礼拝メッセージ

主は今愛を問われる

2016年10月30日 19:57
聖書箇所: 雅歌8:6,7主は今私達の心の内を探られ、キリストの花嫁達の、冷めゆく主への愛を嘆き悲しまれています。まるで姦淫に走る女のように、その心が神から離れ、自らの求めるものを得ようと心定まらぬ者達を、その心がどうして神の愛から離れてしまったのかと語られているのです。まさに私達が救いと共に受け取ったものは、キリストにふさわしい花嫁として飾られた無限の恵みであり、主の一方的な愛によって、与えられたものです。その絶大な愛を何に取り替えてしまったのか。神は今私達に主への真実の愛がどこにあるのか問われているのです。主は私達が、罪を犯し続ける(心神から離れ生き続ける)故に、再び滅びに向かうことを望ん

キリストの苦しみを負うとりなし

2016年10月23日 19:42
聖書箇所: 出エジプト32:11ー14今主は私達の心をご覧になり、その有り様の奥深くまで、探られます。それはまさに滅びに瀕するこの国に置かれたクリスチャンとして、この国を主の元に勝ち得て救いに導く者達として、今如何に生きているかということを問われているのです。自分達だけが幸せである道を求めて歩む信仰のあり方を、主はそれが本当に主の御心を知り、主に対する真の信仰をもって歩んでいる姿だと言えるのかということについて。アッスリヤ、バビロンに捕囚されるまでのイスラエルがそうであったように、それは、国に、地に、罪が、悪が満ち、滅びへと真っ直ぐに向かう、そのような時こそ、それまでにその地に立てられた主の宮

リバイバルが来る日には

2016年10月16日 19:55
聖書箇所: 列王記上18:17-46主は今この国の現状をご覧になりながら、この国を霊的な意味のおいて治めるべきクリスチャンのこれまでの歩みについてを問われています。それは永遠の神の宮として、主の祭壇たる教会であるのか。それとも自分達の思いで建て上げた人の造った祭壇たる教会であるのか。人の思いを反映し、自分のために、自分の栄光を求め、自分の力で建て上げた祭壇を、主はどのような思いで見つめておられるのか。「貪欲は偶像礼拝にほかならない。【コロサイ3:5】」と語られる主は、これを他の神々を祭る祭壇と何ら変わりのないものとしてご覧になっていることを聖書は厳しくも語っています。この二つの祭壇が同居するこ

信じるなら神の栄光を見る

2016年10月10日 02:23
聖書箇所: マタイ24章主はまさに今が私達にとって終わりの時であると語られます。そして、その時にこそ、主の聖霊は私達の上に豊かに注がれる。それは主の福音が全地に語り出されるために。主の福音は終わりの時にこそ全世界に宣べ伝えられるのです。主はだからこそ、目を覚まし、主がこの地に来られるのを迎えるため、備えているようにと言われます。主の御言葉に従い、主の約束を得る者は幸いです。しかし、この主の御言葉を退け、主を退けて、自らの今この地で生きることの満足のためにのみ生きる者には、主が来られることを迎えることはできず、主からの永遠の報いを得ることはできません。では私達はどのようにして、主をこの地にお迎え

永遠の安息を得る

2016年10月02日 19:19
聖書箇所: ヘブル12:3-11クリスチャンには決して苦しみがないわけではありません。むしろクリスチャンであるからこそ苦しむこともあるのです。そんな時、ときとして人は苦しみの中、神の沈黙を感じることがあります。なぜこの苦しみの中に自分は居るのか。神はなぜ沈黙されているのか。しかしそのような時だからこそ、信仰者として知ることがある。得るべきことがあるのです。人は生まれながらには神を恐れることを知りません。また、心から神を渇き求めるということを知りません。でも実はそんな時こそ、神はあなたの近くにいるのです。そう、この苦しみこそ神への近道とも言える。日が昇るその直前こそ、一日で最も暗い時間であるよう

主の戦いを戦う時

2016年09月25日 17:32
聖書箇所: ネヘミヤ2:17-20主はまさにこの国を救わんと、私達にその基盤となる神の都を再建することを語られています。バビロンからの帰還後、主の宮の再建が成され、そこから都が再建されて、その基盤によりイスラエルの国が再建されたように、この国に於いても、真の神の宮たる教会が再建されるなら、さらに神の統治が全地を覆うため、神の王座の置かれる都が再建され、おのおのの生活の場所を主が治められる。主の統治は私達と共に拡大するからであり、それはやがてこの国が神の統治の元、救われるために他なりません。しかし、主がこのように建て直すことを始められる時、そこには必ず敵対が存在します。そこで各々の持ち場である各

神の家を建てる者

2016年09月18日 19:38
聖書箇所: 歴代誌上29:10-19主の眼差しは遣わされた地で神の家を建て上げる者、主の務めの働きのできる者の上に注がれています。それはただクリスチャンであるとして生きるというだけでなく、自分の人生において神に仕えるということに意識を持つ者であり、それは教会の中だけでなく、自分の今遣わされている家庭や社会の中においても同様に、神に仕える者であり続けるということも含まれています。私達の存在そのものが神の宮であるからこそ、その宮の据えられている所に神が住まわれ、神の統治が及び神の国が来るからです。私達はここに於いて、神の計画を成就すべく、神の御心をこの地に私達を通して成していくのです。しかしこの目

祝福の道のりを歩む

2016年09月11日 19:32
聖書箇所: 詩篇89:19-37ダビデはその人生を、生涯神からの祝福のただ中を歩みました。彼は神から特別に永遠の祝福の約束を受け取る者となりましたが、それは彼が特別に何かを持っているとか、何かができるとか、何か優れているというようなことには因りませんでした。むしろ彼はエッサイの忘れ去られた末の子であり、羊の番をする小さな者に過ぎませんでした。私達と条件は何ら変わりないと言っても過言ではないでしょう。しかしこれほどに彼が祝福を受けたのは、彼が主を求め、主の義(神の統治)を求め、主の栄光をただひたすらに求めたから。そして、それこそが神の家を建てるという願いに至らせ、その生涯をその目的の為に生きたと

神の主権の民となる

2016年09月04日 20:47
聖書箇所: ダニエル4:3神が永遠に全地(天地万物)を統べ治められる。全ての主権は主にある。この最も聖書で重要な、最もシンプルな真理を、私達はどう受け止めているでしょうか?まさしくこの真理こそ「福音」。人はこの最も重要な事実を、容易に受け入れことはできません。生まれながらに神に逆らい、神を退けて生きるよう、罪の性質を持って生まれた人には、そのことを受け入れるには主の多大の努力が必要なのです。神の主権ということを中心に語られているダニエル書においても、神の多大な努力と、それを人がどのように受け入れるか、あるいはその愛を退けるのであればどのような現実が待っているのかということについて、明示されて

永遠の祭司として生きる

2016年08月28日 19:29
聖書箇所: エゼキエル44:15-31 私達は万民祭司(1ペテロ2:9)として主から神の宮の祭司とされた者ですが、その務めとは、またその生き方とは如何なるものでしょうか? エゼキエルに語られた神殿はいつの神殿について語られているのかについては諸説いろいろな解釈がありますが、何よりそれを永遠の神の宮として見るならば、その中途(44章)に語られている祭司の姿も永遠に神に仕える者としての姿を表すことになります。 そしてそこにこそ、私達が神の前に永遠にすべき事とは何かという、信仰者としての最も重要なテーマを見ることができるのです。 永遠はやがて死を迎える時に始まるものではありません。それでは遅い
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