2つの器と2つの祭壇

2014年06月22日 19:28

聖書箇所: 1コリント
10:14-22

当たり前の話しかも知れませんが、神の聖なる器は神のご用のために用いられなければなりません。それ以外の何の目的のためにも作られていないからです。決して汚れたものを入れたり、他の目的に使用されるべきではありません。それは主をお入れする器であり、主への礼拝のために用いられるものなのです。
しかし、聖書に記されている、主の宮に納められていた金や銀、青銅の尊い器は、決して主への礼拝のみに使われた訳ではありませんでした。
主がダビデ王に永遠の愛をもって約束した神の神殿を、ソロモン王が建設して以来、そのソロモン王でさえ晩年には神に背き、別の神々の祭壇を築き、それが元でイスラエルが南と北に裂かれなお、続く多くの王達が神を退け、異教の神々を慕い偶像礼拝を繰り返しました。
神が喜び、神はこの宮についてダビデとその子ソロモンに言われたことがある、「わたしはこの宮と、わたしがイスラエルのすべての部族のうちから選んだエルサレムとに、わたしの名を永遠に置く。彼らがもし、わたしがすべて命じた事、すなわち、モーセが伝えたすべての律法と定めとおきてとを慎んで行うならば、わたしがあなたがたの先祖のために定めた地から、重ねてイスラエルの足を移すことをしない(2歴代志33:7,8)」と言われた、その宮に偶像を満たし、それが元でイスラエルはバビロンに捕囚されたのです。
神の器と神の宮は別の神々の目的のために使用され、汚されました。
だからこそ、主はどれほどにそのことを悲しみ痛み怒り、結果として神の器をことごとくバビロンに持ち去らせ、神の宮は破壊され、そしてここに初めて安息が訪れた。神がご自身の手で聖別をされたのです。
この事実は今私達キリスト教会の現状にも重ねて見ることができます。
私達も神を退け、自らの満足を追い求め、その満たしこそ神の栄光と、気がつけば、神を知らぬ内に、自らに都合のいい神に、つまりは異教の豊穣の神々に神をすり替え、それを礼拝と勘違いし祭り騒ぎを続けるのであれば、主はその器を、その祭壇を、ご自身の前から退けるのです。
黙示録の2,3章に出て来る7つの教会の姿の中に現された、現在の教会時代への預言には、この神の聖なる尊い器と卑しい器となったクリスチャンの姿と、神の祭壇とサタンに仕える者達の祭壇が教会の中に同居している。最後の教会時代への預言と言われているラオデキヤの教会の姿には、教会から主イエス自身が追い出されてしまっている姿すら語られているのです。
そして、今その卑しい器、サタンの祭壇を、主はご自身で打ち砕くと語りかけられています。
「さばきが神の家から始められる時がきた。(1ペテロ4:17)」

先週まで私達は、私達自身を主のみこころにかなう聖なる器として、陶器師なる主に造り変えていただくよう、あわれみにすがり祈りました。
そして、今この結論を二つの器、二つの祭壇への結論として、現実に目に見える形で現されると語られているのです。
この主の語りかけを私達は厳粛に受け止め、今後いかに信仰者として歩むべきかを共に考えていきたいと思います。
祝福とのろい、その狭間に立つ、キリスト教会に語りかける主の御言葉に心から耳を傾けて参りましょう。


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