信じるなら神の栄光を見る

2016年10月10日 02:23
聖書箇所: マタイ24章


主はまさに今が私達にとって終わりの時であると語られます。
そして、その時にこそ、主の聖霊は私達の上に豊かに注がれる。それは主の福音が全地に語り出されるために。主の福音は終わりの時にこそ全世界に宣べ伝えられるのです。
主はだからこそ、目を覚まし、主がこの地に来られるのを迎えるため、備えているようにと言われます。
主の御言葉に従い、主の約束を得る者は幸いです。
しかし、この主の御言葉を退け、主を退けて、自らの今この地で生きることの満足のためにのみ生きる者には、主が来られることを迎えることはできず、主からの永遠の報いを得ることはできません。
では私達はどのようにして、主をこの地にお迎えすべきでしょうか。
それは人知れず、主のみに心を向けて、主の御心を行うこと。
私達の元に来られる主には永遠の打ち傷がその身に残り、釘の跡がはっきりと残っているのです。
これこそ、私達を贖われた永遠の代価、私達の永遠の裁きをその身に受けた傷跡。
主に贖われた者は、その打ち傷が自分のために傷つけられたものであることを、その十字架の上に永遠に見ることができるのです。主の永遠の愛と共に。
そしてこの打ち傷こそ、私達が敵たる者から打たれてもなお主の愛をもって愛し、主の愛をもって救いに飲み込むための、最大の勝利の力であるのです。
神の十字架の愛は私達を通して全地に溢れ、救いはこの神の愛をもって全地を覆い、神はこのような方法を通して全地を勝ち取られるのです。
主が愛されたように、私達が互いに愛すること。これこそが、永遠不滅であり、この世に完全に勝利した、主の教会なのです。
主はこの永遠の希望たる福音と圧倒的な愛とを、私達の力で注ぐようにとは言われていません。
あなたがたを捨てて孤児とはしないと語られる主は、今私達の内に生き、溢れる霊として、満ちみち溢れてくださるのです。
これこそが私達をこの地で主の証人とする力。
主は今、この愛に、この命に、この霊に、満ち続けよ。私があなたがたを遣わすと語られます。
私達がこの聖霊に満ち、福音のラッパを鳴らす時、主にある同士達はこの聖なる戦いのために集められるでしょう。
自らの生活のために、主に背を向けて来た兄弟姉妹達も、終わりの日の苦しみの中、神の元に悔い改めて立ち返るでしょう。
こうして、主のリバイバルが来るのです。
主は死したる者(ラザロ)をもよみがえらせることのできる、よみがえりの主。
死の捕らわれからも、よみがえりをもって人々を勝ち取られる主なのです。
この滅ぶべき地をも、主は救いをもってよみがえらせてくださるのです。
「信じるなら神の栄光を見るであろうと、あなたに言ったではないか【ヨハネ11:40】」と今主は語られます。
だから主を信じて、私達も全地に遣わされようではありませんか。主の魂の勝ち取りのために。


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