空の器に満ち溢れる

2016年05月22日 19:32

聖書箇所: ヨシュア3:7-17

神はご自身の御業を、ご自身の選ばれた民を通して現すことを望まれました。
それはご自身の選ばれた民と共にこの地を治めるという、助け手として、キリストの花嫁として造られた者への愛の故に。
そして、私達を神ご自身をお入れする器とされた。永遠の主の宮となるために造られた者、またこの地に生み出された者、それが私達です。
しかし私達、人は罪を犯し、神との関係を破壊し、生まれながらには自らのことに生きるしか、目的や満足、喜びを持たない者となりました。
だから、私達は主をお入れする器であることを忘れ、自らの満足、欲望、自らの生活のみを満たそうと、主からすら全てを奪い、手に入れようとする者となりました。
まさに、主がこの地に、ご自身の民の元に来られたにも関わらず、人々は主を受け入れないばかりか、この方を十字架にかけて殺してしまいました。
しかし、この十字架こそ、私達の罪を贖われた姿。同時に私達自身を十字架に、共にかけて死につけてくださったことにより、この自分自身から私達を解放し、よみがえりの命によって、主ご自身の命によって生きるものとしてくださったのです。
イスラエルが海(紅海)を割り、川(ヨルダン川)を割って渡って来た事実は、この贖いと、自己からの解放という2つの側面を、キリストの十字架の死とよみがえりによって与えられたことを私達に表しています。
つまり紅海を渡ったことは救いの経験を、ヨルダン川を渡ったことは聖霊の満たしの経験を表していることを知るのです。
主は私達を空にしないではご自身によって満たすことができないことをご存知です。
そして主で満ちることなしに、主はご自身の御業をこの地に現すことはできない、ご自身の統治を、私達を通して顕すことができないことを、ご存知です。
ですから、主は主に近づき、主を愛し、主のものとして主に仕えようとする者達に、一度空にする経験の中を通します。
これは主イエスご自身が公生涯の始めに経験されたことであり、多くの主に仕えた義人達が通った道であり、主の弟子達も全てを捨てて主に従った者達であることからもわかる通り、信仰者のごく当たり前の道であるのです。
しかし多くのクリスチャンはこの道を通ることを、本当の神の愛を信頼できないばかりに嫌い、避けて通ろうとしますが、主は私達を愛するが故にご自身に近づけてくださり、ご自身で満たしてくださろうと、この経験を備えるのです。
自分が空にされ、裸にされる経験は、不安で、惨めで、当面は喜ばしいととても思えないものでしょうが、主は死にたる(空になった)私達を、死ぬべき体をも生かすよみがえりの命(聖霊)によって生かし、その命が溢れ出て、とどまることなく地を潤し、全地に主の命と愛と栄光と主の統治を現す主の御業を、私達を通して現されるのです。
このようにして全地は、私達を通して主に勝ち取られて行くのです。
今、何も善きことのなくなり滅びようとするこの地に、主はリバイバルの御業を、ご自身を愛する民を通して成そうとされています。
主の尊き器となって、主の御業を現す者は誰でしょうか。
主の十字架の愛に安心して、自らを主に明け渡し空の器となるのは誰でしょうか。
今回は主の器として空とされる者にこそ溢れる主の御業を、聖霊の満たしということとの関連を通して、共に分かち合って行きたいと思います。


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