見えざる罪に目を向ける

2016年12月04日 19:37

聖書箇所: レビ5:17ー19
主はこれまで私達が堪え忍びながら、主がこの国を訪れ救ってくださるのを、備え待ち望んでいたことをよくご存知で、これから主がこの地に最初に来られた時のように、私達の内にご自身の一歩一歩を現そうと大切に語ってくださっています。
それは全地が鳴りどよめき、全ての者がひれ伏し、悔い改めが波の如く広がる、そんな一歩一歩を私達が踏み出す一歩一歩に現そうと語ってくださる、恐れ多いものであり、同時にこれまで苦しみ悩み戦い傷つき歩んできた私達を、主の栄光で満たし贖おうと約束する慰めに満ちた言葉でもあります。
同時に主はだからこそ、「私がこの国に臨もうとしている。あなたにその覚悟ができているか?」と、改めて問いかける。まさにとどまることのないリバイバルの波に飛び込み、それに全てをささげる覚悟ができているかと、私達に問われているのです。
なぜなら、主が訪れる時私達は主に従う者となるか、それとも主を退け敵対する者となるか、私達の心の中にあるものが私達のその後の歩みをはっきり左右させるからです。
だからこそ主は今、私達の心の奥底をご覧になり、隠れた罪をも贖う主として、あわれみ深く心の最も深く隠れたる罪を取り除こうと語りかけられておられるのです。
まさに私達は、これまでクリスチャンの歩みとして、聖書の中に語られること以外に、常識や知識の中に日常を置き、神の真の思いに心を注ぎ、主の御言葉の語りかけに、また主の私達を見つめる眼差しに、心を向けることを置き去りに、信仰生活や教会生活を歩んできたかも知れません。
なぜなら主は今私達のこれまでの歩みを、恵みを得続けてなお主を退け試み続けたイスラエルの民の歩みに重ねて語り、この国の全てのクリスチャンを強く叱責されておられるからです。
なお、世の人々と同じように力を持とうとし、世の豊かさに豊かな者となろうとする者達の姿を見て、「あなたがたの心にあること、すなわち『われわれは異邦人のようになり、国々のもろもろのやからのようになって、木や石を拝もう』との考えは決して成就しない。【エゼキエル20:32】」と主は今はっきりと警告をされているのです。
むしろ、主の御心に従い主に仕えようとする者には、主がその生活の全てに渡り、事細かに心配してくださり、主ご自身の栄光の豊かさの中から全てを満たしてくださろうと、力強く約束し、そこにこそご自身栄光を現すことを、主は喜び、何よりそれを願っておられると語っておられるのです。
だから、人の思いや事情により、全てを押し進め行くことを、主はその根底がサタンの思いと計画にあるものとして、最初の信仰告白をした直後のペテロにさえも強く叱責しておられます。
逆にその思いを日々十字架につけ、主に従って主の御心のままに身をささげ歩んでいくことを、主は私達に望んでおられます。
そこに私達が計り知ることのできない永遠の思いを見ることができる。そしてそこにこそ永遠に向かって揺ることのない歩みを進める信仰の日々があるのです。
主はご自身がこの地に来られる時、この世の宝を、「主のねたみの火」に焼き尽くすと語り、朽ち行く豊かさに、それを求める生き方に何の価値もないことを教えておられます。
ですから、私達は主が私達に与えたもう、「永遠の重い栄光」にこそ目を向けるべきです。
その時私達は永遠の計画を押し進める一歩を歩み出す者として、この地に来られる主をお迎えすることができるでしょう。
今は主が栄光をお取りになるため、この地に来られる時です。私達の内側がいかなるものであるか、もう一度主の前に、その光に照らしてもらい、悔い改め、聖別されて歩む歩みを見つめていこうではありませんか。
共に主の語りかけに耳を傾けて参りましょう。

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