祭壇の火を絶やさない

2014年09月03日 20:13

聖書箇所: レビ6:8-13

私達信仰者の生涯は、祭壇を建て続けたアブラハムの歩みがそうであったように、いついかなる時も主への礼拝を絶やさない者であり、そこを基盤として祝福を得ていく人生です。
そのことは祭壇を建てたという記述の存在しないロトの歩みと比較するのであれば明らかなものでしょう。
霊に属する人と肉に属する人の歩みの違いをそこに見ることができるのです。
そして、そのアブラハムが建てた祭壇のうち、最も喜ばれたささげものとなったのが、イサクを主にささげたモリヤの山での祭壇だったでしょう。
それは自分の最も大切なものをささげたものであり、またそれは同時に自分の全て、また自分の命をささげたに等しいささげものであったことでしょう。
献身のささげもの。
また、レビ記では最初にささげものの規定が書かれていますが、その始めに語られているのが全焼のささげもの(レビ記1章)です。
そしてそれは、祭司が受け取る分は何一つ無く、全てが焼き尽くされ、ただ主を喜ばす香りだけのささげものであり、全き献身を表すのがこのささげものです。
さらに、祭司の日々ささげるささげものの中に、この全焼のささげものがあり、同時にこの祭壇の火を絶やさないということが語られている(レビ6:8-13)のです。
私達は万民祭司という言葉をよく用いますが、もしもそうだとするならば、日々主に自らの全てを、命を、人生をささげ続けるのが信仰者としての歩みと言うことができるのではないでしょうか。
そのような歩みを主はどれほど待ち望み、また喜ばれることでしょう。
併せて、この祭壇の火は裁きを表す火であり、また聖霊を表す火をここに見ることもできます。
つまり、日々祭壇の火を絶やさないということは、日々聖霊に満たされ続けるということも重要な要素となるでしょう。
今回はこの日々ささげ続ける礼拝。祭壇の火を絶やすことなく、生き続けるとはいかなることなのかということについて、聖書から分かち合いたいと思います。


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