愛するゆえの聖別

2014年05月11日 19:56

聖書箇所: ヨハネ17:17-19

主を愛し、主に近づこうとする者は主の聖別を受けます。
それは「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである(1ペテロ1:16)」と書いてある通り。神の聖にあずかるということは世と俗と別離することを意味します。
ですから、この主の聖別を受けるというお話をすると何か痛みを伴うような、何かを失うことのようなことを感じ、積極的に神の聖別に入ろうと考えられない兄弟姉妹も居られるでしょう。
しかし、この聖別こそ主の愛の極みなのです。
聖別は主の側に選び分かつものです。つまりそれは、主が私達を「私のもの」とされるということです。
そうです。私達はキリストの花嫁とされた者。キリストに「私のもの」と言われ、その愛を一身に受ける存在なのです。
それは、私達が「ねたむほどに愛される神」だけのものとされるということ。この無限である方の絶大な愛を一身に受け取るという想像を絶する特権を受けているのです。
そのために主イエスは十字架の上にご自身をささげ、ご自身を聖別し、また私達を聖別されました。ここに私達ははかり知れない愛を見るのです。
だからこそ、この方以外に心惹かれる全てのもの、主に姦淫と呼ばわしめ、主を悲しませる全てのもの捨て去るため、十字架の上に聖別される必要があるのです。世と俗と別離し、主だけのものとなり、この方の聖という性質に預かることがどれほど主を喜ばせる、主の愛に答えることとなることでしょう。
主はそのように純潔な愛を求めています。決して他のものをも愛する二心の者を喜ぶことはないのです。
二心の中には光と闇が同居し、偽りによりそれを覆い隠そうと、偽りが同居し、その闇の中に罪が静かに育まれ実を結ぶのです。密かに神に逆らう感情を、神を愛すると言いながら隠し続けるのです。
主を悲しませてはなりません。そのような者が神の国を嗣ぐことはないということは聖書がはっきりと語っていることなのです(エペソ5:5,黙示録21:8,27,22:15)。
今回は主の聖別がいかに神が切望するものであり、また神の大いなる愛によるものなのかを考えながら、私達自身の心の内側を主にゆっくりと探っていただき、神の愛に答える歩みを求めていきたいと思います。


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