福音の命の力

2015年03月04日 12:48

【1テサロニケ2:1-8,13】
2:1 兄弟たちよ。あなたがた自身が知っているとおり、わたしたちがあなたがたの所にはいって行ったことは、むだではなかった。
2:2 それどころか、あなたがたが知っているように、わたしたちは、先にピリピで苦しめられ、はずかしめられたにもかかわらず、わたしたちの神に勇気を与えられて、激しい苦闘のうちに神の福音をあなたがたに語ったのである。
2:3 いったい、わたしたちの宣教は、迷いや汚れた心から出たものでもなく、だましごとでもない。
2:4 かえって、わたしたちは神の信任を受けて福音を託されたので、人間に喜ばれるためではなく、わたしたちの心を見分ける神に喜ばれるように、福音を語るのである。
2:5 わたしたちは、あなたがたが知っているように、決してへつらいの言葉を用いたこともなく、口実を設けて、むさぼったこともない。それは、神があかしして下さる。
2:6 また、わたしたちは、キリストの使徒として重んじられることができたのであるが、あなたがたからにもせよ、ほかの人々からにもせよ、人間からの栄誉を求めることはしなかった。
2:7 むしろ、あなたがたの間で、ちょうど母がその子供を育てるように、やさしくふるまった。
2:8 このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである。
 [中略]
2:13 これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として__事実そのとおりであるが__受けいれてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。

福音を伝えることは決して人の力ではありません。
もしもそうであるならば、迫害にあったとき、いやあらゆる苦しみ、悲しみ、悩みに会ったとき、つまりは私達の感情や状況、あるいは能力の差などによっても、福音が伝えられることが妨げられることになるからです。
順境であるから、福音を語ることができるのではなく、逆境においても、激しい攻撃の中でも、福音を伝える力は弱まることはない(2節)のです。
それは神の力によるからです。
神を喜ばせようとする(4節)者達を主は喜ばれ、その者を通して主はこの福音を伝えたい、ご自身の力を現そうとされるのです。
そう、救いを与える絶大な神の力と愛を。
そう、十字架にかかられた主イエスの力と愛そのものを。
そこに主イエスの命が流れるのです。
渇ける者を永遠に潤す(ヨハネ4:13-15)、永遠の命の水がその人から川々となって流れ(ヨハネ7:37-39)て、命に渇ける者を潤すのです。
一体神をおいて他に誰にこのようなことができるでしょう。
それはまさしく人知を超えた神の力、奇跡なのです。
多くの人が福音を語る方法論を模索します。また、語るべき説得力のある内容をと考えます。
しかし、主は宣教の愚かさ(1コリント1:21)をもって、福音を世界中に届けて来られたのです。
人と直接関わり命に直接触れることでしか、愚かに思えるこの方法でしか、主の命は溢れ流れないのです。
この愚かさに主ご自身が臨まれ、ご自身の十字架を現し続けられたのです。
いやこの愚かさにしか十字架の死とよみがえりを現すことができないのです。
だから主の喜びのために、だから愚かに見えても、福音に自分の命をささげるしか、溢れる主の命を、愛を、伝えることはできないのです。
その自らの内に溢れる十字架の愛を、パウロは「このように、あなたがたを慕わしく思っていたので、ただ神の福音ばかりではなく、自分のいのちまでもあなたがたに与えたいと願ったほどに、あなたがたを愛したのである。(8節)」と語っているのです。
そしてだからこそ彼らが語った言葉が人間の言葉としてではなく神の言として確かに人々に伝わり、またその言が生きてその中に働いた(13節)のです。

【1コリント】
1:17 いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。
1:18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
1:19 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。
1:20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
1:21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
1:22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
1:23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
1:24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。

何と私達は効率の良い伝道、効果的な伝道などという無意味なものを求めていたのでしょうか。
神が愚かとなられたのです。
神が弱くなられたのです。
私達は何をして何を誇ろうとしているのでしょうか。
だから主が私達を愛してくださったように、まだ主を知らない多くの主が愛する人々を、心から愛そうではありませんか。
主が私達に命をささげるほどに、愛してくださったのですから。

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヨハネ4:13-15】
4:13 イエスは女に答えて言われた、「この水を飲む者はだれでも、またかわくであろう。
4:14 しかし、わたしが与える水を飲む者は、いつまでも、かわくことがないばかりか、わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠の命に至る水が、わきあがるであろう」。
4:15 女はイエスに言った、「主よ、わたしがかわくことがなく、また、ここにくみにこなくてもよいように、その水をわたしに下さい」。

【ヨハネ7:37-39】
7:37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
7:39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。

【1コリント1:17-25】
1:17 いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。それは、キリストの十字架が無力なものになってしまわないためなのである。
1:18 十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、救にあずかるわたしたちには、神の力である。
1:19 すなわち、聖書に、「わたしは知者の知恵を滅ぼし、賢い者の賢さをむなしいものにする」と書いてある。
1:20 知者はどこにいるか。学者はどこにいるか。この世の論者はどこにいるか。神はこの世の知恵を、愚かにされたではないか。
1:21 この世は、自分の知恵によって神を認めるに至らなかった。それは、神の知恵にかなっている。そこで神は、宣教の愚かさによって、信じる者を救うこととされたのである。
1:22 ユダヤ人はしるしを請い、ギリシヤ人は知恵を求める。
1:23 しかしわたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝える。このキリストは、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものであるが、
1:24 召された者自身にとっては、ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神の力、神の知恵たるキリストなのである。
1:25 神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからである。