死をも超えて

2015年04月15日 12:25

【ヨハネ11:25,26】
11:25 イエスは彼女に言われた、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
11:26 また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。

クリスチャンは死を恐れません。
主を知らない者は自分が死んだ後どこに行くのかを知りません。死に対しては恐怖を抱きます。
それは人の肉体の死は、そのまま永遠の行き先と関わるからです。
「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている(ヘブル9:27)」ため、人はその死を恐れます。
なぜなら、私達は「神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、(私達の一切の行いと口にした言葉は)明らかにされ(ローマ2:16)」それを元に裁かれる(黙示録20:12)のです。
その時私達自身のことを自らが弁明し、裁きを逃れ得る者があるでしょうか。
そこに存在することは、ただ逃れ得ない自らの、罪からの報酬としての第二の死(黙示録20:6、20:14、21:8)であり、主イエスにより救われた者、命の書に名を書かれている者達はその裁きの時にあって、すでにキリストと共に第一の復活にあってよみがえり、この第二の復活の後に定められた裁きを恐れる必要はない(黙示録20:6)のです。
さらに、主イエスが十字架に贖いの御業を成就した後の時代に生きる、主イエスの救いを受けた私達は、その肉体の死を迎える時に際し、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう(ルカ23:43)」と、主イエスを受け入れた罪人がそのままパラダイスに上げられたのと同様に、パラダイスつまりは天の御国に引き上げられるのです。
何と驚くべき事に私達は、死(黄泉)を見るのではなく、死を迎えた次に瞬間には天の御国に主と共に、喜びの内に永遠に住まうこととなるのです。
そう、私達は死を味わうことがないのです。

【マタイ16:28】
16:28 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。

ですから、神の御国にこの地において入れられた者には、この地で生きることも天に生きることも何も変わることなく、むしろ天に生きることを幸いと願うほど(ピリピ1:21-23)に、死は私達を何も脅かす要素とはならないのです。
なぜなら、私達は救われたその時から、永遠の命を与えられ、その時から永遠に主と共に生きる者となったのであり、私達はすでに死んでよみがえったからこそ、もはや死が私達を支配することはなく(ローマ6:6-11)、死は私達に対して何の力も持たないのです。

【ガラテヤ15:55-57】
15:55 「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。
15:56 死のとげは罪である。罪の力は律法である。
15:57 しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、わたしたちに勝利を賜わったのである。

だから、私達はこの死に捕らわれることがもうないからこそ、主に与えられたこの地上での歩みの限られた時を、主のために如何に歩むかということだけを考えることができるのです。
なぜなら、私達は主が定められたこの肉体の死を迎える時(ヨハネ7:30、ヨハネ8:20、ヨハネ17:1)までは、主の計画の元に、どのようにしても死を迎えることは決してありません。
だからこそ、この地上で「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらう(マタイ6:31)」必要はないのです。
むしろ、主に自らをささげ生きる時、そこに天の永遠の礼拝が満ち(ローマ12:1)、神にこの生涯を如何に喜ばれるささげ物としてささげるのか。最上の供え物として、自らを神にささげる喜びのために私達の生涯があることを知るのです(歴代志上29:10-19)。
その時、死を超えた永遠の礼拝をささげるという生涯の中で、何ものにも揺るがされることなく、主ご自身を一身に求め、ただ神の国と神の義を求め生きる者となるでしょう。
そうです。私達、信仰者の歩みはよみがえった者の歩み、死をも超えた歩みなのです。
だから主は私達によみがえりの絶大なる恵みをもって、私達に語り、また訊ねられるのです。

「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。
また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか(ヨハネ11:25,26)」

※今日の聖書の引用箇所です。ご参照ください。

【ヘブル9:26-28】
9:26 しかし事実、ご自身をいけにえとしてささげて罪を取り除くために、世の終りに、一度だけ現れたのである。
9:27 そして、一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっているように、
9:28 キリストもまた、多くの人の罪を負うために、一度だけご自身をささげられた後、彼を待ち望んでいる人々に、罪を負うためではなしに二度目に現れて、救を与えられるのである。

【ローマ2:14-16,25-29】
2:14 すなわち、律法を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。
2:15 彼らは律法の要求がその心にしるされていることを現し、そのことを彼らの良心も共にあかしをして、その判断が互にあるいは訴え、あるいは弁明し合うのである。
2:16 そして、これらのことは、わたしの福音によれば、神がキリスト・イエスによって人々の隠れた事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。
 [中略]
2:25 もし、あなたが律法を行うなら、なるほど、割礼は役に立とう。しかし、もし律法を犯すなら、あなたの割礼は無割礼となってしまう。
2:26 だから、もし無割礼の者が律法の規定を守るなら、その無割礼は割礼と見なされるではないか。
2:27 かつ、生れながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼とを持ちながら律法を犯しているあなたを、さばくのである。
2:28 というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、外見上の肉における割礼が割礼でもない。
2:29 かえって、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また、文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである。

【黙示録20:6】
20:6 この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。

【黙示録20:11-15】
20:11 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
20:13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
20:14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
20:15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。

【黙示録21:6-8】
21:6 そして、わたしに仰せられた、「事はすでに成った。わたしは、アルパでありオメガである。初めであり終りである。かわいている者には、いのちの水の泉から価なしに飲ませよう。
21:7 勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐであろう。わたしは彼の神となり、彼はわたしの子となる。
21:8 しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。

【マタイ16:24-28】
16:24 それからイエスは弟子たちに言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
16:25 自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを見いだすであろう。
16:26 たとい人が全世界をもうけても、自分の命を損したら、なんの得になろうか。また、人はどんな代価を払って、その命を買いもどすことができようか。
16:27 人の子は父の栄光のうちに、御使たちを従えて来るが、その時には、実際のおこないに応じて、それぞれに報いるであろう。
16:28 よく聞いておくがよい、人の子が御国の力をもって来るのを見るまでは、死を味わわない者が、ここに立っている者の中にいる」。

【ピリピ1:21-25】
1:21 わたしにとっては、生きることはキリストであり、死ぬことは益である。
1:22 しかし、肉体において生きていることが、わたしにとっては実り多い働きになるのだとすれば、どちらを選んだらよいか、わたしにはわからない。
1:23 わたしは、これら二つのものの間に板ばさみになっている。わたしの願いを言えば、この世を去ってキリストと共にいることであり、実は、その方がはるかに望ましい。
1:24 しかし、肉体にとどまっていることは、あなたがたのためには、さらに必要である。
1:25 こう確信しているので、わたしは生きながらえて、あなたがた一同のところにとどまり、あなたがたの信仰を進ませ、その喜びを得させようと思う。

【ローマ6:6-11】
6:6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
6:7 それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。
6:8 もしわたしたちが、キリストと共に死んだなら、また彼と共に生きることを信じる。
6:9 キリストは死人の中からよみがえらされて、もはや死ぬことがなく、死はもはや彼を支配しないことを、知っているからである。
6:10 なぜなら、キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである。
6:11 このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。

【ヨハネ7:30】
7:30 そこで人々はイエスを捕えようと計ったが、だれひとり手をかける者はなかった。イエスの時が、まだきていなかったからである。

【ヨハネ8:20】
8:20 イエスが宮の内で教えていた時、これらの言葉をさいせん箱のそばで語られたのであるが、イエスの時がまだきていなかったので、だれも捕える者がなかった。

【ヨハネ17:1】
17:1 これらのことを語り終えると、イエスは天を見あげて言われた、「父よ、時がきました。あなたの子があなたの栄光をあらわすように、子の栄光をあらわして下さい。

【マタイ6:30-33】
6:30 ああ、信仰の薄い者たちよ。
6:31 だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな。
6:32 これらのものはみな、異邦人が切に求めているものである。あなたがたの天の父は、これらのものが、ことごとくあなたがたに必要であることをご存じである。
6:33 まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。

【ローマ12:1】
12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。

【歴代志上29:10-19】
29:10 そこでダビデは全会衆の前で主をほめたたえた。ダビデは言った、「われわれの先祖イスラエルの神、主よ、あなたはとこしえにほむべきかたです。
29:11 主よ、大いなることと、力と、栄光と、勝利と、威光とはあなたのものです。天にあるもの、地にあるものも皆あなたのものです。主よ、国もまたあなたのものです。あなたは万有のかしらとして、あがめられます。
29:12 富と誉とはあなたから出ます。あなたは万有をつかさどられます。あなたの手には勢いと力があります。あなたの手はすべてのものを大いならしめ、強くされます。
29:13 われわれの神よ、われわれは、いま、あなたに感謝し、あなたの光栄ある名をたたえます。
29:14 しかしわれわれがこのように喜んでささげることができても、わたしは何者でしょう。わたしの民は何でしょう。すべての物はあなたから出ます。われわれはあなたから受けて、あなたにささげたのです。
29:15 われわれはあなたの前ではすべての先祖たちのように、旅びとです、寄留者です。われわれの世にある日は影のようで、長くとどまることはできません。
29:16 われわれの神、主よ、あなたの聖なる名のために、あなたに家を建てようとしてわれわれが備えたこの多くの物は皆あなたの手から出たもの、また皆あなたのものです。
29:17 わが神よ、あなたは心をためし、また正直を喜ばれることを、わたしは知っています。わたしは正しい心で、このすべての物を喜んでささげました。今わたしはまた、ここにおるあなたの民が喜んで、みずから進んであなたにささげ物をするのを見ました。
29:18 われわれの先祖アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたの民の心にこの意志と精神とをいつまでも保たせ、その心をあなたに向けさせてください。
29:19 またわが子ソロモンに心をつくしてあなたの命令と、あなたのあかしと、あなたのさだめとを守らせて、これをことごとく行わせ、わたしが備えをした宮を建てさせてください」。