礼拝の中心

2014年03月16日 19:09

聖書箇所: ローマ12:1
礼拝において、多くの人々はその礼拝で何かを得るために、わかりやすい言い方をするなら恵まれるために、教会に集います。しかし、聖書に連綿と続く礼拝は捧げることが中心です。
カインとアベルも最初の礼拝もそうですし、アブラハム・イサク・ヤコブの建てた祭壇はごく一部以外全てささげ物をささげるためだけにある形をしています。
またモーセの時代、礼拝は幕屋でささげられていましたが、やはりその構造を見れば明らかですが、礼拝はささげ物が中心であり、続くソロモン以降の神殿での礼拝も幕屋の時代を引き継ぎ、礼拝の中心はささげ物をささげることでした。
さらに、私達が待ち望む新エルサレム、新しい天新しい地における礼拝においても、諸国民は光栄とほまれをそこに携えてくる姿が描かれています。
そして、その全てのささげ物が、「血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。(ヘブル9:22)」とある通り、血をなくして神との交わりである礼拝は存在せず、その罪のゆるし、贖いの御業の中心は主イエスキリストの十字架なのです。
つまり私達の礼拝は私達の最上のささげ物を主の前に携え、ささげるものであり、ただ一度父なる神を満足させた完全なるささげ物である主イエスの十字架に重ねて、共に十字架につけて下さった私達自身を主にささげることに他なりません。
それこそが、神を満足させる真の礼拝なのです。
今一度礼拝を、主イエスの十字架を中心に見つめつつ、その本来の意味を知り、主に喜ばれる真の礼拝者としての歩みについて共に考えていきたいと思います。


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