私の贖いが地を覆う

2016年08月07日 21:06

聖書箇所: ヨナ2,3章

主は私達に余りに愛深く、慰めの言葉を今語りかけてくださっています。
それは私達のこれまでの歩みを全て見て来られ、共に歩んで来てくださったからこそ、全てを知ってだからかけることのできる慰めの言葉。
ヨナは、主を愛して止まず、主の思いを誰よりも知る者でした。だからこそ、彼は神の思いの真意を理解する事ができず、神の御声を退けました。
人には主のあまりにも大いなる計画を知り、理解することはできません。
人の限界をはるかに越えた愛、憐れみ。神はその思いをヨナに伝えることを望まれました。
ヨブは主が自慢するほどの罪を犯さない人でした。でも、その根底にある原罪と、そこに伴う自らを主張し自らを正しいとし、自らの知恵と力で生きてきたという自負、まさに自己義の問題に触れようとされました。
自らが自らの手で正しくなるのではなく、神の義により義とされる幸いの生き方。
ヨナも、ヨブも、大いに主に愛されたからこそ、人自身には近づくことのできない神の深み、旧約聖書の時代の人物でありながら、十字架の愛を啓示され、その大いなる愛の内に入れられました。そして特別な祝福を受けたのです。
さらに、聖書はその十字架の愛により救われた私達が、神の思いを担う者として、神に仕え働く者として主に選ばれた民であるということを教えてくれます。
主は私達を通してご自身の計画を成就したいのだという、共にこの地を治めよという大いなる思いを、愛をもって迫られます。
だからこそ、主は私達の歩みの全てを見て来られ、この国のため、この地のために祈り続けたその祈りは何一つ無駄なものではなく、たとえ時代が悪く進むように見えたとしても、その計画は成らない、あり得ないと、今祈りに答えてくださっています。
また、私達が様々に戦い、霊的な戦い、世との、サタンとの戦いを日々戦ってきたことを知り、その日々が神の大いなる計画に何も関係ないように見えたとしても、王なる主をこの国に、この地に迎えるための戦いであったと言われ、この地を治めるために、主は来られるのだと、再臨の思いと重ねて、リバイバルを私達に約束してくださっています。
何と大いなる慰めでしょうか。
主は私達に主を迎える日を心の内に見て、立ち上がるよう励まし慰めていてくださっているのです。
今回はこの特別な主の親しい語りかけに心から感謝しながら、その思いを共に受け止めていきたいと思います。


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