うことを肝に銘じ、またこの事実に恐れる心がどこかにあるのであれば、それはすでに神に敵する自らを王とする場所に自分が立っているのだということを自覚して、神に立ち返り、悔い改めて、神の御心を成す聖徒として、新しくされることを願いましょう。

【黙示録22:10-16】
22:10 またわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。
22:11 不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを行うままにさせよ」。
22:12 「見よ、わたしはすぐに来る。報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて報いよう。
22:13 わたしはアルパであり、オメガである。最初の者であり、最後の者である。初めであり、終りである。
22:14 いのちの木にあずかる特権を与えられ、また門をとおって都にはいるために、自分の着物を洗う者たちは、さいわいである。
22:15 犬ども、まじないをする者、姦淫を行う者、人殺し、偶像を拝む者、また、偽りを好みかつこれを行う者はみな、外に出されている。
22:16 わたしイエスは、使をつかわして、諸教会のために、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしは、ダビデの若枝また子孫であり、輝く明けの明星である」。

時代は終わり時に向けて日々深まっています。
私達が主にあっていかに生きているかということを、真剣に問うべき時が来ています。
目を覚まし、主の聖徒としてしっかりと歩みを定めましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【1ペテロ2:21-25】
2:21 あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。
2:22 キリストは罪を犯さず、その口には偽りがなかった。
2:23 ののしられても、ののしりかえさず、苦しめられても、おびやかすことをせず、正しいさばきをするかたに、いっさいをゆだねておられた。
2:24 さらに、わたしたちが罪に死に、義に生きるために、十字架にかかって、わたしたちの罪をご自分の身に負われた。その傷によって、あなたがたは、いやされたのである。
2:25 あなたがたは、羊のようにさ迷っていたが、今は、たましいの牧者であり監督であるかたのもとに、たち帰ったのである。

【エペソ2:1-3】
2:1 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、
2:2 かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。
2:3 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。

【ヨハネ15:18-25】
15:18 もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知っておくがよい。
15:19 もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたがたを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえって、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである。だから、この世はあなたがたを憎むのである。
15:20 わたしがあなたがたに『僕はその主人にまさるものではない』と言ったことを、おぼえていなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害するであろう。また、もし彼らがわたしの言葉を守っていたなら、あなたがたの言葉をも守るであろう。
15:21 彼らはわたしの名のゆえに、あなたがたに対してすべてそれらのことをするであろう。それは、わたしをつかわされたかたを彼らが知らないからである。
15:22 もしわたしがきて彼らに語らなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし今となっては、彼らには、その罪について言いのがれる道がない。
15:23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎む。
15:24 もし、ほかのだれもがしなかったようなわざを、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし事実、彼らはわたしとわたしの父とを見て、憎んだのである。
15:25 それは、『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と書いてある彼らの律法の言葉が成就するためである。

【ヨハネ16:33】
16:33 これらのことをあなたがたに話したのは、わたしにあって平安を得るためである。あなたがたは、この世ではなやみがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」。

【エペソ6:12】
6:12 わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。

【ローマ8:31】
8:31 それでは、これらの事について、なんと言おうか。もし、神がわたしたちの味方であるなら、だれがわたしたちに敵し得ようか。

【イザヤ41:10-13】
41:10 恐れてはならない、わたしはあなたと共にいる。驚いてはならない、わたしはあなたの神である。わたしはあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたをささえる。
41:11 見よ、あなたにむかって怒る者はみな、はじて、あわてふためき、あなたと争う者は滅びて無に帰する。
41:12 あなたは、あなたと争う者を尋ねても見いださず、あなたと戦う者は全く消えうせる。
41:13 あなたの神、主なるわたしはあなたの右の手をとってあなたに言う、「恐れてはならない、わたしはあなたを助ける」。

【詩篇91:9ー11】
91:9 あなたは主を避け所とし、いと高き者をすまいとしたので、
91:10 災はあなたに臨まず、悩みはあなたの天幕に近づくことはない。
91:11 これは主があなたのために天使たちに命じて、あなたの歩むすべての道であなたを守らせられるからである。

【マタイ21:33-44】
21:33 もう一つの譬を聞きなさい。ある所に、ひとりの家の主人がいたが、ぶどう園を造り、かきをめぐらし、その中に酒ぶねの穴を掘り、やぐらを立て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
21:34 収穫の季節がきたので、その分け前を受け取ろうとして、僕たちを農夫のところへ送った。
21:35 すると、農夫たちは、その僕たちをつかまえて、ひとりを袋だたきにし、ひとりを殺し、もうひとりを石で打ち殺した。
21:36 また別に、前よりも多くの僕たちを送ったが、彼らをも同じようにあしらった。
21:37 しかし、最後に、わたしの子は敬ってくれるだろうと思って、主人はその子を彼らの所につかわした。
21:38 すると農夫たちは、その子を見て互に言った、『あれはあと取りだ。さあ、これを殺して、その財産を手に入れよう』。
21:39 そして彼をつかまえて、ぶどう園の外に引き出して殺した。
21:40 このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫たちをどうするだろうか」。
21:41 彼らはイエスに言った、「悪人どもを、皆殺しにして、季節ごとに収穫を納めるほかの農夫たちに、そのぶどう園を貸し与えるでしょう」。
21:42 イエスは彼らに言われた、「あなたがたは、聖書でまだ読んだことがないのか、『家造りらの捨てた石が隅のかしら石になった。これは主がなされたことで、わたしたちの目には不思議に見える』。
21:43 それだから、あなたがたに言うが、神の国はあなたがたから取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような異邦人に与えられるであろう。
21:44 またその石の上に落ちる者は打ち砕かれ、それがだれかの上に落ちかかるなら、その人はこなみじんにされるであろう」。

【ローマ8:5-8】
8:5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
8:6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
8:8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。

【2テモテ3:1ー9】
3:1 しかし、このことは知っておかねばならない。終りの時には、苦難の時代が来る。
3:2 その時、人々は自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、神をそしる者、親に逆らう者、恩を知らぬ者、神聖を汚す者、
3:3 無情な者、融和しない者、そしる者、無節制な者、粗暴な者、善を好まない者、
3:4 裏切り者、乱暴者、高言をする者、神よりも快楽を愛する者、
3:5 信心深い様子をしながらその実を捨てる者となるであろう。こうした人々を避けなさい。
3:6 彼らの中には、人の家にもぐり込み、そして、さまざまの欲に心を奪われて、多くの罪を積み重ねている愚かな女どもを、とりこにしている者がある。
3:7 彼女たちは、常に学んではいるが、いつになっても真理の知識に達することができない。
3:8 ちょうど、ヤンネとヤンブレとがモーセに逆らったように、こうした人々も真理に逆らうのである。彼らは知性の腐った、信仰の失格者である。
3:9 しかし、彼らはそのまま進んでいけるはずがない。彼らの愚かさは、あのふたりの場合と同じように、多くの人に知れて来るであろう。

【マタイ24:4ー14】
24:4 そこでイエスは答えて言われた、「人に惑わされないように気をつけなさい。
24:5 多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がキリストだと言って、多くの人を惑わすであろう。
24:6 また、戦争と戦争のうわさとを聞くであろう。注意していなさい、あわててはいけない。それは起らねばならないが、まだ終りではない。
24:7 民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに、ききんが起り、また地震があるであろう。
24:8 しかし、すべてこれらは産みの苦しみの初めである。
24:9 そのとき人々は、あなたがたを苦しみにあわせ、また殺すであろう。またあなたがたは、わたしの名のゆえにすべての民に憎まれるであろう。
24:10 そのとき、多くの人がつまずき、また互に裏切り、憎み合うであろう。
24:11 また多くのにせ預言者が起って、多くの人を惑わすであろう。
24:12 また不法がはびこるので、多くの人の愛が冷えるであろう。
24:13 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。
24:14 そしてこの御国の福音は、すべての民に対してあかしをするために、全世界に宣べ伝えられるであろう。そしてそれから最後が来るのである。

人生の中心に居られる神

2015年06月19日 17:16

【伝道者12:1,2,8,13,14】
12:1 あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、「わたしにはなんの楽しみもない」と言うようにならない前に、
12:2 また日や光や、月や星の暗くならない前に、雨の後にまた雲が帰らないうちに、そのようにせよ。
 [中略]
12:8 伝道者は言う、「空の空、いっさいは空である」と。
 [中略]
12:13 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。
12:14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

私達の人生はその時間に流されるままに生きるのであれば、それはあっと言う間に一年一年が過ぎ、気がつけば、長い時間が無駄に過ぎ去って行きます。
大切な何かがあることに気づいていながら、それに向き合うことなく、むしろ目の前にあることにのみ心を向けて生きること。
目の前にある一つ一つのことは確かに意味があり、日々の生活を生きて行くという意味においては、重要に思えるかも知れません。
いや、生きることに恐れ、将来に苦しみ、日々のことに心奪われ、忙殺されている毎日の中では、もう日々を何事もなく過ごして行くことだけにやっとという状態かも知れません。
しかし気がつけば、無意味に時間だけが経過し、年老いて行く。
そんな現実に「悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に、(1節)」と警告をしています。
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。(1節)」と。

人の目にどれほど人生が充実しているように思えても、やがてそれは一時のものであり、神にない全てのことは「空の空、いっさいは空である(8節)」と空しく全てがただ過ぎ去って行くに過ぎないということがわかるでしょう。
それはただ一つ私達の人生は神の御手の中にあるということを見過ごしているからなのです。

【伝道者12:13,14】
12:13 事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。
12:14 神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである。

天地万物は主の御手によって造られ、だからこそ万物はこの主がさばかれる内に統べ治められ保たれています。
このさばきは神に近づき、神を愛し、神の御心に従う者には祝福であり恵みです。
しかし、神に背を向け、自らを愛し、自らの思いに従い、神に逆らう者には、のろいであり滅びなのです。
そのことを知る者は神を恐れ、神の御心を歩み(御言葉つまり命令を守り)ます。
そして、それこそが神にあってすべての被造物の本来の生きるべき姿であり、「すべての人の本分である(13節)」のです。
逆に言えばそれを掛け違え、自らの思いと力で、本来生きるべき道つまり神のご計画の中で最善に用意されている道をかけ離れて生きる者は、どれほど自ら満足するように生きたと思えても、その行く先は全てが掛け違えであり、全てが空しいという結論しか存在していないのです。
このことは神を知らない者にとっては言わずもがなですが、クリスチャンにとっても、神を真に恐れることを知らず、自らの道を歩み進めるのなら、その結論は例外なくこのように空しいものとなるのです。
だから、聖書は語ります。
「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に」と。

さあ、自らの歩みをもう一度見つめ、主を恐れて、私達の造り主をしっかりと覚えましょう。
私達を中心に私達の人生が回っているのではなく、私達を造られたこの造り主を中心に私達の人生は回っているのですから。

【ローマ14:7-9】
14:7 すなわち、わたしたちのうち、だれひとり自分のために生きる者はなく、だれひとり自分のために死ぬ者はない。
14:8 わたしたちは、生きるのも主のために生き、死ぬのも主のために死ぬ。だから、生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のものなのである。
14:9 なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。

御言葉の道を歩む

2015年06月17日 20:11

【詩篇119:25-32】
119:25 わが魂はちりについています。み言葉に従って、わたしを生き返らせてください。
119:26 わたしが自分の歩んだ道を語ったとき、あなたはわたしに答えられました。あなたの定めをわたしに教えてください。
119:27 あなたのさとしの道をわたしにわきまえさせてください。わたしはあなたのくすしきみわざを深く思います。
119:28 わが魂は悲しみによって溶け去ります。み言葉に従って、わたしを強くしてください。
119:29 偽りの道をわたしから遠ざけ、あなたのおきてをねんごろに教えてください。
119:30 わたしは真実の道を選び、あなたのおきてをわたしの前に置きました。
119:31 主よ、わたしはあなたのあかしに堅く従っています。願わくは、わたしをはずかしめないでください。
119:32 あなたがわたしの心を広くされるとき、わたしはあなたの戒めの道を走ります。
※定め、さとし、おきて、あかし、戒めは主の御言葉を示す言葉であり、御言葉のあらゆる側面での現れ方を、言葉を変えて表現されているものと言えるでしょう。

私達はこの世において容易に気落ちし、心の苦しみの中で心があたかも死んでしまうかのような葛藤を経験することがあります。
この世の言葉、この世の基準。この世に生きる私達を取り巻く環境は、そのようなものを中心に回る世界であり、またそれを基に生きる世の人々から受ける言動に大きく影響を受け、あるいは傷つけられ、苦しめられ、悩まされ、辱められ、痛みを負います。
心はひどく落ち込み、生きていることでさえ、地を這うような苦しみにのた打つことがあります。
しかし、そのような中にあっても、主の御言葉は私達を「生き返らせてください(25節)」ます。
主は御言葉を通して私達に親しく語り、慰め、知恵を与え、教えさとし、主の御業のくすしく大いなることを教えて、私達の魂をよみがえらせ、再び立たせてくださいます。
どれほどの深い悲しみが私達の心を浸しても、天地万物を創造された主の御言葉は、いかなる絶望からも神にある真の希望を与え(2コリント4:6)、あらゆる傷を癒し(イザヤ53:4,5)、溢れる主の愛の言葉の内(1コリント1:18)に、私達を「強くしてください(28節)」ます。
世の人々は神の言葉を信じず、世の常識や自らの経験則、見聞きして蓄積した知恵、知識を元に生きますから、それが正しいか誤っているかなど知る由もなく、自らの基準で考え出した道を歩みますが、それは神から聞かず神から離れて見出した道である以上、必ず偽りの道であるのです。
さらにはクリスチャンでさえ、この世の言葉の影響を受け、知らぬ内に神の言葉にない偽りを受け入れ、偽りの道を心の内に作り上げようとしてしまうのです。
しかし、主の御言葉は常に正しき道を光り照らす(詩篇119:105)真理であり、私達を迷わす「偽りの道(29節)」から私達の足を遠ざけ、掛け違えることなく、主の御心の道、正しき道を選ばせ、進ませてくださるのです。
私達は、野放図に生来の思いのまま(肉)に生きようとすることをつい求める、とても小さく、自己中心的で、罪に満ち、滅びに向かうようなものです。
そうした意味で、主の御言葉に従い生きることは、私達にとっては、一見窮屈で喜ばしく思えない道に思えるかも知れません。
けれども、御言葉に生きる道は自ら(肉)の思いに従い罪を犯し続けて、私達を罪の奴隷とする道から解放し、完全に自由とする(ヨハネ8:32)道なのです。

あるいは常識や知識、経験をはるかに超えて大きく高く広い神の御心の前には、御言葉(神の言葉)に従う歩みはクレイジーに見え、とても従うには値しない道に見えるかも知れません。
しかし、だからこそ、この御言葉に従うことは、聖書に語られていることをそのままに体験する、ダイナミックな、人知を超え、全てを超越した道を、主と共に歩むこととなるのです。

それゆえ、私達は主の御言葉に従う時、「心を広くされる(32節)」のであり、またこの御言葉に心を広くされる(列王記上4:29)からこそ、御言葉に従う道を歩むことができるのです。

私達は世の言葉で考え過ぎています。
神の御言葉の視点で物事を見、御言葉を基に考え、御言葉に聞き、御言葉に従い生きる必要があります。
全てのものが御言葉によってでき、この御言葉に基づく信仰に全世界は従うからです。(ヘブル11:1-3,マルコ11:22-24)

「あなたの定めをわたしに教えてください。
あなたのさとしの道をわたしにわきまえさせてください。(26,27節)」
と主に願い、主の御言葉を心底渇き求め、主の御言葉に親しみ、読み続け、主に教えられ続け、語られ続けること、そしてそれに従い生き続けることが、どれほど遠回りに見えても、信仰者として歩むべき道を進むための正しい道、回り道をしない早道と言うことができるでしょう。

それではさあ、今日から聖書を開き、祈り求めて、さらに聖書に親しむ歩みを始めましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【2コリント4:6】
4:6 「やみの中から光が照りいでよ」と仰せになった神は、キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、わたしたちの心を照して下さったのである。

【イザヤ53:4,5】
53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。

【1コリント1:18,23-25】
1:18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
 [中略]
1:23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
1:24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

【詩篇119:105,106】
119:105 あなたのみ言葉はわが足のともしび、わが道の光です。
119:106 わたしはあなたの正しいおきてを守ることを誓い、かつこれを実行しました。

【ヨハネ8:31-36】
8:31 イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
8:32 また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」。
8:33 そこで、彼らはイエスに言った、「わたしたちはアブラハムの子孫であって、人の奴隷になったことなどは、一度もない。どうして、あなたがたに自由を得させるであろうと、言われるのか」。
8:34 イエスは彼らに答えられた、「よくよくあなたがたに言っておく。すべて罪を犯す者は罪の奴隷である。
8:35 そして、奴隷はいつまでも家にいる者ではない。しかし、子はいつまでもいる。
8:36 だから、もし子があなたがたに自由を得させるならば、あなたがたは、ほんとうに自由な者となるのである。

【列王記上4:29】
4:29 神はソロモンに非常に多くの知恵と悟りを授け、また海べの砂原のように広い心を授けられた。

【ヘブル11:1-3】
11:1 さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。
11:2 昔の人たちは、この信仰のゆえに賞賛された。
11:3 信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られたのであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。

【マルコ11:22-24】
11:22 イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。
11:23 よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。
11:24 そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。

聖なる約束の地

2015年06月12日 11:56

【申命記4:21-31】
4:21 ところで主はあなたがたのゆえに、わたしを怒り、わたしがヨルダンを渡って行くことができないことと、あなたの神、主が嗣業としてあなたに賜わる良い地にはいることができないこととを誓われた。
4:22 わたしはこの地で死ぬ。ヨルダンを渡って行くことはできない。しかしあなたがたは渡って行って、あの良い地を獲るであろう。
4:23 あなたがたは慎み、あなたがたの神、主があなたがたと結ばれた契約を忘れて、あなたの神、主が禁じられたどんな形の刻んだ像をも造ってはならない。
4:24 あなたの神、主は焼きつくす火、ねたむ神である。
4:25 あなたがたが子を生み、孫を得、長くその地におるうちに、道を誤って、すべて何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪をなして、その憤りを引き起すことがあれば、
4:26 わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対してあかしとする。あなたがたはヨルダンを渡って行って獲る地から、たちまち全滅するであろう。あなたがたはその所で長く命を保つことができず、全く滅ぼされるであろう。
4:27 主はあなたがたを国々に散らされるであろう。そして主があなたがたを追いやられる国民のうちに、あなたがたの残る者の数は少ないであろう。
4:28 その所であなたがたは人が手で作った、見ることも、聞くことも、食べることも、かぐこともない木や石の神々に仕えるであろう。
4:29 しかし、その所からあなたの神、主を求め、もし心をつくし、精神をつくして、主を求めるならば、あなたは主に会うであろう。
4:30 後の日になって、あなたがなやみにあい、これらのすべての事が、あなたに臨むとき、もしあなたの神、主に立ち帰ってその声に聞きしたがうならば、
4:31 あなたの神、主はいつくしみの深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、またあなたの先祖に誓った契約を忘れられないであろう。

このヨルダン川の向こう側こそ神の約束の地です。
私達においては神の御国を継ぐ約束をいただいていますから、この約束の地に入るということは神の御国に入るということを意味すると言うことができるでしょう。

律法は私達を義とすることはできません。
律法は私達を義とし、約束の地、神の御国に導き入れることはできず、主イエスの十字架による神の義のみが主イエスを信じる私達を義とし、神の御国へと私達を入らせるのです。

【ローマ3:20-26】
3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
3:21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
3:22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
3:23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
3:24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
3:25 神はこのキリストを立てて、その血による、信仰をもって受くべきあがないの供え物とされた。それは神の義を示すためであった。すなわち、今までに犯された罪を、神は忍耐をもって見のがしておられたが、
3:26 それは、今の時に、神の義を示すためであった。こうして、神みずからが義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである。

つまりこの律法に仕えたモーセは、ですから約束の地にイスラエルを導くことができませんでした。
その後のヨシュア(ヘブル語)つまりイエス(ギリシャ語)でなければ、約束の地に入らせることはできないのです。
※ヘブル語読みのヨシュアはギリシャ語読みに訳するとイエスになります。

しかし、今回はモーセがヨルダン川の向こうの約束の地に入ることのできなかったもう一つの理由に目を向けてみましょう。

【民数記20:7-12】
20:7 主はモーセに言われた、
20:8 「あなたは、つえをとり、あなたの兄弟アロンと共に会衆を集め、その目の前で岩に命じて水を出させなさい。こうしてあなたは彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませなさい」。
20:9 モーセは命じられたように主の前にあるつえを取った。
20:10 モーセはアロンと共に会衆を岩の前に集めて彼らに言った、「そむく人たちよ、聞きなさい。われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか」。
20:11 モーセは手をあげ、つえで岩を二度打つと、水がたくさんわき出たので、会衆とその家畜はともに飲んだ。
20:12 そのとき主はモーセとアロンに言われた、「あなたがたはわたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができないであろう」。
20:13 これがメリバの水であって、イスラエルの人々はここで主と争ったが、主は自分の聖なることを彼らのうちに現された。

モーセはメリバの水の出来事において、主から命じられた言葉に従うことなく、かつて杖で岩を割り水をわき出させたという経験則(出エジプト17:5-7)から、同じ事を行いました。
それは主の言葉を信じず、自らの経験を信じたためであり、そのゆえに「わたしを信じないで、イスラエルの人々の前にわたしの聖なることを現さなかった(12節)」と言われ、約束の地に入ることができなかったのです。 

【詩篇106:32,33】
106:32 彼らはまたメリバの水のほとりで主を怒らせたので、モーセは彼らのために災にあった。
106:33 これは彼らが神の霊にそむいたとき、彼がそのくちびるで軽率なことを言ったからである。

さらに聖書はモーセの言った言葉にも目を向けています。それは小さな言葉に見えて神の聖なることを現さない決定的な言葉です。
「われわれがあなたがたのためにこの岩から水を出さなければならないのであろうか(民数記20:10)」
つまり、神の力による神の御業ではなく、「われわれが」と自らの力によって業を成すかのように言葉を出してしまったのです。
この瞬間モーセは神の栄光を自らのものとし、神はご自身の聖なることを、彼を通しては現すことができなくなってしまったのです。

モーセの小さく見えるこの神の聖なることを現さなかったという一つのことが約束の地に入らせることをゆるさなかったのは、約束の地に入った、後の時代のイスラエルへの主からの預言によって知ることができます。
今日の聖句の後半(申命記4:23-31)がそれに当たる部分です
この後約束の地に入ったイスラエルはやがて神の聖なることを忘れ、長くその地におるうちに、道を誤って、自らの力で、自らの栄光を求めて、自らのために生き、それが偶像礼拝となって、神以外の自らの祭壇を建てることとなります。
そうして約束の地に入ったはずの民が神の聖なる民となるどころか、神から全く離れて、主にねたみを起こさせ、主の目の前に悪をなして、憤りを引き起すようになります。
そうです。だからこそこのイスラエルを新しい地に導き入れる者は、徹底的に神の聖なることを現すために最も謙遜な者でなければならなかったのです。

【民数記12:3(新改訳)】
12:3 さて、 モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。

今私達は神の御国を継ぐ約束を主からいただいていながら、しかしこの内に住まう聖霊によって神の御国の中に突入しているという事ができます。

【ルカ16:16】
16:16 律法と預言者とはヨハネの時までのものである。それ以来、神の国が宣べ伝えられ、人々は皆これに突入している。

そういう意味において、私達はまだ約束の地、天の御国に完全に入り、そこに生きているわけではありません。
しかし私達は天に国籍を持ち(ピリピ3:20)、聖霊によって神の御国に先行して入り、その前味を先行してこの地上で受け取っている者(エペソ1:13,14)です。
そしてこの私達に先行して与えられている神の御国をこの地に顕現する者としてこの地に遣わされ(ヨハネ20:21-23)、そのことによってこの地を神の下に勝ち取る者、神の御国の現れをまたその神の統治をこの地に拡大して行く者とされているのです。
そうした意味においては、ヨルダン川の向こうの地を、神は勝ち取るよう語られている(申命記4:22)ところからも、今私達が歩んでいる、信仰によって世を神の下に勝ち取っていく、主に遣わされた者としてのクリスチャンの歩みの地ということができるでしょう。
しかし、ここで重要なのはこの地は神の聖なることを現すための地であり、モーセでさえ、その聖なることを現さなかった者は入ることをゆるされなかった地であるということです。
そして、それほどの厳粛な事実を受け止めて歩むのでなければ、私達はこの祝福に満ちた約束の地を、やがて神を退け、自らの祭壇を設けて、自らの手で祝福をのろいに変え、滅びへの道を歩む者となるということなのです。
今私達のこの国において、私達クリスチャンはそして教会はそのような厳粛さを認識しているでしょうか。
本当に神の聖なることを現す者となっているでしょうか。
この国の抱える滅びに真っ直ぐに向かっているいくつもの問題を前に、私達クリスチャンのこれまでの歩みが、そのような意味において、主の前にどうであったのかということを今問われているように思います。
私達が真剣に主の御心のみを求め、主の栄光が現れることのみのために、自分を置くこと。
これまでの歩みを見つめ主の前に私達は真摯に悔い改める必要があるのではないでしょうか。

共に祈りましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【出エジプト17:5-7】
17:5 主はモーセに言われた、「あなたは民の前に進み行き、イスラエルの長老たちを伴い、あなたがナイル川を打った、つえを手に取って行きなさい。
17:6 見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つであろう。あなたは岩を打ちなさい。水がそれから出て、民はそれを飲むことができる」。モーセはイスラエルの長老たちの目の前で、そのように行った。
17:7 そして彼はその所の名をマッサ、またメリバと呼んだ。これはイスラエルの人々が争ったゆえ、また彼らが「主はわたしたちのうちにおられるかどうか」と言って主を試みたからである。

【ピリピ3:20】
3:20 しかし、わたしたちの国籍は天にある。そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる。

【エペソ1:10-14】
1:10 それは、時の満ちるに及んで実現されるご計画にほかならない。それによって、神は天にあるもの地にあるものを、ことごとく、キリストにあって一つに帰せしめようとされたのである。
1:11 わたしたちは、御旨の欲するままにすべての事をなさるかたの目的の下に、キリストにあってあらかじめ定められ、神の民として選ばれたのである。
1:12 それは、早くからキリストに望みをおいているわたしたちが、神の栄光をほめたたえる者となるためである。
1:13 あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。
1:14 この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。
※ここの「保証(14節)」というは前金という意味があり先行して天の御国のその一部分を受け取るという天の前味を表す言葉として読むことができます。

【ヨハネ20:21-23】
20:21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
20:22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
20:23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

究極の勝利者としての道

2015年06月10日 20:26

【ピリピ4:11-13】
4:11 わたしは、どんな境遇にあっても、足ることを学んだ。
4:12 わたしは貧に処する道を知っており、富におる道も知っている。わたしは、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に処する秘けつを心得ている。
4:13 わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。

私達は唯一神によってのみ強くなることができます。そして神によってのみ何でもできる者となるのです。
決して考え違いをしないでください。私によって何でもできると言っているのではありません。
私を強くしてくださる方、主によって私達は何でもできるのです。
大して変わりないことではありません。この違いは根底的な問題として大きく異なります。
植物が地から生えるとき、その土壌によってその植物の行く末が大きく異なるように、この差は信仰者の歩みとしてその行く末を大きく異ならせる大きな差となります。

【2コリント10:17】
10:17 誇る者は主を誇るべきである。

自らに強さを持つ者は自らを誇りますが、主に強くされて生きる者は主のみを誇ります。主はそのようなご自身にのみ栄光が帰される所にのみ主のご栄光を現されるからです。
自らを誇る者は自らの栄光を求める者です(ヨハネ7:18,19)が、そのような者に主はご自身を現しません。(1コリント1:27-29)
そして、そのような人は主を信じるということすらできなくなり、いつまでも自らを誇るために自らの力だけで生きるようになります。(ヨハネ5:43,44)
人はその生来の性質上、神を頼りとせず自分の力で生きようとし、またこの性質に引きずられて(ガラテヤ5:16,17、ローマ8:11-13)、神に心から信頼を置く(信仰)ことがなかなかできないのです。
だからこそ、「わたしを強くして下さるかたによって、何事でもすることができる。(13節)」というように、自らを誇りとするものを何一つ持たず、主のみを信頼して主のみを誇るということは簡単に見えますが、実は非常に難しいことです。
しかし、だからこそ自分の力でできることが小さく栄光として現れるのではなく神の全能の力によってのみ現される圧倒的な栄光の御業によって、私達はあらゆることができると確信を持って言うことができるようになるのです。
それを得るためにパウロはこの地において苦しい状況に幾度も陥りました(2コリント6:4-8)が、そのたびに主のよみがえりの絶大な力、神の全能の御力の現れ(2コリント4:8-11)により、全てのことに勝利を得、神の栄光を見たのです。
そしていよいよパウロは自らの置かれている外側の目に見える状況に一切よらず、神にのみに寄りすがり、神の力によってのみ、あらゆることをすることができるという、この地上のあらゆる法則や力を超えて(それらの全ては私達に対して死という結論に向かって進んで行くものですが、その死を超えて)、生きる圧倒的な力強さを神によってのみ持つ者として生きるという術を得た、その道を見い出したのです。
全能の主のみを見て、この方によってのみ生きる。
最もシンプルで、究極の勝利者として歩む道、それが信仰者としての希望の歩みなのです。

あなたは弱いですか?
困難に囲まれていますか?
ならば、この全能の主が現れ、真の主の栄光を知る時です。
うなだれる前に、さあ希望を持って主にのみすがり祈りましょう。

【2コリント12:9,10】
12:9 ところが、主が言われた、「わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完全にあらわれる」。それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。
12:10 だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヨハネ7:18,19】
7:18 自分から出たことを語る者は、自分の栄光を求めるが、自分をつかわされたかたの栄光を求める者は真実であって、その人の内には偽りがない。

【ヨハネ5:43,44】
5:43 わたしは父の名によってきたのに、あなたがたはわたしを受けいれない。もし、ほかの人が彼自身の名によって来るならば、その人を受けいれるのであろう。
5:44 互に誉を受けながら、ただひとりの神からの誉を求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。

【1コリント1:27-29】
1:27 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
1:28 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
1:29 それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。

【ガラテヤ5:16,17】
5:16 わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
5:17 なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。

【ローマ8:11-13】
8:11 もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。
8:12 それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。
8:13 なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。

【2コリント6:3-10】
6:3 この務がそしりを招かないために、わたしたちはどんな事にも、人につまずきを与えないようにし、
6:4 かえって、あらゆる場合に、神の僕として、自分を人々にあらわしている。すなわち、極度の忍苦にも、患難にも、危機にも、行き詰まりにも、
6:5 むち打たれることにも、入獄にも、騒乱にも、労苦にも、徹夜にも、飢餓にも、
6:6 真実と知識と寛容と、慈愛と聖霊と偽りのない愛と、
6:7 真理の言葉と神の力とにより、左右に持っている義の武器により、
6:8 ほめられても、そしられても、悪評を受けても、好評を博しても、神の僕として自分をあらわしている。わたしたちは、人を惑わしているようであるが、しかも真実であり、
6:9 人に知られていないようであるが、認められ、死にかかっているようであるが、見よ、生きており、懲らしめられているようであるが、殺されず、
6:10 悲しんでいるようであるが、常に喜んでおり、貧しいようであるが、多くの人を富ませ、何も持たないようであるが、すべての物を持っている。

【2コリント4:8-11】
4:8 わたしたちは、四方から患難を受けても窮しない。途方にくれても行き詰まらない。
4:9 迫害に会っても見捨てられない。倒されても滅びない。
4:10 いつもイエスの死をこの身に負うている。それはまた、イエスのいのちが、この身に現れるためである。
4:11 わたしたち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されているのである。それはイエスのいのちが、わたしたちの死ぬべき肉体に現れるためである。

新しい人生

2015年06月03日 11:45

【ローマ12:2】
12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

クリスチャンとしての歩みを始めるとどうしても気になるのが世との接点、世との関わりです。
なぜなら、クリスチャンとして新しく生まれた、新しい命による、新しい歩み、この「新しい」ものに、世は矛盾している。それは世が私達にとって「古い」ものとなってしまったからです。
世は死の恐怖の元に、どう生きていくかということに必死です。
しかし、私達はすでにイエス様が十字架にかかり私達を死につけてしまった。つまり、私達はすでに死んだ者であって、さらにそこからイエス様と共によみがえった者です。
ですから、私達に対して死は何の力も持ちません。
そういう意味において、世にある常識(考え)や生き方は私達には全く意味を持たず、むしろこの死の恐怖に縛られた生き方から自由にされ、私達の内にある永遠の命、よみがえりの命の力によって死と逆行した生き方ができ、世とは正反対な生き方ができるようになるわけです。
世は、救いの岩、寄り頼むべき、全人生をゆだねられる神を知らないのですから、自分の力で努力して生きることを美徳とします。
しかし、どれほど善いと思うことをしたとしてても、どうしてもそれは自分のために行うことしかできず、偽善から真の意味で離れることはできません。
また死の恐怖が根底にあるからこそ、今楽しむことを望みますが、それは悦楽という意味での悦びであり、新しい命を与えられた者が知る、内側から溢れる喜びとは異なります。
このように、この世の法則と言ったもの、その考え方や生き方は、私達には何の役にも立たず、むしろ古い生き方に戻そう、世に戻そうとする力がそこには働くだけです。
だからこそ、私達は救われる前のこれまでとは、全く違う新しいものとなったということをまず認識するべきです。
これまでの古い生き方では生きられないことを知り、新しいものとしての生き方を求めるべきです。
そのことによって日々古い生き方から新しく造り変えられ、新しい性質(新しい命として与えられたのは聖霊なる神ですから、神の性質を持っています)を持つ新しい命にふさわしい生き方をするのです。
それは神を喜ばせるために神の望まれる(神の御旨)ように生きるという新しい基準での生き方。それが私達には最善の生き方なのです。
イエス様は私達のためにご自分の命をささげて私達を救ってくださいました。それほどに愛してくださったのですから、私達も私達の全てをささげ全身全霊を以て主のために生きることが主を愛することであり、主を喜ばせることです。

【2コリント5:14,15】
5:14 なぜなら、キリストの愛がわたしたちに強く迫っているからである。わたしたちはこう考えている。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのである。
5:15 そして、彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえったかたのために、生きるためである。

そして同時に私達自身がこの新しく生まれたのは主のためであることを、その人生の全てで味わうことによって、神の喜びが私達の内側から満ち溢れて、新しい人生にふさわしい新たな生き甲斐を持った生き方ができるのです。
礼拝の中心はささげ物をささげることであることは聖書全体に語られていることですが、その本質は私達自身を主にささげる時、この地上では味わうことのできない天国の喜びに満たされ、神を喜ぶことこそが私達の生きる本分であることを知ることです。
それこそが毎週持たれる礼拝に出席することにとどまらず、人生の全てをもって主を礼拝し続けるという、主を最も喜ばせる生き方をすることとなるのです。

さあ、では新しい命を持つ者として、新しい人生を共に歩んで行きましょう。

主の細い御声

2015年06月01日 21:14

【サムエル上3:10,11】
3:10 主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。
3:11 その時、主はサムエルに言われた

確かに全てのクリスチャンは主の声を聞くことができます。
それは聖霊によって文字通り言葉として聞くこともあるでしょうし、あるいは幻あるいは夢など、また聖書そのものから心に響きわたることもあるでしょうし(誰しもそのような経験は一度ならず経験することでしょう)、その人によってどのように聞こえるかは異なります。(ヨエル2:28,29、エレミヤ31:31-34)
しかし、いずれにおいても主は、ご自身の霊である聖霊を通して、直接私達に語りかけその思いを親しく交わり聞かせてくださるという約束を、ご自身の溢れる愛と恵みと共に、私達に与えてくださっていることに変わりはありません。
ただし、主の御声を聞かせていただくには私達側に主の御声に耳を傾ける備えが必要であるということが、今日の箇所からよくわかります。
主の御声は決して大きいものではありません。
むしろ人の耳にはとても小さく、自分の思いが心の中で大きいと、神の御声を聞くことはできません。
そういう意味ではどれほど自分の思いが小さくしてもなお、人は自分の思いが大きいものですから、私達にとっては主の御声は小さい囁くようなほどに細い声である(列王記上19:12)と言うことができるでしょう。
ですから、主の御声を聞きたいと望むなら、私達は私達の事情や思うことや常識や経験則などの私達側から溢れる、神の目から見れば無意味な全てのことを、横に置かなければなりません。
でなれば、神が私達に聞かせたいと思う言葉とは、いつまでも平行線のまま無意味な言葉を並べ立てて(ヨハネ5:2-8)、神のせっかくの言葉を退けてしまうことになるからです。
また、決して自分が聞きたくないようなことを、主は私達に語られることもあるでしょう。
時に神の御言葉は人に厳しいのです。
それは人の心の隠れた事柄を照らし出し、罪を明らかにし、刺し通し(ヘブル4:12,13)、あるいは砕き、あるいは悔い改めに導き(1ヨハネ1:5-8)、あるいは裁き、あるいは警告し(エレミヤ1:9,10)、およそ生来の人の思いには喜ばし思えない(ローマ8:5-8)言葉を聞くことになるかも知れません。
だとすれば、なお私達の思い(肉の思い)は、そのままでは主の思いを退けることしかしないでしょう。
しかし、罪に走り滅びに向かう私達を何より悲しみあわれみ、その死への道から何としても立ち返らせたいと思えばこそ、厳しく私達を戒め、悔い改めて主にある命の道へ導こうとされるのです。
事実、今日の箇所では幼いサムエルにこの後語られたのは罪を重ね過ぎたイスラエルとその祭司への裁きの言葉でした。
そしてこの取るに足らない幼い者にそのような厳しい裁きの言葉を聞かせなければならなかったのは、主の御言葉を真っ先に聞き、また従うべき祭司達に、主はそれまで再三語ってこられたにも関わらず、彼らはその言葉をことごとく退け続けたからに他なりません。
この後、幼い者に聞かせた言葉でさえ(神は真実なる方ですから)、一点一画も違わず、全て事実となり、祭司達とイスラエルは裁かれました。
これは恐るべき事実です。
人の心はそのままでは主に対して充分頑なで、天地万物を造られた神の御言葉をさえ容易く退けることができ、そのことにより自らの身に死を招くのです。
ですから、私達は主にまずその頑ななひざを(頑なな自らの思いを)折って、主にひれ伏し、主に全て聞き従いますという姿勢において、主に耳を傾ける必要があるのです。
その時初めて主は私達にご自身の深い思いを語ってくださるでしょう。
主の御声を聞きたいとは思うけど聞けないという話をよく聞きます。
でも私達が、都合良い耳に聞き易いことだけを求めて主の御声を求めても、聞く気のない者に主の細い御声が聞こえるはずはないのです。

【申命記30:12-14】
30:12 これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。
30:13 またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれのところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。
30:14 この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心にあるから、あなたはこれを行うことができる。

主の御言葉まさに私達のすぐ側にあるのです。
いや、いまやこの御言葉は驚くべき形で、私達の内に生きる聖霊、神の御言葉そのものであられる主イエスがそのまま住まわれている(エレミヤ31:31-34、ヨハネ1:1-5,14)のです。

【箴言8:17】
8:17 わたしは、わたしを愛する者を愛する、わたしをせつに求める者は、わたしに出会う。

さあ、主の御言葉を求めましょう。主はその御心を求め、その御声を聞きたいと心から願い、ひざをかがめる者に、親しく語りかけてくださいます。
そして、主の御言葉に従い生きていきましょう。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヨハネ10:2,3】
10:2 門からはいる者は、羊の羊飼である。
10:3 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。

【ヨエル2:28,29】
2:28 その後わたしはわが霊をすべての肉なる者に注ぐ。あなたがたのむすこ、娘は預言をし、あなたがたの老人たちは夢を見、あなたがたの若者たちは幻を見る。
2:29 その日わたしはまたわが霊をしもべ、はしために注ぐ。

【エレミヤ31:31-34】
31:31 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。
31:32 この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破ったと主は言われる。
31:33 しかし、それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心にしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となると主は言われる。
31:34 人はもはや、おのおのその隣とその兄弟に教えて、『あなたは主を知りなさい』とは言わない。それは、彼らが小より大に至るまで皆、わたしを知るようになるからであると主は言われる。わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない」。

【列王記上19:9-13】
19:9 その所で彼はほら穴にはいって、そこに宿ったが、主の言葉が彼に臨んで、彼に言われた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。
19:10 彼は言った、「わたしは万軍の神、主のために非常に熱心でありました。イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、刀をもってあなたの預言者たちを殺したのです。ただわたしだけ残りましたが、彼らはわたしの命を取ろうとしています」。
19:11 主は言われた、「出て、山の上で主の前に、立ちなさい」。その時主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた。しかし主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。
19:12 地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞えた。
19:13 エリヤはそれを聞いて顔を外套に包み、出てほら穴の口に立つと、彼に語る声が聞えた、「エリヤよ、あなたはここで何をしているのか」。

【ヨハネ5:2-8】
5:2 エルサレムにある羊の門のそばに、ヘブル語でベテスダと呼ばれる池があった。そこには五つの廊があった。
5:3 その廊の中には、病人、盲人、足なえ、やせ衰えた者などが、大ぜいからだを横たえていた。〔彼らは水の動くのを待っていたのである。
5:4 それは、時々、主の御使がこの池に降りてきて水を動かすことがあるが、水が動いた時まっ先にはいる者は、どんな病気にかかっていても、いやされたからである。〕
5:5 さて、そこに三十八年のあいだ、病気に悩んでいる人があった。
5:6 イエスはその人が横になっているのを見、また長い間わずらっていたのを知って、その人に「なおりたいのか」と言われた。
5:7 この病人はイエスに答えた、「主よ、水が動く時に、わたしを池の中に入れてくれる人がいません。わたしがはいりかけると、ほかの人が先に降りて行くのです」。
5:8 イエスは彼に言われた、「起きて、あなたの床を取りあげ、そして歩きなさい」。

【ヘブル4:12,13】
4:12 というのは、神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
4:13 そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。この神に対して、わたしたちは言い開きをしなくてはならない。

【1ヨハネ1:5-8】
1:5 わたしたちがイエスから聞いて、あなたがたに伝えるおとずれは、こうである。神は光であって、神には少しの暗いところもない。
1:6 神と交わりをしていると言いながら、もし、やみの中を歩いているなら、わたしたちは偽っているのであって、真理を行っているのではない。
1:7 しかし、神が光の中にいますように、わたしたちも光の中を歩くならば、わたしたちは互に交わりをもち、そして、御子イエスの血が、すべての罪からわたしたちをきよめるのである。
1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。

【エレミヤ1:9,10】
1:9 そして主はみ手を伸べて、わたしの口につけ、主はわたしに言われた、「見よ、わたしの言葉をあなたの口に入れた。
1:10 見よ、わたしはきょう、あなたを万民の上と、万国の上に立て、あなたに、あるいは抜き、あるいはこわし、あるいは滅ぼし、あるいは倒し、あるいは建て、あるいは植えさせる」。

【ローマ8:5-8】
8:5 なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
8:6 肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
8:7 なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
8:8 また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。

【ヨハネ1:1-5,14】
1:1 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
1:2 この言は初めに神と共にあった。
1:3 すべてのものは、これによってできた。できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった。
1:4 この言に命があった。そしてこの命は人の光であった。
1:5 光はやみの中に輝いている。そして、やみはこれに勝たなかった。
 [中略]
1:14 そして言は肉体となり、わたしたちのうちに宿った。

【サムエル上3:1-14】
3:1 わらべサムエルは、エリの前で、主に仕えていた。そのころ、主の言葉はまれで、黙示も常ではなかった。
3:2 さてエリは、しだいに目がかすんで、見ることができなくなり、そのとき自分のへやで寝ていた。
3:3 神のともしびはまだ消えず、サムエルが神の箱のある主の神殿に寝ていた時、
3:4 主は「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた。彼は「はい、ここにおります」と言って、
3:5 エリの所へ走っていって言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。しかしエリは言った、「わたしは呼ばない。帰って寝なさい」。彼は行って寝た。
3:6 主はまたかさねて「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれた。サムエルは起きてエリのもとへ行って言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。エリは言った、「子よ、わたしは呼ばない。もう一度寝なさい」。
3:7 サムエルはまだ主を知らず、主の言葉がまだ彼に現されなかった。
3:8 主はまた三度目にサムエルを呼ばれたので、サムエルは起きてエリのもとへ行って言った、「あなたがお呼びになりました。わたしは、ここにおります」。その時、エリは主がわらべを呼ばれたのであることを悟った。
3:9 そしてエリはサムエルに言った、「行って寝なさい。もしあなたを呼ばれたら、『しもべは聞きます。主よ、お話しください』と言いなさい」。サムエルは行って自分の所で寝た。
3:10 主はきて立ち、前のように、「サムエルよ、サムエルよ」と呼ばれたので、サムエルは言った、「しもべは聞きます。お話しください」。
3:11 その時、主はサムエルに言われた、「見よ、わたしはイスラエルのうちに一つの事をする。それを聞く者はみな、耳が二つとも鳴るであろう。
3:12 その日には、わたしが、かつてエリの家について話したことを、はじめから終りまでことごとく、エリに行うであろう。
3:13 わたしはエリに、彼が知っている悪事のゆえに、その家を永久に罰することを告げる。その子らが神をけがしているのに、彼がそれをとめなかったからである。
3:14 それゆえ、わたしはエリの家に誓う。エリの家の悪は、犠牲や供え物をもってしても、永久にあがなわれないであろう」。

水族館の魚達が

2015年05月28日 12:34

最近ある水族館で魚の大量死が話題になりましたが、その死因もわからないまま、新たに同じ魚を入れることもできず、水槽を回復するために実験的に生態の似ている魚を入れて、様子を見ていたところ、やはり大量死してしまったとのこと。
魚の生態もまだまだわからないところだらけです。人がわかるのはごく限られた部分なんだと実感します。
神様が造られたものを人はまだまだ知らない、いやずっとわからないことだらけ、計り知れないことだらけが人にはとてもいいことなのでしょう。

聖書には魚について不思議に思える記述があります。

【レビ11:9】
11:9 水の中にいるすべてのもののうち、あなたがたの食べることができるものは次のとおりである。すなわち、海でも、川でも、すべて水の中にいるもので、ひれと、うろこのあるものは、これを食べることができる。
11:10 すべて水に群がるもの、またすべての水の中にいる生き物のうち、すなわち、すべて海、また川にいて、ひれとうろこのないものは、あなたがたに忌むべきものである。
11:11 これらはあなたがたに忌むべきものであるから、あなたがたはその肉を食べてはならない。またその死体は忌むべきものとしなければならない。
11:12 すべて水の中にいて、ひれも、うろこもないものは、あなたがたに忌むべきものである。

これは選民であるイスラエルにモーセの時代に語られた律法の一部分、汚れたものを食べてはならないと、きよい生き物と汚れた生き物とについて規定されている部分の記述です。
「ひれとうろこのないものは、あなたがたに忌むべきものである。(10節)」の言葉は、ともするとこの魚の違いにどんな意味があるのかと思われる部分かも知れません。
しかし、ここに挙げられている全てのきよい生き物の規定には私達の信仰者として生活する姿と密接な関係があります。
つまり主はこのようにきよい生活を日々送って欲しいと、毎日の食事にその意味を込められた。
この「ひれとうろこのないものは、あなたがたに忌むべきものである。(10節)」には、水の中の生活を意味しています。
水はノアの時代にはその洪水をもって先の時代の人々がノアの家族を除いて全て滅びてしまったように、死を意味するものです。
そして、ひれとうろこはたとえ流れがあっても自由に泳ぎ回ることができる能力であり、そこから見るのであれば、死の中にあって自由に泳ぎ回ることのできる生活、つまり私達の内にあるよみがえりの命は死を退けて自由を得させる神の絶大な力であり、それによって死を恐れず死を越えて自由に生きるクリスチャンの姿をここに見ることができます。

【2コリント3:17】
3:17 主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。

また、私達の生きるこの世と言われる世界は、まさに滅びに向かっている死の力が働くのろわれた死に満ちた世界(創世記3:17,18)であるということができます。
そしてこの世には滅びに向かわせる一定の流れが存在し、それに流されるのであればクリスチャンは一溜まりもなく、主から離れ、主に与えられた新しい命が、滅びに向かう力に覆われあっと言う間に仮死状態を迎え、主の命の力、救いの喜びを忘れ、失望と苦労と妥協に満ちた生き方を続けるようになります。

【エペソ4:17-24】
4:17 そこで、わたしは主にあっておごそかに勧める。あなたがたは今後、異邦人がむなしい心で歩いているように歩いてはならない。
4:18 彼らの知力は暗くなり、その内なる無知と心の硬化とにより、神のいのちから遠く離れ、
4:19 自ら無感覚になって、ほしいままにあらゆる不潔な行いをして、放縦に身をゆだねている。
4:20 しかしあなたがたは、そのようにキリストに学んだのではなかった。
4:21 あなたがたはたしかに彼に聞き、彼にあって教えられて、イエスにある真理をそのまま学んだはずである。
4:22 すなわち、あなたがたは、以前の生活に属する、情欲に迷って滅び行く古き人を脱ぎ捨て、
4:23 心の深みまで新たにされて、
4:24 真の義と聖とをそなえた神にかたどって造られた新しき人を着るべきである。

だからこそ、私達はこの世から聖別され、主のよみがえりの命、私達の内に住まわれる聖霊に満ち、死を越えて自由に主にある生活を送る必要があるのです。

何と素晴らしいことでしょうか。
主はこのように何の変哲もなく意味もなく見える一節からも神の深い愛と思いを語りかけてくださるのです。
私達の知り得ることは多くなくとも、神の御言葉の内にあって語りかけてくださる主の深い思いはいつの日も知りたいものですね。

※文中の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【創世記3:17,18】
3:17 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、地はあなたのためにのろわれ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
3:18 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、あなたは野の草を食べるであろう。

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