永遠の祭司として生きる

2016年08月28日 19:29

聖書箇所: エゼキエル44:15-31

私達は万民祭司(1ペテロ2:9)として主から神の宮の祭司とされた者ですが、その務めとは、またその生き方とは如何なるものでしょうか?
エゼキエルに語られた神殿はいつの神殿について語られているのかについては諸説いろいろな解釈がありますが、何よりそれを永遠の神の宮として見るならば、その中途(44章)に語られている祭司の姿も永遠に神に仕える者としての姿を表すことになります。
そしてそこにこそ、私達が神の前に永遠にすべき事とは何かという、信仰者としての最も重要なテーマを見ることができるのです。
永遠はやがて死を迎える時に始まるものではありません。それでは遅い、それはすでに永遠の命を与えられている今始まっているのです。
そして私達は、永遠を思い見る時、そこに入らしめるためささげられた主イエスのあまりに価高い犠牲を、その愛の内に見るのです。
この犠牲により私達はこの世に対して死を迎え、もはや私達は罪に捕らえられた古き私を脱ぎ捨て新しくキリストを着る者とされました。
そのことは私達をもはやこの世に戻って生きるのではなく、天の神の宮の内から出ることを永遠にしない、聖なる者として聖め別たれた者であることを意味します。
また、この地こそ主の住まわれる所、主が全地を治められる場所であるからこそ、私達はこの地を神の御言葉により、神の主権によって、裁き治める者とされました。
だからこそ、神の御心を聖書と自らの内に居られるロゴス(神の言葉)であられる方に聞き、神の計画を心に深く置いて、その成就のために主に仕える者として歩むのがふさわしい歩みであるのです。
さらに私達は主の招きに導かれ、その神殿の最奥の至聖所にまで入る程に主と深く交わり、永遠の安息の中に永遠に礼拝を捧げ続ける者となりました。
まさに死の報いを受ける世に生きる罪人としての生き方を捨て、まさに罪のためのささげ物となられた主の十字架に一つとなり、営所の外に出て、自らを十字架につけて、主の御もとに近づき生きる者とされた。
私達は霊の交わりにおいては、この神の神殿から永遠に出なくていいのです。
主は私達の嗣業となり、また私達も主の嗣業となりました。
これこそ永遠の都とされた私達の永遠の姿であり、私達は永遠に主の内に生き、また私達の内に主は永遠に住まわれるのです。
ここに主は栄光をもって充満され、この充満の中で私達は永遠の礼拝をささげる。
私達は永遠にその霊において変わることなく礼拝をささげ続け、その礼拝に仕える私達は永遠の祭司なのです。
私達の地上の生活にあってはいろいろなことがあるように思えるかも知れません。しかし霊において、私達が永遠にこの中に生き、また祭司として主に仕え続けるのであれば、現実の生活はこの永遠の神の国の内に飲み込まれ、神の主権の元に最善のものとして現実は神の統治の元に伏していきます。
ですから、私達は如何なる時もこの永遠の礼拝を霊において絶やすことなくささげ続け、この地を神の国の元に飲み込み勝ち取ろうではありませんか。
さあだから今共に永遠の礼拝を神の前にささげましょう。


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